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人は、花が作る実を予想し、花に魅せられる、のでしょ

動物行動学についての易しい解説書を読んでいたら、次のことに出会いました。 1、 人が花に魅せられる理由は <「果実を予想させることによる喜び」ではないかと思っている。> <やがて自分たちの食料になるかもしれない“実“ができることを意味している。> と、説明してありました。 人が花を美しいと思い、魅せられるのは、実ができる、と思っている、ということは、有力な理由でしょうか? 2、 前項が正しいとすると、知能が高い類人猿は、人と同様に、食料になるかもしれない実を予想して、花に魅せられていることもある、のでしょうか?

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  • customar
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回答No.22

私も鏡を見るとすぐに飽きます。 花は美しいとは思いますが果実を想像しませんね。この美しさの起源は刷り込みです(と思いますし本能である証拠を知りません)。木の花でなく草の花がいいと感じますからこれでは果実を期待できません。 ヒトの先祖の痕跡的な本能である、という提案は面白いと思います。花が散って実が成長するまで待つ図式になるのですよね。ロマンチックです。 生物は花より団子です。 ただし装飾文化はあると思います。雌の気を引くとか。従って団子より花になって、実ではなく、ロマンス、性淘汰の切り口ですね。可能性があるとすればです。 しかしそれも文化として継承できますし実際に花をめでるのも花を贈るのも文化ですよね。 質問者さんが本能にまで行ってしまうのがすごいと思う。文化じゃ不満ですか。あなたがチンパンジーに育てられたら花に美的感心を持たなかったとは思われませんか。人間の生活は幼児が花柄のパンツをはかせるだけでも刷り込み作業ですよ。幼稚園には花壇があるし、などなど。 著者の私説ないしサービストークだったとしても低級だと私は思います。低級な人らが科学者をやっていて動物学系や脳科学系はボロが出やすいのです。馬鹿でも方程式みたく数理的に演算して済まされない、素の思考作業ですから。 実はその著者の本は文章が面白いと評判だからエッセイとして読んでみようと思っていましたが、読む前にこの質問に出会い、読む気が失せましたね。果実を想像するから美しいという文言が出てきたところで、私なら本を投げてしまいます。 そういう本ばっかりだから、進化論系の読書は非常に良くありません。 その愚かな傾向の裏を返して指摘できるのは、理由を求めすぎなのであり、適応主義の病気なのです。つまりどんな性質も適応による理由が説明できるという原理主義があるのです。いわば一見自由で柔軟な発想に思わせながら全く逆の性格であり有利不利の理由付けをしないでは済まされないという石頭なのです。花→実がなるからなんて、幼稚園児の安直もいいとこですよ。そういう安直じゃないんですよ、生物学の醍醐味は。ましてや人間を扱うとなると言語や火など生物学ではない要素がひしめき合ってくるのです。その人畜の区別がつかない科学者は無能かつ有害なのです。 馬を美しいと思うのは馬肉を期待するから?便利な道具だから?肉体的な生存競争とは関係ない、文明競争に美学の有効性でしょう。数学に魅せられた数学者しかり。

park123
質問者

お礼

何回もお付き合いを頂きまして、ありがとうございます。 今反省していることは、花が美しい、と私が言っていることです。しかし、花だけが美しいのではない。馬も美しい、星も美しい、ピタゴラスの定理も美しい。いろいろ考えていると、 <花ををめでるのも花を贈るのも文化ですよね。> をかなり納得できるようになりました。 <刷り込み> などの文化なのですね。 <適応主義の病気なのです。つまりどんな性質も適応による理由が説明できるという原理主義があるのです。> については、私はまさに該当しています。生態を考える際、私は適用主義に寄りかかっているようです。これこれは何でこんなになったの、というのを、たまたまそうなっただけ、という理由(理由にならないかも)では納得しません。何か理由が付けばーへ利屈であろうが、詭弁であろうが、ーそれを聞きひと安心します。適用主義の悪しき見本でしょうね。

その他の回答 (25)

