• 締切済み

変態と紳士、哲学の関係

一説によると、変態のことを紳士と呼ぶらしいです。そして、その概念は哲学という。 変態を紳士と呼ぶのは、「変態という名の紳士」という言葉が流行ってからのことだそうで、哲学とは、変態が満足する時クールになるからだそうです(悟りの境地)。 変態、紳士、哲学。 この三者は何故同義語になってしまったのですか?

noname#189246
noname#189246

みんなの回答

noname#204089
noname#204089
回答No.2

おそらく、質問者様の言う一説から、同義語になったのでしょう!

noname#189246
質問者

お礼

ありがとうございました。

noname#233306
noname#233306
回答No.1

> この三者は何故同義語になってしまったのですか?  直接回答ではなくて申し訳ないのですが、どうも誤解されているかと思ったので気になったことを書かせて頂きますね。  変態の意味ではなく変体の意味と勘違いしているのではありませんか?同義語ではなく、三位一体モデルとしての展開論と考えると簡単に答えが出てきそうと思いますが。  ぜひ御一考を。

noname#189246
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 少し間違っておりました。変態が悟りの境地に至る時間のことを「賢者タイム」と呼ぶらしいです。哲学とは変態全般の不思議について探求することのようです。 私の疑問は、なぜ変態と紳士、そして賢者など、一見相容れない存在が結びつくのか、というアバウトなものです。

関連するQ&A

  • 哲学は公理系を持とうとはしなかったのですか?

    哲学は公理系を持とうとはしなかったのですか? 哲学のカテゴリーで何度か質問させていただき、その回答を拝読しながら思うことに、基本的な用語や概念に対してなんと多様な解釈があるか!という驚きがあります。 たとえば、「人間の本質は変わらない」のか「人間の本質は時とともに移ろう」のか。 このような基本的な事に合意を取らずに、人間界の議論を開始するのが哲学なのでしょうか? 場合によっては「時ともに移ろうものを本質と呼ぶのか」みたいなところまで遡って基礎教育しなくちゃならない。 人間という言葉で示す概念を固定できないとすれば、その言葉を使って何を意思疎通せよと言うのでしょうか? 哲学が数学や物理学ほどに緻密でなく、宗教ほど逞しくないことは分かりましたが、せめて公理系を持てば、哲学の議論が発散することを回避でき、議論の成果も期待できるのではないかと思います。 哲学が公理系を持ったことが有るのか、また持ったことが無いのであれば、なぜ公理系を持つことができなかったのか、など、ご教授いただけるとありがたいです。

  • 日本ではじめてできた哲学事典はどれ?

    日本人の文化の中に哲学の概念を哲学(希哲学)という言葉で導入し始めたのは西周で明治維新頃からだと思いますが、 ふとしたきっかけで日本で初めて哲学という概念をとりいれて事典として著した書物の中で、その当時最も信頼のおける日本語に意訳した哲学事典はどれだったかということに興味を持ちました。 自分なりに探しあてた結果「哲學字彙」が自分の求めている事典に当てはまるのではないかと思ったのですが、 その当時の時代の哲学事典に疎い自分にはこれが自分の要求に最も当てはまる事典かどうか確信が持てません。 どなたか哲学事典の経緯に詳しい方、初めて哲学をとりいれて事典にしたのは「哲學字彙」であっているのか、それとももっと別に自分の要求に副った事典が存在するのか。教えて下さい。

  • なぜ、「哲学」を「探究」しようとするのか?

