自性清浄心と聖なる甘え

このQ&Aのポイント
  • 質問文章は、「自性清浄心」や「聖なる甘え」についての議論をしています。
  • 自性清浄心とは、生まれつき清浄な心を指し、仏典では心の清浄さを重視しています。
  • また、「聖なる甘え」は、特別な修行を必要とせずに得られるものであり、思考を停止し自由な状態になることを意味しています。
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《自性清浄心》と《聖なる甘え》

 (α) 生まれつき《清浄心》であるとすれば そしてこれを《仏性》と呼んでしかもそれもあくまで経験事象であるとすれば 特別の修行を必要とすることなくふつうの勤勉な社会生活によってこの《自性清浄心》は 実現しうるし回復しうる。のではないか?  (α‐1) 特別のおこないを必要としないという意味を表わそうとして言うとすれば それは《聖なる甘え》において得られるのではないか?   (α‐2)  この世のシガラミによって清浄心がよごれて来ているとするなら そのつど余計な判断を中断して静かに世界の中に置かれたおのれを見つめるとき・つまり《エポケー》をおこなうとき そのシガラミはただ縁起によって起こるものとして空であり もともとの清浄心じたいも仮りの姿として空であると見られるようになる。ただ これだけのことではないのか?  (α‐3) 《白紙還元》あるいは《われにかえる》と言うだけで済むのではないかと問うたのであるが エポケーということを持ち出さずとも 日本語にはちょうどいい具合いに《甘え》という言葉もある。  (α‐4) シガラミにかかわる相手や社会力学上有力な派閥や組織に甘えるのではなく――そういうかたちのエポケーがあるとしたらそれは 思考停止によって動物状態になることであろうから そうではなく―― まづこの経験世界を こんどは赤子の状態になって 超えることである。(因果関係から自由な状態になるという意味である)。  (α‐5) つまりは 非経験の場としての神(または 無い神)を対象として・つまり非対象として わが心の《非思考の庭》において 《聖なる甘え》を持つ。これだけで済むことではないか?    (α‐6) 念仏称名は そのあと感謝の心からするものである。事前においては 関係ない。(絶対他力ということで 甘えと通じるかと思い この事項もつけ加えたい)。  ☆ かなり飛躍した議論であり また 粗い議論のままですが 以上のように問います。        *   ▲(ヰキぺ:自性清浄)  ~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84  §1 自性清浄(じしょうしょうじょう、prakrti-prabhasvara、prakrti-visuddhi)は、  ( a ) 自性として(本来、生まれつき)清浄なことを意味する言葉。  ( b ) 仏典では多くの場合、心について言われる。  §2. 概要  ( c ) パーリ増支部に、       「比丘たちよ、この心は光り輝いている。      ただ、外来のもろもろの煩悩(客塵煩悩)によって汚れている」   とある(いわゆる心性本浄説)。  ( d ) 光り輝いている(光浄、清浄)とは白紙のような状態と解される。  ( e ) 自性として、には本来清浄ではあるが、現実には汚れているという意味が含められている。  ( f ) そこで、悟りによって外来の諸煩悩を離れた状態は「離垢清浄」と説明される。垢(けが)れを離れて本来の清浄性を取り戻したという意味である。  ( g ) 唯識説は瑜伽行によって心が離垢することを重視し、自性清浄と併せて「離垢清浄」を並べ、さらに「所縁清浄」(仏の法すなわち教説の清浄性)、「道清浄」(修行道の無漏性)と併せて、「四種清浄」という。この場合、自性清浄は真如、法界を意味する。  ( h ) 尚、心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分かれ、説一切有部などはこれを認めない。  ( i ) 大乗仏教はすべてこれを承認する。  ( j ) ただし、『般若経』は清浄を「空」の意味に解し、広く法が縁起、無自性、空であることを示すものと解釈した。  ( k ) これに対し、如来蔵系の理論では、自性清浄心を如来蔵、仏性の名で、如来の法身と同質の無為なる存在として絶対化し、これを心性と呼んでいる。  ( l ) また、『大乗起信論』はこれを本覚とも呼ぶ。  ~~~~~~~~~~~  (β) 《自性》について これを あくまで経験事象として見るか〔( j )〕 または非経験の場として想定するか〔( k )〕のふたつの見方に分かれるようである。  (β‐1) 上の(α)の仮説は 自性が単なる経験事象であるとしても成り立つとするものである。  (β‐2) 《白紙還元》と言ってもおそらく複雑かつ微妙だろうと思われる。つまりは 清浄心に還るとかそれを回復すると言っても 子どもに成りきった状態で生きるのではないであろうから そうではなく おそらく白紙還元によって いまのシガラミを空と見るというその境地を築くことなのだと考えられる。つまり 依然としてシガラミの真っただ中にいることに変わりはないのだと見られる。  (β‐3) げんみつで細かい議論があるかと思われますが あとは 互いのやり取りの中で明らかにし得たらよいと考えます。  よろしくどうぞ。

