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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう)

ゴータマ・ブッダのさとりとは?中身はあるのか?

このQ&Aのポイント
  • ゴータマ・ブッダのさとりについて疑問を投げかける。
  • さとりの中身がないのではないかという問いを提起する。
  • ゴータマ・ブッダの教えによって人々がマインドコントロールされ、理性や感性が鈍らされている可能性を指摘する。

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noname#195588
noname#195588
回答No.45

何も覚っていない 修行中こそが覚りだと考えるのもどうかと思うので 回答してみます。 覚りは現在なのか、過去なのか。 覚る。なのか、 覚った。なのか。 ゴータマ・ブッダは覚る人なのか、 覚った人なのか。 それで、なんとなくウィキペディアの曹洞宗の項目を見たんです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と異なり、「修証一如」(無限の修行こそが成仏である)という道元の主張に基づいて「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら坐禅すること)をもっぱらとし、臨済宗のように公案を使う(悟りのための坐禅)流派も一部にあるが少数である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%B4%9E%E5%AE%97 ~~~~~~~~~~~~~~~ 無限に修行こそが成仏というのは、 どうなんでしょうか。 この考えを採用すると、べつにゴータマ・ブッダの 覚りに内容が無くても、仏だといえてしまうでしょう。たぶん。 でも、覚りがいつまでも、過去にならないと思います。 発想が現在形というか現在進行形というか。 無限の修行が覚りなら これでは、覚りが過去にならない。 覚った人とは言えないのではないか? そんなことを考えていたら なんとなくゼノンのパラドックスを思い出しました。 飛んでいる矢は止まっている、とか アキレスは亀に追いつけない、とか。 道元はアキレスみたいに、いつまでも亀に追いつけない。 なんて言ったら怒られそうですけど。 それからついでに、 過去とか現在とか考えていたら 既視感とか、未視感とかそんなことを 考えたりしました。 つべこべいわず、坐禅していればいいんだ。 とにかく修行。 という結論になるのもなんだかね。 人力飛行機とか自転車操業みたい。 死んだら修行は出来ないから 死んだら仏になれない気がする。どうだろう。

bragelonne
質問者

お礼

 かざみどり365さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~  死んだら修行は出来ないから  死んだら仏になれない気がする。どうだろう。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり ブッダ修行は 動態であるのだという見方でしょうか。  つまり このいま・ここなるわたしの――したがって つねに現在時として歩み行くところの――生きた動態でなくて 何が《さとり》であるものかと。   ○ 永遠の現在  という命題(実践課題)にまで到りましょうか。  このさとりを ゴータマ氏が成就したかどうかは まだ何とも言えないと思うのですが。  ★ という結論になるのもなんだかね。 / 人力飛行機とか自転車操業みたい。  ☆ これでいいんぢゃないですか。人生 一歩一歩なのですから。  それなら さとりに中身があると言えるかも知れません。  すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~~  それからついでに、  過去とか現在とか考えていたら  既視感とか、未視感とかそんなことを  考えたりしました。  つべこべいわず、坐禅していればいいんだ。  とにかく修行。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち   ○ 現在時における過去にかかわるような既視感(デジャ・ヴュ)は すでにそのふるさとにわたしはいたのだという・そのマボロシを見たという ようなことでしょうか。   ○ 現在時における未来にかかわるような未視感(ジャメ・ヴュ)は いままでに見たことのない風景が広がって見えるのなら それは いま現在を《ただただ坐禅(≒社会的活動全般)に生きる》とき ふと世界が開けるといったことを言うのでしょうか。世界の明けといったような。  でしたら これらの《わが自然本性における〈ふるさと〉の既視感》も《あたらしい世界の明けなる――わが自然本性の衣替えが成されて行く――未視感》も あたかもわが心なる《非思考の庭》におけるドラマが 開幕したことを告げている。  つまり 信仰としての――その動態としての――さとり でしょうか。  ★ 《無限に修行》こそが成仏というのは、 / どうなんでしょうか。  ★ 《何も覚っていない / 修行中》こそが覚りだと考える  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  この考えを採用すると、べつにゴータマ・ブッダの  覚りに内容が無くても、仏だといえてしまうでしょう。たぶん。  でも、覚りがいつまでも、過去にならないと思います。  発想が現在形というか現在進行形というか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それでしたら さとりに《中身》があります。みとめなければなりません。脱帽します。  それにつけても ゴータマ自身は どうだったのでしょうか?   分からないけれども そのまだ言うとすればペテンまがいの振る舞いや説法をつうじて いまこのような《さとり=動態》説を得たのだから おおきくはブディズムの流れに乗っているということでしょうか。  ゴータマ氏の怪我の功名であろうか。  いや それをこそ はるか昔にゴータマくんは のぞみ見ていたというのであろうか。   ○ 只管打坐  つまり坐禅というのは タトエとして扱い 人おのおのの人生における仕事と務めに地道にあゆむことを さとりの動態として言っている。でしょうか。  あとは ヒラメキとしての贈り物を受け取ったがごとく未視感において広がるあたらしい風景・あたらしい世界 これを 理論構築をもしつつ 実践する。  これなら――その具体的な中身は ひとそれぞれに応じて決めればよいのですから―― 中身をともなった《さとり》説ですね。いわば実存思想としても受け留めることが出来そうです。その現在時において――永遠の現在として推移するかのように――つねにわが心と意志のありかにもとづき 一歩一歩地道にあゆむのだ。これよりとうとい思想は ないでしょうね。  怪我の功名・ペテンの効用 と言うべきではないかという疑いをゴータマ氏にはまだ持っていますが 中身のある《さとり=動態》説には まいりました。  心のあり方として あたまを丸めます。  

