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徳川将軍家の子どもたちの住まい

生まれると、どこで誰と暮らすのですか。 そして成長するにつれて、江戸城内での住居は変わるのですか。 特に11代家斉の子は多かったのですが、新築か増築でもしたのですか。 よろしくお願いします。

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回答No.3

こんにちは。 男子も女子も10歳までは、大奥で乳母がおりそこでそれぞれの部屋を与えられて養育されました。 しかし、大奥は男子禁制のため、男子は10歳になると「西の丸」へ移されました。 「西の丸」は、本丸の規模を小さくしたように造られていましたので、西の丸にも本丸の大奥と同じように「奥向」があり、それ相応のお女中がいました。 また、女子については、特に年齢制限はありませんでしたが、およそ、12~13歳になるとやはり「西の丸」へ移され、そこで婚家が決まるまで「和歌」や「香合」などの教養を身につけていきました。 どなたかが言っておられるように、3,000人??とも言われる大奥でしたので増改築などは全く必要ありませんでした。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 10歳まで乳母がついて本丸御殿の大奥に居て、その後「西の丸」に移ったのですね。 そこで世継ぎになる男子には傅役がついたのでしょうね。 10歳よりもっと早く本丸大奥から出たのではないでしょうか。 男子はもっと厳しく躾けられるのではないか、という想像です。 三の丸御殿は、家光の子、亀松と徳松(後の綱吉)の住居として使用されています。さらに徳松のために屋敷の普請をしていますから、子沢山の家斉の時代、増改築があったのではと思いましたが、大奥は広いですからその必要はなさそうですね。

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回答No.5

こんにちは。 >>生母は将軍の側室ですから確か30歳で定年?となって二の丸に移りますから、 側室が30歳の「お褥ご免」(おしとねごめん)になつたからと言って二の丸などへ移るとはかぎりませんでした。 分かりやすい例では、綱吉の側室である「お伝の方」は大奥で正室の信子と共に妻妾同居していました。 もっとも、御台所である信子は御殿向に住んでいましたし、お伝の方は上級お女中(上臈御年寄や御年寄)などと同じ長局向の「一の側」と呼ばれる場所でした。 しかし、もちろん部屋は合計で100畳余りもの部屋を与えられていました。 御年寄などはせいぜい60畳位でしたから、まあ、当然と言えば当然の扱いだったのではないでしょうか。 毎年3月3日は五節句の一つであり、大奥では御台所さまの「休息の間」と公方さまの休息の間である「上段の間」に、それぞれ12段の雛飾りをしました。 そして、表では御三家から諸大名までが総登城して、公方さまに祝辞を述べましたが、その夜には、上段の間の雛飾りの前で妻妾や姫がまだ嫁いでいない場合などは、その人たちが一同に会して夕餉を食べることとなっていました。 つまり、将軍家の家族団らんの食事会が催されたのです。 綱吉を例にとると、側室としては、「お伝の方」、「大典侍の局」(おおすけのつぼね)、「新典侍の局」(しんすけのつぼね)などが大奥にいましたので共に食事会をしました。 「大典侍の局」と「新典侍の局」は側室でもあると同時に、御台所さまの話し相手である「上臈御年寄」でした。 ちなみに、(正確なところでは)宝永6年(1709)1月10日に綱吉が死去すると、 お伝の方・・・・瑞春院と改めて二の丸へ移りました。(これは、徳松君と鶴姫という綱吉の子どもを産んでいるからでした)。 大典侍の局・・寿光院と改め桜田御用屋敷(別名、比丘尼屋敷)へ。 新典侍の局・・清心院と改め「大典侍の局」と同じく桜田御用屋敷へ移っています。 >>「世継ぎ」となるであろう子は西の丸に、そうでない子は二の丸御殿にとか。 そうですね。言い忘れました。 長男と次男はそれ相応に可愛がられました。 なぜなら、長男は当然お世継ぎさま、そして、次男は長男にもしものことがあれば、と言うわけで、長男と次男は西の丸、または、二の丸で養育されました。 この西の丸と二の丸については、特に決まりはなく、その時の気分次第???だったようです。 将軍継承者を見ても、例えば、 綱吉・・・二の丸へ移り将軍に。 家宣・・・西の丸へ移り将軍に・ 家斉・・・西の丸へ移り将軍に。 もし、この決まりをあなたがご存じでしたらご教授をお願いします。 (よもやま話) 通行中のトラブル。 11代将軍家斉の頃、明石藩松平斉宣(家斉の第53子!!)が、御三家筆頭の尾張藩を通過中に猟師の源内という者の子ども(3歳)が行列を横切ってしまい、家臣はその子を捕らえ本陣へ連れて行った。 ただちに、名主や坊主、神主までもが本陣へ行き許しを乞うたが、斉宣は聞き入れず、幼児を切捨ててしまいました。 尾張藩はこれをおおいに怒り、使者を遣わして「このような非道をするようならば、今より当家の領内を通らないでもらいたい」と伝えた。 どうなったと思いますか? 行軍を取りやめるわけにもいかず、まるで町人か農民のようにコソコソしたかっこうで尾張領内を抜けました。 さらに、数年後、猟師の源内は、斉宣が20歳になったのを期に、木曽路で得意の鉄砲で射殺してしまいました。もちろん源内は死罪になりましたが、子どもの恨みを晴らした、というわけです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答ありがとうございます。 「お褥ご免」と言うのですね。よく解りました。 >この西の丸と二の丸については、特に決まりはなく、その時の気分次第???だったようです。 西の丸も二の丸も度々焼失していますから使える所を選ぶ、そんな理由もあったのかもしれません。 よもやま話はいつも楽しみにしています。 甲子夜話に出て来る話ですね。 松平斉宜が死去したのは弘化元年(1844年)享年20歳ですが、松浦静山が死去したのは天保12年6月29日(1841年8月15日)ですから、つじつまが合いません。

