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昔の遊園地とはどのようなものだったのでしょうか。

こんにちは。とても気になる事があります。大昔の遊園地についてです。 昔のアミューズメントパークも、やはり蛍光色に彩られて眩しい感じだったのでしょうか。 また、アトラクションはいったいどんなものがあったのでしょうか。

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noname#224207
noname#224207
回答No.6

No.3です わざわざお礼記入頂きありがとうございます。 カタカナ抜きで「遊園地」なるものの歴史ということになりますと、言葉としては東京浅草の「花やしき」が嚆矢とされています。 ただし、動くものはせいぜいブランコでした。元々は牡丹などの植物園のようなものでした。 どちらかと言いますとやたらに庭が広い割烹旅館とでも言ったほうがいいような雰囲気のものでした。 広い庭を使っていろいろ見世物をやっていました。 まぁ~移動動物園にお祭りの屋台がついていたとでも思ってください。 これが一度取り壊されて昭和22年に再開されて現在に至っています。 中断が無いといえば大阪のひらかたパークが古いと言えます。 この見世物小屋というのは江戸時代には非常に盛んでした。 珍しいものを作っては並べていました。 菊人形というのを御存知でしょうか、あのようなものです。 平賀源内のエレキテルなどもこの見世物の一つでした。 ときには、現在の青森のねぶたのような張りぼてを作ったりしていました。 江戸時代にラクダや象がきたこともありました。 花やしきもこの延長でした。 子供ライオンなどで人気をはくしたようです。 何分にも目の前が日本一の歓楽街だった浅草六区でしたので、見世物も食事や休憩のついでという感じでした。 大衆の娯楽といえば老若男女を問わず芝居でした。 明治になり活動写真と呼ばれる現在の映画に相当するものが始まりました。 芝居の延長という感覚です。 大正時代以降は大衆娯楽の頂点でした。 「遊園地」は子供の遊び場に過ぎない状態でした。 子供を主体とした大規模なものの名残りは現在上野動物園の子供広場に一部残されています。 年寄りには懐かしい風景です。 この中にあって昭和28年(1953年)に今のジェットコースターに相当するものが花やしきにつくられました。日本最古のジェットコースターとされています。 以降は先に説明させて頂いた通りです。 いわゆる参加型といいますか客が実際に体験するという遊具設備の歴史は昭和以降とお考えください。 体験型遊具で古いのは観覧車ですが、常設というよりも博覧会などのイベントの呼び物として扱われました。 メリーゴーランドも昭和46年(1971)に豊島園に設置されたのが最古で今では文化財扱いになっています。 いかにデズニーランドのインパクトが大きかったかご理解願います。 現に、デズニーランド開園いらい日本のレジャーセンターと呼ばれるような大型遊園地は次々と閉園していきました。

Rururu333
質問者

お礼

ずいぶんといまのイメージとは異なっていて驚きです。ただ、お芝居に見世物小屋というとそれはそれで楽しそうです。いまの遊園地とはべつにそちらの文化も残ってほしかったですね。 動物園のような要素もあり、ようは当時は物珍しい楽しさが詰まった場所だったのでしょうか。 なんにせよ、昔の時代には惹かれるものがありますよね。 素敵なご回答、ありがとうございました。

その他の回答 (6)