    「探究」の姿勢こそ格好いいと思う風潮って今の世の中にありませんか? より深くを洞察するというか、見えないものを開拓するかのような、 向上心に対しての姿勢を優れているとする傾向に疑問を感じました。 私にとって哲学は「人が豊かになる為に考えさせる」学問だと思います。 そして、これは私たちが「哲学」を考える上での素朴な疑問です。 「科学的に分析する」=「探究」という姿勢、 これは東洋哲学を理解するにそぐわないと考えます。 「木を見て森を見ず」という言葉が日本語にあり、 これは「木」も「森」もどちらも大切でその姿勢を説いています。 私はこうしたことから「哲学」の本質は 世の中の「ありのまま」である真実を見抜くことだと考えています。 しかし、何もかもが全てであるとか、人の見地ではその全ては分からない。 「ありのまま」という立場を受けいれる姿勢が馴染み易いかと思います。 「探究」という言葉に目を向けたとき、 それは人の我欲の表れを示しているように思います。 好んで「探究」という言葉を使う時は、究めたい(よう)とする我欲に陥ります。 人の「心」というものを知ろうとする時、 曇った眼で真実が見えてこないのと同じで、 我欲は人の「正しく考える」知恵を曇らせてしまいます。 確かに西洋哲学には「超越」という境地があります。 しかし、真実というものは「超越」するものではなく、 「そこにあることに正しく目を向ける」ことにあるのではないでしょうか。 自らが見つけた一つ一つの真実、 そこに捉われずにさらに進んだところに目を向けるようにすれば、 私たちはより深くものごとを知ることに繋がると考えています。 日本思想や文化は「侘び寂び」といった「あるがまま」に対する 「ものの憂い」といった精神から育ってきました。 それは私たちが私たちであるというアイデンティティと呼べると思います。 私たちが「想うがまま(侭)=わがまま」にならないことに、 一番に目を向けてきた誇りだと呼べると思うのです。 感覚的に何かを置きっぱなしになっているような気がして、 それが「哲学」を「探究」するという姿勢を不適切に思わせます。 飽くまで「ことば遊び」に過ぎないので、 「探究」という言葉の価値自体を否定する気はないのですが、 この辺りについて、西洋哲学や東洋哲学といった枠を越えて、 ご意見をお待ち申し上げます。

  • われらがあたらしい哲学へ

     たたき台としては論点をひとつに絞ります。  近代人と中世人との対比ではなく 単純に《ふつうの人》をあつかっていた古代人の持った人間観を省みることが必要ではないか。  《単純に》というのは ひとの行動にかんする普遍性を問い求めた倫理規範であるだけのオシエを打ち出しまた推し出してくる宗教を前提としないことが ひとつです。  もうひとつは ひとの扱うものごとの普遍性を問い求めた科学語を打ち出した普遍教とも言うべき諸科学をやはり〔不可変的なものとしては〕前提としないことです。  科学的知識はこれを前提とするのですが それだけを《普遍教》としてのように前提することからは自由でなくてはいけない。  言いかえると この人間観をめぐって哲学は 科学をどのように取り扱うかを問い求め続けるのですし もうひとつに 倫理規範をとうとぶのはよいとして しかしながらこのやはり人倫にかかわる科学的普遍教とも言うべき厄介な心的社会的現象――シュウキョウ――を そのまま無批判に振りかざすことから自由でなくてはいけない。  かんたんにこの一点です。同じ主題に広いかたちにおいても属することがらについては ご回答を得て互いにさらに問い求めて行きたい。こう考えます。  もう少し別様の説明としてのべます。:  ひとがしゃべる言葉には ふつうに社会の中に生活するときの《人間語》があります。そのひとつの特徴としては《あやまちうる》という性格があります。  そしてほかには そこから一般性や普遍的な要素を抽象して そこに得られた概念 これをしばしば概念だけの操作として推し進めて得た《普遍語》があります。これは 一般的な議論に耐えうるようにと 《あやまち得ざる》ことを目指して知性が持ち得た言葉です。  すなわち――すでに触れたところによれば―― 普遍語は 倫理規範となる人格語とそしてものごとの本質を問い求める科学語とのふたつです。  これを名づけるとすれば:   あやまちうるスサノヲ( S )人間語   あやまち得ないアマテラス( A )普遍語(人格語および科学語)  となると思います。  ですから おそらく歴史をつうじてふつうにわれわれの問い求める人間観は:   《 S 人間語 - A 人格語&科学語》のしかるべき構造的な複合  が ふさわしい。こうなると考えられます。  このような人間観をめぐって これからの哲学は いとなまれて行くと考えるのですが それについて問うものです。  西欧の哲学は しばしば《 S - A 連関》の全体を扱わないクセがある。  普遍 A 語の世界のみを――倫理にしても自然や社会についてにしても――理論的に体系的に描こうとするクセ。    あるいは 《 S 人間語の世界――スサノヲ市民社会――》について探究するにしても すべからく《 A 普遍人格語かつ科学語》をそのドロドロともした生きた人間社会に あたかもメスを入れるかのごとく 当てはめてしまうだけに終わろうとするクセ。  忌憚なきご見解をどうぞ。