  • customar
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回答No.26

いいんですかね、私は連投していますが。嫌気が差したら私以外をBAに締め切りまた再質問された方が他の方の話が聞けます。私は糞サイトのBAは恥辱ぐらいにしか思いませんからご遠慮なく。 私はたいがい直感的に言論しています。馬鹿じゃないから自信があるんですね。馬鹿な他者を説得する時に、証拠だ根拠だになるわけであり、そうでなければ、価値を持つのは日本語が綺麗とかの記述の形式論ではなく、当たるか外れるかなのです。 貴方への回答で一例として竹内久美子さんはと語り出してしかも一般的な科学者は私でなく竹内久美子さんの方を正当にしている、科学者は私と反対が多いと述べましたよね、それはまさに根拠乏しき私の直感的回答でした。 そういう貴方への回答をした数時間後に科学カテゴリで医学部学士入学についての回答をしたのですが、医学部学士入学についてネット検索して十秒後、浜松医科大学の小論文に竹内久美子の本の内容が掲載されていると。 ↑私の直感どおりじゃん。それが現実なのです。医者はその程度であり、学士入学という、専門的な人間を集める難易度の高い入試であるのにそうなんですよ!入試なんだから公式にですよ。だから私は浜松医科大学では嘘を書かないと合格しないわけです。 私が科学的人間を自負していなければ彼女のたたりかと思ったでしょう。 例えばなしの揚げ足は馬鹿のする事なんですが、煙草のみを極端に害だというのが大間違いなのであり、異常な科学なのであり(医者はそうなりますが)、煙草が精神的に非常に有益だというのは遠慮なく正しい科学です。煙草は肺を消耗するが間違えは少なくなる効用です。だからたとえ方が逆ですね。京大動物学者の本は精神的に煙草にならない。アヘンにはなるかも知れません。詐欺的記述なのは売るための創作ではなくてそもそも科学者がその程度の人らであるという真相なのです。 自分を売るための創作は宝来聡博士の日本人は中国や韓国より固有性に乏しいとか言う話です。彼は死にましたが彼も京大理学部農学系です。これらは偶然ではありません。彼らは正統という国が日本なのです。 宝来聡の質問した私は袋叩きで質問は二回削除です。 日本化学会の本の質問も袋叩きに近かったです。偏差値高そうな会員も私を非難しました。 私は素人の間違いこそ大目に見て、プロ~権威こそ厳しく批判質疑され検証されるべきに思いますよ。そこが違うのでしょうがそこが科学の精神なのです。適塾の諭吉しかり。

park123
質問者

お礼

第1回目から、辛抱強く面倒をみて頂きました。 貴重な、思いがけない視点からの示唆を頂き、感謝します。 今思っていることは、美を生物学で扱うことは、いまだ時期尚早である、ということです。将来は、生物学の生理的な面を駆使し、美を扱うことができる、とは思いますが、今の段階では無理なのですね。しかし、哲学、心理学、美術などに任せることは、頼りないし。 <私は素人の間違いこそ大目に見て、プロ~権威こそ厳しく批判質疑され検証されるべきに思いますよ。> 私も同感し、身につまされます。昨今の風潮は、強きを助け弱きをくじく、ですからね。話題に出ました <宝来聡>の著作を、すこしかじって見ようかと、思っています。また、 <浜松医科大学の小論文> にも目を通してみようかな、とも考えています。 Custamr様、多方面にわたって、孤立奮闘とですが、今後もご健闘を祈ります。

