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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《永劫回帰》なる阿呆な考えについて)

永劫回帰についての批判とは?

NemurinekoNyaの回答

回答No.5

こんにちはです。 ~~~~~~  ☆ これは 時空間に見とめられるものが循環していることを言っているのですよね。季節が巡りくる。木々が芽を出し葉っぱが成り実を成らせ花を咲かせることを繰り返している。組織や社会制度についても 破壊と創造などとも言います。  これらの《背景》は 永劫回帰の内容とは別ですよね? ~~~~~~ と言うよりも、バラモン教やヒンズー教の場合は宇宙の周期説ですよ。物理学の宇宙論で言うと、Cyclic宇宙論と呼ばれるタイプのものです。そして、仏教のそれは、さらに悲劇的なシナリオを描き、現代の宇宙論の宇宙終焉のシナリオに近いです。  生劫:ビッグバーン、四つの力の分離、物質を構成する(素)粒子の誕生。物質の生成  住劫:宇宙、物質の安定期  壊劫:陽子崩壊、ブラックホールの蒸発、ビッグリップなどによる、物質を構成する(素)粒子の消滅  空劫:宇宙の熱的死、big chillやbig freeze。ただ虚ろな空間、虚空のみが存在する期間 と考えると、分かりやすいのではないでしょうか。 サイクリック宇宙 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E5%AE%87%E5%AE%99%E8%AB%96 宇宙の終焉 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%81%AE%E7%B5%82%E7%84%89 ビッグリップ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97 宇宙には、宇宙を膨張させるダークエネルギーに打ち勝つだけの質量、つまり重力がない。陽子崩壊やビッグリップが起きる宇宙年齢においては、物質を構成する素粒子は存在せず、宇宙には光やわずかな素粒子のみを残し、ただ冷たい宇宙空間だけが残る。仏教で言う空劫はこのイメージに近いようですね。 そして、バラモン教やヒンズー教のカリ・ユガとも、まったく違うようです。そんなに楽観的なものではない。 カリ・ユガ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%82%AC 仏教でも、長い空劫の期間をへた後、バラモン教やヒンズー教と同じく、宇宙は再生しますけれども、M理論でいうところのMプレーン間の衝突、多元宇宙の衝突によって、ビッグバーン現象が起きるんでしょう(笑い)。 物理学もこの辺になると、もうおとぎ話の世界です。神話と何も変わりはしない荒唐無稽の世界です(笑い)。 このサイトで有名人のpさんは、きっと得意ですよ、この手の話。わたくし、眠り猫は、物理学の《ひも理論》やその発展形の《M理論》をまったく信じていないので、ダメですね。 仏教の四劫説についておもしろいサイトを見つけたので、紹介します。 http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/hokai.htm ~~~~~  ★ ワーグナーの大作「ニーベルングの指輪」では、神々は最終戦争で全て死に絶えてしまう。ラグナロク・神々の黄昏。そこから、人間の歴史が始まる。  ☆ という発想とも違うように考えられます。 ~~~~~ 神々の黄昏・ラグナロクは洒落ですよ。でも、ニーチェがワーグナーの音楽と哲学(?)に大きな影響を受けたのは事実ですよね。そして、のちに、ワーグナーの作品の中に伝統的キリスト教の腐臭を感じ取り、ワーグナーと訣別する。 ワーグナーの作品のテーマは、結局のところ、《愛による救済》や《自己犠牲》なんでね。ニーチェが言う《ルサンチマン》そのものでしょう。ニーチェが目指していたのは、古文献学者らしく、ギリシア精神、特にディオニソス的精神の復活。ニーチェは、それをワーグナー作品の中に見出したつもりだったけれども、アテが外れた。ワーグナーに裏切られた。 ヒトラーやナチスは、ニーチェのこの思想を利用した。 ちょっとその線を出したかったので、あえて、ワーグナーに言及してみました。 