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回答No.15

こんばんは。 ☆☆☆ ○その深さにおいてよい意味でも そしてひとに伝わり難いことにおいてわるい意味でも 《唯我独尊》ということなのでしょうか? そうでしょうね。 仏教は、世俗から一歩引いたところから物を見ますから。悪く言えば、上から目線でものを見て、考える。これは《慈悲》という言葉に象徴されるかと思います。《慈悲》とは純化された《憐れみ》。上から目線。対等な関係から生まれるものではありません。キリスト教の《隣人愛》とは決定的に異なる。 また《阿羅漢》は、四つほど意味があるとされますが、尊敬に値する人の意味です。出家と在家には対等な関係は存在しません。 色々な意味で仏教には《唯我独尊》的な要素があると思います。 教えについては、ヨーガに基づいた知的・哲学主義。ヨーガが教えの源泉だから、普遍性は持ちえない。さらに、仏教には言葉軽視の姿勢がある。人には伝わりにくい。それが分からないと《おまえは迷妄にとらわれている》と切り捨てられてしまう。 いろんな意味で仏教は《唯我独尊》だと思います。 ☆☆☆ ○人間の範疇に入らない女が ブッダの発言を聞いたあと どういうことを仕出かすか? これについて 必要なかぎりで考慮しておいてよいはずだ。です 正直、ブッダが向かう先は、《お利口で善い子》のサーマーワティーではなく、《おバカで悪い子》のマーガンディヤだったと思います。 それは、ブッダが発したとされる彼女への迂闊な発言が悲劇を巻き起こすことになるからではなく、救われない魂の救済という面からでもあり、僕の人間的な感情からです。 でも、ブッダは《お利口で善い子ちゃん》に向かってしまう。キリストは《おバカで悪い子》の方に向かう。ここに(実在のブッダの)仏教とキリスト教の決定的な差がある。埋めがたい溝があると考えます。 この事件は実在の事件ではなく、この仏伝は《ダンマパダ》の 《つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励むの人々は死ぬことがない。怠りなまける人々は、死者のごとくである》 を物語にして分かりやすく伝えようとしたものだと考えますが、 この物語がすでに、 仏教は《お利口で善い子ちゃん》のための宗教であるという一面をよくあらわしていると思います。 もしかりに、《仏教の教え》はみずから求めなければ与えられないということを仏教の求法システムとよぶとすれば、 《無明》《自業自得》《仏教の求法システム》を頭に刷り込まれた仏教の《善男善女》(かなり皮肉を込めています)は、何の疑いを持つこともなく、この話をすんなりと受け入れてしまう。 サーマーワティーの悲劇に涙し、マーガンディヤを「悪い奴だ。許せない」と憎むことでしょう。 そのことに何の疑いも持たない。 この仏伝の製作者もそうでしょう。瀬戸内寂聴の言葉を見るかぎり、彼女も「ブッダはマーガンディヤをなぜ救わなかったのか?」という疑問を感じていないようです。だからでしょう、《彼女には何の生命がなかった》みたいな酷い言葉を口にできるのは。 《阿呆で悪い子》の僕は、この言葉に「むっ」としました。かなり「切れ」ました。寂聴のこの言葉に、「それでは救いがない」と思いました。 ○女は人間ではないから ブッダはおのれの実存のあり方として直接に向き合って話をする必要はなかったとしても 間接的にブッダの発言が女に伝えられるわけですから その結果 どういう影響が出るか? これについては ひととおりのことをブッダは考えておいてもおかしくはない。むしろ ふつうのことです。 いやいや、「女は人間ではないから、ブッダがマーガンディヤに直接向き合って話をしなかった」というわけではないんですよ。 ブッダとて当時の女性蔑視の風潮から完全には脱却していない、その意味で、ブッダの《ブッダの教え》には限界があるというのが趣旨です。 女性を人間とみなさい当時のバラモン教支配の社会では、ありえないほど、ブッダは女性に優しいんですよ。 身分の賤しい女性が救いを求めにやってくれば、なんら差別をすることなく、理解力に応じて教えを説く。在家の妻帯男性信者には、「妻を敬え、尊敬しろ。装飾品を与えよ。大切にしなさい」と説く。女性出家信者も認める。これらは当時では信じられないほど、画期的なことなんですよ。 でも、みずから救いを、教えを求めなければ、わざわざこちらから出向いて教えを説くようなことはしない。 そこに出家宗教である仏教の限界があるという意味です。その意味で、インド社会、時代を超越した思想にはなっていないという意味です。 やっぱり、上から目線なんですよ、仏教は。庶民階級から生まれた、弾圧を何度も受けた原始キリスト教、イスラームとは違うんですよ。《お利口さん、善い子のための宗教》なんですよ。お行儀のいい人向けの宗教なんですよ、仏教は。大乗の般若経なんかにも、《悪い人に交わるな》みたいなことを書いていますし…。真宗の人は、うちは違うぞ、と、ほくそ笑むかもしれませんが。 ○事件の後追いをするだけになり  つねに超然的な態度を取っているというのは 普遍性に欠けましょう。つまり 理論においては普遍性を問い求めているが 生活世界においては偏頗な態度が見られるのではないか。こういう問題だと見ます。 ブッダの教法姿勢は、ご指摘の通り、普遍性をもちえていない、と考えます。 当時のインド社会というごく狭い枠の中でしか成立しえないものだからです。 そのインドの中でにおいてさえ、イスラム勢力が侵入して社会が混乱し、出家集団をささえる在家集団のシステムが瓦解すると、仏教は簡単に消滅してしまいますから。 仏教の教法システムは、真の意味での普遍宗教のそれにはなりえなかったということの証明ではないでしょうか。 ○つまりは 執念深い《男》が 何かの発言を聞いて 理解しえず 変に仕返しをするようになるといった影響をも及ぼしかねない問題だとすれば 女の場合に限らないとなりますから 言っておく必要はありましょう。 史実ではないと考えられますが、あるんですよ、こういう仏伝。 以前、ご紹介した《ウッパラ=ヴァンナー》の話。 真正の聖女と言ってよいウッパラ=ヴァンナーが、ブッダの留守中にブッダの居室に入ろうとするデーヴァダッタの姿を見かける。で、「ブッダに非礼だ」と注意する。デーヴァダッタは、このことを恨みに思い、ある出来事をきっかけに、彼女の頭を叩き割って殺してしまう。 この話を使って、ダンマパダの一節を説明してくれれば、すべたが丸くおさまるのですけれど…。むしろ、この話しの方がふさわしいですから。 仏伝の製作者の頭に「女、馬鹿だし、嫉妬深いし…」みたいな根強い当時の女性蔑視の考え方があったのではと。 実在のブッダがそんなことを考えていたと言うのではありません。ブッダのおばさんで、育ての親であるゴータミーの出家を許す前に、 「アーナンダよ、その場合、女性とはいえ、さとりに達することができよう」 と言って、出家を許していますので。 でも「女性とはいえ」なのです。ブッダにしても根強い女性蔑視の考えがあったことだけはうかがえます。 ☆☆☆ ☆ ただし聖書では たぶん《香り》としてでも 何がしか引導を渡すかのごとく 納得させることを伴なうのではないかとは思います。  これも 理論化はむつかしいと思いますので 印象を述べてまた感想として 次のような主題を引き出してくるだけのことになるかと思います。 (あ) ほろびる者にも ほろびることに納得を得させることは 大事ではないか? の問題。 《香り》ですか… The Story によると、 マーガンディヤの悪だくみで王殺人未遂の嫌疑を掛けられたサーマーワティーに、王の放った矢があたらなかった…。 これは《神明裁判》の一種でしょうから、《香り》には十分だと考えますが… この時点で、彼女は「王の放った矢が実は自分に向けられたものである。それは紛れもなく、破滅への《香り》だ」と気づくべきだったのでは。 そうでなくても、何か変だと思い、普通、その意味を考えようとするのではないでしょうか。 でも、相手は《おバカ》なマーガンディヤですから、 ブッダが直接、マーガンディヤのもとに行き、教え諭す必要があったと考えられます。 でも、ブッダの話を聞く耳を持っていたかどうか。それ以前に彼女が会おうとするかどうか… なんとも微妙です。 ☆☆☆ 言葉による説得では無理なので、この《矢》をもって、彼女に教え諭そうとした。フォローした、 ということで、駄目でしょうか。

bragelonne
質問者

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 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 正直、ブッダが向かう先は、《お利口で善い子》のサーマーワティーではなく、《おバカで悪い子》のマーガンディヤだったと思います。  ☆ この見方は 控えていました。きれいごとに終わりかねないと思われたからです。  でも きちんと出してもらったからには 《誰に対しても なるべく(自分の度量のゆるす範囲で)隣り人となる》という行き方を わたしからも つけ添えておきたいと思います。     *  ★ ~~~  ・・・  この仏伝の製作者もそうでしょう。瀬戸内寂聴の言葉を見るかぎり、彼女も「ブッダはマーガンディヤをなぜ救わなかったのか?」という疑問を感じていないようです。だからでしょう、《彼女には何の生命がなかった》みたいな酷い言葉を口にできるのは。  ・・・  ~~~~~  ☆ そうですね。次のように無難なしめくくり方でもあります。  ▲ (寂聴:《悪女 聖女を焼き殺す》の結語) ~~~   人間とはそういう残酷なことの出来るものだということを 今の私は   考える。善業の報い 悪業の報いというのも この世という短い時間   で はかってはならないのだろう。     (瀬戸内寂聴『釈迦と女とこの世の苦』 p.159)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     *  次のご指摘は 考え及ばなかったのでした。  ★ ~~~~  女性を人間とみなさい当時のバラモン教支配の社会では、ありえないほど、ブッダは女性に優しいんですよ。  身分の賤しい女性が救いを求めにやってくれば、なんら差別をすることなく、理解力に応じて教えを説く。在家の妻帯男性信者には、「妻を敬え、尊敬しろ。装飾品を与えよ。大切にしなさい」と説く。女性出家信者も認める。これらは当時では信じられないほど、画期的なことなんですよ。  でも、みずから救いを、教えを求めなければ、わざわざこちらから出向いて教えを説くようなことはしない。  ~~~~~~  ☆ 《でも》以下が 言われてみれば 確かに独特なようですね。  ★ 色々な意味で仏教には《唯我独尊》的な要素があると思います。  ★ お行儀のいい人向けの宗教なんですよ、仏教は。大乗の般若経なんかにも、《悪い人に交わるな》みたいなことを書いていますし…。真宗の人は、うちは違うぞ、と、ほくそ笑むかもしれませんが。  ☆ 同じくですが なお引用します。《教法システム》にまで及ぶこととは知りませんでした。  ★ ~~~~  ブッダの教法姿勢は、ご指摘の通り、普遍性をもちえていない、と考えます。  当時のインド社会というごく狭い枠の中でしか成立しえないものだからです。  そのインドの中でにおいてさえ、イスラム勢力が侵入して社会が混乱し、出家集団をささえる在家集団のシステムが瓦解すると、仏教は簡単に消滅してしまいますから。  仏教の教法システムは、真の意味での普遍宗教のそれにはなりえなかったということの証明ではないでしょうか。  ~~~~~~~~     *    ★ 《ウッパラ=ヴァンナー》の話。  ☆ かつてデーワダッタを悪者と見るこには 誇張があると 加藤周一だったかが言っていて デーワダッタにかんしては その後割り引いて受け取っていました。史実ではないとしても 考え方の上で真実に近いということなのですね。男の話としてなら ブッダもかまってみるというところでしょうか。(ちょっと言い過ぎでしょうか)。     *  ★ ~~~~  《香り》ですか…  The Story によると、  マーガンディヤの悪だくみで王殺人未遂の嫌疑を掛けられたサーマーワティーに、王の放った矢があたらなかった…。  これは《神明裁判》の一種でしょうから、《香り》には十分だと考えますが…  この時点で、彼女(=マーガンディヤー)は「王の放った矢が実は自分に向けられたものである。それは紛れもなく、破滅への《香り》だ」と気づくべきだったのでは。  そうでなくても、何か変だと思い、普通、その意味を考えようとするのではないでしょうか。  ~~~~~  ☆ なるほどですね。  ★ 言葉による説得では無理なので、この《矢》をもって、彼女に教え諭そうとした。フォローした、 / ということで、駄目でしょうか。  ☆ たぶん ここから踏み出す次の段階は 《みづからの悪をさとるのに ほかの人の犠牲をともなうことがある》事例 この事例を――いささか安易な言い方ですが―― 《前史》とすべく考え方を練って行くこと。これではないかと考えました。  しかもそれは そうだとすれば 例の《友のために命を投げ出すことほどの愛はない》の考え方をも突き抜けようとする大胆な方向での志向性です。(このような向こう見ずの言葉を発したあとにはわたしは よく《へへっ》という言葉を添えるならわしですが さすがびびります)。    *  ねむりねこさん おかげさまで いいスレになったと思います。  みなさんにも たのしんでもらえたのではないでしょうか。  いましばらく開いています。補遺などありましたら お寄せくださいませ。

