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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:米国は、日本軍のコタバル攻撃をいつ知ったのですか。)

米国が日本軍のコタバル攻撃を知ったタイミングとは?

dayoneの回答

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  • dayone
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回答No.7

メインテーマに関しましては、残念ながら、根拠資料を持ち合わせておりませんので、 コタバル上陸の件は当日中に早々にマニラ(米軍)経由でワシントンに伝達されたものと 推測する程度ですが、 「質問した理由」で御提示の引用箇所と確認事項など ほかについて投稿させていただきます。 >真珠湾と英領マレーの攻撃開始時刻ですが、 >作戦計画では同時だったのですか、 >それともコタバル攻撃を真珠湾攻撃より数時間早く行うと計画されていたのですか。 海軍の構想(訓練)段階では、当初は夜間(暁の闇)の発艦・空襲を想定したようですが、 どうやら南方作戦や真珠湾作戦が具体化(作戦・命令)する以前に頓挫したようです。 GoogleBooks『真珠湾攻撃/淵田美津雄』 (※URL省略/GoogleBooks検索欄「真珠湾 練度」でトップヒット※) 「…最初の計画では、真珠湾攻撃は暁の闇をついておこなう予定であった。… …多数飛行機の夜間集団行動ができるまでに練度をあげることができるかどうか、 淵田中佐は不安であった。そこで、真珠湾攻撃は、黎明に母艦を進発して、 昼間攻撃ということに計画が変更されることとなった。」 上記だけでは、何時の変更か明確でないため、詰めが甘いのは承知しています^^ 下記URLによれば、11月5日作戦計画段階では、 <9/51>対英領馬来作戦条項に時刻・コタバル地名共に無いのに対し、 <39/51>海軍作戦方針の布哇条項中には 「…布哇北方より近接し日出一、二時間前「オアフ」島の北方約二〇〇哩附近にて 全搭載機約四〇〇機を発進せしめ…」とありますから、 昭和十六年十一月五日時点では既に夜間の空襲は断念していたようです。 件名標題:第2篇 開戦時の政戦略/第4章 大本営の作戦計画 [階層]防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>中央>全般>概史> 大東亜戦争全史草案 第2編 [レファレンスコード]C13071328800[画像]51 http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C13071328800 少し横道にそれますが、下記なども面白かったです。 〇「日米戦争勃発と山本五十六に関する一考察/松川克彦」 『京都産業大学論集.社会科学系列31,2014-03』(249-272) http://ksurep.kyoto-su.ac.jp/dspace/handle/10965/1060 さて本筋に戻りますが、開始時刻等が具体化(作戦・命令)したのは下記のとおりです。 下記「合同協定覚書/昭和16年11月18日付」によりますと、 ◆昭和一六・一一・一八  25A長15A長3FD長南遣F長22Sfg長間合同教程覚書 〇件名標題:第6.上陸開始期日及時刻並に上陸日程 [階層]防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>南西>全般>第25軍司令官.第15軍司令官. 第3飛行集団長.南遣艦隊司令長官.第22航空戦隊司令官間 合同協定覚書 昭和16.11.18 [レファレンスコード]C14060011000[画像数]4 http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C14060011000 <1・2/4> 第六、上陸開始期日及時刻竝に上陸日程 … 一、佗美支隊第一次上陸部隊   X日〇一、〇〇頃(状況已ムヲ得サレハX+1日〇一〇〇以降)   ヨリ上陸ヲ開始シ拂暁迄ニ三回揚陸シ輸送船團ハ「パタニ」方面ニ退避シ X日夜以降海軍兵力護衛ノ下ニ更ニ「コタバル」泊地ニ進入シ翌拂暁迄ニ 揚陸ヲ完了ス 続きまして、 下記「機密機動部隊命令作第一號(要旨)/昭和16年11月23日付」によりますと、 〇件名表題:真珠湾作戦に関する計画、命令の要旨 [階層]防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>満洲>朝鮮>鉄材関係書類綴 昭和13~昭和14年 [レファレンスコード]C13021005800[画像数]24 http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C13021005800 <13/24> 機密機動部隊命令作第一號(要旨) 昭和十六年十一月二十三日 單冠灣旗艦赤城 機動部隊指揮官 南 雲 忠 一 機動部隊命令 一、… 空襲第一日ヲ0330/Xト豫定ス … <18・19/24> 機密機動部隊命令作第三號(要旨) 昭和十六年十一月二十三日 單冠灣旗艦赤城 機動部隊指揮官 南 雲 忠 一 機動部隊命令 布哇作戦空襲計画左ノ通定ム 一、空襲部隊ノ行動 …   0130/X、Z點ノ〇度二三〇浬ニ於テ第一次攻撃隊   〇二四五Z點ノ〇度二〇〇浬ニ於テ第二次攻撃隊ヲ發艦シ空襲ヲ決行ス 第二次攻撃隊ノ發艦終了セバ偏北航路ヲ執リ槪ネ二十四節(※ノット)ニテ避退ス 第一次攻撃隊ハ〇五三〇ヨリ〇六〇〇ノ間ニ第二次攻撃隊ハ〇六四五 ヨリ〇七一五ノ間ニ収容ノ豫定 … ※「作戦時刻は日本中央標準時に依るべし」※ 以上のとおり、 コタバル上陸作戦開始予定時刻「八日01:00<日本時間>」(八日00:00<現地時間>)。 真珠湾第一次攻撃隊発艦予定時刻「八日01:30<日本時間>」(七日06:00<当時の現地時間>)、 真珠湾空襲開始予定時刻「八日03:30<日本時間>」(七日08:00<当時の現地時間>)。 作戦・命令段階に至っては、攻撃開始「同一時刻」には設定されておりませんし、 元々の海軍構想段階でも夜間(暁の闇など)を想定していたに過ぎないようです。 なお、実際のコタバル上陸「01:30」につきましては、 例えば下記によれば日本時間と解されているようです。 〇件名表題:大東亜戦争全史草案 第3編其の1 [階層]防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>中央>全般>概史> 大東亜戦争全史草案 第3編其の1 [レファレンスコード]C13071329500[画像]3 http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C13071329500 <1/3> … 然し英領馬来のコタバル沖に向かった香椎丸第二揚陸団長は、軍機電報を以て、 参謀総長宛「八日一時三十分コタバル東岸に上陸成功す」と報じている。 それは勿論日本時間であつて、正しくは真珠湾攻撃に先立つ一時間五十分前であつた。 即ち開戦の火蓋は、我が南方軍の先鋒たる佗美支隊の英領馬来上陸成功の時を以て、 切つて落されたのである。 ここまでで、 コタバル上陸作戦開始予定時刻「八日01:00<日本時間>」(八日00:00<現地時間>)に対し、 実際の上陸が「01:30<日本時間>」からと着手から半時間、 真珠湾空襲開始予定時刻「八日03:30<日本時間>」(七日08:00<当時の現地時間>)に対し、 実際の空襲開始が「八日03:19-20<日本時間>」(七日07:49-50<当時の現地時間>)で 予定より約10分早め。 さて、御提示のWiki「真珠湾攻撃」の引用箇所は、 ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』 2巻 「一部 開戦の聖断は下る 5 敵艦真珠湾ニ在リ」p.67 からのようですが、 さも急遽変更した如くの記述は、眉に唾する以外ありませんし、 「攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった。」の記述に至っては、 (作戦が「01:30発艦→03:30空襲」で実際の空襲が「03:19-20」で予定より約10分早め、 からすると、発艦は予定どおりのはず)、一体何時の時点の「当初の予定より2時間遅れ」 なのか、デタラメな記述で終始しています。 また、御提示の「アジア・太平洋戦争開戦に至る日タイ関係/林玉美」<9/12>の 「ハワイ諸島のパールハーバーと英領マレーを同時に攻撃するという戦略であった。」の 「同時」が仮に同一時刻の意味ならアウト、広い意味ならセーフでしょうが、 「直前になって、海軍が夜間のパールハーバー奇襲を断念して、」の 「直前」がどの程度遡るのか定かでないため、結果、何とも言えません。 さてさて、以上 前振りが長くなってしまいましたが、 大人の事情、ではなく文字数制限やその他諸事情により一旦失礼致しますm(_"_)m 頭の中では私、門外漢の私見はハッキリしていますが、 追加投稿用の文案は未定稿のままです(><)