  • customar
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回答No.25

それが酷評されないから困るんです。高評価されます。例えば京大出の動物学者(?)竹内久美子は著作が科学エッセイとして表彰されています。 つまり脳科学者や動物学者を筆頭に科学者はむしろ私と反対で質問者の考え方に近いのです。 分かります?生物学という学問の難しさが。 要するに数式公式で受験や思考しているばかりで、科学精神などまるでないくせに神や超能力を否定しているだけで、科学者として、また科学的思考が成立するのです。そういう科学者に数式のない生物学を与えるとお里が知れる馬鹿丸出しになるのです。挙げ句には数理生物学という新しいフィクションを作り上げてそこを稼業にする利権のために人類の科学精神を劣化させます。 今回の作家のは読もうと思って読まずじまいでしたが竹内久美子著はどんだけひどいか見てやろうと思い二冊ぐらい10分間読みました。んーーーっですね。生物学系の本を読んである程度科学的にまとめていない人が読むのは有害にも思います。 SFと題していないから本当だと思うじゃん。本当のわけないじゃん。しかしフィクションではなく京大出の科学者の本であり専門家の専門的解説という扱いですよ、公的にも。 私に言わせると無価値有害なのですが、共通判断としては、嘘を知っても、事実から遠ざかる方向ではマズイのではありませんか、本末転倒なのでは、なのです。つまり読むほどに生物学が分かるようにならない本を読んで生物学が少し分かるようになりました生物学は面白い!は、日本民族お得意のとんちんかんでしょ。読まない方が生物学を正しく応用できたのに、読んだら洗脳されて脳が元に戻らない、治すのに余計に手間がかかるわけです。NHKのテレビ以下です。有害さがあるのだから観ない方が頭の良さが維持されるので観ない方が正しい方向に向かうのです。 失恋は心理現象です。我々が生物であることと我々の心理は別です。心理が生物学にはなりません。「お前は馬鹿だ。生きてる価値がない。終わってるな」を読めば不快にならざるを得ませんよね。字を読んだだけですよ。字を、読んだ、だけです。それを生物学にする科学者は科学を学んだ価値がない脳ミソですね。しかしそれが科学者の主流です。馬鹿は受験勉強して下手に科学者にならなければいいのです。花から果実を想像する本能かの○×が京大理学部合格より難しいという笑い話です。

park123
質問者

お礼

何回もの回答ありがとうございました。 竹内久美子などの解説書を読むと、 <生物学が少し分かるようになりました生物学は面白い!> になります。しかし、custmar様が指摘されるのは、図星です。 <読まない方が生物学を正しく応用できたのに、読んだら洗脳されて> には、苦笑します。 <脳が元に戻らない、治すのに余計に手間がかかるわけです。> 心理が生物学にはなりません。> と叱責されるのも、尤もかもしれません。 ただし、大多数の普通の人にとって、竹内久美子などの解説書は、深く考えずに読めば、気晴らしによいものです。現実離れしたミステリーを、ひととき読むようなものです。その限界をわきまえ、読むべきでしょうが。愚民である大衆には、大目に見てもらいたいもの、と思っています。健康にほぼ悪いタバコも、気分転換の手段として目をつぶっていただくように。 

  • customar
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回答No.24

お礼ありがとうございます。 適応(てきおう)主義への批判こそが真の科学だと私は思います。いまや適応主義は数理生物学とか就活的な数学者まで引き入れて理論武装していますからいくら批判してもやり過ぎという事はありません。むしろ悪しき先入観的な生物学と決別すべきに思います。どういう決別かというと(笑)冷静になれば理由を求める価値がない事だよという。砂上の楼閣もいいとこですし数理的にスーパーコンピューターでシミュレーションしても薄っぺらいバーチャルに変わりはありません。それよりもっと物質的な実存を足場に発展性のある知見を明らかにしていく方が面白いよという。 脳科学系も困った論文発表が多くて、「失恋したハエが酒浸りになる」みたいな見出しのページが結構見つかります。単純にまずその見出しからして科学者失格のデマゴーグですよね。そういうのを狙ってる連中の科学なんて直感的にもゲス科学ですよ。楽しげに脚色しなくても、むしろしない方が、奥深いと私は思います。しかしそうならない人が多い分野が動物系~脳科学系なのです。真っ当な事実を求めていない山師業界だからそうなるのです。 本題ですが作者はなぜ花の話をしたのでしょう。質問者さんがここに質問して小うるさい私みたいのが回答しなければそれきり作者の思う壺だったにせよ。やり得が許されているから軽口のやり得が繰り返されている有害な科学出版物だと酷評できます。その一事に限りません。無数にありますよ。 葬式にも結婚式にも花など要らねえ、と言ったらKYな適応障害でしょうか。偶然なのか類友なのか、適応とつくのはインチキ洗脳理論ばかりです。適応論好きと適応論疑問視のどちらがトンデモ科学かは分かっていただけると思います。

park123
質問者

お礼

度々、熱っぽい回答をありがとうございました。 花については、 <この美しさの起源は刷り込みです> ですね。 <木の花でなく草の花がいい> もバックアップしていますね、 ところで、「彼女、元気なくなったわね」「失恋したみたいよ」「そりゃ、ありえる」と解釈することは、日常ありふれてことです。それは、まっとうな生物学とは別に、(全く別なもの、酷評されるかもしれませんが)、楽しく分かりやすい、と私は評価しています。 <もっと物質的な実存を足場に発展性のある知見を明らかにしていく> は、凡人―たとえば野菜を食べるのではなく、そのジュースを愛飲するような人―にとっては、背中の荷が重いですね。