その他の回答 (14)

回答No.4

こんばんは、です。 今回もずいぶんと考えさせられました。 仏教に関係する問題なので、哲学的態度ではなく、 仏教的観点から、お答えします。 では、本題 ☆☆☆ (α‐4)まづこの経験世界を こんどは赤子の状態になって 超えることである。(因果関係から自由な状態になるという意味である)    十二支縁起   無明→行→識→名色→六入(六処)→触→受→愛→取→有→生→老死  赤子として生まれた時点で、すでに無明がある。  つまり、誕生の時点で、(赤子の)心は無明(煩悩)で汚れており、もはや”清浄"ではない、  ということになります。  苦(生・老・病・死)、つまり、輪廻を克服するには、《十二支縁起》の逆観、つまり、   老死→生→有→取→愛→受→触→六入→名色→識→行→無明  をたどり、輪廻の根本的原因である《無明》を克服しなければいけない。  それには、《修行》《実践》が必要です。 (α‐3) 《白紙還元》あるいは《われにかえる》と言うだけで済むのではないかと問うたのであるが エポケーということを持ち出さずとも 日本語にはちょうどいい具合いに《甘え》という言葉もある。  仏教の教義的には、《エポケー》は解決策になりません。  何もしないということでは、《無明》を克服できないからです。  業(カルマ)とは、本来、行為の意味です。人間の行為、仏教では《身業》《口業》《意業》としますが、  《カルマの教え》は、人間の行為・《三業》が輪廻の原因になるということです。  《エポケー》はなにも行為しないということと同じなので、  確かに新たな、輪廻・生滅の原因となる《業》は作りませんが、  すでに《輪廻の主体》に内在する輪廻・生滅の原因である《業》の除去にはならないからです。  輪廻・生滅の原因としての《業》を除去するには《善行》が必要なのです。  《善行》とは仏教の広い意味での《修行》です。 (α‐2)  この世のシガラミによって清浄心がよごれて来ているとするなら そのつど余計な判断を中断して静かに世界の中に置かれたおのれを見つめるとき・つまり《エポケー》をおこなうとき そのシガラミはただ縁起によって起こるものとして空であり もともとの清浄心じたいも仮りの姿として空であると見られるようになる。ただ これだけのことではないのか?  この世のシガラミで清浄心が汚れるのではなく、  汚れるのはあくまで自身の行為、すなわち自身の《三業》です。  この世のシガラミにとらわれるか、そこから離脱するかは、それはあくまで行為者の《自由意志》。  この世のシガラミは補助的原因・《縁》にはなりますが、  直接的な原因・《因》ではないからです。  仏教は、輪廻の原因をすべて個人の行動に還元します。  そこには一切の《甘え》は存在し得ません。  それは、絶対他力でも、たぶん、同じことです。    (真宗の)宗学をまったく知らないので分かりませんが、    絶対他力は、《みずからのはからい》を徹底的にそぎ落とした所に発生するもののはず。    その行為は、まさしく仏教のいうところの《自力》ですから。  仏教は自己に対して徹底的に《きびしい》んです。 (α‐5) つまりは 非経験の場としての神(または 無い神)を対象として・つまり非対象として わが心の《非思考の庭》において 《聖なる甘え》を持つ。これだけで済むことではないか?  仏教の三法印《諸行無常》《諸法無我》《一切皆苦》、縁起の理法などから論理的に導き出せるものなので、  その意味において《非思考の場》ではありません。  と言いきりたいところなのですが、これは論理的に少し無理があります。  仏教は、実在した《人間シャカ》が《ブッダになった》という宗教的確信・信念を抜きにしては成立しえないからです。  これは《非思考の場》。  《ブッダ》が実在した時代においてでさえ、  その体を触ることができる、話すことができるという意味で《非経験》ではありませんが、  《人間シャカ》が本当に《ブッダになったか》どうかは、確認できない。  《人間シャカ》の言動を通じて推測するしかない。  《どうやらブッダになったようだ》とは推測できるかもしれませんが、  あとは信じるしかない。  その意味では《非思考の場》です。(《非経験》ではない!!)  《ブッダになった》という確信・信念を《聖なる甘え》と言えば、まあ、そういう事なのでしょうねぇ~。  《阿弥陀さまの本願》も《聖なる甘え》になるんでしょうね。  こればっかりは、頭であれこれ考えても、どうしようもないですから。  アプリオリに受け入れるしかない!! ( h ) 尚、心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分かれ、説一切有部などはこれを認めない。  おっしゃる通り、説一切有部は認めません。  しかし、説一切有部も重視する《ダンマパダ》の3章には   《心は動揺し、ざわめき、制しがたい。英知ある人はこれを直(なお)くする。    (途中略)    心が煩悩に汚されることなく、思い乱れることもなく、善悪のはからいを捨てて、    目覚めているに人には、なにも恐れることは無い。》  とありますので、  実在した《ブッダ》の到達した《心が煩悩に汚されない》状態を《自性清浄心》と言うのなら、  《自性清浄心》と表現出来るんでしょうね。  でも、《性》という言葉はまずい。  《自性》に誤解される恐れがある!! ( i ) 大乗仏教はすべてこれを承認する。  実はそうではない。  以前紹介しましたけれど、瑜伽(ゆが)・唯識学派は  《五性格別》の立場から、これを否定します。  《無性有情》は、永遠に輪廻の世界を流転するのです。   (《先天的な無漏の種子》が欠如しているから)  根本経典《解深密経》にそう書いてあります。  これが時と所を変え、日本で法相宗と天台宗の間で大論争を引き起こします。  《天台本覚思想》と《法華経》を根拠に、《五性格別》を説く法相宗にはげしく迫る。  法相宗は防戦に苦慮する…  実は、インドから中国に《唯識・法相》の教えを持ち帰った玄奘三蔵も  「実は、自分は《無性有情》なのではないか?」  と真剣に悩んだ。  それほど、《無明》《煩悩》というのは、強くて執拗。  修行の観点からすると、心は《自性清浄心》と言える代物ではない。  《自性清浄心》はめざすべき究極の目標でしょうね。 ○《心性本浄説》  たしかにそうなんでしょうけれど、厳密には  《心相(《すがた》の意味)清浄説》  とすべきなんでしょうねぇ…   (と独り言)。 (β‐2) 《白紙還元》と言ってもおそらく複雑かつ微妙だろうと思われる。つまりは 清浄心に還るとかそれを回復すると言っても 子どもに成りきった状態で生きるのではないであろうから そうではなく おそらく白紙還元によって いまのシガラミを空と見るというその境地を築くことなのだと考えられる。つまり 依然としてシガラミの真っただ中にいることに変わりはないのだと見られる。  《白紙還元》が仏道修行の意味で、  《シガラミ》が《みずからの行いが作り出したもの》  という意味なら、  そうですね。  はい、否定しません。 例によって、ビシバシ、突っ込んでください。