  • 起業に対する哲学について

     数年にわたって起業を志し、セミナーや人脈形成、知識の獲得などに時間を割いているのですが、今「起業する目的」というものを改めて考えています。  皆さんの考える起業の目的ってなんでしょうか?  幼稚な考えの時は単純に「お金が欲しい」とか「力が欲しい」「社長ってカッコいい」ということを考えていたのですが、これは目的のようで目的ではありません。その先にあるお金や力を使って何をしたいのか?というところまで突き詰めて考えていかなければ、辛いときや厳しい選択を迫られたときに乗り越えられないのではないかと考えるようになりました。  起業はツールであって目的とするものではないですし、目的が定まってもいないうちに起業をするのはゴールの無いマラソンをするようなものだとも思っています。  真に強い会社を作りたいと考えているのであれば、最低でも確固たる「目的」と「ものごとの判断基準」は必要だと考えています。  そんなことを考えながら、とある起業セミナーで、50社以上を経営しながらすべての会社で黒字、という怪物のような人の講習で「目的は言葉で言えるうちは目的ではない。それは人に言えないような悪いことであってもいい。もちろん悪いことはしちゃいけないけれど」と仰っていたことが頭に浮かびました。  その方が仰るには例えば、SIerの人が「世の中にもっと便利なモノを広めたい」と考えているのであれば、なぜ?と自問自答し「便利なものが広がればもっと人々はラクに暮らせるから」と、その先を考えたのであれば、なぜラクに暮らす必要があるの?などと質問を繰り返していくそうです。その質問の先にある純粋な気持ちこそが目的というものらしいのですが、何か心をついている感じはするものの、いまいち私の中で咀嚼できません。  ここで質問なのですが、皆さんの考える起業の目的ってなんでしょうか?  上の例に当てはまったものでなくても構いません。皆さんが起業するorした目的として心に据えているものを教えていただければ参考にしたいと思います。もし言葉にならない気持ちにまで昇華した悟りとも言えるような目的を持っているのであれば、それに近い概念でかまいませんのでお教えください。余力があれば、判断基準やその方の言葉の意味も一緒にお願いいたします。私の考えに対する批判でも構いません。  ちなみに、その方の判断基準は「それが楽しいか楽しくないか」だそうです。  経営は哲学だと思っている節があるので、このように長くはなってしまいましたが、よろしくお願いします。

  • 「信仰」の由来について

    日本語の「信仰」という言葉は聖書翻訳語として有名ですが、もともとは仏教の言葉だったそうですね。しかし「信じ仰ぐ」という読みから受ける印象とは違って、悟りの前に心を清澄にすることだったとか。でも「仰ぐ」というと自分の外の対象を思わせますよね。「仰げば尊しわが師の恩」などと言いますが、日本人にとって「仰ぐ」対象は外なる人格(この場合は「師」の存在)ではなく、自分の心(この場合は「恩」)であり、要するに仏を自分の内に「仰ぐ」という意味が「信仰」の由来なのでしょうか?一説にはパーリー語かサンスクリットかのpasada(「浄信」とも訳されるとか)とかいった言葉の訳語とも聞きますが、中国で出来た言葉ですか?それとも日本人が造った言葉でしょうか?

