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豊臣秀吉はなぜ中国大返しが出来たのですか? 

こんにちは 中国大返しには、 なぜ翌日に計報を知ることが出来たのか なぜ迅速に毛利側と講和が結べたのか なぜ多くの味方を得ることが出来たのか なぜ食料を調達できたのか なぜ高速移動が出来たのか の5つの疑問が存在する中、 なぜ中国大返しが出来たのですか? 秀吉が明智を殺すことをもともと計画していたという説もあるらしいのですが それは本当なのでしょうか、、、? それは、織田信長を見限っていたのでしょうか 教えて下さい!

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  • ベストアンサー
  • Yelm
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回答No.13

他のところでも書いたのですが、本能寺の変において光秀と秀吉が共謀していた可能性はゼロです。 もっとも決定的な理由は「光秀が共謀者や黒幕の存在について一切言及していない」という点にあります。 本能寺の変における光秀は「自分を取り立ててくれた主君を討った謀反人」でしかありませんので、当然殆どの支持が得られませんでした。 このとき光秀は多くの書簡を近隣の勢力に送り、その一部は現存していますが、共謀者や黒幕の存在を匂わす事もしていません。 もし黒幕なり他の有力な共謀者がいるのであれば、光秀の立場ではそれを宣伝しないはずがありません。 そして何より秀吉が光秀を破った山崎の戦いにおいて秀吉軍の名目上の総大将は信長の三男信孝であり、更に丹羽長秀など当時の織田家の序列では秀吉より上位の武将も加わっていました。 無論、秀吉が最大の戦力を有していたので主導権を握っていたのは間違いありませんが、それでも光秀と秀吉が共謀していたのなら、光秀は敵軍の仲間割れを期待してその事実を明かすのが当然の手でしょう。 またこのときの総大将だった信孝は後に秀吉と敵対していますが、そのときにも本能寺の変における秀吉の行動について一切疑義を唱えていません。 つまり光秀と秀吉の共謀はフィクションの中の出来事でしかないのです。

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  • trajaa
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回答No.2

その中国大返しに類することが、後の柴田勝家との合戦の際にも発動されている その際には、沿道の村々に先触れさせておいて、移動経路には松明をもった案内係を配置したり、途中に飲食の準備をさせておいた 兵馬は道に迷うことも、自前で食事の準備をする事もなく、移動に行軍に専念できた ヒョッとしたら物資の事前集積も行っていて、より身軽な状態で行軍速度を稼いでいたのかも知れない 全ては、情報と兵站面に関する理解と注力のなせる技

  • trajaa
  • ベストアンサー率22% (2662/11921)
回答No.1

「秀吉が明智を殺すことをもともと計画していたという説もあるらしいのですが」 意味不明というか、筋が通らないけど・・・・ 明智の謀反の黒幕が秀吉又はその周辺という話の事かな? 謀略説としては、昔からあるが信憑性は極薄 明智の使者が毛利方と間違えて秀吉の陣営に迷い込んだというのが言われているけど 確かにその点は胡散臭いモノがある でも、秀吉さんは情報とか物流というモノに対する見方がそれまでの、戦国武将とはかなり違って重視していた事から考えて、平素より各地に情報網を構築していたと考えても間違いはない その情報網によって明智の謀反を早期に探知できたと考えても良いと思われる その情報網の存在を隠蔽するために欺瞞として、密使が道に迷ったと言うような話を作ったとも考えられる そう言う観点で考えれば、食料やその他物資調達でも迅速な移動でも秀吉の情報網や物流網がフル稼働したと考えれば無理な話ではない 毛利との講和も明智に加勢がなくて、秀吉には加勢があったのも、情報を持つモノと持たざるモノとの違いとも言える そう言う常識で考えても中国大返しは説明が付く、敢えて無理筋の謀略説を持ち出す必要性は薄い

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