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その他の回答 (57)

noname#195146
noname#195146
回答No.27

>《アートマン》は(後略)  アートマンをいくら語ってもゴータマの意図は見えはしませんけど? なぜ拘るか不思議です。無いものに拘るな、という話ですから。ついでに言えば、ゴータマは神や超常的なことも、方便を除けば語っていません。  何度でも教えて差し上げますが、無いということを、有るかのように扱うと間違います。迷妄でもあり、魔境でもあり、野狐禅ともなります。無いということを得るというのは不思議な話です。言葉遊びなら面白いかもしれませんが。  彼が「無い」としたことを、それが真実か間違いかはさておき、何がどのように無いかを論じても無益です。有るものを見つけたければ、別の場所を探すことです。彼が間違いであるとするなら、例えばアートマンを見つければよいです。 P.S.  ゴータマを拝めば、何かご利益や功徳があるかのように思うのは、ゴータマの意図とは無関係のことです。彼は「こういうことに気が付いたけど、どうする?」と周囲に聞いてみただけに過ぎません。過重な発言責任を問うても仕方ないでしょうね。問うとすれば、彼を超人扱いした後世の人間となるでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 彼は「こういうことに気が付いたけど、どうする?」と周囲に聞いてみただけに過ぎません。  ☆ この《気づいたこういうこと》が何であるか? これを尋ねています。それだけです。  どうでしょう?  ご回答をありがとうございます。

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  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.26

こんにちは 余程「信じる」=言葉がお好きなんですね 人間は 過去の記憶と未来の想像により りんご一個は有ると信じるんだ 一個はどうしようが一個だですか? う~ん りんご一個は五感で「感じる」ことにより 今という時空間(空)で美味しい果物のような気がするんですが? 何も語らなかった釈迦の実証は不可能では?推測にすぎないのでは でしょう 意味がないような気がします 気を取り直して推測しますと お釈迦様は 自分の思うようにならないと苦しんでいる(今の状況から何も変わらないと信じている)人々から苦しみを取り除きたかった 菩提樹の下で 修業しても一瞬しか苦しみから解放されなかったことを思いだし そこで考えた そういえば 不味い食べ物でも美味しく食べられる時があったではないか 空腹な時は何でも美味しい 腹八分が美味しい  そうだ 人々は何でも外観で観ることにより苦しんでいる 内観で観れば楽しく生きられる (何も変わらないと信じるのは愚かなことであり 今という時空間(空)を感じられれば全ては変わる) でも誰も理解できないだろうな~  ブラジェロンさんなんか「信じる」=言葉が好きだし 1は1だと言うだろうし(一個のりんご=言葉は有ろうが無かろうが不味かろうが腐っていようが一個のりんごだ) 人の道さんは 分かってくれるかもしれない 今という時空間(空)では1は「感じる」ものですから(今しかない一個のりんごは五感で美味しいと感じる) 自然数の無限と分割した無限を比べた人もいるらしい  まぁ~1はずっーと1だと信じることであるならばどうしようもないようです  普通の人は今という時空間(空)では1は感じることであるは 分からないでしょうね  1は外観では有限であるが内観では無限であると感じる 無限を感じることにより 有限であるだろうこの世界は無限と感じられる (そういえば キリストもパンの奇跡でたくさんの人を満足させたそうですが) 結論 お釈迦さまも言われているように 自分の思うようにならないと苦しんでいる(今の状況から何も変わらないと信じている)としない人は 1は1だと信じて疑わない人(腐った1でも満足している人)は教えもいらないでしょう  お釈迦様は 階級社会が嫌いだっただけです な~んも持たない方が得られた時の喜びが大きい 乞食業をして 釈迦はみんな猿だと感じながら たまに 人間(悩んでいる猿)がいることに喜びを感じながら 人間の本性を感じて楽しんだのでしょうね 人間とは所詮 記憶と感情の生き物にしかすぎない(笑) そして 彼を慕う人達に人間の生き方(記憶と感情の大切さからの未来への想像=アウフヘーベン)=(1を信じることの大切さ=知彗と1を感じることの大切さ=神通力)を説いていったのでは?