回答No.23

NO.20 です。 お礼,有り難うございました。お礼文の中で気に掛かる所がありますので。 小生の回答での『イチジクの栽培は,観賞目的では無く「花を食する」為ではないでしょうか?』 の部分での,あなたの受け取り方は『「花を食する」為ではない』のようですが,小生の回答文は正に,『花を食するために栽培している』と言う意味です。 スーパーの食品売り場などで,イチジクは果物売り場で見掛けることが多いでしょう。でも,我々がデザートやおやつとして口にするイチジクは,開花直前の蕾なのです。紫色を帯びてきて,先端から割れそうになった蕾がイチジクの食べ頃なのです。 ご質問への回答 1.人が花に魅せられる理由は,果実や子実に期待するのでは無く,花そのものの美観に酔いたいためです。お花見時のために最も多く栽培されている桜の品種は,「吉野桜」ですが,この木には「サクランボ」は実りません。「ゴマ」は健康食品としても多用され,ゴマ油は香りも良く電灯のなかった頃には良質の灯し油も絞られました。しかし,ゴマの花に美観を求めて栽培する人は居ないでしょう。「松」を植栽する人は,松の樹形や緑の葉を見ることで心の安らぎを覚えるので,目立たない雄花にも雌花にも余り歓心を持ちません。受精した雌花はやがて「松カサ」の中に子実を実らせますが,「松の実」は,一般的な食品ではありません。「茄子」や「胡瓜」も花を見るためには栽培されません。 つまり,花と果実とは全く異なる理由で,観賞または食用に供するために栽培されています。花に魅せられることは,恐らく人間だけが持つ美的感覚,観賞の文化によるものだろうと思います。 2.前提が間違っていますから,既に「1」の回答通り,人間以外には美的鑑賞力は類人猿も持ち合わせない感覚であろうと思います。

park123
質問者

お礼

再三の回答ありがとうございました。 まず、弁解から始めます。私はここで花と言っているのは、通常の人がいう花です。すなわち、植物学で言う花ではありません。誤解を招きました。たことでした。 <花そのものの美観に酔いたいためです。> は、納得しています。

  • customar
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回答No.21

美人に飽きませんか(笑)ただの好色ですよ。 洪水の対比は瞬間的には面白いですが坊主の講話や文系学者レベルです。赤ん坊は水を怖れず簡単に溺死できるでしょう。水そのものを恐怖の対象にするのは学習です。従って洪水は観点や主観を伝えるたとえとしてはいいが、実証にはなりません。 私以外からの指摘も含めて不都合な指摘から目を背けないのが自然科学・理系のプライドです。 私からお願いしたい第一は、美しいを議論したくても美しいでは(真の文系学問的にも)話にならないので、美しいを分解されて、科学的論理の材料になる要素にしてください、という事です。美しい花は美しいですがさて一体、などというやり取りに私は限りある精神を傾けたくないのです。美しい発言などは痴呆老人になってからで結構です。痴呆老人の言う美しいも正しい美しいなのですよね。痴呆になる前に自ら思考停止する物好きではありません。 日本人は思考停止が民族病みたく好きですよね。だから芸術才能があるのです。自画自賛ですが私は日本人の中でも芸術的才能はある方です。しかし才能に酔う価値さえない、不毛な自己満足の芸術世界の内に酔生夢死するのでは現代を与えられた人間として生きていないと思う。 芸術的に思考停止した日本人の中でもさらにひときわ芸術的に生きようとするのならばあっさりと芸術を捨てることです。 数学者などで数学は美しいと異口同音に人真似しているミーハーで安っぽい連中には、科学精神も美的感性もないと思います。

