イエスがなぜキリストか。

このQ&Aのポイント
  • イエスがキリストであるということは宗教が揚棄されることであり、キリストのキの字も言わないで済むようになることである。
  • イエスが渇いた者に水を飲ませるだけではなく、その人の内から水が湧き出るようにさせることを示している。
  • この結果起こる世界のすべての宗教の解体については、日本人がもっともよく成し得ることではないか。
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イエスが なぜキリストか。

 イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。ぎゃくに言うと なぜこのコトに一般にクリスチャンは注目しないのか? と問います。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?  問い求めます。ご教授ください。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.13

たとえ自分の顔を恵んであげましても、 アンパンマンはヂャム叔父(伯父)さんから新しい顔を提供して貰えますので、 其の再生可能性への卑怯な甘えをアンパンマンは継続しています。 でも、修復の度量の酷くきな格差こそ有れ、 我々は自己修復の為の水に身を浸させて頂いていて、 それを疑わずに受け入れていけば宜しいのですね。 http://www.openpne.jp/pne-downloads/mobile_ip_list/

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  えらそうに申すならば まだこれまでの蓄積からお応えしうる。というところではあります。  ★ それを疑わずに受け入れていけば  ☆ 《うたがう》ところから 何ごとも進展があります。大いにうたがいましょう。  うたがったからと言って キリストの神のバチが当たるなどということはありません。カカワリを持ったと思うゆえに うたがいもするのですから。むしろ神はよろこんでいましょう。  ★ 受け容れる  ☆ これも じつは はねのけてもかまいません。カカワリを持つことが大事なのだと思います。無関心ではいけないという意味です。  神に対してツッコミを入れたり このバカタレとののしってもかまいません。それ相応の気持ちや意味があるからこそそうするのですから。つまり神のよろこぶところです。  すこしくそまじめに行きます。  ▲ (新約聖書・ヘブル書8:7-13) ~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 《不義を赦し 罪をもう思い出さない》し 《おれのことを知れと言っておしえる必要もない》と言っています。ユダヤがどう 日本はこうといった違いもありません。    前回わたしはアンパンマンについてひどくけなしましたが 考えてみれば アンパンマンのジャムおじさんへのアマエは あたかも見えざるおじさんとして――つまり非経験の場として――あると思えば それは聖なるアマエでありましょうから 泉のごとく水が湧き出ることにつながる。と言っていい。のでしょうか どうでしょうか?    うたがいを大いに差し挟み しかも手放しで受け容れましょう。

その他の回答 (72)

回答No.63

教儀・教祖は特定の宗教へのログインパスワードなのでしょうか? http://okwave.jp/qa/q7674521.html

bragelonne
質問者

お礼

 つづきです。  ★ 宗教  ☆ は どうでもよいものです。  その意味をきちんと表わすために言えば くそくらえです。

回答No.62
bragelonne
質問者

お礼

ご回答をいただきました。  ★ 無教儀  ☆ ではありません。  教義がある・ないというのは あくまで思考の緑野という次元です。  オシエも 思考の対象ですし それがある場合も ない場合も 経験世界での出来ごとです。  ところが 《非思考の庭》は 思考に非ずです。強いて言えば ヒラメキです。  〔非経験の場=〕非思考の庭―――思考の緑野・感性の田園・知性の都会・・・

回答No.61

非思考の庭では、個人情報から解放され続け得るのですね。 http://okwave.jp/qa/q7672857.html http://www.atmarkit.co.jp/fwin2k/network/baswinlan022/baswinlan022_01.html

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ちがいます。  ○ 非思考の庭つまりわが内なる心と 精神の緑野(および密林)とも言うべき思考の分野(あるいは要するにそこから外に出て社会なる平原)とは 場がちがいます。  ★ 個人情報から解放され  ☆ るというのは 自分の個人情報が他者に知られないで守られるという意味でしょうか? それだとしますと そのことと(つまり 思考の緑野の次元)と わが心なる《非思考の庭》とは 《わたし》というにんげん存在においてつながっていますが 次元は別です。  非思考の庭は 思考に非ずなのですから その庭においてたとえば《個人情報が守られる》といった思考次元の事柄は――つながっている・もしくは連絡がとれるようになっていましょうが―― やはり別です。意志ないしその行為として 別です。  早い話が 非思考の庭における祈りと願いが 思考の緑野かつ行動の分野で叶ったというばあいがあるとします。  そういうときには すでに《非思考の庭》がわが心に成っているということそのことを ありがたいと思っていればよいのだと考えます。  そのめぐみが まわりのほかの人びとにもあまねく泉のごとく湧いてくるようにと祈りましょう。