bragelonne
質問者

お礼

 てふ_てふさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ お釈迦様は 自分の思うようにならないと苦しんでいる(今の状況から何も変わらないと信じている)人々から苦しみを取り除きたかった  ☆ ですから 誰しもこのことは 少なくとも自分自身について 考えるのではないですか?   ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうだ 人々は何でも外観で観ることにより苦しんでいる 内観で観れば楽しく生きられる (何も変わらないと信じるのは愚かなことであり 今という時空間(空)を感じられれば全ては変わる)  でも誰も理解できないだろうな~   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この説明では わたしは理解できませんが てふ_てふさんは 理解できましたか? その内容は ひとに伝えることは――理解が自分では出来ても――無理なのですか?    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1は外観では有限であるが内観では無限であると感じる 無限を感じることにより 有限であるだろうこの世界は無限と感じられる  (そういえば キリストもパンの奇跡でたくさんの人を満足させたそうですが)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ タトエによる物語と現実とは別です。あるいは おのれの主観内面における真実が必ずしも ほかのひとの主観として落ち着くかたちを取るかどうかは 決まっていません。  あとは 分っかんないなぁ。  ゴータマ氏は 人びとの苦しみを除くことは出来たとお考えですか?

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回答No.25

 No.19のお礼文を見ての感想ですが、この地球上に現れた高等動物、「人間」という生き物、生命、を肯定しようという思いが伝わってきます。  真理の一端を知らされる思いです。  このように実感しました。  

bragelonne
質問者

お礼

 お粗末でした。ありがとうございます。  さらにヒラメキが得られたらと思います。  わいわいえいとさん ご回答をありがとうございます。  わいわいえいとさんも 常識から何から・つまりえらい人の考えから定説までをうたがってみてください。疑いから けっきょくは 信じると言うかこの世界を信頼するかたちへと突き抜けて行くことが出来ますから。  ふるい思想に むしろあたらしい観点を見い出すこともあるのではあるのですが。

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noname#185634
noname#185634
回答No.24

ブッシュマン社会では狩人が大きな獲物を狩ったらその獲物をこっそり皆の近くに置いておく。そうして過度な賞賛や権威的存在の発生を防いでいる。と、暇と退屈の倫理学って本に載ってた。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  なるほど。  ★ 過度な賞賛や権威的存在の発生を防いでいる。  ☆ 言いかえると カザリとしての言葉や振る舞いをしないということだと理解しました。  スサノヲ市民とアマテラス公民との二階建て構造には しないと。つまり 社会のかたちをです。  《野蛮》とは何かという問題にもなりますね。

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回答No.23

《諸法無我》は、 《sarva-dharma an-atman》 ですか。 「すこし変だな」と思いつつ、 参照した本には、 《sarva-dharma an-atmanah》 とあったので、こっちが正しいのかと思って、 これをそのまま書きましたが。。。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  アートマンは aatman というかたちであるらしいですが。aatmanah という形では 出て来ないようなのですが。

