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故事か古典か経典か

ものすごくあいまいな疑問です。心当たりがある方がいらしたら、是非原典を教えてください。 人の上に立つ者(または教養のある者??)は高みから降りてきて(教養を求める者が)理解しやすいように教えなければならない・・・ 勝手に意訳すると そんなことも解らないのか!と偉そうに会議で言っててもしょうがないだろ?皆が理解しやすいように話すのが上司の務めだぜ! ってことだったと思います。。。 というような、故事か古典か仏教の教えだったか・・・ 衝撃を受けた記憶があり、今一度きちんと理解したく、出所を探しております。 どなたかよろしくお願い致します。

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  • aokisika
  • ベストアンサー率57% (1042/1811)
回答No.1

わかりやすいように話をする、教える、というのはいろいろな場面で言われていることで、「最初の原典」というようなものは特にありません。 ヨーロッパの大学には2つの系統があるのだそうです。1つは古代ギリシャのアカデメイアなどの系統を引くものです。これは学者が優秀な人材を育てるために開設したものです。、ここでは選ばれた小数の優秀な人間に対して教育が行われました。ここで学ぶ学生は、自ら努力をして学ぶことが当然であるとされ、講義を理解できないものは置いてゆかれ、最終的には退学をしました。このタイプの教育が一部の大学の基礎となりました。 一方で、学問を学びたいと考えた富裕層も、学者を雇って大学を作りました。このタイプの大学は、学びたいと思っている人が作った大学なので、教師の教える能力が重視されました。だって、勉強したいからお金を払っているのに、わかりやすく教えてくれないんじゃ、何のために教師を雇っているのかわかりませんよね。このタイプの大学では、教える能力のない教師はクビになりました。これも一部の大学の基礎になりました。 どのタイプの教育がどういう大学の基礎になったのかは、忘れました。 ところで、私は歯科医師です。歯科大学を卒業して国家試験に合格して歯科医師になりました。 歯科大学は、学生の授業料で運営されます。ですから、歯科大学が倒産しないで長く存続するためには、学生がたくさん入学してくれないと困ります。そして受験生が大学受験で歯科大学を選ぶ基準の第一は、国家試験の合格率です。そのため、歯科大学ではどうやったら国家試験の合格率が高くなるか、どうやったら学生の学力が伸びるか、が大学存続のための重要な課題になります。ですから、単に授業をするというだけではなく、いかに解かりやすい授業をするか、が重視されます。 自動車学校や、簿記スクール、その他資格試験を前提とした教育機関では、いかにわかりやすく教えるか、というのは当然の課題なのです。 最後にもう一つ、仏教について付け加えておきます。 仏教の経典は、実はお釈迦様が書いたものではありません。お釈迦様の日常を弟子たちが口授で伝えたアーガマ(阿含経)と呼ばれるものが原典で、それをもとに後世の人たちが自分の考えを経典として付け加えてゆき、大蔵経と呼ばれる膨大な経典群になりました。 しかし、平安時代などでは、おしゃか様が神格化されたため、これらの経典はすべてお釈迦様が作ったのだと信じられるようになりました。ところがその経典の内容は、一人の人が作ったにしてはあまりにも差がありすぎます。とても高度な理論を書いた経典もあれば、日常の教訓程度のものもあります。一人の人間が作ったとは思えないのです。そこで、お釈迦様は教育に優れていたので、弟子を育てるために、さまざまなレベルの教えを説いたのだ、という考えが生まれました。 お釈迦様は、山にこもって修行をして悟りを開いた後に、山を降りて最初に説いたのが、華厳経という教えでした。ところがそれはあまりにも難しすぎて、誰も理解できませんでした。そこで思い切ってレベルを下げ、日常のちょっとした事について話をしたのが阿含経でした。みんなが阿含経レベルの教えを理解できるようになったらだんだんと難しい話をするようにしてゆき、最後に説いた教えが法華経だというのです。 これが、お釈迦様がたくさんのお経を書いた、というお話です。

OKquestions
質問者

お礼

回答いただきありがとうございます! なにかしらの「格言」または「四字熟語」のような文言を解釈する本で読んだのか・・・ 「あれ?論語の一節だったかな?」と思い、蔵書をめくって見ましたが見つけられず(ここ1年くらい・・)質問してみた次第です。 最後の「お釈迦様は、山にこもって~」の件がまさにぴったりで、迎合するわけでなく「いかに解かりやすい授業をするか、が重視されます。」につながるわけですね。 大変参考になりました。ありがとうございました。

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