回答No.60

教儀の内容を思考して振る舞う段階に執着していますと、 無量寿光のウォーターサーバーからの水を活用し難くなるのですね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9E%9A%E8%B5%B7%E8%AB%8B%E6%96%87

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  No.53お礼欄に掲げました《ヒラメキの位置づけ または ロゴスの階層》 これをごらんください。  というのも    非経験の場・・・《わたし》:非思考の庭 / ヒラメキ / コギト(思考の緑野)  この或る意味で言えば階層秩序は なかなか微妙な連絡関係になっていると考えられるからです。把握しがたいところがあるかも知れません。  ★ 教儀の内容を思考して振る舞う段階  ☆ これは あきからに《コギト:思考の緑野》であり またその野原かつ密林かつ田園かつ都会における社会生活を言います。オシエがコギトの段階なのは あきらかです。  ★ 無量寿光のウォーターサーバー  ☆ 無量寿光は 《非経験の場》のことです。それを言い換えたものです。  その要するに神が 《ヲータサーバ》であると見ることも出来ましょうし あるいはいわゆる《霊(聖霊なる神)》として そのサーバからすでに《人間なるわたし》のところに来ている(やどっている)という見方も出来るかも知れません。  ★ ウォーターサーバーからの水を活用  ☆ これは 祈りと願いとともに ただしげんみつに言えば あくまでサーバのほうからの《めぐみ》としてもたらされるものです。  学問や思いやりとしての光ないし水は にんげんの能力と努力とでもたらされ得ますが みづからがともしびとなり 泉となることは にんげんのチカラでは無理だと捉えられます。(そのわけは これも 無根拠です。無根拠において そう捉えます)。  (言いかえると 赤子の《聖なるアマエ》であったり 成人してからの《立ち帰り》としての《きよらかなおそれ》であったりするものです。つまり 《非思考の庭》なる動態のことです)。  しかも《その水を活用する》ことは すでに《思考の緑野(密林・野原・田園・都会)》という段階ないし舞台におけることがらです。   ▲ (ヰキぺ:一枚起請文) ~~~~~~  唐土(もろこし)我朝(わがちょう)に  ( a ) もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。  又  ( b ) 学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。  ( c ) ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、 うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細(しさい)候(そうら)わず。  ・・・  ~~~~~~~~~~~  ☆ この法然の文章に沿って考えるなら ( a )の《智恵あるいは愛情や思いやり》や( b )の《学問ないし科学の成果》は にんげんの能力と努力のたまものです。  法然が 念仏はそうではないと言っていることは たしかに  ★ 教儀の内容を思考して振る舞う段階に執着してい  ☆ ることではないと言ったかたちです。  そうして あとは法然と親鸞との違いがあります。  法然は ( c )のように《念仏をして極楽往生する。つまり念仏をつうじてあたかもヲータサーバからの水をあたえられる》と言ったかたちのようですが 親鸞は まるきり違います。  称名念仏は 《非行非善なり》と言います。  行に非ず。すなわち 念仏行をつうじて往生するのだとは見ないと言います。  善に非ず。すなわち 善行をおこなうことによって極楽の水が このいま・ここなる《わたし》に湧き出るのだとも言わない。  それは 《ハカラヒ無き》ことでなくてはいけないとも言いますし 言ってみれば アミターバは無根拠だと言ったことになります。  無根拠に 聖なるアマエをいだく。無根拠に対して きよらかなおそれを持つ。そのとき 口をついて アミターバへの帰命(南無)のことが出て来ると。それだけのことだと。  つまりは 《非思考の庭》なる動態なのだと捉えられます。