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこにゃあさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 仏教に関係する問題なので、哲学的態度ではなく、 / 仏教的観点から、お答えします。  ☆ そのあとに 二段ロケットのごとく 哲学の問題としてあつかってくださってもよいと思います。  ★ 今回もずいぶんと考えさせられました。  ☆ 《無明》を持ち出されたのを知って 悩み始めました。  ★ ~~~  赤子として生まれた時点で、すでに無明がある。  つまり、誕生の時点で、(赤子の)心は無明(煩悩)で汚れており、もはや”清浄"ではない、  ということになります。  ~~~~~  ☆ たしかにヰキぺの説明( e )でも《本来清浄》と《現実には汚れている》との両面を言っています。  けれども――揚げ足取りを敢行しますが――  (β‐7) 《もはや”清浄"ではない》という意味は 《生まれつきの状態として清浄でありつつ すでに無明が入り込んでおり どちらかと言うと 無明のチカラのほうがつよい》ということではないのだろうか?  (β‐8) 前項に続きまして:  ★ ~~~~  苦(生・老・病・死)、つまり、輪廻を克服するには、《十二支縁起》の逆観、つまり、   老死→生→有→取→愛→受→触→六入→名色→識→行→無明  をたどり、輪廻の根本的原因である《無明》を克服しなければいけない。  それには、《修行》《実践》が必要です。  ~~~~~~  ☆ というさとりの方程式において すでに生まれつき清浄であり明知も〔潜在的なチカラとして〕そなわっている。ということではないのか? それゆえにも 即身成仏が説かれ得たと。  (β‐9) なお同じように:  ★ ~~~  仏教の教義的には、《エポケー》は解決策になりません。  何もしないということでは、《無明》を克服できないからです。  ・・・  輪廻・生滅の原因としての《業》を除去するには《善行》が必要なのです。  《善行》とは仏教の広い意味での《修行》です。  ~~~~~  ☆ この善行ないし修行が目指す地点に到るということは 明知ないし清浄心がそなわっているゆえではないのか?   ☆☆(趣旨説明欄) ( f ) そこで、悟りによって外来の諸煩悩を離れた状態は「離垢清浄」と説明される。垢(けが)れを離れて本来の清浄性を取り戻したという意味である。  ☆ もともとそなわった心の状態が顕わになるということだと受け留め得る。すなわち 《何もしない》エポケーでよいのではないか?  あるいはつまり エポケーにしても《もののあはれを知る》にしても 《何もしない》ということは みづからの行為によって積み重ねたよぶんな業がそれらは余分だと見ることを通じて取り除かれて行って 知恵の核心にまで到るのではないか?  善行ないし修行によっておこなうことは 余計な業を意図的に削ぎ落として行くことなのであろうか?  (β‐10)  ★ ~~~  この世のシガラミで清浄心が汚れるのではなく、  汚れるのはあくまで自身の行為、すなわち自身の《三業》です。  この世のシガラミにとらわれるか、そこから離脱するかは、それはあくまで行為者の《自由意志》。  ~~~~~  ☆ 舌足らずでしたが ここで《シガラミ》とは こうです。もし相手の人間としての存在を受け容れているなら その相手との人間関係をもそれとして受け容れるものと考えますが そのときその場その情況におけるシガラミに対応してみづからの意志行為が成されます。それゆえ 《受け留めたシガラミに対応して》において 縁のほかに因の要素をもふくむと見たいと思います。  無明を受け留め包み込む明知と言えませんか?  そのとき《何もしない》振る舞いとしては たとえば次のような親鸞があります。  ● (親鸞:末燈抄 22) ~~~~~  『宝号経』にのたまはく、    弥陀の本願は行(ぎょう)にあらず、善にあらず【万行を修めること   を求めているのでもなければ 諸善を積むことを条件としているわけで   もなく】、ただ仏名をたもつなり。  名号はこれ善なり 行なり。行といふは 善をすることについていふことばなり。  本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには【心得た上は】、善にあらず、行にあらざるなり。かるがゆゑに他力とは申すなり。  本願の因は能生(のうしょう)する因【直接の原因】なり。  能生する因といふはすなはちこれ父なり。  大悲の光明はこれ所生(しょしょう)の縁【間接の要因】なり。  所生の縁といふはすなはちこれ母なり。  ◆(親鸞:有念無念の事) ~~~~  来迎は諸行往生にあり 自力の行者なるがゆゑに。  臨終といふことは 諸行往生のひとにいふべし いまだ真実の信心を得ざるがゆゑなり。  また十悪五逆の罪人 はじめて善知識にあふて すすめらるるときにいふことなり。  真実信心の行人は 摂取不捨のゆゑに【即時に】 正定聚のくらゐに住す。  このゆゑに臨終まつことなし 来迎たのむことなし。  信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀則をまたず。   (末燈抄・一 伊藤博之校註)  ~~~~~~~~~~  ☆ 絶対他力による即身成仏を言っていると見ます。何もしません。ひたすら 聖なる甘えを敢行します。  ★ ~~~  《ブッダになった》という確信・信念を《聖なる甘え》と言えば、まあ、そういう事なのでしょうねぇ~。  《阿弥陀さまの本願》も《聖なる甘え》になるんでしょうね。  ~~~~  ☆ アミターユスは もとより《非経験の場》として想定されていると見ます。これをわが心に受け容れ――その名を受け容れ言わば領収証を書き―― 《非思考の庭》が成るという姿とします。  非思考の庭において聖なる甘えをじっさいに持ち得ます。心の伸びもしくは明けとして。  《ブッダに成った》は その結果としての経験事象であるようです。つまり自性清浄心の顕在として。  ★ 説一切有部  ☆ コメントが出て来ません。(そこまでの知識がありません)。  ★ 《無性有情》は、永遠に輪廻の世界を流転するのです。   (《先天的な無漏の種子》が欠如しているから)  ☆ これは 《一闡提》といった用語で記憶していますが またそれとは別ですか?   たぶん仏性に例外はないと思うのですが。  でも  ★ ~~~  それほど、《無明》《煩悩》というのは、強くて執拗。  修行の観点からすると、心は《自性清浄心》と言える代物ではない。  《自性清浄心》はめざすべき究極の目標でしょうね。  ~~~~~  ☆ ということなんですか。《生まれつきそなわっている》という見方にこだわりたいのですが 甘いですか?  無明・煩悩の強さは 例のパウロの罪の法則が執拗にはたらくといった見方に通じるように思われます。  ★ ~~~  ○《心性本浄説》  たしかにそうなんでしょうけれど、厳密には  《心相(《すがた》の意味)清浄説》  ~~~~  ☆ これは 《すがた》ないし《状態》を言うのですよね? それで エポケーなどにとって構わないと思います。  ☆☆ (β‐2) ・・・つまり 依然としてシガラミの真っただ中にいることに変わりはないのだと見られる。  ☆ これが ブディストの真骨頂だと思うのですが どうでしょう?