  • 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。

    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。

  • 《聖なるあまえ》から《きよらかなおそれ》への変態

     1. 《聖なるあまえ》は ものごころがつく前におけるひとの心の状態を言います。  2. 赤子が母親にあまえる――つまり 全面的に考えも何の計らいもなく身をゆだねるかのように心をゆだねている――とき これをひとつの典型として言う。  3. ところが 誰しも ものごころが着いて来ます。  4. 《考えもハカラヒもなく》というのは おこないがたく成ります。ウソをつくことをも知るという社会的動物たることの洗礼をも受けるようになります。  5. このとき聖なるあまえは どうなるか?  6. 幼虫がさなぎになる  7. 聖なるあまえは きよらかなおそれへと変態する。  8. きよらかなおそれは 幼虫ないし赤子における聖なるあまえ状態とほぼ同じだと言いたいのですが むろん《ものごころがついた》という意味での変態を経て 違いが出て来ます。  9. けれどもそれでも 後の段階で――ヒトの生まれつきなる自然本性に変わりはないと見るかぎりで―― 《聖なる甘え》と同じ状態であると言うためにこそ しかも言葉を変えて《きよらかなおそれを抱く状態》と呼びます。  10. すなわち 聖なるあまえは 母親への本能的な寄りすがりであるとき その同じ自然本性の成すハタラキにおいてなのであるが こんどは 母親なる存在を超えてナゾの何ものかへのおそれに その《身と心とのゆだね(あまえ)》を置き換える。  11. 言いかえると 聖なる甘えのときは きよらかなおそれすら――おそれすらを――まだ持てない状態であった。  12. このきよらかなおそれは 確かにナゾの何ものかに対するものなのであるが その同じ内容が 主観の内面における思惟や意思決定のときにも 〔おそれとして〕現われる。  13. これは さなぎからすでに成虫へとさらなる変態をとげつつあるときに起こるものであるが まだ さなぎ段階のこととして捉えてみよう。  14. ウソをつくとき・イツハリをはたらくとき 心は胸が変に高鳴り身も顔を赤らめ言葉もしどろもどろになる。《やましさ反応》が出る。やましさを 理性で受けとめるときには 《恥ぢ・恥づかしさ》である。  15. つまり このヤマシサ反応が きよらかなおそれのことである。良心のハタラキだとも言える。  16. つまり要するに おのれがみづからの心を省みずヘソを曲げるときに起きる《おそれ・やましさ・恥づかしさ》である。  17. 主観はつねに この・へそ曲がり(つまりウソ・イツハリ)を仕出かし 軌道修正しわれに還り また脱線したり道草を食ったりして 《わたしがわたしである》道をあゆむ。  18. 《恥づかしさ》を 何ものかナゾなる存在に対するおそれと感じ これを聖なるあまえを継ぐものと見て きよらかなおそれと捉えるなら それは この小さなおのれの主観が 人びとにも共通の心であると受け留めたことを意味する。  19.  つまり きよらかなおそれは 人びとにとって普遍的な内容を成す共同主観であると――甘えないしはユダネであるからには 無根拠において――受け容れたことを意味する。  20. 《共同主観》は 共同と呼ぶからには普遍性があると見ているし 或る種の仕方で言えばわが心なる非思考の庭においてそのように受け容れているものです。(無条件の無根拠にて受け容れているという意味です)。  21. こうして さなぎは羽化し 蝶へと変態する。  22. 成虫した場合には 社会の中で おのれの――はぐくんできた――《きよらかなおそれ》が つねに〔共同主観であると見ているからには・その限りで〕有効であるが しかも単純に社会力学じょう既成勢力たるチカラの前に無力となる。  23. この情況における《わたし》は どう生きるか? 《きよらかなおそれ》のゆくえは?  24. 聖なるあまえ・もしくは きよらかなおそれ・あるいは《恥ぢ》を失わないならば けっきょく世の中においてわが目の前を通り過ぎてゆく観念のブルドーザーの《無効にしてただ力学じょう有力であるチカラ》に対して これを精神の胃袋で消化しつつ 引き受けるということ。泥をかぶるということ。  25. ここに 蝶たる成虫への変態は 成し遂げられる。ものと思われる。  26. このシガラミの中にあって 無効の有力でしかないそのやはりシガラミたるゴミを――すなわちこのゴミは しばしば社会力学じょうの栄誉を着せてもらってその地位に就き身を飾り立てている・つまり しばしばおごり高ぶるゴミを―― あたかもみづからはアース役となって 呑み込みつつ処理していくということ。  27. これが 名も無い一介の市民の完全に成虫した(つまり さとりを得た)蝶としての社会的使命である。  28. 敢えて言えば そのときの《武器》は 《きよらかなおそれ》である。根拠は 無い。  29. 初期条件はただ生まれついたというだけの無条件の情況にあって 無根拠なる根拠において ごみ処理(浄化再生)工場と成る。  30. きれいな酸素をも供給するらしい。    31. 義(オシヘ)無きを以って義としているらしい。(もっとも このことは 《無住処涅槃》なる概念として・あるいは《本覚思想》として すでに打ち出されているようであるらしい)。  32. ひとびとは しづやかにおのがさとりを得よ。  ☆ 以上を問います。自由なお考えをどうぞ。フルボッコの批判を歓迎します。

  • 日本人の哲学を!