回答No.59

『無宗教だ』と語って特定の団体への所属を否定し乍も、 我々日本人達の多くは東洋医学的なエネルギーの存在を受け入れていますので、 安易に基督教等への入信を訴えたがる民族よりも我々日本人の方が、 遥かに『非経験の庭』に触れ合えているのでしょうね。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1335597103

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 我々日本人の方が、遥かに『非経験の庭』に触れ合えているのでしょうね。  ☆ ひとつに 民族ごとに分けて 信仰のあり方について判断をくだすのは――わたしも趣旨説明の(β)の最後のところでそれらしきことをやっていますが―― 慎重でなくてはならないと考えます。  ひとつに 《非経験の場》をわが心に受け容れたとき成る《非思考の庭》は あくまで個人ごとの出来ごとであり 主観の問題です。これが 信仰です。  ひとつに (β)の最後で  ☆☆(趣旨説明欄) おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  ☆ と言っているのは 《唯一神についての信仰》が 文章化されたオシエとして受け取られそれによって取って代わられ挙句の果てに《観念の神を思い描く信念や信条 そしてそれによって展開される文化や教養》となってしまっている状態と情況としては 日本人の社会ではそれほどつよくない。この事由によります。  これら三つのことがらについてぎゃくの角度から言えば 心が《非経験の場》にしづかに・はげしく接しているのは 誰でも同じです。例外はありません。あとは その人と《とき》とによります。  ★ 基督教  ☆ これが 非思考の庭としての信仰ではなく オシエとしての宗教であり信念・文化・教養のたぐいのことです。

回答No.58

勿論乍ら、55の野蛮な個人主義は西洋人達の精神的態度を指しています。 つまり、特定の教儀に個人主義が同調しますと、『ルサンチマン』型の排除が…。 http://okwave.jp/qa/q7668799.html

bragelonne
質問者

お礼

 ご投稿をありがとうございます。  西洋は 西欧とアメリカとを分けて 或る程度考えを述べたおぼえがありますが。

回答No.57

#53の投稿は#50の内容への解説ですが、 引用先のページの意味を理解なさっていますか? (動作主の行為が及ぶ相手への…)

bragelonne
質問者

お礼

 そのようにおっしゃるということは わたしの理解が そちらの理解どおりには到っていないということなのでしょう。  ですから わたしは自分の見解を述べています。  それについての批判は と言いますか つねにわたしは批判に開かれています。批判を受けるためにこそ こうして設問しているのですから。  理解が行き届かないのは 致し方ありません。  その労を取ってくださるかどうかだと思います。

回答No.56
bragelonne
質問者

お礼

 われわれ――というのは 誰を言うのかを措いておきますが――は この世の屑でありゴミですよ。  その程度に笑いものになることくらいでは おどろきません。  この世の不平や不満に苦悩や揉め事 これらをいだいた人びとの意識による排泄をすべてアース役となり再生処理工場となって処理しています。  イエスの下請けですけれどね。

回答No.55

組織への依存が無自覚の裡に其処への責任転嫁を促し得ますので、 野蛮な個人主義が蔓延り、。 http://ja.wikipedia.org/wiki/MARS%E6%8A%95%E8%B3%87 因みに、出馬予定は?

bragelonne
質問者

お礼

 つづきです。  ★ 野蛮な個人主義  ☆ これについては 直接に《イエスが なぜキリストか》の問いとはかかわりません。  それと 日本人のあいだでは 《個人ないし個人主義》は――ないとは見ませんが―― きわめてまれだと考えす。  およそたとえば神輿の上に載せられ担がれるかたちで その神輿の上のひとりの個人が やがてワンマンぶりを発揮すれば 《野蛮な個人主義》に見えるというほどのことでしょう。  われわれは 三度の飯よりも 群れたがります。  群れによる出馬はありません。