  • MOG777
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回答No.3

>つまりは シガラミの現実の中に位置して《清浄心》をたもつことは かんたんに出来るものではないのだ。こういう意味合いでしょうか? 事実を一瞬でもありのままに観れば、「私という馬鹿の心の声や判断、知覚を真に受けまい」と決意するわけですが、芝居に引き込まれるが如く分かっててもやめられない・・・ とういう意味です。

bragelonne
質問者

お礼

 つづけてです。  ☆☆(No.2お礼欄) ~~~~  ・・・自性として《本来清浄である》ことと《現実には汚れている》ことと どちらが優勢であるのか?   (β‐5) どちらもそもそも生まれつきの状態であって どちらが優勢であるかは 人それぞれなのか?   でも人間に生まれてくるということは まだ成仏していないということだとすれば 一般に《よごれ》のほうが優勢であるように思われる。ということなのだろうか?  ~~~~~~~~~~~~~~  ゆえに 次のようなのでしょうか。  ★ ~~~  事実を一瞬でもありのままに観れば、「私という馬鹿の心の声や判断、知覚を真に受けまい」と決意するわけですが、芝居に引き込まれるが如く分かっててもやめられない・・・  とういう意味です。  ~~~~~  ☆ よごれ・けがれのほうに向いて行ってしまうのだと。   パウロも同じように こころの葛藤を言っていましたね。    結論めいたことが言えないままですが・

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.2

しまった、しまった。 そもそも《清浄心》とは何かを明らかにすることを忘れていました。 ですので、以下は私の考える《清浄心》を述べます。 >子どもに成りきった状態で生きるのではないであろうから 子どもも清浄な心の状態ではないというという立場です。 >自性清浄心の状態にあることを取り戻すこと自体は それほどむつかしいことではないと言えましょうか? はい。ただ維持するのが厄介です。 > ☆☆(α)・・・特別の修行を必要とすることなくふつうの勤勉な社会生活によってこの《自性清浄心》は 実現しうるし回復しうる。のではないか?  ☆ について 然りというお答えでしょうか? 回復できるが維持が難しいのでものの役に立たないことがほとんどであると思います。 役に立つとすれば、光明や確信の元になるということでしょうか。 >ひとりのチカラが弱いとすれば みなによるチカラの寄せ合いのほうに問題が移るのではないか? こう思っているのですが どうなんでしょうねぇ。 こころの状態ですから、各人から離して集めるということは無理でしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 もぐさん ご説明をありがとうございます。  ★ 子どもも清浄な心の状態ではないというという立場です。  ▲(ヰキぺ) ( e ) 自性として、には本来清浄ではあるが、現実には汚れているという意味が含められている。  ☆ というところでしょうか?  このあとの ねむりねこさんも そもそもの人間の状態として《無明》を持ち出して来ておられるので こう問いたくなります。  (β‐4) それでは 自性として《本来清浄である》ことと《現実には汚れている》ことと どちらが優勢であるのか?   (β‐5) どちらもそもそも生まれつきの状態であって どちらが優勢であるかは 人それぞれなのか? でも人間に生まれてくるということは まだ成仏していないということだとすれば 一般に《よごれ》のほうが優勢であるように思われる。ということなのだろうか?  ところが もぐさんの見るところによると 自性清浄心の回復じたいは むつかしくないのだが・・・ということになる:  ★ ~~~~   >自性清浄心の状態にあることを取り戻すこと自体は それほどむつかしいことではないと言えましょうか?  はい。ただ維持するのが厄介です。  ~~~~~  (β‐6) 《無明》から解脱して《明知》に達するのは 割り合いたやすいことだが この明知を維持するのは むつかしい。ということか?  ★ ~~~  回復できるが維持が難しいのでものの役に立たないことがほとんどであると思います。  役に立つとすれば、光明や確信の元になるということでしょうか。  ~~~~~  ☆ 絶望するのはあたらないといった意味でしょうか?  ★ ~~~~   >ひとりのチカラが弱いとすれば みなによるチカラの寄せ合いのほうに問題が移るのではないか? こう思っているのですが どうなんでしょうねぇ。  こころの状態ですから、各人から離して集めるということは無理でしょう。  ~~~~~~  ☆ これは 要するに回復した清浄心を維持するためには――そしてさらには ほかの人たちに影響をおよぼすことができるようになるためには―― どうすればよいか? こういう問い求めになっています。  

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.1

《清浄心》は物ではなく状態ですから、あるという表現は不正確です。 あるなしではなく、状態が一定期間維持できるかが焦点でありまして 「瞬間程度では現実には使い物にならんので鍛えろ」ということではないでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 もぐさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 「瞬間程度では現実には使い物にならんので鍛えろ」ということではないでしょうか?  ☆ ううん。さて どうなのでしょう。もしこのご見解にしたがうならば 次のような場合にその清浄心の保持がむつかしいということを示していましょうか?  すなわち  ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~  (β‐2) 《白紙還元》と言ってもおそらく複雑かつ微妙だろうと思われる。  つまりは 清浄心に還るとかそれを回復すると言っても 子どもに成りきった状態で生きるのではないであろうから そうではなく おそらく白紙還元によって いまのシガラミを空と見るというその境地を築くことなのだと考えられる。  つまり 依然としてシガラミの真っただ中にいることに変わりはないのだと見られる。  ~~~~~~~~~~~  つまりは シガラミの現実の中に位置して《清浄心》をたもつことは かんたんに出来るものではないのだ。こういう意味合いでしょうか?  ということは もっと具体的にどんな実際のあり方になりましょうか。  内面は 清浄心を取り戻した。活きている。けれども 外では相手や一般に社会との関係において 《外来のもろもろの煩悩(客塵煩悩)によって汚れている》という側面が消えたわけではない。消えたわけではないか それらを空と見るかたちが少しづつ出来て行くといった事態。  こういった情況なのでしょうか。  ということは もぐさんのご見解においては じっさいにどうなのでしょう? つまり 自性清浄心の状態にあることを取り戻すこと自体は それほどむつかしいことではないと言えましょうか?  つまり 質問趣旨として  ☆☆(α)・・・特別の修行を必要とすることなくふつうの勤勉な社会生活によってこの《自性清浄心》は 実現しうるし回復しうる。のではないか?  ☆ について 然りというお答えでしょうか?  なぜかと言いますと この清浄心を取り戻すことが割り合いかんたんに出来るとすれば あとは ひとりのチカラが弱いとすれば みなによるチカラの寄せ合いのほうに問題が移るのではないか? こう思っているのですが どうなんでしょうねぇ。  それとも 犀の角のようにひとりわが道を行くといったかたちなのでしょうか?

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     【α】 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも 存在しないと見るのか?  ・ これが 問いです。  【α-1】 《存在する・しない》というのは あくまで相対的なものごととして 現象がある・ないという意味に用いている。  【β】 色即是空のあとにただちに 空即是色と言えるのなら 空だけれど その《色受想行識》としての現象はある。と言っているはずだ。  【β-1】 すなわち 意志自由は 現象している。《行》のことだろうか。  【γ】 すなわち 世界のものごとは 関係性(縁起連関)によって成るだけではなく その網状の集まりを成すそれぞれの結び目(結節点)もがあって これは 言わば社会的な独立性をうったえるところの人間の自由意志である。そのハタラキである。  ・ 次のヰキぺの解説記事の中から 《龍樹の空観》を取り上げますので その理論とからませて 上の問いにこたえていただければ さいわいです。      ▼ (ヰキぺ:空(仏教)) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)  § 2.2.2. 龍樹の空観  (あ) 龍樹は、   ( a ) 存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っている  ことを論証している。   * 【質問者の問い・δ】 すなわち 網の目を織り成すネットワークの結節点は あると言っているのかどうか?  (い) この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹は説一切有部に対する反論というスタンスを通して、より深く一般化して説き、   ( b ) 関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっている  ことを明らかにした。これを空もしくは「空性」と呼んでいる。   * 【ε】 相互依存の関係において モノゴトが縁起していることに間違いない。自由意志に当たると見る結び目は 存在するか?  (う) さらに、   ( c ) 関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない  ことを明かしている。   * 【ζ】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     あぁ! 《自由意志》はないか? けれどもただし この《それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない》というのは どうも そうではなく 《この世に絶対的なものが存在しない》と言っているだけのようにも見受けられる。     つまり 絶対的な存在ではなく 有限で移ろいゆく相対的なものであるが それとして自由意志もしくは人間の主体性は 存在する。のかどうか?    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ( d ) (最高の仏である如来だけがしかし、「自性輪身」〔三輪身の一つ〕)と呼ばれ、自性であるとされている)。   * 【η】 これは まさしく《絶対》のことである。法身仏のことである。したがって ひとの自由意志とは 別である。  (え) これを以て、   ( e ) 縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空である  と論証しているのである。龍樹の空は、これにより「無自性空」とも呼ばれる。   * 【θ】 依然として 結び目は 存在するや否や? である。  (お) しかし、これらの関連性は、現象面を人間がどのように認識するかということとは無関係のものである。   * 【ι】 おお! 《現象面》では ひとの主体的な意志の選択が自由である。と言えるかも。・・・  (か) これを人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に認識するということだけではなく、人間独自の概念化や言語を使用することが考えられる。   * 【κ】 むむ? 何のことだろう? 意志自由は あると思えば 勝手に あると規定すればよい!?!? 分からんなぁ。  (き) 龍樹は、人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。   * 【λ】 それは そうであろう。すべて 相対的なものごとだと言っているのだから。肝心の問いには 答えていない?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 《聖なるあまえ》から《きよらかなおそれ》への変態