kouki-koureisya
質問者

お礼

毎回詳細に調べて下さって真にありがとうございます。 「国立公文書館 アジア歴史資料センター」を根気よく念入りに調べると求める資料を見つけることができるということがよく分かりました。 分かっていながら自分では積極的に調べようとせず、つい「質問」してしまいます。 「件名表題:大東亜戦争全史草案 第3編其の1」とありますから“草案”ですね。 草案だから面白い箇所もあります。 >然し英領馬来のコタバル沖に向かった香椎丸第二揚陸団長は、軍機電報を以て、 >参謀総長宛「八日一時三十分コタバル東岸に上陸成功す」と報じている。 >それは勿論日本時間であつて、正しくは真珠湾攻撃に先立つ一時間五十分前であつた。 >即ち開戦の火蓋は、我が南方軍の先鋒たる佗美支隊の英領馬来上陸成功の時を以て、 切つて落されたのである。 陸軍関係者が執筆すればこのようになるのですね。 「正しくは真珠湾攻撃に先立つ一時間五十分前であつた」と自慢しています。 公刊された戦史の記述を調べてみようと思います。 『京都産業大学論集』「日米戦争勃発と山本五十六に関する一考察/松川克彦」は面白かったです。 真珠湾攻撃は“極秘扱”だと思っていましたが、そうではないのですね。 全く意外でした。 (引用開始)連合艦隊司令長官がハワイ占領を話題にするくらいであるから、いたるところで類似した会話が行われたことであろうと考えられる。少なくとも連合艦隊では主要幕僚の間だけでなく、士官の間にも公然の秘密となりつつあったと思われる。 (中略)  軍令部がハワイ奇襲と対米英蘭作戦構想を陸軍側に通告するのは、8 月 22 日のことである 。(引用終わり) コタバル攻撃の情報が米国に届いたのは、真珠湾が攻撃された後のこと(のはず)ですから、米国はそれどころではなかったでしょう。 この時期、米英ともに、特に米国は、日本軍がどこかの地域で戦争を仕掛けてくるはずだと、情報収集に最大限の注意を払っていたはずです。 それなのに“遅い”なと、思っています。 今回も丁寧なご教示に感謝申し上げます。

kouki-koureisya
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 Wiki「真珠湾攻撃」の記述を鵜呑みにして質問したのは恥ずかしい限りです。 以下を引用して質問したのですが、あまりにも具体的な説明なのでウラを取らず質問しました。 「真珠湾とマレーで一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなる。しかし源田の案により、暗闇での発艦を回避するため、攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった。この決定を軍令部が把握した時には命令変更の時間がなかったため、三代辰吉中佐がコタバル攻撃部隊へ伝達しないことにした。これにより、真珠湾攻撃はコタバルの2時間遅れとなった。 >「攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった。」の記述に至っては、 >(作戦が「01:30発艦→03:30空襲」で実際の空襲が「03:19-20」で予定より約10分早め、 からすると、発艦は予定どおりのはず)、一体何時の時点の「当初の予定より2時間遅れ」 なのか、デタラメな記述で終始しています。 よく解りました。 「お礼欄」には後日記入します。

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