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回答No.22

ちょいと呟き。 一切の苦からの解脱……。 老・病・死苦から、ゴータマさんは解き離れてはいない……。 ゴータマさんは、現に《老い》、《病》にかかり、《病死》している……。 はて、 解脱とは何だろう……。 アートマンを否定してしまうと、  輪廻の主体とは何だ?  自己同一性は説明できるのか? という新たな問題が出てくる……。 といいますか、 仏教で定義されるアートマンがバラモン教でいうアートマンと同じか、という問題も存在している……。 『勝鬘経』では、「如来蔵こそ真のアートマンである。外道のアートマンとは違うんだ!!」といった記述もあります……。 『勝鬘経』は大乗仏典で、ゴータマ直説の教えではないという批判には、 《諸法無我》、あるいは《諸法非我》からの批判が存在しているような……。 この原語は《sarva-dharma anatmanah》であって、 「諸法はアートマンではない」 程度の意味しかない……。 な~んもない、というならば、 三法印の一つでもっとも重要な 《涅槃寂静》はどのように説明ができるのか……。 《涅槃》や《解脱》、《サトリ》はないという意味か……。 「これすら、実は、まやかしなのだ」、と、 ゴータマさんは仰せなのだろうか……。 であるとするならば、 仏教の歴史とは、畢竟、この無いものである《マヤカシ》追求の歴史となりはしまいか……。 まったく、おバカなことをやってきたのであろうか……。 そもそも、 《寂静》と《アートマンがない》と同じ意味なのか、 《寂静》と《無我説》は両立可能なのか……。 はてはて。。。 ただの呟きです。 ネコのたわ言、《問わず語り》です。 Bさんから、以上の反論が予想されます。 回答者の皆さん、頑張ってください!!

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ○ an-aatman :無我・非我  これはけっきょく 《無い神(ア-ブラフマン)》の霊としてのアートマンを《無い霊》としているだけだと思います。  非経験の場として 《経験世界における有無を超えている存在》を 人間が《有る》と言おうが《無い》と言おうが 同じもの(すなわち 神)を言っているに過ぎないと考えます。  ふつうは神と言えば 《有る神》ですが いやいや そんなものは無いという好みを出してそれに従った命名をするのも自由なのだと思います。  かくて 梵我一如に対して 無梵無我一如なる信仰形態となるのだと見ます。類型としては 《非思考の庭》が成っているというかたちで まったく同じだと。  ○ 諸法無我  上記の見方によれば 次のようになると考えます。  ● この経験世界におけるもろもろの事象(諸法)には その基底に根元としての霊=アートマンは 無い。  ● すなわち 経験事象には その基底に《無い霊:アン-アートマン》が先行するかのごとく 横たわっている。  この場合は ひとにやどる霊なるアートマンつまり霊我だけではなく 万物の基底に霊ないし《無い霊》が想定される。と言っているものと見ます。  これは けっきょく経験世界が相対性の領域であって それに対して絶対の場が想定されると言っているにひとしい。それだけのことだと見ます。   ◇ 《寂静》と《アートマンがない》と同じ意味なのか  ☆ 寂静は 涅槃=ニルワーナのことでないとすれば あまり考えて来ませんでした。みなさんからの回答を俟ちます。

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noname#185634
noname#185634
回答No.21

平等な人の例……獲物を均等に分ける人々とか、賞賛しないブッシュマンの人々とか 古代から不平等が増加→憎しみ悲しみ増加→反動で平等思想できた? 釈迦はカースト社会(不平等カルト?)にあって人間の平等(平等カルト?)を説いたとあちこちのサイトに載ってるけど すべて空という平等→平等だと扁桃体やすらぐらしい→心身が楽になる(面白くはない、興奮へる)

bragelonne
質問者

お礼

 きゃん5すとさん ご回答をありがとうございます。  ○ 分配的正義としての平等。 ~~~~~~~~~~~~   また (あ) 幾何学的な量の平等とそして   (い) おのおの心に納得するかたちでの《場所を得て能力の出来るだけ自由な発揮が成し得て その結果をみづからが自由にすすんで負う。しかも 共生にあっては 互いに思いやり助け合う》といった心の落ち着きとしての平等と。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ といったことでしょうか。  ★ 平等な人の例……獲物を均等に分ける人々とか、賞賛しないブッシュマンの人々とか  ☆ 均等な配分は分かりますが 《ブッシュマンにおける〈賞賛しない〉》というのは どういうことでしょうか?  ちなみに ブッシュマンの社会では 戦争が無いというような話を聞きましたが そのこととも関係していましょうか?    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (う) 釈迦はカースト社会(不平等カルト?)にあって人間の平等(平等カルト?)を説いたとあちこちのサイトに載ってるけど  (え) すべて空という平等→平等だと扁桃体やすらぐらしい→心身が楽になる(面白くはない、興奮へる)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この(え)では あたかも絵に画いた餅で腹をふくらませよというようなものですよね。でも いささかの思いはあるということでしょうか。  (う)の不平等な身分制に抗することは 大事なことだと考えます。  だから アン‐アートマン(無我)と打ち出したのだと考えます。  すなわち   ブラフマニズム:梵我一如        梵(ブラフマン)なる神        我(アートマン)なるワタシの心における神の霊   ゴータマ:無梵無我一如        無梵(ア‐ブラフマン):《無い神》        無我(アン‐アートマン):《無い神の無い霊》  と打ち出したのでしょうね。信仰の類型としては まったく同じことだと見ます。ただアートマンを推し出すと 身分制を承認したことになるから せいぜい抵抗を見せたのでしょう。  だけど 《信仰》は 別のものになるわけではない。だから この抵抗は 幼稚なものに終わるはずです。  ○ 平等とは どういう具体的な事態であるか  については ここではいまのところ 保留します。