回答No.54

宗教団体への加入に限らず、何らかの組織への依存が心の支えになっている、 という錯覚を覚えますと、他者達にも其の感覚を共有してほしくなりやすくて、 其のせいで、不毛な派閥化が…。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%BE%E9%96%A5 http://www.youtube.com/watch?v=42mEPHh0__s

bragelonne
質問者

お礼

 つづきます。  そうですね。わたしの考えでは 組織を 宗教組織とそうでないものとのふたつに明確に分けます。  宗教組織は あくまで個人の良心・信教の自由として成り立っているものであるにもかかわらずその意志ないし心をも基礎として 人が複数あつまります。つまり信仰の度合いが そこに参加する人びとの評価の基準にさえされてしまいます。  そうされても 内面がどうにかなるわけではないのですが――精神が 外からのまた他者からのチカラによってどうにかされてしまうということは ほんとうにはないのですが ただし社会的な位置づけやら身分関係やらとして外形的には大いに影響を受けざるを得なくなります―― けっきょく良心・信教の自由を踏みにじるおそれが出て来ます。  その問題を問うています。  言いかえると 宗教組織におけるヒエラルキアから来る動きづらさやそこでの派閥関係と そうではない一般の組織における派閥の力学とは 基本的に違う。こう考えます。後者の場合には 表現の自由にもとづき 互いに意見をたたかわせればよいと――理論上は―― 考えられます。

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     1. アブラム(のちのアブラハム)という人は 或る日 すでに七十歳をすぎているのに 神から――あたかもお告げがあるかのように――      故郷の地を去って 行きなさい。  と言われ そのようにしました。行き先も告げられずに。  2. その子孫としてモーセという男は その神に名を尋ねたとき      《わたしはある》 それが わたしである。     (エフィエー アシェル エフィエー.)  という答えを得たと言います。    3. 伝えによると ダヰデという人は      きょう わたしは おまえを生んだ。  という言葉を その神から聞いたそうです。すでに父母からは生まれているんですけれどねぇ。    4. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に発展しました。     これは主がわたしに油を注いで      貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね      わたしを遣わして心の傷める者をいやし      捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。                  (『イザヤ書』61:1-3)  5. その後 さらに時は飛んで イエスという人が出たと言うわけです。  6. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。         すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ     る箇所が目に留まった。       主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。       主がわたしを遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え        捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。》                   (つまり『イザヤ書』61:1-2)     イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと     は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは        ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに        実現した。     と話し始めた。         (ルカ福音4:17-21)  7. 《神と人間――おのおの我れ――とのカカハリ》が――人間の言葉による表現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。  8. ひと言で言って 《存在》――《わたしは ある》――をめぐる理論の問題である。そしてこれで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  9. さらにその後 イエスは この存在論の実証をしたと伝えにはあるようです。  10. 十字架上において はりつけになるというコトを みづから欲して そのとおりになったことにおいてだと言います。  11. 生前には かれがユダヤ当局に捕らわれたとき かれを見捨てて逃げた弟子たちも その死後においては かれは 神であったと言い始めたそうです。じっさいイエスは 自分が神だと言っていた。  12. もしかれが 神ではなくただ人間であるだけであったとすれば そのような存在論の実証は もし信念の強い殊勝な人がいれば その限りで誰でも出来ると思われたでしょう。ようやったな 弱い人びとにとって必要があれば また誰かあとに続くだろうとうわさして おしまいである。  13. 存在論は 実証が《完成》していないことになります。アブラハムやモーセらは 自分たちからイザヤらにつらなった存在論の系譜とその言わば悲願は さらに 別の人によって実現するのを待つということになります。  14. もしイエスが 人間ではなく仮りに神であるだけだったとすれば そのままそれは 《うそ》ですから 張り付けの十字架から降りて行って 奇蹟を起こしたということに話は成るのかも分かりません。神のやることはおれたち人間には関係ねえよで おしまいとなります。  15. 父ヨハネと母マリアから生まれた人間であると同時に 聖霊によって身ごもった子つまりキリストと呼ばれる神の子でありみづからも神であると言うというところに その歴史的な一大事件としての《虚構》があり どうもそこで存在論を実証したのではないか。とうわさされているのかも分かりません。  16. アブラハムから始まった神の信仰は 一たんキリストの登場を俟つというかたちのキリスト史観として承け継がれた。そしてそのキリストが出たからにはこの《時を俟つ》キリスト史観は もう要らない。  17. われらが《存在》の成就である。さまざまな《貧困》の解消が 宗教抜きで成されるという課題が残った。  18. 言いかえると このキリスト・イエスをも 宗教の種にして おのれの支配欲を満たそうというヤカラがいつづけているということだ。  ご批判をどうぞ。