なのですが、個人的には、ワーグナー、ニーチェ、ヒトラー・ナチスというのは、当時のヨーロッパのケルティック・リバイバルの思想的潮流の中にあると考えています。 ~~~~~~  質問者としては ニーチェは内容がニヒル(ゼロ)だという見方に立ちます。  ねむりねこさんは 多少は評価しておられましょうか。 ~~~~~~ 眠り猫は、ニーチェをまったく評価していません。 独創的な思想家ではあったかもしれませんが、哲学者だとは思っていません。 そして、皮肉屋としてなら、《悪魔の辞典》の著者A.ピアスの方が数段上でしょう。そして、ニーチェよりも、示唆に富んでおり核心をついている(笑い)。 ~~~~~~  ☆ このときわたしは そもそも 《円環運動》がどうした? とまづ問い返す口です。 ~~~~~~ 理系人・眠り猫は、そもそも出発点である《円環運動》自体を否定します。 かりにCyclic宇宙が存在したとしても、まったく同じ事象は決して起きない。これは量子力学的要請です。世界はそれほど単純なものではない、と考えますね。 ~~~~~  命題(あ)によれば 《同じものの繰り返し》だと言います。  (い)によれば 《超人的な意思によって》そのような繰り返しを確立すると言っています。アホかと言いたくなります。  (う)《「およそ到達しうる最高の肯定の形式」》なんだそうです。  この解説者としてのヰキぺ氏にしても ほんとうに本気でこんなふに受け留めて言っているのだろうか? これが 質問の趣旨です。 ~~~~~~ わたしには、ニーチェの《永劫回帰説》を信じること、これこそ《狂気の世界》だと思えますね。Wikipediaのこの項目の執筆者も信じてはいないのではないでしょうか。信じているとしたら、物理学をあまりに知らなすぎると思います。 ~~~~~  たとえば ピカソ。  むろんさまざまな見方があると言わねばならないのですが それでもピカソには美を感じないという声が この okwave でも満ち満ちているとさえ 一度調べて分かったものですから引き合いに出しますが ただ有名なだけ。これに尽きると思うという問いです。 ~~~~~ でしょう。ニーチェの《神の死亡宣告》が刺激的だから、誰もが、特に無神論者がニーチェに注目する。無神論の根拠の一つとして、ニーチェを引き合いにだす。それ以上でも、それ以下でもないのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。もう一度かかげますが:  ▲(あ) (ヰキぺ) 同じものの永劫回帰(Ewige Wiederkunft des Gleichen)  ▲(い) 経験が一回限り繰り返されるという世界観ではなく、超人的な意思によってある瞬間とまったく同じ瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことを確立するという思想である。  ▲(う) ニーチェは『この人を見よ』で、永劫回帰を「およそ到達しうる最高の肯定の形式」と述べている。  というように《同じものが繰り返す》ということと 《人間の意思によってその繰り返しが 実際に確立する》ということ。この二点において:  ★ バラモン教やヒンズー教の場合は宇宙の周期説 / カリ・ユガ  ★ 仏教で言うと、成・住・壊・空劫の四劫説  ★ サイクリック宇宙 / 宇宙の終焉 / ビッグリップ  ☆ これらの説は その背景になったとしても 永劫回帰の内容そのものではない。と言えると思います。    ~~~~~~~    あとで 次のような判断が下されていました。    ★ 理系人・眠り猫は、そもそも出発点である《円環運動》     自体を否定します。      かりにCyclic宇宙が存在したとしても、まったく同じ     事象は決して起きない。これは量子力学的要請です。     世界はそれほど単純なものではない、と考えますね。    ~~~~~~~~~  ★ ニーチェが目指していたのは、古文献学者らしく、ギリシア精神、特にディオニソス的精神の復活。  ☆ このことは 一方で  ★ ワーグナーの作品のテーマは、結局のところ、《愛による救済》や《自己犠牲》なんでね。・・・ ちょっとその線を出したかったので、あえて、ワーグナーに言及してみました。  ☆ との関連で 取り上げられておられるようですが 他方で  ★ ヒトラーやナチスは、ニーチェのこの思想を利用した。  ☆ と言って 取り上げるに値しないと言っておられるようにも思うのですが いまひとつあいまいなように感じます。