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noname#195146
noname#195146
回答No.20

>さとりにかんする限り すべては空っぽのことである。  呪縛が解けないようですね。単純に『無い』ということが素直に受け取れなくなっています。  アートマンを取り去れば、そこに何かある。あるいは、アートマンが塞いでいた穴の先に何かが見える。そうではないんですよ。  そもそも、最初から無いものが無くなることはないのです。無いとなったからには、代りに何かある。そうではないんですよ。  せっかく無いものは無いと理解できたのに、その代わりに何か持って来たり、作りだしたりしては元も子もない。あるいは、何を捨てたかをくどくど聞かれても困る。要らないから捨てたわけですから。  後世の人間が、たとえ自称弟子や自称論敵であっても、ゴータマが言いもしないことを、あれこれ想像して作り上げ、褒めたり貶したりしても、詮無いことでしょうね。  ゴータマは何が分かったかは直接は説明できないとして、何も言っていませんから。その後に仏道において悟ったと称する人も説明していない。悟ったと称する状態が、それぞれ同じなのか、異なるかも不明です。  分からないものを分からないまま、何とかしようとしても無益でしょうね。悟ってみたら詰まらないものだった、ということなら、その人には役立つ経験ではあるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ アートマンを取り去れば、そこに何かある。あるいは、アートマンが塞いでいた穴の先に何かが見える。そうではないんですよ。  ☆ そうですよ。そのとおりです。  《アートマン》は モノでもなければ精神の眼に見える観念でもありません。非経験の場としてのナゾの何ものかです。  非経験のものを 《取り去る》ことは叶いません。叶うのは 《観念としてのアートマン》です。それは 《神は死んだ》と言われるような偶像の神のことです。  観念としていだいていたものだと見るから  ★ アートマンが塞いでいた穴  ☆ というふうに捉えざるを得なくなるのです。  アートマンは 人間が 肯定しようが否定しようが けなそうが讃えようが まったく何の影響をも受けません。または 受けるかどうかが 人間には分かりません。それが 神であり ナゾゆえ 霊とも呼びます。  ただし その名を――つまり ヤハヱーならそれ キリストならそれ アッラーフならそれというふうにそれぞれその名を―― わが心の非思考の庭に受け容れるということが起き得ます。それが 信仰の成り立ちです。  つまりは 神は すべて補助線としてあります。そういう言葉が 補助線として持たれています。それだけのことです。  ★ 要らないから捨てたわけですから。  ☆ この表現が――つまり 自己表現が―― 神についての誤解を示しています。《要る・要らない》という人間の側の判断や評価を――むろん そうすることは自由ですが――まったく受けつけません 神は。何ら影響を受けません。ですから 《捨てる・捨てない》というその行為の対象になることはあり得ません。それが 神です。  ★ ゴータマは何が分かったかは直接は説明できないとして、何も言っていませんから。その後に仏道において悟ったと称する人も説明していない。悟ったと称する状態が、それぞれ同じなのか、異なるかも不明です。  ☆ ですから (1) ゴータマ自身が何を言ったかを明らかにすること。出来るだけ明らかにすることがひとつの作業でしょうし。  (2) それは どこかで妥協して あとは 全体として――ゴータマとそのほかの弟子たちや後世のブディストたちを総合した全体として―― では《さとり》とは何であるかを問い求める。  (3) その結果について あらためて ブッダ・ブディズム・さとりとは どういうことなのかを 明らかにして行く。  (4) そうしたあとに――ということは つねに中間の段階での――結論をも出してよい。その問いが いまここでのものです。  (5) 《不明》なら 《どうでもよい》とか《くだらん》とか批評してもよいはずです。  (6) あるいはまた この問いは けっきょくゴータマ自身に問うことは出来ない相談なのですから 現在のブディストの人たちに問うてみる。といったことにも 実際は成っているはずです。それによって案外 ブディズムの研究は 進展しうるでしょう。  ★ 分からないものを分からないまま、何とかしようとしても無益でしょうね。悟ってみたら詰まらないものだった、ということなら、その人には役立つ経験ではあるでしょう。  ☆ こういう憶測は ことここに及んでは 要りません。いま暫定的な自分自身の結論は何か。これを問うています。みなが 中間の結論を述べ合っているのです。  ですから わたしの場合 ゴータマは 世紀のペテン師であると言って これを問うています。  これでも あんがい身の入った議論ができるはずなのです。  

