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再び30代師団関連

第28~30師団を第201~209歩兵連隊で、関東軍向けに編成計画であったが、ノモンハン事件のゴタゴタ軍備再改変で、計画が消えてしまい、欠番になった事は理解しました。 (1)もしノモンハンが無く、無事に30代師団(28~30)が追加で3コ編成された場合、在来師団3単位化で発生する、約5コ師団は、何番に命名される予定だったのでしょうか? (2)第48師団は師団番号が飛んでいますが、現行の様に独立歩兵団の師団化の続き番号と考えると、既に30代師団で41番を使ってしまっているので、第61独立歩兵団の番号が失くなってしまう。 また、独立歩兵団を61から命名しているのなら、師団化の時に60代師団に命名するのが、スンナリ考えられると思います。40代は、本当は、何に使う予定だったのでしょうか? (3)こん春駐屯隊の師団化は、本当に時局戦備で、関東軍16コ師団化の為に、思いつきの様に行われ、本来計画にはなかったのでしょうか? 教えて下さい。 よろしくお願い致します。 戦史叢書は全部読みました。 アジ歴でも検索しました。 別冊歴史読本戦史シリーズは全部持ってます。 防衛研究所へ行けは、お断りです。

みんなの回答

  • Pinhole-09
  • ベストアンサー率46% (597/1294)
回答No.1

常設師団、1D~19D は4単位師団でしたが、日中戦争で 増設された20D~23D は3単位師団で編成されました。 中国戦線より交替して内地に帰還した師団は3単位師団に 再編成され、出陣しなかった師団も同様再編成されました。 余った18連隊と在来の6コの独立連隊より、24D~31D の8コ師団の編成が計画されたのですが、九州の連隊と 東北の連隊の組み合わせのようなこともあり、すんなりとは 行かなかったのは先の答えの通りです。 このへんの師団番号の付け方にも疑問があります。 昭和14年の32D 以降は補充兵、予備兵,後備兵など 留守部隊や徴兵による新編成師団です。 41D までこれは順調にいきました。 42D~53D は30台師団と同様内地防衛の名目で計画 されたようですが、第二次大戦突入でそちら向けとなり 過半数が計画よりずっと遅れの昭和18年5月以降の編成に なりました。 31番(大牟田師団長?)の飛び込みで、1番ずつずれて 41番を使ってしまう羽目になりました。 48番、71番の飛び込みにも関係したかも知れません。 このへんは「師団番号の付け方の研究」を読んで見ても すっきりした理解はできませんでした。 琿春駐屯軍の設置及び昇格は、昭和13年の張鼓峰事件 の影響でしょう。 当時は朝鮮駐屯の19D が出動し、その後より近い琿春に 関東軍が駐屯しました。 またソ満国境に緊迫の気配があり師団に昇格させたとのこと。

mm058114
質問者

お礼

大変興味深いです。 >このへんは「師団番号の付け方の研究」を読んで見ても すっきりした理解はできませんでした。 この辺を、研究したいです。 ありがとうございました。

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