park123
質問者

お礼

度々の回答ありがとうございました。 三日間ほど鏡を見ていましたら、飽きてしまいました。 customar様のご説明は、私にとって難解でした。同じ程度まで知識量を身に付けないと、後を追って行くことはできません。 この質問をした引き金は”果実を予想させる・・・”という説明に出会ったことでした。私は、花を見ても、果実(実)まで意識したことはありません、(無意識の世界ではあるかもしれませんが)。そこで、他の方は果実を意識されているのか、あるいは、我々の遠い祖先は進化の過程で、意識していたのか、知りたくて質問した訳です。ただし、沢山頂いた回答のなかで、方行感覚を失い、右往左往していたことは否めません。 回答者様達からの様々な回答でも、果実を意識しているものはありませんでした。したがって、著者の説明は、独自の見解に過ぎない、と感じています。

回答No.20

NO.7 から再度。 前回は梅の栽培を例に引きましたが,今回はイチジクについて。 あなたはイチジクの開花をご覧になって,どう感じますか? 私の場合は食欲をそそられ,美しい花などとは感じません。 開花(先端が割れる)が始まる頃が,イチジクの食べ頃です。 イチジクを果実とする誤認は近年まで一般的でしたが,美味しく食べているのは開花期を迎えた花であって,子実体は舌に軽いザラザラ感を与える多数の小さな粒です。 イチジクの栽培は,観賞目的では無く「花を食する」為ではないでしょうか? ご質問中の仮説とイチジクの関係を,どう結びつけて解釈しますか? 植栽する人は,何に期待していますか?

park123
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございました。 イチジクの開花は、私は見たことがあるかもしれませんが、今記憶にはありません。 この質問をした引き金は、”果実を予想させる・・・”という説明でした。私は、花を見ても、果実(実)まで意識したことはありません、(無意識の世界ではあるかもしれませんが)。そこで、他の方は果実を意識されているのか、あるいは、我々の遠い祖先は進化の過程で、意識していたのか、知りたくて質問した訳です。 したがって、 <イチジクの栽培は,観賞目的では無く「花を食する」為ではない> については、異論ありません。ただし、沢山頂いた一連の回答のなかで、方行感覚を失い、右往左往していたことは否めません。 回答者様からの沢山の回答でも、果実を意識しているものはありませんでした。したがって、著者の説明は、独自の見解に過ぎない、と感じています。 そして、花を美しく感じる、心の働きを知りたい、ということは未だに消えてはいません。

  • customar
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回答No.19

あんなものが美しいとなるのは文化です。大地が一面花だらけだったとしても美しいになるのは文化です。地域性などは比較文化論で余談ですが、お花見の桜を初めて見る外人のうち情操の豊かな人は美しさに興奮します。私はなんとも思いません。飽きました。単なるお祭り騒ぎです。お花がきれいなんて、むっつり糞ババアの気取りの程度の誠実さです。美人は3日で飽きると同じ心理が本能であるはずがない。生ゴミに困るほど年中家中花だらけにされてみたらいい。 花に関心を持つのと美しいは別次元です。美しいという観念を生物学に取り入れるべきではないと決めたら納得には便利です。 オスの孔雀の羽をメスは美しいと思っているかです。ヒトも美しいという観念を学習しなければ同様です。妥協して、何かいいなというのと、美しいは違います。美しいという活字・文言は文明ですからね。妥協は間違いとトンデモ社会の始まりですが、美しいよりは一過性の愛の方がマシです。花を見てうっとりは刷り込みや妄想なんです。 いずれにしても美しい花に対するものではないし納得は質問者の自由ですが美しいという概念を用いない議論に変換される努力の方が前進するでしょう。花関係者の詐欺広告や空想動物学者の人気取りではない、無私的な真実に近づくための精神活動ならば、花と文芸の美化に義理立てするのは馬鹿です。

park123
質問者

お礼

何回も回答を頂きまして、ありがとうございます。 customar様の教えを読みまして、有意義な指摘を感じています。 <美人は3日で飽きると同じ心理が本能であるはずがない。> には、まだまだ、納得しがたい段階です。人は、水を美味しく飲みますが、洪水の際の水には嫌悪感を持っています。花を見て(もちろん、全ての花という意味でなく)、 <花だらけ> の場合はともかく、美しいと感じるのは本能的だ、とまだ固着しています。 <学習> することなく、美しいと思う、と私は思っています。 ところで、この質問を生物学カテで問いました。しかし、他のカテの美術・心理学・哲学を使おうか、とは考えました。しかし、それらのカテは、観念的な説明に終始するであろう、と思い敬遠し、この生物学のカテを利用しました。私では思いつかなかった観点から沢山指摘して頂きました。