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回答No.19

 宇宙に二面あり。  「精神と物質」  精神と物質に三要素あり。  「情と理と意」(物質にも!)  絶対の大精神に含まれる「情と理と意」の中の「意力」に依って現われる宇宙、その宇宙に内存する情と理。  意力は力。動力。  情を働かせ、理を働かせる。  理のみを使った“解”では前進しない。  両輪であるはずの精神がその場で回転するのみ。  釈尊は凡人の我々と違って、「情」を修行という行為を通して開発し大心霊に没入し、無限、無始を実感した。体感した。  ただ単に凡人がするように“信じた”のではなく、実験(実際の体験)したのだ。  その体験を「理」に依って表す事が出来たのは、釈尊が頭脳明晰だったから。  汚れた心のままで、大精神に没入しようとしても、その周囲の精神を汚してしまい、純粋な真理を観たとは言えない。  だから心を洗わなければならない。    修行、修行、修行。  「理」のみで解ろうとしても徒労に終わる。  だから、私のこの回答?は想像です。  

bragelonne
質問者

お礼

 わいわいえいとさん ご回答をありがとうございます。  ★ 釈尊は凡人の我々と違って、「情」を修行という行為を通して開発し大心霊に没入し、無限、無始を実感した。体感した。  ☆ もうふるいと思いますよ。戦前でも ふるい。縄文時代くらいかな。  ★ 大心霊  ☆ これが 黴が生えています。  《凡人の我々》のほうが よほどまともです。そんな月をつかむような話はしません。  ★ 純粋な真理  ☆ とは 何ですか? おそらくその答えが さとりとは何かの答えになるでしょう。  たとえば   ○ 真理とは ~~~~~~~~~~~~~~  1. むろん 神のことを言っているのですが それを知ると われわれが自由になる。と言われます。  2. 真理は きみたちを自由にする。  3. たとえばそれは――《さとり》としてもよいのですが―― 《真理がすべてにおいてすべてである》状態です。  4. たとえば 真理は 世の因果関係を超えています。したがって あの時その時 ヤツはこれこれの発言をしこれこれの行動を取った。だが それは おかしかった。けれども 真理がすべてにおいてすべてである状態にあるなら わたしたちは そのヤツの心とその思いから動機からすべてが分かるようになる。自分もそしてほかの関係者もまたその場の情況についても 必要なかぎり 分かるようになる。  5. そうなると 一つひとつの出来事が なぜそうなったか どのようにしてマチガイが起きたか等々といったことについて 分かるようになる。  6. それによって わたしたちは 世間と和解することが出来るようになる。ヤツともほかのヤツとの間にも わだかまりが溶ける。  7. わたしは 世界と和解しえて わたし自身とも和解できた。これによって わたしは自由になることを得た。  8. といった事例が考えられます。  9. このような話について 《大心霊》は もうふるいですよ。もっとも そのようにモヤがかかっていたほうが おもしろく楽しいと言うひとがいるかも知れませんが。

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noname#195146
noname#195146
回答No.18

 どうも『無いというものが有る』という迷妄に陥っているようですね。 >《さとり》の中身は 何でしょう?   極論したほうがよさそうですね。『悟り』というものは喩えであって、実は無いのです。無いものを、どこに無いのかと探したり、どのように無いのかと考えるのは徒労ですよ。 >つまり 中身はありますか? という問いです。  無いものに外側も中身もありません。

