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神社神道は宗教か?
私は旅行を兼ねて全国の神社にお参りに行きます。神社、神宮、大社、八幡宮、稲荷宮、天満宮などなどです。皆さんも初詣、初参り、七五三参りと大勢の人が参拝しています。私も自宅神棚の神社に毎月参拝に行きます。正月月には祈願の祝詞をお願いします。お寺よりも行く回数が多いぐらいです。いずれの神社も宗教法人と思いますが、宗教性をおまり感じません。もちろん信仰心はあります。神様にお願いする気持ちと自分への誓いが交錯します。
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宗教とは実は文化でもあります。なぜなら、そこには「人々が守るべき規範」が含まれているからです。 最近youtubeサイトで外国人の話題になった動画に「新幹線に一礼をする清掃員」というのがありました。自分たちが仕事をする新幹線が入線するときと出発するときに礼をして見送る動画です。 外国人は分からないかも知れませんが、日本人なら「場に一礼」であることはすぐに分かります。山や川やトイレに神様がいるように、新幹線であっても「自分の仕事場」には礼を尽くすのが日本の文化です。 ではこれが文化だけかというと、やはりその根本には神道的な考え方が宿っています。他の宗教の人では理解できない精霊信仰(そこにもここにもカミは宿るという考え方)があるからです。 ほかには箸供養とか人形供養なども、文化的な要素と宗教的な要素が交じり合ったものになっています。 逆に見れば、たとえばキリスト教などにも日本人には理解できない宗教から来る文化があります。キリスト教ならたとえばボランティア精神が代表的なものでしょう。これは「左のほほを差し出したら、右のほほも差し出せ」とか「汝、隣人を愛せよ」などのキリスト教の思想が反映されているものです。 キリスト教そのものが文化として社会基盤になっている欧米では、これらの思想を繁栄するように盛んにボランティアや寄付が行われ、公立学校などでも当たり前に「○○への寄付のためのイベント」が開かれています。 特にクッキーを売ったお金を寄付に充てるのは、中世の修道院時代からの伝統的な寄付の形態といえます。 ここで重要なのは、寄付自体はイベントであってキリスト教徒以外でも参加できますし、それが政教分離の枠組みに抵触することもない、ということです。 日本の場合、神道や仏教はいろいろな教義があり、それを押し付けられて生きているわけではないので「私は○○教の信者」という意識を持つことは少ないといえます。 しかし、日本には世界的にめずらしい「アニミズム宗教文化」があり、それが神道や仏教またはそれらの宗教たちを習合させる役割をもっています。 神社神道は世界基準で見れば十分に宗教であるといえます。また質問者様も信心深い日本人といえるでしょう。 ただ、そのありようは、教義のしっかりした一神教とはかなりちがったものであるといえます。
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- kurinal
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titelist1様、こんばんは。 懐かしい感じのする、ご質問ですね。 「お参り」「参拝」「お寺に行く」 いずれも、宗教的でしょう。 (シュウキョウの厄介なところは、「それには行かない」という人まで、 自分たちの価値観で勝手に裁いてしまうことです) >「いずれの神社も宗教法人と思いますが、宗教性をおまり感じません。 (アナタの感じ方として)そうですか。 >「もちろん信仰心はあります。神様にお願いする気持ちと自分への誓いが交錯します。 」 (アナタの問題として)そうですか。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 その土地土地の神社やそこを中心にしておこなう祭り(特には 広い意味での収穫の感謝祭)そしてそれらの土壌において人びとの送る生活 これらは いわゆるオシエもなく ほとんど生活そのものです。ハレとケとを繰り返す生活上のナラハシです。 ですから 神道あるいは随神の道と言っても 宗教と呼ぶかどうかは 微妙なのでしょうね。つまり もしそうだとしても 自生的なみんなにとっての共生のクセ(エートス)のようなものであり それをも宗教と呼ぶなら――なぜなら 神が確かに持ち出されています――宗教なのでしょうね。 問題は オシエの発生にあると考えます。 もしいわゆる教義がないとしても けっきょくその生活上のナラハシの中に 指導者が出るときです。 しかもこの指導者は その指導するというときの自分の権威をもし神にかかわらせたとしたら そのときオシエのようなものが発生します。 言いかえると ひと言で言えば おれは神の代理人であると言い始めたときに たとえオシエがなくても 人びとのあいだに指導する・されるの上下関係が出来ます。この権威ないし権限の差をこしらえそれを特定の人間にあてはめたその関係は すでにオシエのようなものです。ヒエラルキアが 広義のオシエです。 かくして 世にある神社という神社は そのオシエないし聖なる権威者のもとにおさめられ すべて格式があてがわれ序列化されます。 それぞれの神社についておこなうマツリも すべて権威者のもとにたばねられ その指導としてのマツリゴトのもとに従属します。 これは オシエという実際であり実態であると考えられます。 なぜなら 権威の地位に就いた者は 和を以って貴しと為し さからうこと無きを旨とせよ とうそぶきます。神社という神社 マツリというマツリは おれたちが掌握した。権威に権力がついた。文句あっか? おれたちの鶴のひと声に おまえたちは巻かれろと。 これは シュウキョウです。三国一の日本丸の舵取りに際して必要有益なオシエ体制である。つつしんで受け取りこれをよく守り給え。と。 ですから 日本教と呼ばれています。 日本教の中に 仏教浄土派真宗支部・・・やキリスト教何々派どこどこ支部やあるいは マルクス教何々派うんぬんが つどっています。