     1. 《聖なるあまえ》は ものごころがつく前におけるひとの心の状態を言います。  赤子が母親にあまえる――つまり 全面的に考えも計らいもなく身をゆだねるかのように心をゆだねている――とき これをひとつの典型として言う。  2. ところが 誰しも ものごころが着いて来ます。  《考えもハカラヒもなく》というのは おこないがたく成ります。ウソをつくことをも知るという社会的動物たることの洗礼をも受けるようになります。  このとき聖なるあまえは どうなるか?  3. 幼虫がさなぎになる  聖なるあまえは きよらかなおそれへと変態する。  きよらかなおそれは 幼虫ないし赤子における聖なるあまえ状態とほぼ同じだと言いたいのですが むろん《ものごころがついた》という意味での変態を経て 違いが出て来ます。  4. けれどもそれでも 後の段階で――ヒトの生まれつきなる自然本性に変わりはないと見るかぎりで―― 《聖なる甘え》と同じ状態であると言うためにこそ しかも言葉を変えて《きよらかなおそれを抱く状態》と呼びます。  5. すなわち 聖なるあまえは 母親への本能的な寄りすがりであるとき その同じ自然本性の成すハタラキにおいてなのであるが こんどは 母親なる存在を超えてナゾの何ものかへのおそれに その《身と心とのゆだね(あまえ)》を置き換える。  言いかえると 聖なる甘えのときは きよらかなおそれすら――おそれすらを――まだ持てない状態であった。  6. このきよらかなおそれは 確かにナゾの何ものかに対するものなのであるが その同じ内容が 主観の内面における思惟や意思決定のときにも 〔おそれとして〕現われる。  これは さなぎからすでに成虫へとさらなる変態をとげつつあるときに起こるものであるが まだ さなぎ段階のこととして捉えてみよう。  7. ウソをつくとき・イツワリをはたらくとき 心は胸が変に高鳴り身も顔を赤らめ言葉もしどろもどろになる。《やましさ反応》が出る。やましさを 理性で受けとめるときには 《恥ぢ・恥づかしさ》である。  つまり このヤマシサ反応が きよらかなおそれのことである。  8. つまり要するに おのれがみづからの心を省みずヘソを曲げるときに起きる《おそれ・やましさ・恥づかしさ》である。  9. 主観はつねに この・へそ曲がり(つまりウソ・イツワリ)を仕出かし 軌道修正しわれに還り また脱線したり道草を食ったりして 《わたしがわたしである》道をあゆむ。  10. 《恥づかしさ》を 何ものかナゾなる存在に対するおそれと感じ これを聖なるあまえを継ぐものと見て きよらかなおそれと捉えるなら それは この小さなおのれの主観が 人びとにも共通の心であると受け留めたことを意味する。  11.  つまり きよらかなおそれは 人びとにとって普遍的な内容を成す共同主観であると――甘えないしはユダネであるからには 無根拠において――受け容れたことを意味する。  12. 《共同主観》は 共同と呼ぶからには普遍性があると見ているし 或る種の仕方で言えばわが心なる非思考の庭においてそのように受け容れているものです。(無根拠にて受け容れているという意味です)。  13. こうして さなぎは羽化し 蝶へと変態する。  14. 成虫した場合には 社会の中で おのれの――はぐくんできた――《きよらかなおそれ》が つねに〔共同主観であると見ているからには・その限りで〕有効であるが しかも単純に社会力学じょう既成勢力たるチカラの前に無力となる。  15. この情況における《わたし》は どう生きるか?  《きよらかなおそれ》のゆくえは?  16. 聖なるあまえ・もしくはきよらかなおそれ あるいは 《恥ぢ》を失わないならば けっきょく世の中においてわが目の前を通り過ぎてゆくブルドーザーの《無効にしてただ力学じょう有力であるチカラ》に対して これを精神の胃袋で消化しつつ 引き受けるということ。泥をかぶるということ。  ここに 蝶たる成虫への変態は 成し遂げられる。ものと思われる。  17. このシガラミの中にあって 無効の有力でしかないそのやはりシガラミたるゴミを――すなわちこのゴミは しばしば社会力学じょうの栄誉を着せてもらってその身を飾り立てている・つまり おごり高ぶるゴミを―― あたかもみづからはアース役となって 呑み込みつつ処理していくということ。  18. これが 名も無い一介の市民の完全に成虫した(つまり さとりを得た)蝶としての社会的使命である。  19. 敢えて言えば そのときの《武器》は 《きよらかなおそれ》である。根拠は 無い。  無根拠なる根拠において ごみ処理工場と成る。  20. きれいな酸素をも供給するらしい。    義無きを以って義としているらしい。(もっとも このことは 《無住処涅槃》なる概念としてすでに打ち出されているのであるが)。  以上を問います。

  • 《聖なるあまえ》から《きよらかなおそれ》への変態

     1. 《聖なるあまえ》は ものごころがつく前におけるひとの心の状態を言います。  2. 赤子が母親にあまえる――つまり 全面的に考えも何の計らいもなく身をゆだねるかのように心をゆだねている――とき これをひとつの典型として言う。  3. ところが 誰しも ものごころが着いて来ます。  4. 《考えもハカラヒもなく》というのは おこないがたく成ります。ウソをつくことをも知るという社会的動物たることの洗礼をも受けるようになります。  5. このとき聖なるあまえは どうなるか?  6. 幼虫がさなぎになる  7. 聖なるあまえは きよらかなおそれへと変態する。  8. きよらかなおそれは 幼虫ないし赤子における聖なるあまえ状態とほぼ同じだと言いたいのですが むろん《ものごころがついた》という意味での変態を経て 違いが出て来ます。  9. けれどもそれでも 後の段階で――ヒトの生まれつきなる自然本性に変わりはないと見るかぎりで―― 《聖なる甘え》と同じ状態であると言うためにこそ しかも言葉を変えて《きよらかなおそれを抱く状態》と呼びます。  10. すなわち 聖なるあまえは 母親への本能的な寄りすがりであるとき その同じ自然本性の成すハタラキにおいてなのであるが こんどは 母親なる存在を超えてナゾの何ものかへのおそれに その《身と心とのゆだね(あまえ)》を置き換える。  11. 言いかえると 聖なる甘えのときは きよらかなおそれすら――おそれすらを――まだ持てない状態であった。  12. このきよらかなおそれは 確かにナゾの何ものかに対するものなのであるが その同じ内容が 主観の内面における思惟や意思決定のときにも 〔おそれとして〕現われる。  13. これは さなぎからすでに成虫へとさらなる変態をとげつつあるときに起こるものであるが まだ さなぎ段階のこととして捉えてみよう。  14. ウソをつくとき・イツハリをはたらくとき 心は胸が変に高鳴り身も顔を赤らめ言葉もしどろもどろになる。《やましさ反応》が出る。やましさを 理性で受けとめるときには 《恥ぢ・恥づかしさ》である。  15. つまり このヤマシサ反応が きよらかなおそれのことである。良心のハタラキだとも言える。  16. つまり要するに おのれがみづからの心を省みずヘソを曲げるときに起きる《おそれ・やましさ・恥づかしさ》である。  17. 主観はつねに この・へそ曲がり(つまりウソ・イツハリ)を仕出かし 軌道修正しわれに還り また脱線したり道草を食ったりして 《わたしがわたしである》道をあゆむ。  18. 《恥づかしさ》を 何ものかナゾなる存在に対するおそれと感じ これを聖なるあまえを継ぐものと見て きよらかなおそれと捉えるなら それは この小さなおのれの主観が 人びとにも共通の心であると受け留めたことを意味する。  19.  つまり きよらかなおそれは 人びとにとって普遍的な内容を成す共同主観であると――甘えないしはユダネであるからには 無根拠において――受け容れたことを意味する。  20. 《共同主観》は 共同と呼ぶからには普遍性があると見ているし 或る種の仕方で言えばわが心なる非思考の庭においてそのように受け容れているものです。(無条件の無根拠にて受け容れているという意味です)。  21. こうして さなぎは羽化し 蝶へと変態する。  22. 成虫した場合には 社会の中で おのれの――はぐくんできた――《きよらかなおそれ》が つねに〔共同主観であると見ているからには・その限りで〕有効であるが しかも単純に社会力学じょう既成勢力たるチカラの前に無力となる。  23. この情況における《わたし》は どう生きるか? 《きよらかなおそれ》のゆくえは?  24. 聖なるあまえ・もしくは きよらかなおそれ・あるいは《恥ぢ》を失わないならば けっきょく世の中においてわが目の前を通り過ぎてゆく観念のブルドーザーの《無効にしてただ力学じょう有力であるチカラ》に対して これを精神の胃袋で消化しつつ 引き受けるということ。泥をかぶるということ。  25. ここに 蝶たる成虫への変態は 成し遂げられる。ものと思われる。  26. このシガラミの中にあって 無効の有力でしかないそのやはりシガラミたるゴミを――すなわちこのゴミは しばしば社会力学じょうの栄誉を着せてもらってその地位に就き身を飾り立てている・つまり しばしばおごり高ぶるゴミを―― あたかもみづからはアース役となって 呑み込みつつ処理していくということ。  27. これが 名も無い一介の市民の完全に成虫した(つまり さとりを得た)蝶としての社会的使命である。  28. 敢えて言えば そのときの《武器》は 《きよらかなおそれ》である。根拠は 無い。  29. 初期条件はただ生まれついたというだけの無条件の情況にあって 無根拠なる根拠において ごみ処理(浄化再生)工場と成る。  30. きれいな酸素をも供給するらしい。    31. 義(オシヘ)無きを以って義としているらしい。(もっとも このことは 《無住処涅槃》なる概念として・あるいは《本覚思想》として すでに打ち出されているようであるらしい)。  32. ひとびとは しづやかにおのがさとりを得よ。  ☆ 以上を問います。自由なお考えをどうぞ。フルボッコの批判を歓迎します。