bragelonne
質問者

お礼

 れいずぃどぐ1さん ご回答をありがとうございます。  そうしますと ゴータマ・ブッダとして伝えられていることは さとりにかんする限り すべては空っぽのことである。となりましょうか。  それでも 伝えられるところによりますと さとりの中身に成っているようなことがらは聞くには聞くのです。たとえば:  ▲ (スッタニパータ 第一 蛇の章 <1、蛇> ~~~~~~~~~~~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  1  蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、≫怒りが起こったのを制する修行者(比丘)≪は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  2  池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、≫すっかり愛欲を断ってしまった修行者≪は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  3  ≫奔り流れる妄執の水流を涸らし尽して余すことのない修行者≪ ・・・  4  ≫激流が弱々しい葦の橋を壊すように、すっかり驕慢を減し尽くした修行者≪  5  ≫無花果の樹の林の中に花を探し求めて得られないように、諸々の生存状態のうちに堅固なものを見いださない修行者≪  6 ≫ 内に怒ることなく、世の栄枯盛衰を超越した修行者≪    ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ といった或る種の規定は みな マヤカシであり マボロシであると。  あるいはむしろ こうでしょうか。つまり   ★ 『悟り』というものは喩えであって、実は無いのです。  ☆ というとき 《タトエ》すらが 嘘っぱちであるのだということでしょうか?  《怒りが起こったのを制し 愛欲を断ってしまったうんぬん》なる或る種の定義は みな タトエであり 《実は何も無い》ということでしょうか?   あるいはひとつの見解を参照するならば  ▲ (ヰキぺ:悟り) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E9%81%93  § 1 各宗教における悟り  § 1.1 仏教  大乗仏教では自分の悟りは他人のさとりを前提に成立するという立場から、六波羅蜜(ろくはらみつ)という利他行を実践する菩薩行(ぼさつぎょう)を強調する。  悟りは固定した状態ではなく、悟りの行は、自利と利他の両面を願って行動し続けることであり、自らの悟りに安住することなく、悟りを求める人々に実践を指導するために活動し続けた釈迦の姿が想定されており、活動していくことに悟りの意味を求めているのが、大乗以降の仏教における菩薩の特徴である。  そして菩薩の悟りは声聞や縁覚と違い、究極最高のものであるとして「阿耨多羅三藐三菩提」「無上正等菩提」、あるいは単に正覚と呼ばれる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これについても 《この上無きただしき知恵》と言うのなら その中身を説明してしかるべきです。  ▲ 悟りは固定した状態ではなく、悟りの行は、自利と利他の両面を願って行動し続けることであり  ☆ というのなら ほかにも宗教とは関係なく 行動する人びとはいくらもいますし いちいち《利他》と名乗るわざをおこなわなくても ふつうに日常生活をいとなむなかで 思いやりから助け合いまでをおこなっています。これらの共生の知恵と どう違うのか。これを説明しなければなりません。  説明できなければ ブディズムないしそのさとりという看板は下ろすべきです。ペテンやイカサマはすべて葬り去るべきです。  そのようにして初めて  ★ 『悟り』というものは喩えであって、実は無いのです。  ☆ と言えましょう。ゴータマ・ブッダよ ブディストよ おごるなかれ!

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  • ゴータマ・ブッダは どう考えてもペテン師である

     《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。  この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。  法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。  ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~   http://fallibilism.web.fc2.com/130.html  シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。  すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。  このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。  (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さとりは 如来でありブッダであり ブッダとはさとりであると言っているようです。  この答えでは おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。  のではないだろうか? 反論をもとめます。  ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。  ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~  長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。   ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《シャ    ーリプトラよ。もう よせ。その訳を説明して 何になろ    う。それは何故かと言えば 神々も世間の人びとも恐    れおののくであろう》とゴータマが答えたので そのワ    ケ)だけでも お話しください。     世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が    幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において    世尊によって成熟させられておりますので かれらは    世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり    ましょう。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか?  中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。  ゆえに とうといのであろうか?  だから 二千年余のあいだわれわれは マボロシを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?

  • ブッダは ブラフマンの掌で暴れまわった孫悟空では?