  • イエスキリストについて教えてください。よろしくお願いします。

    イエスキリストについて教えてください。よろしくお願いします。 よく「神様」とか「神様仏様」と言う人がいますが、それは「イエスキリスト=神様」という意味なのでしょうか?ポストに入ってたチラシ表紙に「神が~~(略)」と書いてありました。 イエスキリストは、実在したのですか?実在したとしたら明確な証拠はありますか? イエスキリストがしたことで、最もすごいことはなんですか? イエスキリストと神様がイコールでないとしたら、神様とイエスキリストではどちらが偉いのですか?またはどちらがすごいのですか? 神って、なんですか?人?神?神って? 私は夫が神様だと決めてます。神様とか宗教に全く興味がなかったのに、よくわからないけど神様って本当にいるんだと夫と知り合って初めて思った、それくらい夫を尊敬してるという意味です。崇拝まではいかないかもしれませんが。 で、そんな、私にとっての神様である夫が、イエスキリストは居たと言っています。キリストはすごいというような事をたまに言います。それから、神様は居ると思うと言います。霊感など全くないですが心霊現象の存在は信じるようです。勿論遭遇したことはないです。私は宗教も心霊現象も全く信じないです。 夫も、無宗教で、むしろ宗教には絶対に頼らないという考え方の人です。 私はずっと前から夫を神様だと思ってますが、上記の、キリストが居たと思ってることを初めて夫が口にした時に、夫を神様だと思ってきたことを話しました。 夫は幼い時からそう思っいるそうです。知り合ってかなり長いですがお互い、宗教に興味がないことはわかってるので、話題にすらならなかったのです。 そういえばクリスマスって、他人の誕生日なだけなのに、なんでお祭り騒ぎなんだろうね、とか、そんな何気ない会話から夫のそのことを知りました。 クリスマスは毎年必ずパーティーやプレゼントしてます。私が、しないとふて腐れるのを知ってるから夫は一緒にクリスマス気分に付き合ってくれます。私がしたくないと言えばクリスマスイベントはしません。 二人とも普通の家庭で育ち今も普通の暮らし、夫の人柄も普通で優しく、友達も多く仕事も普通にしてます。 ただ夫が、幼い頃にたまたまごく近所の教会に、スタンプとお菓子をもらえるのを楽しみに友達と通ったことがあることは、はじめから度々聞いていました。でもキリスト教徒(=クリスチャン?)ではないそうで、それも聞いてました。仮にクリスチャンだとしてもかまいませんが。 教会では紙芝居のような、ノアの箱舟など、子供には楽しかったそうです。聖書は読んだことないそうですが賛美歌はその時少し覚えたそうです。 夫がキリストの存在や神様を信じるのはそれが関係してるのでしょうか。 夫がノアの箱舟やキリスト関係を、信仰?しないまでも存在したのは信じてると知り、ものすごい衝撃うけました。 神様(夫)が信じる神様とは、神様がすごいと思う神様って、どんだけすごい人で何した人か、夫よりすごい人がいるのかと無性に知りたくネットやポストチラシも見てみましたが、頭よろしくないドシロウトの私には意味わからない用語ばかりでした。 かといって教会に行ったら即勧誘されそうなので行きたくないです。 夫にも質問ぜめし、とてもわかりやすく夫なりの解釈で説明してくれましたが、それでも夫以外のかたからも聞いてみたいので、なんでもいいので教えてください。 いつのこと、とか、基本中の基本を、超ビギナー向け子供向けでいいのでお願いします。 夫は、一見キリスト教関係するとは想像つかないようなアニメや映画でも沢山キリスト教関連のストーリーがでてきたりするとも言ってます。 近く私はその(夫が読んだことがある)漫画本を読むつもりです。 まとまりない文章になりすみません。お読みいただきありがとうございます。

  • イエス・キリストは神?

