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アインシュタインは本当に相対論者ですか?
彼の相対論を読むと、「静止系」とか「運動系」という言葉が ふんだんに出てきます。 それっておかしくないですか? 「自分は止まって相手が動いている」では、天動説の蒸し返しの ように思うのですが・・・
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悲慣性系の話をしだした? 私が何を言おうとしているか、どうもよく理解されていないようです。 もういちど、私の質問をよく読んでください。 私の言いたいことは、あなた方の尊敬する?アインシュタイン自らの 思想の根本が、「天動説」にあることを示したかったし、 それを貴方の口から証明できたと言うことです。 何度も言いますが、自分が止まって相手が動いていると、 安易に考えるから、「天動説」から抜け出せなかったのです。 自分のほうが動いているかも、と常に用心して考えること、 それがアリストテレス学派に陥らない第一歩なのです。 それがガリレオの思想、つまりガリレオの相対論の根本なのです。 いまでこそ、地動説は小学生にも理解されていますが (本当に理解しているかどうかは、疑わしいですが) ガリレオが何度言っても「地球のほうが動いている」ことを 理解できなかったその根本の話をしています。 貴方が橋の上から水の流れをじいっと見つめているとします。 すると、自分のほうが動いているように錯覚?します。 でも、錯覚でも何でもありません。 自分のほうが動いているとしても、物理的に間違いではないのです。 また、信号待ちしていて、周りの車がいっせいに少しずつ動き出すと、 と自分が後ろに下がっている気がして、思わずブレーキを 強く踏んでしまうことが良くあります。 このように、相対速度を生じたとき、観測者のほうが動いている、 そういう観点を常に持つことが肝心なのです。 アインシュタインのように「観測者が止まって剛体が動いている」一辺倒では 天動説なのです。 剛体が止まって観測者のほうが動いている場合も同様に想定し、 論理を展開するのが真の相対論です。 いや、もっと言うと、相対速度の半分が相手が動いて 残りの半分は自分が動いている、 いやいや、3割相手が動いて、残りの7割が自分の方が動いている、 そう仮定しても、その全てを満たすのが真の相対論です。 観測者が止まって、光源が動いていると仮定すると、「光速不変」は 受け入れやすくなります。 音の場合と同じ現象ですから。 ですが、光源が止まって観測者のほうが動いていると想定すると 「光速不変」は受け入れがたくなります。