回答No.7

こんにちは。 19世紀頃と言うことは江戸時代~明治時代ということででよろしいのですね。 日本で最初の「遊園地」と呼ばれるものは、 文久3年(1863)、神戸に開園した「外国人居留遊園」と言われてがある。しかし、外国人専用の公園という趣旨であり、日本人には解放されてはいませんでした。 まずは、「遊園地」という言葉自体は、加藤祐一が明治6年(1873)頃に発表した『文明開化』に初めて「遊園地」という語が見られます。 さて、そこで、日本人向けの遊園地は、と言うと、小林佐兵衛による「小林遊園地」が明治20年(1887)代頃の大阪にあったと言われています。 東京では、嘉永6年(1853)に開園したの「浅草花やしき」(1942年に解体後1947年に復活)が一番古いと言われています。そして、開園当初は、木馬やすべり台、面白いところでは、園内に竹刀を貸し出す店などがあったようです。 では、江戸時代は、と言うと、テーマ・パークのように「お化け屋敷」や変わった動物や色とりどりのビードロ(ガラス)で作った西洋の建物模型などを見せる「見世物小屋」などがありました。 しかし、完全な子ども向けというものはありませんでした。前回書いたように神社の梅見とか観菊会など大人が楽しむものばかりでした。 この背景には、江戸には番地がありませんでしたし、家々に表札もありませんでした。従って、人混みへ子どもを連れて行ったりして、もしも、迷子になると「さあ、大変」。90%位の割合で親許に帰ることはできなかったと言われています。そして、町奉行所などは、そこまで面倒を見てくれませんでしたので、子どもに「○○町△△長屋××兵衛門の子ども」などと書いた「迷子札」を首から下げさせるなどをしました。しかし、依然として迷子が続出したため、江戸時代中期に篤志家が日本橋に「迷子石」を立てました。片側は「しらす方」で、迷子を見つけた人が子どもの特徴などを書いた紙を貼り、もう片方には、同じく子どもの特徴などを書いた紙を貼る「たずぬる方」というものがありました。 ここまででお分かりのように、江戸時代の子どもは、せいぜい近所の悪ガキ連中と遊ぶくらいが関の山だったのです。

Rururu333
質問者

お礼

竹刀を貸し出す店、ですか。それは興味深いですね。 迷子になったら九割親元に帰れないというのは、一種のホラーですね……。当時の怪談のネタの定石にもなったのではないかと想像してしまいます。 西洋の文化鑑賞のような意味もあったのですか。いつも思うのですが、ビードロという呼び名がとても可愛いですよね。 ご回答ありがとうございました!

  • kia1and2
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回答No.5

百貨店の屋上。子供専用の小型のいろんな乗り物がありました。大食堂でお皿に日の丸の旗が飾られているお子様ランチ食べてから屋上へと。夏はその横がビヤ・ガーゼン。これ、亭主の言葉です。大阪の阪急、阪神、大丸、高島屋、近鉄、そごう、屋上はとても楽しいところと。そのあとに、阪神パークや宝塚、あやめ池が。でも、乗り物はすべてお子様専用。日曜・祭日のアトラクションは、紙芝居、手品、漫才くらい。 今のような大人も楽しめるのは、大阪の万博EXPO64(?)で新幹線が開通した年よりです。半分くらいの入場者は、背広・ネクタイ着用だったそうです。

Rururu333
質問者

お礼

背広にネクタイ着用ですか。想像できなくて、面白いですね。 紙芝居に手品に漫才とは、どちらかといえばサーカスみたいな感じだったのでしょうね。当時に行ってみたくなりました。 ご回答ありがとうございました。

回答No.4

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 さて、「大昔」とは、どのへんまで遡れば良いのでしょうか? 「原始時代」や「縄文時代」「弥生時代」は余り良くは分かりませんが、「中世」以降であれば、「神社」が恰好のアミューズメント・パークでした。「朱」と「白」に塗り分けられた神社は、見るだけでも華やかであり、広い境内は子どもたちの遊び場でもありました。 江戸時代に入ると、神社や仏閣は「寺社奉行」の管轄となり、寺社奉行には「風俗」の取り締まりの権限は無く、江戸時代に入ってからの「遊女」の起源は「巫女」だとされています。 つまりは、子どもをダシにして、男どもはチョンの間の巫女さんを相手に快楽を得ていました。 まあ、アトラクションをしいて言えば、昨年実施された「式年遷宮」などを見たり、もっと手近なところでは、湯島神社などで開催された「観菊会」や「梅の花見」などで甘酒屋などの楽しみがあったと思います。