     かつてナツィから逃れ招聘されて東北大学に教鞭を執ったK.レーヰットが こんなことをすでに言っていたそうです。  ▽ (レーヰット:日本の学問) ~~~~~~~~~~  ( a ) 学生たちはたしかに 献身的に私たちヨーロッパ人の文献を研究し じぶんたちの知性によってそれを理解してもいるけれども じぶんたちの研究のなかから かれら自身の また日本人の自我のために いかなる帰結をもみちびき出さない。  ( b ) ヨーロッパの概念 たとえば《意志》《自由》《精神》といったものを かれら自身の生活 思考 言語において相応するもの ときにじぶんたちのそれとは相反するものと区別したり 比較してみたりすることはしないのだ。  ( c ) かれらは それ自体として見知らぬものを じぶん自身のためには学ばない。そうすることが自明であるかのように ヨーロッパの哲学者の原文のなかに歩みいって じぶんの概念に対してその哲学の概念を 根源的に未知なありかたにおいて見ようとはしない。〔中略〕  ( d ) かれらはふたつの階で暮らしているようなものである。すなわち 日本的に感じたり考えたりする した(下)の 基本的な階と プラトンからハイデガーにいたるヨーロッパの学問がならべられている うえの階である。  ( e ) かれが一方から他方へとわたってゆく梯子はどこにあるのだろうか。ヨーロッパの教師は そう自問してみる。  ・・・・・・  ( f ) ボードレールやフロベールが プルードンやソレルが ワーグナーやニーチェが ヨーロッパに対して向かいあったのとおなじように 仮借のない鋭敏さでじぶん自身とその国民を問いただす日本人が果たして存在するのだろうか。私には疑わしく思える(しかし まちがっていたら教えてほしい)。  (誌《思想》掲載論文 その末尾に置かれた《日本の読者に寄せる後記》より。  下記の書の熊野純彦・解説より。   レーヴィット著 熊野純彦訳:『共同存在の現象学』 2008 岩波文庫 p.488   Karl Löwith: Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen ―― Ein Beitrag zur anthropologischen Grundlegung der ethischen Probleme―― 1928 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この質問は 質問者じしんの自己 PR だとうたがわれてしまうかとおそれますが たとえばこのようなレーヰットの現状認識ないしそのわれわれにおける自覚を出発点とするよりほかにないとも考えられます。  《哲学》というひとつの言葉じたいについても われわれのあいだでは収拾のつかないほど受け留め方が違っていて その一事だけによってさえ われわれの心は断絶を余儀なくされているかに見られます。  どうしてここから出発しないのでしょう?  ワールド・カップを目指さなければならないわけではないでしょうけれど 箱庭の中のおままごとからは そろそろおさらばしましょう。  一歩一歩じみちにあゆむあたらしい門出を迎えることが出来るようにするには どうすればよいでしょう?  ・ 概念についての定義の再定義  ・ 学問におけるけんかをいとわず避けない  さしづめこう考えました。  ご見解をうけたまわりたい。

