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見解考察について

ものごとの見解に或いは考察するに当たって、そのすべての対象に付き、そこには人間心情観点が大原則として不可欠ですか? 対象が何であれ、人間心情とは到底結びつかないようなものであれ、人間心情からの深い考察(→実は感情のようなもの)が無いとその人は著しく頭が悪いでしょうか

みんなの回答

noname#210533
noname#210533
回答No.4

頭が悪い。 頭が良い。 良く考えると、これも答えのない禅問答。 この設問はむしろ、「ものごとの考察」の方をあなたに 合わせて切り取ることで解決する気がします。 どんなことにでも通用する考え方、なんてものを考えるより あなたの「心情的観点」だけを重視して、それで見える世界を 瑞々しく、リアルに写し取り、読み取り、表現する方に、視点を 逆転してみたらどうでしょう。 巨大なものをマクロ、微小なものをミクロと呼びますが、実は これらは同じものです。 私たちの世界を構成し、いつも目の前にあるのに見えないもの。 そういう捉え方をすれば、同じものなのです。 でも、あなたはとりあえず、この世に一人しかいない。 あなたがあなたの視点だけを頼りに徹底的に自分の心情を 大切に、それを全ての前提にして世界を見れば、あなた独自の 言葉が生まれ、あなた独自の世界観が育つ。 あなたは万人である必要はないと思います。そんなのなれないし。 あなたは、たった一人のあなたであれば、それで完全だと思います。

hotarunoinotii
質問者

お礼

>あなた独自の世界観 各個人に独自の世界観があり、それに基づいて種々の見解が発生し、その結果心情視点が薄い見解も存在すると思います。○○学を個人視点で細分化するなら人の数だけ○○学が存在し、心情度が多様になるのも当然の帰結であるかと。 であれば、その多様性を認め合い互いに尊重すればよいのに、心情表現が感じられない見解考察に不快を感じこれを罵倒するは、自身の弱さを制御出来ないのみならず、只単に利己的欲望を充足させる社会的殺人と思えます*。 >あなたの「心情的観点」だけを重視して、それで見える世界を瑞々しく、リアルに写し取り、読み取り、表現する 自分の内側では常時心情onになっていますが、外的表現となるとそれはTPOに応じて実行します(上手・下手はともかく)。ただそれを全てに適用することは無理があるようです(それ故のこの質問です) 回答ありがとうございました。 参考;http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8495383.html

回答No.3

「心情的観点」をことさらに取り上げているという事は、 一般的にはそうではない=個人的な心情を離れた 客観的な絶対時空が存在する、と思っているのですね? 全ての存在は量子的な不確定性に基づいており、無限 につめこむと存在確率の山が平らになって、無と等しく なります。 認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。 その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動を想定すれば、 相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互 作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)と しての宇宙を認識するのです。 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源に まで遡った)必要なのです。

hotarunoinotii
質問者

お礼

回答ありがとうございました

hotarunoinotii
質問者

補足

>一般的には… と思っているのですね? 私が思うに、人間が様々な学、数学・文学・科学・心理学・…、を所有する中の一つすなわちone of themとして心情(学)があると思うのです。どれかが絶対的ではなく、必要に応じて各々の出番があると思います。なので、あらゆる考察対象に各種感情(心情)を抱くのは自由ですが、あらゆる考察に心情絶対視からの心情表現絶対条件は適切に非ずかと(そうでないと理数系学は殆どが否定されなければならない)。 >全てのものはあなたが存在するための必要 はい、この論に全く異論はありません。人間が全知全能の神でないからこそ、人間が認識する世界や前述の多数な○○学や人間が持つ五感が必要と思います。

  • dropyork
  • ベストアンサー率15% (13/85)
回答No.1

物事を考察するに当たっては分別が必要。物事を考察するに当たっては前提が必要。 すなわち承知しているが必要。これが人にはわかっているつもりが分かっていない。 1. 混沌知 2. 相対知 3. 論理知 4. 人知 人こそ至上。これを迷う事柄はいくつもあります。 >>著しく頭が悪いでしょうか どんなに、頭脳明晰でも勘違いしているようでは賢くなることは不可です。 感情は育むものです。劣っていると知るべきです。

hotarunoinotii
質問者

補足

回答ありがとうございます >人こそ至上 人に感情発生が不可避な事は理解出来ますが、例えば土や水を考察するに心情が必ず表現されないといけないのでしょうか。 だとすれば心情が見られない物理学化学等の学問とは馬鹿の極みなのですか

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