Rururu333
質問者

補足

ややこしいカテゴリで申し訳ありません。 歴史作家さんとのことで、ぜひお話を聞かせて頂きたいです。 大昔というのは、いま現在わたしたちがイメージする遊園地は、最初の方はどのような感じだったのか、という質問でした。 これもわかりにくいですね……えっと、19世紀に初めて近代ヨーロッパで遊園地らしきものが出来たとWikipediaに乗っていたので、そのあたりの時代のことを考えておりました。つまり、19世紀の後半から20世紀初頭くらいでしょうか。 そのあたりの歴史や生活にとても興味があるのです。 気が向けば、ご回答ください。 ありがとうございました。

noname#224207
noname#224207
回答No.3

歴史のカテで大昔というと年寄りの回答者が多いので混乱してしまいます。 アミューズメントパークとかアトラクションという言葉から推察して昭和の遊園地でしょうかね~ アミューズメントパークとかアトラクションという言葉はデズニーランドが持ち込んできた言葉です。 「遊園地」なるものにはそのような概念と言いますか、サービスはありませんでした。 そもそも「遊園地」という代物は、あくまでも子供対象のものでした。 子供連れの若夫婦が行く場所でした。 従って日が暮れれば閉園でした。 中学生以上の若者が行くような場所ではありませんでした。 せいぜい話題の乏しい男がガールフレンドを連れていってお茶を濁すような場所でした。 これが若者が暇つぶしに行っても面白い大型の遊具といいますかジェットコースターのような装置がそなえられるようになったのは高度成長期すなわち1970年代以降のことです。 今、暇つぶしという表現をしましたが、若者にとっては精々その程度の位置づけの場所でした。 現在のように積極的に訪ねるような場所ではありませんでした。 デズニーランドも、当初は子供連れが対象で、若者が行っても楽しめるということで徐々に若者が増えていっただけです。 若者向けのアトラクションに相当するのは、屋外のライブでした。 1966年にビートルズが来日して以来、グループによるフォークソングと呼ばれるジャンルが発達してフォークジャンボリーなどという、屋外に臨時のステージを設けて大規模なコンサートが開かれるようになりました。 このような若者の手による若者向けの、今で言うアトラクションが盛んに行われ、「遊園地」など見向きもされませんでした。 ステージで歌あり踊りありというのは、現在の宝塚のようにあくまでも大規模な設備をもった劇場のものでした。 子供向けの乗り物や若者向けの大型の遊具設備と、この劇場型のアトラクションを融合させたのがデズニーランドでした。 現在のアミューズメントパークのイメージの前身はレジャーランドなどと呼ばれていました。 一番イメージとして近いのは常磐ハワイアンセンターです。 温泉地に熱帯植物園のような建物を建ててその中にステージを設けてハワイアンダンスすなわちフラダンスを踊って入浴客を楽しませたのが始まりです。 これが各地の温泉地に広がりました。 温泉地には元々入浴客を相手にした旅芸人が演じる舞台というか劇場が設けられていました。 現在でも、類似のものが、金毘羅歌舞伎(大芝居)などと呼ばれて残っています。 つまり、温泉地には受け入れる素地があったということです。 これに大型の遊具を併設したのがレジャーランドと呼ばれました。 客は当然中高年のオジサンオバサンでした。 これがだんだん若者好みに変えられて、テーマパークなどと呼ばれるようになりました。 このレジャーランドやテーマパークの装飾はド派手でした。 園全体をコーディネートするなどという発想はありませんから、ネオンピカピカ、看板デカデカでお祭りの屋台の集合体というか、歌舞伎町や道頓堀界隈がそのまま圧縮された雰囲気でした。 園全体をデザインして照明も一つ一つ吟味するようになったのはごくごく最近です。 最近はデズニーランドで成人式をやりますが、年寄りから見れば、遊園地に集まって何をやっとるのか、幼稚園の入園式か、という印象です。 「遊園地」の大昔は別途スレをたてて下さい。