  • customar
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回答No.18

ご考察の方向性は私的には全否定です。ただ観点は有意義です。人が、もはや、どうしょうもないほど観念的な空想的な動物でありその歴史は古いという再発見になります。代々教育的にバーチャルだという事です。 花が美しいは文化です。ご提案の段階1だけが生得的です。だいたい美しいというのは概念です。化粧や装飾の文化はルールです。人相の美しさも変遷します。段階1のみです。形に対する記憶と関心です。他の哺乳類に比べて臭いよりも形で選別するからです。 夜景や車のテールランプは妖艶な美しさを感じますが生得的ですかね。恐怖を覚える方が自然ではありませんか。 蛍の美しさはどうなりますか。 お花はきれいだね。と刷り込まれた後でそのまんま自己肯定的な議論をしたらまるで家畜肯定主義の家畜民族である日本人のごとき蒙昧精神です。西洋はキリスト教の空想世界から解放されるのに大変苦労し脱出も完全ではありません。 動物系や脳科学系や数理生物学の人間考察はほぼ間違いなくトンデモです。そういう文化的な錯覚をしないのが科学精神にも関わらず科学者がそういう宗教的構造の話を広めています。

park123
質問者

お礼

何度もご回答ありがとうございました。 <花が美しいは文化です。> はかなり納得します。すなわち、customar様の言われることに、まだ完全には同意していないような気がしますが。 花が美しい、というのは不正確な表現、と思い始めました。一部の花は美しくないし、一部の花は美しい、と思います。そして、その一部の花が美しいのは、かなり生得的である、とも思います。ただし、生得といっても、時代や地域において、美しさの軽重がある、と思います。そして、その軽重こそが文化なのだ、と言われたら了解します。 私も、 <お花はきれいだね。と刷り込まれ> ておりましたので、今考えると、この質問の出発点から、霧が深い中で、無闇に走っていた。という気がしています。

回答No.17

#12です。何か回答の内容が質問文からずれていっているようですが、 類人猿が実を予想して花に魅せられていることなんてありません。類人猿が花を見て判断するのは「食べられるか」「食べられないか」だけです。樹木の花を食べるサルはいます。花というより柔らかい蕾や、花の甘い蜜が目的で、蜜だけを上手く採れませんから花ごと食べてしまうわけで。 ><「果実を予想させることによる喜び」ではないかと思っている。> この単独の文章は理解できます。花は確かにそのとおりです。 ><やがて自分たちの食料になるかもしれない“実“ができることを意味している。> これも単独の文章としてはまさしくそのとおりです。 ■その解説書の原文が分りませんので質問文の  >人が花を美しいと思い、魅せられるのは、実ができる、・・・・・ このように書いてあるのでしょうか?別々の文章をつなげてないですか? つなげてしまうと意味がまったく変わってしまいますよ。 人が花を見て「美しいと思い、魅せられるのは、実ができる」からではなく、 花が咲くと「食べられる実ができる可能性がある」ので、喜びは感じます。 「魅せられる」というのは「美しい」とは違う意味で、地味な花でも実が生るのを予想させる未来への希望からです。 ■多くの果実の花は「「美しいと思い、魅せられる」とはまったく逆のものが多いです。実際、果実からその花を予想できますか?。大抵はできないでしょう?多くは地味だからです。それなりに見栄えがするのはバラ科の果実の花で、さくらんぼ、桃、梨、りんご、などです。それは同じくバラ科の桜と同じで一斉に咲くからです。 中でも世界的に生食され加工品としても多く利用されるぶどうはもっとも地味な部類です。また実の色も地味ですね。 <ぶどうの花> http://www.kouryu.or.jp/gt/photo_archive/photo/ntlgkb0000000ayl.html 果実の色だってまちまちです。スイカのように迷彩色までありますし。 果実(果物) http://xxxkaigaixxx.blog.fc2.com/img/entry_img_189.jpg/ http://www.wallpaperlink.com/bin/0602/02030.html ■最後にまとめると、 >人が花を美しいと思い、魅せられるのは、実ができる、と思っている、ということは、有力な理由 ではなく、 大抵の果実の花は地味で見栄えが悪くとても魅せられるようなものではないけど、花が咲けば食べられる果実を実らせてくれる可能性があるので、そういった喜びと将来への希望に魅せられるだけです。 人が美しく思い魅せられる花は、花として単独に観賞できるもので、その香りや色彩を楽しみます。そして残念ながらそれらのほとんどは“食べられる果実を付けない花”です。