    聖書をちょっとだけかじった僕には”神の子”と聖書に書かれていたので、神ではなく神の子だと理解していたのですが、キリスト教の方々ってイエスを神だと思っているのはどのような理由なのでしょうか?またキリストを神としているのはキリスト教のほとんどなのでしょうか? ダヴィンチコードのニケイヤ公会議(でしたっけ?)でイエスが神となったのであれば…、神の子であるとイエスがいったことは無視ってことでしょうか? 三位一体とユニテリアンについて気になったので質問させていただきました。

  • イエスの生前にはかれがキリストであるとは誰も・・・

     イエスの生前にはかれがキリストであるとは誰も分からなかった。  この見方について問います。そうなのか? です。  1. イエスの生前には かれが自分は神の子でありみづからも神であると語っていたにもかかわらず 弟子たちを初めとして誰も そのことに気づかなかった。言葉では聞いていたとしても 理解できなかった。  2. 弟子たちは やっと・つまりイエスが十字架上に去ったそのあと そのイエスの語った言葉は腑に落ちたのだ。そこで すべてを知りました。  3. つまりそれまでは ただ立派な人間が迫害に遭って一命を落としてしまったくらいに思っていただけです。(いわんや 反対派においてをや)。  4. イエスの言行録がほどなく集められて行った。またすでに並行して パウロの書簡が書かれるようになっている。  5. すなわち そのようにイエスという人間が キリストと呼ばれる神であったということを伝えるために 言行録が編まれて行った。むろん すべてが聖書記者の信じ思うところにしたがって書かれたものだ。  6. ただしつまりは 神のことばは 人間の言葉では表わし得ない。そもそも 神語を人間語にそのまま写すのは無理。翻訳や解釈が とうぜん伴なわれている。  7. しかもそんなことは――つまりどういう編集方針であって その結果実際の語録がどこまで忠実に反映されているかなどなどのことは―― ほとんど問題にならない。全体として――パウロの書簡をも含めて 聖書全体として―― イエスが どうしてキリストであるかを捉えるために読めばよい。  8. 《法律(律法)》がモーセによってもたらされたのに対して キリスト・イエスは 《まこと と めぐみ》をもたらしたと言われます(ヨハネ福音のはじめ)。  9. 人間にとっては 人間語であらわされたイエスの言葉に 大うそがある。人間のことを神だといった。しかもそのような大嘘をとおしてでも 神とは 全体としてひとつであること また名が違っても――アッラーフ(’aLLaaH )と言い エローヒーム( 'eLoHim )と言い 名が同じ(イラーフ=エローハ ’LH )であっても ヤハヱーと言い違っていても――神はおなじひとつであるというマコトを告げた。  10. また 《わたしは 道であり まことであり いのちである》と言って その生命のチカラが 泉の水のごとく内から湧き出るように元気づけた。めぐみである。  11. さらには 《めぐみの上にめぐみ》をも与えた。よみがえり・復活。たぶん 現代人にとっては 平均寿命が 二百歳にでもなれば もう《永遠のいのち》であるはずだ。  12. というように オシエが――ローマ教会等々によって――どのように説かれようが それらにはお構いなく 神が示され 尽きせぬ元気があたえられ続けるなら それでよいわけである。  13. なおこの《生前には誰もキリストのことが分からなかった》については 次の聖句を参照するよう言われることがあります。  ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~    21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 去って行ったあとの《背面は見える》というわけのようである。去って行くまでは みな誰もに覆いがかけられていたのだと。  くわしいかたちで・あるいはヒラメキのようなかたちで 何かありましたらご教授ください。

  • イエスキリストのいう永遠の命とは輪廻転生のこと?