というのも さらに  ★ なのですが、個人的には、ワーグナー、ニーチェ、ヒトラー・ナチスというのは、当時のヨーロッパのケルティック・リバイバルの思想的潮流の中にあると考えています。   ☆ というかたちで触れているということは どういう意図なのか? です。  ニーチェの《ディオニソス的精神の復活》の提唱は 意義があるという見方でしょうか?  これにかんしては 次のようにわたしは考えます。  結論としては ひとりディオニュソスを取り上げたところで 意味はない。です。  ○ アポローンとディオニュソス ~~~~~~~~~  まづ ふつうに人間がいます。その最小限の条件は 《人は死ぬ》ということ・《人間は時間的な存在である》ということ これを自覚していることとします。(寄り憑くアニミズムやそのトランス状態から何らかの現状打開のための指針を見い出して来るシャーマニズムを ともかく抜け出たという意味です)。  これを スサノヲ市民と名づけます。  その言葉すなわちスサノヲ人間語は 時間的な存在として・つまり有限な思考において あやまちうるということをひとつの特徴としています。  これに対して あやまちうる傾向を出来るだけ無くそうと理性をはたらかせ その或る程度の成果を得ている場合が アマテラス公民です。  その成果は 倫理を究めようとするアマテラス人格語と知識を究めようとするアマテラス科学語です。  ということは アマテラス語は スサノヲ人間語の中から芽を出し幹が育ち 花を咲かせ実を成らせる。であるはずです。人間存在を離れて 人格の陶冶や科学の探究をいとなむとも思えません。  かくて 人間は 《スサノヲ人間語(基礎かつ主導)‐アマテラス人格語および科学語(補助手段)》なる連関構造を持ち それらの言葉を用いて主体的にしかも社会において行為して生きる存在である。  ディオニュソスは スサノヲの《あやまちうるクセに入り浸る――たとえば アニミズムに回帰しようとするような――あやしい動き》を大きく取り上げたその状態を言うように思われる。  アポロンは たしかに人格語にしろ科学語にしろ そのアマテラス語の明るいところ・じんるいにとっての成果だと見なされるようなところ これを大きく取り立てた状態を言うのかも知れない。  でもアポローンも その出自は あの明晰なるギリシャにとって異邦人であった。母親のレート-は アナトリヤ出身。双子の姉のアルテミスは エジプトかどこかの出。アポローンは 生まれた間もなく 琥珀の道を北へ向かったとも言います。凍河エーリダノスの北の国へ。そのあと 苦労して デルポイの神殿を奪い取った(?)ような。  ひとりの人間スサノヲは 存在の全体をあらわす包括概念でありえます。  その中身として 《スサノヲ‐アマテラス》なる区分を持つ。スサノヲ市民の中にこれを持つ。   《身体‐精神》。《感性‐理性》。《市民‐公民》。   《アマテラス人格語および科学語をつつみこむスサノヲ人間語》  アポローンは 存在全体としての人間スサノヲとしてもよいかも。  ディオニュソスは スサノヲのみだれ・アマテラスの腐りを表わしているかも。  ~~~~~~~~~~~  ★ ニーチェの《神の死亡宣告》が刺激的だから、誰もが、特に無神論者がニーチェに注目する。無神論の根拠の一つとして、ニーチェを引き合いにだす。それ以上でも、それ以下でもないのではないでしょうか。  ☆ キリストなる神は 人びとの心に復活したかも知れないけれど イエスは死んでいるのですが それをわざわざ何度も言わねばならなかったのでしょうか?  しかも 無神論とて 信仰の形態のひとつです。人の頭の中の・あるいは想像の産物としての《観念の神》は それを持った時点で死んでいます。それをわざわざ神は死んだと言わねばならなかった。としたら よほど人びとの・あるいは自分のあたまの中には 神なる観念が《生きていた》のでしょうか?  という総括をしえないで ニーチェに注目するというのも 気が知れません。何にも得るものが そこには ありません。  ニーチェへの注目者は けっきょくニーチェと同じあたまの構造だったのではないでしょうか?  想像の産物としての神が死んだと宣言しても・また堅く思っていたとしても 何の得るものもない。こう考えますが いかがでしょう?  神は 人間のことばでころされようが けなされ ののしられようが 痛くも痒くもありません。

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