お礼
神社で教えをほとんど聞きません。出雲大社では教えがありました。その時の教えは『寛容と忍耐』。お陰で離婚せずに過ごせています。ありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
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儀式宗教というジャンルがあります。 人智では及ばぬ原理や起源の説明に神を持ち出した 時点で、宗教と言って差し支えありません。
お礼
人智では及ばぬ原理には関心がないのです。それを宗教とは思いません。ありがとうございました。
- hekiyu
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かつては神道は宗教では無い、という論者がおり 論争になったことがあります。 宗教で無いから政教分離原則の適用がない、という 論法です。 しかし、宗教とは次のように定義されています。 (判例) 「神や仏のような超人間的、超自然的な存在を確信し これを畏敬崇拝する行為と信条」 この定義によれば、神道も宗教です。 ただ宗教といっても、神道はキリスト教のような宗教 とは異なります。 神道には教義も教典もありません。 だから布教活動もやらないし、困難です。 先祖や自然を畏敬し想う、というだけで信者です。 信者である、という自覚すら必要とされない宗教です。 つまり、民族の宗教的感情、ともいうべきものです。 宗教というと、キリスト教のような教義や教典が明確な それを想定するので ? となるわけです。 ただ、本来の神道というものはこのような、はなはだ 曖昧なものですが、国家神道となるとかなり明確に なってきます。 神道は本来は自然発生的な宗教でしたが、国家神道に なると人工的になってきます。 これは、国家神道が欧米の侵略に対抗するために 利用しようとする意図のもと推進されたものだからであり、 本来の神道ではありません。
お礼
神道は神教とは言いませんね。教義や教典のような教が明確でないからですね。なので宗教の教を感じないことがわかりました。ありがとうございました。
- a_hona
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宗教といえば広義の宗教に入るでしょうが、どちらかと言えば文化という方がより正確な気がします。 私も正月には神社に参りますし、観光で仏閣を訪れれば賽銭を投げます。これが宗教行為かというと、習わし、慣習、文化の一部のように思えるのです。なくてもいいものですが、あってもいい、あった方がなにか豊かな気がする、私にとってはそんなものです。 私は、一時、風には風の、川には川の、火には火の神様が居て、精霊のようなものも居ると信じていた頃が有りましたが、それはそれで楽しかったように記憶しています。現実にはいなくとも、そんな者が居るような気がするというだけで、世界が広く思えたものです。空想ですね。空想も悪くないです^^ 質問者さんの場合は信仰心があり、神様も信じておられるようですので、文化と宗教のあいまった地点に居るのではないでしょうか。
お礼
大学受験や困った時に仏ではなく神様にお願いした。一人で登山し疲れて野宿した時、恐怖で神様に祈った経験などが信仰心になっている。ありがとうございました。
- 0fool0
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#1番の方と同じ意見です。 組織化して信者を囲い込まなければ宗教ではないと言う等の定義を振りかざすのでなければ、立派な宗教・信仰です。 多くの方は全く意識すらしていませんが、日本の勤労精神・博愛精神等の根本を為している信仰です。 明文化こそされていませんが、逆に言えば完全に染み込んでいて消す事の適わない、日本人を日本人たらしめる立派な信仰です。
お礼
仏教は法を教えられる感じですが、神道は教えられなくても感じられる。たとえば天理教は教ですが、神道は道なのかもしれません。
- notnot
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宗教の定義も色々あるので、どちらでも正しいのですが、 一般的には、神道も宗教です。 新興宗教のように「教団がしっかり組織されていて、信者になるには教団に入る必要があり、教団に入るには手続きがある」というのを宗教の定義とすると、宗教ではないですが。
お礼
毎年、祈願をお願いしていても神社からは葉書が来ないですね。お寺からは法要の葉書が来ます。帰属意識の差が理由かもしれません。ありがとうございました。
お礼
一神教の言葉を見てはっとしました。神教は受け入れていないようです。キリスト教、イスラム教、天理教、金光教 などなどにはお参りに行かないです。神道と言う宗教性の薄いところに行っているようです。やはり仏教徒だからでしょうか。前述の神教と仏教が両立しないからと言うことが分りました。仏教は各宗派には行きますが、新興系には行きません。自分の立ち位置が判ったようです。 ありがとうございました。