  • 猫アレルギーなので、空気清浄機を買うためのアドバイス。

    こんにちは。僕は、以前から似た質問ばかりしています。すいません。良い回答が全然、得られず今回また質問をさせていただきました。 空気清浄機を買いたいのですが、どれを買えばいいか分かりません。僕は喘息や花粉症などは、特になったような経験もないので、アレルギーをなんか吸い取ってくれるナショナルのアレルバスター(エアーリッチ)という空気清浄機を買おうかなと思っているのですが、ただナショナルさんがアレルゲンを強く誇張しているだけであって、他の機種と何ら変わらないのでしょうか? 僕の部屋は、6畳ぐらいです。安いと吸ってくれないような気もしますし、高くてもいいのでお願いします。僕の場合、複数置いた方が良いみたいで安くて効果がなかったら複数置くのは意味ないし、高くても正直高いのは、極力避けたいです。 でも、センサーとかあったほうがいいですよね? と、マイナスイオンというのはあまり効果がないような気がするのですが、やはりそうなのでしょうか?(ダイキンのACM75E-Wとか) ダイキンのACM75E-WやナショナルのF-P26SZなど、悩みに悩んでいます。 すぐに買いたいので、何方かよろしくお願いします。本当にお願いします。

  • もののあはれ――あは!という感嘆――というエポケー

     (1) あはっ! ( Ah ! , Oh ! )という感嘆の声にすべての現象は還元される。か?  この問いをめぐっての質問です。  (2) まづ アハは とうぜん感動あるいは嘆きをあらわします。おどろき・おそれ・すばらしさ・あるいは かなしさ・つらさ・くるしみなどなど。  (3) しかも ここでは ものごとの根源を見たというような意味合いを――勝手に強引に――込めて 世界におけるすべての現象についてのわが心的現象を表わすと見ます。    (4) ワ(我)やナ(汝)にレ――おそらく親愛称――がついて我レや汝レがつくられるごとく アハにもレがつき アハレがつくられた。   (5) アハレは (2)の分類にしたがって アハレ(哀れ・憐れ)および すばらしい場合には アッパレ(天晴れ)なることばである。  (6) 《もののあはれを知る》というときは おそらく すべての先入見や既存の常識を取り払ったごとくおのれの意識という意識を超えて 目の前のものごとを知覚したことを言うものと考えられる。  (7) しかもさらに その知覚は 意識しうる知覚(ノエシス≒ノエマ)をも超えて 直感および直観が稲妻のごとく走ったという経験であろう。ヒラメキとして捉えよう。  (8) もののあはれを知ったというときには たとえば社会における人為的な現象を超えているであろう。たとえば ふるい事例として言えば 身分制。身分の違いを難なく超えて ものごとを見ているはずである。  (つまりたとえば身分制なる現実に即した認識や判断を中止して そこから自由な知覚や意識を得ようとすることであり ここでは エポケーとも言うこととします)。  (9) ここまでを作業仮説なる前提として 次にかかげる見解〔(11)〕について考えてみたいと思います。    (10) 焦点は こうです。   ○ ~~~~~~  社会的な作為としての身分(あるいは いわゆるシガラミ)を超えてものごとを見ている(それはひょっとして 《空》観?)そのような《もののあはれ》を知った境地は それでもあたかも向きを変えてふたたび身分や人間的なシガラミの場に立ち戻って来た場合 どうするか?   どう現実をとらえるか?   どうふるまうか?  ~~~~~~~~~  (11) ひとつの参考意見は 次です。にっちもさっちも行かないような現実に相い対しては 人はもののあはれを もののあはれ主義として身構えて生きることになる。といった見解につながるようです。  ▲ (日野龍夫:《物の哀れを知る》の説の来歴) ~~~~~  宣長の歌論の特徴的な主張 《歌は 実情を偽り飾って雅やかに詠まねばならない》・・・。  歌はありのままの気持ちをありのままに詠ずればよいという それなりにもっともな意見に宣長は反対するのであって 単なるありのままではなく 表現の美をも求めなければいけないというその主張もまたそれなりにもっともであるが ことさらに《実情を偽らねばならない》という言い方をする点が特異である。  前に《江戸時代人の生活意識の隅々にまで浸透している儒仏の影響を払拭し 純粋な〈物のあわれを知る〉心を復活することは 無限に困難なのである》と書いた。  右(上)の歌論は この認識に対応するものである。  つまり 真に 《物のあわれを知る》ということは 素直にありのままにしていれば達成できるような甘いものではない と宣長は言いたかった。  意識下にまで儒仏の〔* あるいは身分制の・もしくは シガラミの〕影響が浸透している当代人にとって 《物のあわれを知る》ということは 《物のあわれを知る》心を自分の心の中に虚構するということと ほとんど同じなのである。それが《実情を偽る》ということであった。     (日野龍夫校注:本居宣長集 1983 解説)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (12) この《〈物のあわれを知る〉心を自分の心の中に虚構するということ》は だとすればけっきょく 世に言う《宗教》のことか? ただの固定観念となったようなオシエのことか?  (13) すべての先入見を超えあらゆる固定されてしまった常識をひるがえして得られたヒラメキとしての《もののあはれ》なる心 ここからふたたび強迫観念にさえ成りかねない固定観念としての宗教やドグマが現われ持たれてしまうのか?  (14) (11)の参考意見がおかしいのか?  (15) エポケーなり現象学的還元なりなどということが おかしいのか?  (16) もののあはれを知るなどというのは どうでもよいことか?  (17)  アハッは 神か? 神などは要らぬか?  (18) シガラミを抜け出たと思ったヒラメキから またふたたび世の中のシガラミの中に舞い戻るのか?    (19) われらが自由は どこにあるか?  (20) 人は いま・ここに舞い戻らざるを得ない。あなたは そのとき どうするか?