    クリスチャンでも仏教徒でもありません。クリスチャンの方たちは、信じる者に永遠の魂が与えられるといいます。しかし聖書に書いてある事柄以外の宗教的観念については口を閉ざしてしまいます。仏教では魂は永遠でありまた甦るものとしています。霊能者は前世をも見ることが出来るといいます。どちらも永遠には変わりません。例えば、輪廻転生を信じているクリスチャンっておかしいですか?誰か教えて下さい。ついでに言うと、私の意向は、神はやはり唯一のもの(イエスキリスト)のような気がしています。仏教は霊や魂も神と崇めているんですよね?間違っていたら教えて下さい。

  • キリスト史観

    (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。    その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。  (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。  アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。

  • キリスト史観が成ったんだって!  おおーい! 

    0. 経験合理性から飛躍した思惟があることをお断わりします。 §1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。 1. 聖書記者の述べるには こうです。 ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html はじめに ことばがあった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので ことばによらずに成ったものは何ひとつなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html イエスは言った。 《・・・ しかし あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは あなたがたが見ているものを見たかったが 見ることができず あなたがたが聞いているものを聞きたかったが 聞けなかったのである》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   2. ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。これにしたがうと イエスは キリストなる神(《ことばである神の子》)として モーセやアブラハム(《多くの預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。   3. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。 §2 イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史 4. アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように――《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。 5. その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》     (エフィエー アシェル エフィエー。)              (出エジプト記 3:14 ) という答えを得たと言います。   6. さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は或る日    《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編 2:7 ) という言葉を その神から聞いたそうです。   7. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3 ) §3 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。 8. その後 時は飛んで――アブラハムから二千年でしょうか――イエスという人が出たというわけです。 9. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い    てある箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書 61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人    びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。    と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21) 10. このとき――さらには十字架上に去って行ったそのときに――言わばキリスト史観が完成したと思われます。 §4 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上――ここまで 及んだのだと捉えられます。   11. それは まるで千年も二千年もの時間をかけて あたかもことばをもてあそぶかのように。 12. そして もし成就したのなら キリスト史観は もうそのイエスまでだと考えられます。あとは 余韻のみではないかと。 13. キリスト史観から オシへを取り出し掲げる神観ないし神学をみちびくのではなく――ましてや その考えるべきオシへを 何を錯乱したか 無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く組織宗教をでは断じてなく―― 哲学としての神論ないし人間論をかたちづくりたい。 §5 キリスト史観は 理論としては 存在論である。 14. 《存在》――《わたしは ある(エフィエー。 I am. )》――をめぐる理論としては この命題で 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 15. 《わたしはわたしである》という自己到来とその――そこから逸れたときにはわれに還るところの――自己還帰すなわち 自己(存在の数として一(いち))の自乗(冪)を繰り返す生活動態。(1^n=1)。 §6 アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか? 16. むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。   (あ) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来っこないと人びとは思ってしまう。 (い)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。 (う) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ人間のちからとしての道徳や信念やあるいは科学の光に終わってしまう。 (え) あるいはひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。 (お) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。 (か) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなくこれを晴らし イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 (き) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。 (く) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。 (け) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。 §7 ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めてキリスト・イエスだと分かった。 17. 生前には――イエスは みづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。 18. なぜか? ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~ 更に、主は言われた。   見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。   あなたはその岩のそばに立ちなさい。   わが栄光が通り過ぎるとき、   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、   わたしが通り過ぎるまで、   わたしの手であなたを覆う。   わたしが手を離すとき、   あなたはわたしの後ろを見るが、   わたしの顔は見えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は なお見えない。     §8 あらためて《表現の問題》という問題 19. というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。   20. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのか・どう解釈されたかを別としても。 21. ことばを《実質である事の単なる端として捉え 言の葉としゃれて表わす民》にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか? ( a ) たぶん 辻褄は合っている。か。 ( b ) 二千年四千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。 22. 世界は このキリスト史観を受け容れたのだろうか? ユダヤは イエス・キリストをみとめていない。ヨーロッパ人は あらためてどのように受け容れたのか?  23. ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけであると考えられる。俟ち伸びわびた史観が成就したのであるからには あとは すこやかさだけである。

  • 【宗教】【イエスキリストのトンチ】イエスキリストは

    【宗教】【イエスキリストのトンチ】イエスキリストは「神の子なら石をパンに変えよ」という民衆からのトンチをどのように解決したのでしょう?