  • 《聖なるあまえ》から《きよらかなおそれ》への変態

     1. 《聖なるあまえ》は ものごころがつく前におけるひとの心の状態を言います。  赤子が母親にあまえる――つまり 全面的に考えも計らいもなく身をゆだねるかのように心をゆだねている――とき これをひとつの典型として言う。  2. ところが 誰しも ものごころが着いて来ます。  《考えもハカラヒもなく》というのは おこないがたく成ります。ウソをつくことをも知るという社会的動物たることの洗礼をも受けるようになります。  このとき聖なるあまえは どうなるか?  3. 幼虫がさなぎになる  聖なるあまえは きよらかなおそれへと変態する。  きよらかなおそれは 幼虫ないし赤子における聖なるあまえ状態とほぼ同じだと言いたいのですが むろん《ものごころがついた》という意味での変態を経て 違いが出て来ます。  4. けれどもそれでも 後の段階で――ヒトの生まれつきなる自然本性に変わりはないと見るかぎりで―― 《聖なる甘え》と同じ状態であると言うためにこそ しかも言葉を変えて《きよらかなおそれを抱く状態》と呼びます。  5. すなわち 聖なるあまえは 母親への本能的な寄りすがりであるとき その同じ自然本性の成すハタラキにおいてなのであるが こんどは 母親なる存在を超えてナゾの何ものかへのおそれに その《身と心とのゆだね(あまえ)》を置き換える。  言いかえると 聖なる甘えのときは きよらかなおそれすら――おそれすらを――まだ持てない状態であった。  6. このきよらかなおそれは 確かにナゾの何ものかに対するものなのであるが その同じ内容が 主観の内面における思惟や意思決定のときにも 〔おそれとして〕現われる。  これは さなぎからすでに成虫へとさらなる変態をとげつつあるときに起こるものであるが まだ さなぎ段階のこととして捉えてみよう。  7. ウソをつくとき・イツワリをはたらくとき 心は胸が変に高鳴り身も顔を赤らめ言葉もしどろもどろになる。《やましさ反応》が出る。やましさを 理性で受けとめるときには 《恥ぢ・恥づかしさ》である。  つまり このヤマシサ反応が きよらかなおそれのことである。  8. つまり要するに おのれがみづからの心を省みずヘソを曲げるときに起きる《おそれ・やましさ・恥づかしさ》である。  9. 主観はつねに この・へそ曲がり(つまりウソ・イツワリ)を仕出かし 軌道修正しわれに還り また脱線したり道草を食ったりして 《わたしがわたしである》道をあゆむ。  10. 《恥づかしさ》を 何ものかナゾなる存在に対するおそれと感じ これを聖なるあまえを継ぐものと見て きよらかなおそれと捉えるなら それは この小さなおのれの主観が 人びとにも共通の心であると受け留めたことを意味する。  11.  つまり きよらかなおそれは 人びとにとって普遍的な内容を成す共同主観であると――甘えないしはユダネであるからには 無根拠において――受け容れたことを意味する。  12. 《共同主観》は 共同と呼ぶからには普遍性があると見ているし 或る種の仕方で言えばわが心なる非思考の庭においてそのように受け容れているものです。(無根拠にて受け容れているという意味です)。  13. こうして さなぎは羽化し 蝶へと変態する。  14. 成虫した場合には 社会の中で おのれの――はぐくんできた――《きよらかなおそれ》が つねに〔共同主観であると見ているからには・その限りで〕有効であるが しかも単純に社会力学じょう既成勢力たるチカラの前に無力となる。  15. この情況における《わたし》は どう生きるか?  《きよらかなおそれ》のゆくえは?  16. 聖なるあまえ・もしくはきよらかなおそれ あるいは 《恥ぢ》を失わないならば けっきょく世の中においてわが目の前を通り過ぎてゆくブルドーザーの《無効にしてただ力学じょう有力であるチカラ》に対して これを精神の胃袋で消化しつつ 引き受けるということ。泥をかぶるということ。  ここに 蝶たる成虫への変態は 成し遂げられる。ものと思われる。  17. このシガラミの中にあって 無効の有力でしかないそのやはりシガラミたるゴミを――すなわちこのゴミは しばしば社会力学じょうの栄誉を着せてもらってその身を飾り立てている・つまり おごり高ぶるゴミを―― あたかもみづからはアース役となって 呑み込みつつ処理していくということ。  18. これが 名も無い一介の市民の完全に成虫した(つまり さとりを得た)蝶としての社会的使命である。  19. 敢えて言えば そのときの《武器》は 《きよらかなおそれ》である。根拠は 無い。  無根拠なる根拠において ごみ処理工場と成る。  20. きれいな酸素をも供給するらしい。    義無きを以って義としているらしい。(もっとも このことは 《無住処涅槃》なる概念としてすでに打ち出されているのであるが)。  以上を問います。