     ブッダの独自性は何でしょう?  そのむかしアブラハムという人に《信じる》という非思考の場が芽生えました。  神とわたしとの関係がその信じるままであるならば――という意味は 非思考のはたらきとして記憶能力において精神および身体の秩序がととのっているならばということですが そうであるならば―― とうぜんのごとくひとはやわらがしめられている。こころはやすらかである。ひとと仲良くやっていく。  と知りました。  このことは 古代インドでは神をブラフマン(梵)と呼び《わたし》をアートマン(我)と捉えて その両者の一体(つまり 梵我一如)という思想に表わしました。  あるいは同じく神を プラトンでしたかは 世界霊魂(プシュケー・コスムー)と呼びました。ローマ人たちは アニマ・ムンディと訳し換えて使っています。その後ドイツ人らは 同じくヱ゛ルト・ゼーレと言ったりしていました。  ところで ゴータマ・ブッダは 天の邪鬼よろしく 無我(アン‐アートマン)の説を唱えました。(諸法無我)。ほかのものに依存せずみづから成ってあるという存在を――つまり ブラフマニズム(バラモン教)の宇宙霊であるブラフマンのことを言っているのですが これを―― そんなものは無いと言いました。(もしくは 有るとも無いとも言わないと説明しました)。  ですから いわゆる仏性は――あたかも 宇宙霊のブラフマンが 《わたし》としてのアートマンに宿るというそのようなものとわれわれは捉えていると思うのですが その仏性は―― ブッダは説いていません。あくまで後世になって説かれたものです。   ただしそのブッダも あたかもみづからが宇宙霊となって 自分はブッダとして永遠に生き続けており 自由自在に好きなように歴史に即して人間となって現われるのだというようなことを言ったとされています。つまりそのように後世の人びとは 捉えるようになっています。  乱暴にひと言で言ってしまうなら ブッダは ブラフマニズムという思想の中で孫悟空のように飛び回り暴れまわっていたということではないでしょうか。  《成道》を得たブッダに おまえの悟りを人びとに伝えたまえとブラフマンが勧めた(梵天勧請)と自分(ブッダ)では言っていますが 果たして どれだけの独自性があったでしょうか?  (ないと思って言っているわけではないのですが 批判にまわりたいと思っていますし そのことに道理はあると考えています)。  もし仏性という普遍性の定理は別として言えば もはやブディズムは惰性としての仏教しかないのではないでしょうか? 橋から落ちた犬に引導を渡すのは 哲学の役目だと考えます。

  • ゴータマ・ア=ブッダのペテンの証明

     スッタニパータの一節から 次のゴータマ氏の受け答えではまづい。と異議をとなえます。  ▲ (スッタニパータ:<7、学生ウバシーヴァの質問>) ~~~~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  1069  ウバシーヴァさんがたずねた、   「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流をわたることはできません。わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。あまねく見る方よ。」  1070  師(ブッダ)は言われた、   「ウバシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、<なにも存在しない>と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」  1071  ウバシーヴァさんがいった、   「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」  1072  師は答えた、   「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」  1073   「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」  1074  師が答えた、   「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」  1075   「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」  1076  師は答えた、   「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(1)  《論議》は――哲学としてならば――続きます。一般にボディサトワなる者は つねに衆生に説明を成す義務があります。(説教というよりはです)。  (2) 問題は 《ニルワーナ(火が滅びてしまっている状態)――法身? 報身?――》と応身(生身のからだ)とが 人間存在として両立・共存することにあるはずです。人はみなブッダであるなら。この上なくとうとい知恵のさとりを得たというのなら。  (3) 同じことで言えば 《滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない》状態は いま・ここなるワタシの内に――非在として――あるのであって 言わば無限と有限とが両立・共存している。  (4) じじつゴータマは その生身のからだで いまこのことを語っているではないか? それを説明しないのは ペテンである。すでに成道を終えたと言ったあとに このザマでは インチキである。  これを問います。

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。

     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html

  • 仏教における小乗と大乗の違いとは?

    仏教における小乗と大乗の違いとはどのようなものでしょうかという質問です。 釈尊の背中を見ていると、菩提樹下でお悟りを開くまでが小乗で、梵天勧請を受けて、伝道を開始して、弟子を増やし教化する段階が大乗のように見えますが、経典主義の方々には違った見方もあると思います。 回答よろしくお願いします。

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?

  • 乳粥

    牛乳歴史クイズの質問第4弾です。 http://www.zennyuren.or.jp/chisiki/kentei/rekisi_01.htm 上記サイトに、 「お釈迦さまが1杯の乳粥を飲んで悟りを開いたという「乳粥」とは? 」 といふクイズがあります。解説は、かうです。 「『 ヨーグルト 』仏教の開祖釈迦(ゴータマ・シッタルタ)にも、乳をめぐるエピソードが残されています。悟りを開くため出家して山奥で断食苦行をしていた釈迦は、悟りが開けぬまま衰弱したからだで山を下りていきました。その途中、出会ったひとりの乙女スジャータから1杯の乳粥(インドでダヒというヨーグルト)を捧げられます。あまりのおいしさに驚き、その瞬間に悟りを開いたというのです。 」 私は、インドで「キール」と呼ばれる食品だという話は、聞いたことがありますが、「ダヒ」といふヨーグルトだといふ説は初耳です。 「乳粥」は、ほんとうは、何なのですか。