仏様に人格はあるのか?

このQ&Aのポイント
  • 仏教の思想に触れる中で、仏様の人格について疑問が湧いています。
  • 仏教では、自己の執着心を捨て、無の世界観に到達することが重要とされます。
  • また、一切衆生悉有仏性により、だれでも仏様になれる可能性があるとされますが、仏様には人格があるのでしょうか?
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仏様に人格はあるか

独学で仏教の思想をかじっているものです。これまで読んだ本の知識では、己の執着心を捨て、自分内面へと掘り下げていくと、そこは無の世界観であり、混沌とした、増減しないエネルギーの宇宙の下、縁起により、絶えざる変化の結果として生まれた形(色)が顕現するだけの無秩序に向かう思想と理解してます。また、一切衆生悉有仏性により、だれでも仏様になれる可能性を有しており、修行して努力すれば、真の自己にいたり仏様になれるという理解です。このように、修行して慈悲(悟った人が悟りを求めぬ人に悟りを求めさす)ことが出来る覚者となった仏様の人格(道徳的行為を持った主体としての個人)をどう考えればいいのかが分からなくなります。空の世界観では、自性(単独で自立した主体)はないとのことで、仏様は人格はないのでしょうか?間違った理解のためにかなり混乱しているかもしれませんが、かなり仏教にお詳しい方がたくさんいらしゃるようなので、回答をお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.9

 こんばんは。  ★ 修行して慈悲(悟った人が悟りを求めぬ人に悟りを求めさす)ことが出来る覚者となった仏様の人格(道徳的行為を持った主体としての個人)をどう考えればいいのかが分からなくなります。  ☆ まづ  ★ 慈悲(悟った人が悟りを求めぬ人に悟りを求めさす)  ★ 仏様の人格(道徳的行為を持った主体としての個人)  これらが あいまいな理解だと考えます。  慈悲については   【Q:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5764972.html  を参照してみてください。《無縁慈悲》は われわれがそれぞれ仏性をやどす姿のままで 他人(ひと)に世界との和解を得させる・または得るきっかけをあたえることだと考えます。  ですから 《サトリを得させる・求めさせる》というのは 慈悲ではなく 単なる《執着心》だと見ます。《無明》とも言います。  それと同じように 《道徳を守るべき規範とすること。また人間としての自分の努力によってその規範を守ろうとすること》は ブッダであることではなく ただのやはり執着心です。ブッダであるなら 慈悲の場合と同じように・もしくは慈悲そのこととして そのままの姿や振る舞いで人を感化することが出来ることを言います。  《道徳堅固であろうとする》という《執着心》は 無明から来ています。執着心から自由になれないとあせるとき 特に問題となるのは 《人にむかって 道徳を知れ・守れと説教すること》です。無明=すなわち煩悩そのものの振る舞いです。  おのれの身と心にそなわった仏性を受け留めず それを離れて おのれの理性と努力とによって《ブッダ》の像をえがきこの観念としてのブッダ像に執着しつつ血迷っているすがただと考えます。  そういう人に限って 《無私》を説教しにかかります。自分は 無私でありえなくなったすがたです。    ★ 己の執着心を捨て、自分内面へと掘り下げていくと、そこは無の世界観であり、混沌とした、増減しないエネルギーの宇宙の下、縁起により、絶えざる変化の結果として生まれた形(色)が顕現するだけの無秩序に向かう思想と理解してます。  ☆ つまり 《執着心を捨てる》ことを考えるのは 執着心に囚われているからだと考えます。おのれの身と心に仏性のやどることを知らない・受け留めても受け容れてもいないことだと見られます。  かんたんですが このように執着心から自由になるなら 《無秩序に》ではなく むろん秩序に向かうように成りましょう。むろん いまの人間としてです。  その道をあゆむ上での完成度合いは みなどんぐりの背比べなのですから 心配要りません。どれだけブッダになったかに執着することはありません。

amenhotep2000
質問者

お礼

仏教の奥深さを感じます。いろいろな書物を読まれたことと思いますが、そのような覚者された方の考えを簡単にわかりやすく教えていただき感謝いたしております。仏生=慈悲という考えでよろしいでしょうか?ブッダであるなら 慈悲の場合と同じように・もしくは慈悲そのこととして そのままの姿や振る舞いで人を感化することが出来ることを言います。という言葉に「人格」という言葉を超越した、とらわれのない(執着がない)自由さを感じます。ベストアンサーとさせていただきたいのですが、まだ、お礼を書いていない方の回答があるので、お待ちください。お礼を書くことぐらいがせめてもの私の感謝の気持ちです。

その他の回答 (12)

回答No.2

どこの仏教の話でしょうか? 地域と年代で土地ごとの特色がありますから… >修行して努力すれば、真の自己にいたり仏様になれるという理解です。 日本では修行などしなくても死ねば仏になれますよ?(浄土に行けるって意味ですが)

amenhotep2000
質問者

お礼

やはり仏教は流派が分かれて、経典が違ったりするのでしょうか?禅問答というものにならないようにしたいです。回答ありがとうございます。

  • jamamono2
  • ベストアンサー率25% (117/463)
回答No.1

質問者様が其処まで読まれたと仰るなら簡単です。 答えは釈尊の出世のほんかいたる1部8巻28本69384文字の法華経…、中でも方便品第二と寿量品第十六を徹底的に読みきって見て下さいませ。 仏とは何か?が必ず解りますから…、 無量義経とくぎょう品にも仏とは…として書かれてます。御参考に…。

amenhotep2000
質問者

お礼

そのようなものがあるのですか。私がもう少し若ければトライしたかもしれませんが、なにしろ遅読で、細かいことまでこだわりすぎるので、このようなくだらないかもしれない疑問が湧いてきます。今、読んでいる入門書を読み終えるのためのヒントが欲しくて投稿してます。これも執着という煩悩でしょうか?この経典も三蔵法師がシルクロードを伝って、インドから中国にもたらしたのでしょうか?とてつもない超人ですね。私は堕落しすぎか?

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