park123
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございました。 ご指摘のように、“人が花を美しいと思い、魅せられるのは、実ができる、・・・・・”は、私が綴った文章です。この書物をあらためて読んでみると、“美しい”も“魅惑される”も書いてありません。 ご指摘のように、美しいと魅せられるとは、別なものと考えるべきでしたね。 <花が咲けば食べられる果実を実らせてくれる可能性があるので、そういった喜びと将来への希望に魅せられるだけです。> ですね。 そして、実とは関係なく、 <美しく思い魅せられる花は、花として単独に観賞できる> のですね。 ご指摘により、めざましく前進しました。 そして、花は美しい、ということはなく、美しい花もある、ということですね。美しい花が、なぜ美しいかは、美しい山がある、と同様に、美学の範囲なのですね。

  • customar
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回答No.16

文化です。花がいいという文化がなければ多くの人にとって花は美しくはない特殊な人だけの感性です。 我々は服を着ています。こんなものは文化ですが裸の人があるいていたら花よりも強烈です。 花は目立つのだから感心の対象になるでしょう。退屈なものではないからです。それを美しいというのは自己陶酔です。それをやる科学者は有害です。それをやらない人が科学者なのです。ゲスや小児病は生物学に向いていません。ニヒルさが要求されます。ニヒルでも楽しめる部分が本当の現代生物学です。感情に負けるようでは心理学かトンデモです。 人の感心はさまざまなのに花だけ説明を求めるのが花を特別視する感情論なのです。花という文化にやられているだけなのです。花関係の商売でもなければ花は美しくないとする生物学の方が面白いはずです。思い込みみたいなものです。 稲の花がブスの代表になっていますがつまり花ではなく形だという事でしょ。花柄模様なんて傑作です。空からデザインするのは難しいです。自然の造形で気をひく、記憶に残るものの一つで。香りがしたり実をつけたり虫や鳥が集まったりと付加されて盛り上る空騒ぎです。

park123
質問者

お礼

度々の回答ありがとうございました。 customar様のご回答を頂き、私の質問自体にまで振り返って、すなわち、スタートラインに戻って考えました(反省ですね)。以下、ご回答に触発されて、私個人的な思考(独りよがりと言われることは覚悟をしています)になります。 人は、花に対して3段階の態度をとります。 1.花に関心が生ずる。振り向く。 2.魅せられる、花を美しく思う。 3. この花が好きだ。(例えば、菊とか薔薇とか) 3段階目は、回答者様が言われる”文化”は、であろう、と思います。 1段階目は、人間の生得のものであろうと、思います。すなわち、万人生まれもった性質のことです。 まん中の2段階目は、文化なのか、生得なものなのか、わかりません。 <花は目立つのだから感心の対象になるでしょう。> は、納得できます。生得のものですね。 <それを美しいというのは自己陶酔です。> は、よくわかりません。、美しいとおもうのは、今まで生得だ、と思っていましたが、文化なのかな、とも迷っています。 ところで、ここまで書いているうちに気付きましたが、花の全てが美しい、というわけではない、すなわち選んだ花だけが美しい、ということです。 回答者様のおしゃるように、”花が美しいのは文化である”が分かりかけそうです。もう少し考えてみます。