Rururu333
質問者

お礼

なるほど、とても参考になるご回答ありがとうございました。 いまでも富士急ハイランドの隣には大きな温泉がありますが、それもその名残なのかもしれませんね。遊園地、アミューズメントパーク、レジャーランド……いろんな言い方があるのですねー。 わずか五十年くらい前なだけにもかかわらず、いまとだいぶ遊園地の感覚が違うようで、とても興味深かったです。 歴史のカテゴリは遊園地の歴史は含まれないのでしょうか。曖昧な質問でごめんなさい。 ご回答ありがとうございました。

  • TrailJoy
  • ベストアンサー率23% (207/876)
回答No.2

大昔と言えるかどうか分かりませんが、高度成長期の遊園地は当時の子どもたちにとってまさに夢の王国でした。もう遊園地に連れて行ってもらえるということの期待感というのは至上のものでした。とはいってもキャラクターの着ぐるみがいるわけでもなく、パレードもありませんでした。回転する乗り物に次々に乗って行くという感じです。定番の乗り物はジェットコースター、コーヒーカップ、メリーゴーランド、飛行搭、子ども機関車等でしょう。今もTDLにあるものの原型のようなものです。ただTDLのように華やかなものではなく、鉄の質感のあるもので、音楽もTDLのようにオーディオのしっかりしたものではありません。夕方には閉園したので照明もありません。今と一番違うのは遊園地そのものの数でしょう。私は関西の近鉄沿線に住んでいますが、近鉄沿線には あやめ池遊園地 伏見桃山城キャッスルランド 玉手山遊園地 奈良ドリームランド 生駒山上遊園地 と5つの遊園地がありましたが、現存するのは生駒山上遊園地だけです。

Rururu333
質問者

お礼

そんなにたくさんあったのですか。驚きです。 私は日本全国でも花屋敷、ジョイポリス、ディズニーランド、よみうりランド、富士急ハイランド、それからユニバーサルスタジオしかあげられません。 回転する乗り物ばかりだと、よってしまいそうですね。 ご回答ありがとうございました。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11121/34616)
回答No.1

「アミューズメントパーク」なる呼び方そのものがたぶん90年代以降の概念ですからね。それまでと東京ディズニーランド開園までの間が「テーマパーク」で、ディズニーランドができる前までは「ゆうえんち」の時代です。 質問者さんが指す「ゆうえんち」がどの程度まで遡るかがわかりませんが、デンマークの「デュアハウスバッケン」という施設が世界最古とWikiにはありますね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E5%9C%92%E5%9C%B0%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 「ゆうえんち」といえばお約束のメリーゴーランドが登場したのが19世紀頃だそうですから、私たちのイメージする「ゆうえんち」みたいな雰囲気になったのは19世紀以降じゃないかしら。その頃は蛍光塗料がまだ発明されていないでしょうから、赤や黄色で派手に彩られていても蛍光色にはなってはいないですね。 今でもインドでは人力式観覧車があるそうですから、行くところに行けばそんなもんでも娯楽として成立するってことですね。 http://sekaisanpo.jp/blog/2008/03/post-101.html 昭和生まれからいわせてもらうと、とにかくディズニーランド開園以前はヌルい演出とショボいアトラクションでも結構みんな楽しめたものなんですよ。昭和のゆうえんちの雰囲気を味わいたいならとしまえんか花やしきへどうぞ。

Rururu333
質問者

お礼

人力式観覧車! それは驚きです! どのあたりから、ピカピカの蛍光色のわたしたちの想像する遊園地になったのでしょうかね。自分の資料を探す能力のなさに悲しくなります…。 花屋敷はなんだかガタがきそうで怖くて行ったことありませんでした。でも、そういえば友人はそ木造のジェットコースターの危なっかしさが好きと言っていた気がします。 昭和生まれ、正直うらやましいです。娯楽は減ってしまってもいいから、もっと日本が前進していて希望に溢れた時代に生まれたかったです…。きっとニュースを見るのも楽しみになれたのでしょうね……。 と、変なこと言ってしまってすみません。 ご回答ありがとうございました。

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