回答No.4

こんにちは。 >>三の丸御殿は、家光の子、亀松と徳松(後の綱吉)の住居として使用されています。 その通りです。 また、綱吉の母である桂昌院も、公家育ちの綱吉の正室(鷹司)信子との確執を恐れて三の丸に住んでいました。 元禄15年(1702)3月9日に桂昌院へ従一位が授与されるまでは、「三の丸さま」とよばれ、従一位が授与されてからは「一位さま」と呼ばれていました。 なお、男子が10歳になり大奥から出る時には、旗本の同年代の子息3~4人位がお側役として選ばれ同道しました。 そして、剣術の相手や四書五経などの素読、遊び相手などをしていました。 >>増改築があったのではと思いましたが まあ、畳の入れ替えとか襖の張替などの部屋の模様替え程度の改築はあったと思います。 (よもやま話) 大奥では、毎年7月と12月に大奥内全ての畳の表替えが行われました。 これは、言うまでもなく、大奥の上級お女中になると打掛を引きずって歩いていましたので、もしも畳にキズがあり打掛などが破れたりすると大変なために、どんなに新しく見えても全て表替えがされました。 それこそ、○千枚とある畳を御広敷の外に作業場が造られ、江戸中の畳職が集められて1日で終えることとなっていました。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 >なお、男子が10歳になり大奥から出る時には、旗本の同年代の子息3~4人位がお側役として選ばれ同道しました。 >そして、剣術の相手や四書五経などの素読、遊び相手などをしていました。 よく解りました。 分かった上での疑問ですが、男子に限ってのことですが、世継ぎになるであろう子も、そうでない健康な子も10歳以後も暫くの間(例えば元服まで)は同じように育てられたのでしょうか。 生母は将軍の側室ですから確か30歳で定年?となって二の丸に移りますから、…とそんなことを考えると、「世継ぎ」となるであろう子は西の丸に、そうでない子は二の丸御殿にとか。 しかし、10歳とは意外でした。 徳川幹子の自叙伝では、(明治時代の、しかも池田侯爵家の話ですから状況が異なるでしょうが)男女とも7歳までに乗馬訓練し、小学校入学後は男子だけは屋敷内の別棟(お勉強所)で、炊事洗濯台所全て男だけ(女中なし)で生活するようになっていたそうです。 上に立つ者はなんでも完璧にできなければならない、という方針での躾だそうです。 しかし、将軍家では“お大切に”の方針で育てられたとも聞きますから、ちょっとした疑問です。 徳川幹子。明治35年(1902)―平成8年(1996)。幹子の父親・池田仲博は慶喜の五男。母・亨子は鳥取池田侯爵家の長女。仲博は跡取りのいない池田家の養子となった。幹子は長女として生まれ、水戸徳川一橋家の流れをくむ徳川宗敬と結婚。

回答No.2

将軍・世継ぎなどの主な住まいは二の丸御殿です 増築するまでも無いでしょう 江戸城は想像以上の広さです 大奥には1000人を超える女性が住んでましたし 500畳1000畳の広さはザラです

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 世継ぎは二の丸御殿に住んだのですね。分かりました。

  • 1paku
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回答No.1

後継ぎの最有力候補は、二の丸が多いでしょうね。スケールはでかいけど、離れか別宅の感覚で。 家斉さんの場合は、まだ幼いうちに嫁入り先、または養子先を決めてたみたいですから、城内に同時にいたお子さんの数はそれほどでもないでしょう。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 世継ぎは二の丸御殿に住んだのですね。分かりました。

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