  • フッサールは《純粋意識》に もののあはれを知ったか

     《あは!》という思いを感じるときに到るキッカケを フッサールというドイツ人は 《エポケー》と称しました。わたしは 判断中断と訳すとよいと思います。  ▲ (ヰキぺ:エポケー) ~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC  エポケー(古代ギリシア語: ἐποχή  epokhế)は、原義において「停止、中止、中断」を意味し、哲学においてこの語はいくつもの意味をもっている。  ▲ フッサールおよび現象学においては、  エポケーは 世界の自然命題を「カッコに入れる」ことを意味する。  すなわち世界の外的現実についての信念をカッコに入れるのである。  ただしこれは世界の実在を疑うという意味ではまったくない。世界の現象を起こるに任せ、純粋な現れとし、そこで現れているものの実在についてはもはや断言しないということである。  世界の中で生きられたものが意味している一切を捨象し、生きられたものをそのものとして研究するという点において、エポケーは意識の普遍的構造を考えるための第一歩なのである(フッサールによれば、エポケーの次の段階が「現象学的還元」である)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かったような分からないような感じですが ひとつにギリシャ語を引っ張り出して来ているので 古代人に関係あるかも分かりません。  もうひとつに 基本的なこととして このエポケーのあとに得られる結果が 《もののあはれ》だということだと解釈します。  これをフッサールとしては 《純粋意識( reines Bewußtsein )》が得られると言っているようです。  ▲ (ヰキぺ:現象) ~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1  フッサールは、  哲学や諸々の学問に確実な基礎を与えることをもくろみ、  意識に直接的に現れている現象を直観し、その本質を記述する方法を追及した。  そのために彼は、外界の実在性について判断を中止し(=エポケー)、それでもそのあとに残る純粋意識を分析し記述する、という方法を採用した。  この場合、フッサールは現象について、本体などの背後にあるものとの相関については想定しない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あるいは 《本質直観 / 本質観取 / 本質看取 ( Wesensschau )》と言うのだそうです。  《もののあはれを知る》のほうが 理屈づけではなく全人的であると思われ その点 推奨されます。  《 Wesensschau 》は英語では Being's show と言っているのですから さしづめ《もののあらはれ》でしょうか。日本語とは 一字違いですね。  フッサールのほうは――わたし自身もおそるおそる言っているところがありますが―― 純粋意識を得て ようやく《生活世界( Lebenswelt )》に戻って来るという恰好にもなっているようです。くわしくは たとえば次のサイトをご覧ください。  ▼ (フッサールの方法とその諸問題)   http://mrmts.com/jp/docs/husserl.html  この現実に帰って来たときにも・そしてエポケーの状態であはれを感じたそのときにも 《おそれ》をひとは覚えるのでしょうね。《きよらかなおそれ》。  しかもこれは ものごころが着く前の幼児のときの《聖なるあまえ》と同じ筋の状態だと確認できるのではないでしょうか。  おそらくこのことを 《ハカラヒ》を《義》と言いかえて 親鸞は 《義無きをもって義とす》と言った。  一般にヨーロッパ人は ものごとを分析しすぎます。要素に還元しようとします。もっと全体論として捉える視点をも推し進めるのがよいと思われます。それには 日本人は――《ふつうの人》が――生活としてすでに実践している現実があるはずなのであり その生活の歴史の中からさらに哲学のあたらしい展開のために 見直すのがよい。歴史を洗い直すのがよいと考えます。  俳句や短歌は それだけでは 文学としてもまだ練れていないと考えますが その生活感覚の中に 哲学の鍵語が得られるかも分かりません。  当否を問います。

  • 原罪は 悪魔とともに 方便。無い。屁の河童。

     1. 原罪は 無い。方便として説明したのみ。悪魔としてのヘビが 方便として表現じょう用いられたのと同じだ。  2. 無明(≒煩悩)が 乗り越えられないものとしてあるのではないのと同じように 原罪が 不治の病いであるということはあり得ない。ブッダター(仏性)ないし神の霊がやどる存在である。  3. スサノヲ市民たる人間の《自治》が なかなか思うようにならない(=《苦》)ことの説明に 悪魔なるヘビとこの原罪なる観念が引っ張り出されたのみ。  4. 悪魔は 一般に想像されていたもので そのような人びとのあいだの通念を ヘビにかこつけて用いたのみ。分かりやすい。  5. 原罪という観念は 悪魔のしつこさに当てはめたのみ。ただ ひとの自由意志は ヘソを曲げることがある――それすらも 自由――と認識したのみ。  6. 世界の初めに じんるいの始祖たちのマ(間)のチガイを方便として引き合いに出したものだから このあやまちとそれを世代を経てシガラミとして引きずるさまを 白紙に戻す意味で イエスが十字架にかかって《原罪の贖い》という物語として説明した。のみ。  7. 人間の知恵や努力だけでは すべてを乗り越えることはむつかしいであろうが 人びとはすでにそれぞれ心の内にそのシガラミのシツコサから自由なチカラの湧き出るのをおぼえているのではないだろうか。    8. あとは 外なるシガラミのチカラ つまり社会力学上のクウキのようなチカラ これを屁の河童と見るという課題が残るのみ。それらは 人間の意志を踏みにじるという無効の意志に発した行為であり なかったことにひとしい。原状復帰させるべきことであるのみ。(盗んだものは 所有者に戻される)。  9. 外なるクウキのチカラに巻き込まれて行くことと 内から出る理性のワル知恵に誘われることとは 別である。  10. 悪魔は方便であり 無明も原罪もともに屁の河童であるなら 靄は晴れて行くはず。――これが 内なる心の問題だ。  批判を歓迎します。

  • ブッダ vs フロイト (つづき)

     諸法無我の説によれば トラウマは    ( a ) 《永続しない。    すべて空観のもとに縁起として起こる仮りの現象であり     それ自体の本性(自性)は無い》  と見ることになると思われます。  つまり    ( b ) 心的外傷は 現象として起きても 屁の河童である。  と見ることになる。  これで よろしいでしょうか?  もし たたき台としてなら    ( c ) トラウマは 存在しない。現象として起きても 直る。  この命題を掲げますが これらの事態について納得のゆく説明をおしえてください。いろんな観点からのお考えをお寄せください。  ( d ) ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  仏教的にいえば  「心的外傷は現象として起きても、心的外傷は本質的に無我、空である」  とは言えますが、「屁の河童である」とは言えません。  なぜなら、仏教の「無我」、「空」は存在の否定を意味しておらず、  物質的、精神的現象の存在性を認めているからであり、  因縁で生じたさまざまな現象が我々の肉体、精神へ及ぼす影響力を認めているからです。  ( e ) ◇ ~~~~~~~~~~~~  (おそらく、仏教では、瞑想や思索により心的外傷の原因を徹底的に分析し、  その実有性を否定して、心的外傷を克服するという手法をとるのでしょう、たぶん)  ( f ) ☆ ~~~~~~~~~~~  トラウマという現象が われわれの身と心に及ぼす影響を具体的にきちんと分析し検証するという作業が望まれる。――と考えられます。ここは ブディズムの真骨頂であるのではないでしょうか。  ( g ) ☆ ~~~~~~~~~~~  これは 基本的な伝統の哲学だと思われますので さらにそこへ精神医学を積極的にそしておそらく批判的に摂り入れて あたらしい医療哲学を形成して行けばよいと思われます。  そうでなければ 仏教はもう終わったかと言われても仕方がないのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ご見解を継いでください。あるいは初めにもどってご批判ください。  参考資料:  ▲(ヰキぺ:無我) ~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91  §1.1 原始仏教  『スッタニパータ』などの最初期の韻文経典では、無我はさかんに説かれる。それらによれば、「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが我ではない(諸法無我(パーリ語:sabbe-dhammaa-anattaa सब्बे धम्मा अनत्ता)と観察し、これを智慧(prajNa)によって理解すると、清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。   ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    この無我は「アートマン(我)」がないという意味で、    「あらゆる現象にはアートマン(実体)がない」、    「現象はさまざまな原因や条件で成立しているのであって、現象そのものに恒常不変のアートマンが存在するわけではない」    という意味です。   ☆ 木に竹を継ぐ言い方になりますが これは《あらゆる現象には実体なるアートマンが無い》ゆえに 《〈我執〉という現象も 変わり得ない実体にもとづくものではない》と解しておきます。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  § 1.3 大乗仏教  ・・・無自性を鮮明にし、空であることを徹底した。その論究の根拠は、従来の阿含経に説かれる縁起説であり、ゴータマ・ブッダ本来の仏教を取り戻すものであった。  このような「縁起―無自性―空」の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して、無我説からより発展した空の思想が完成した。  龍樹以降の大乗仏教は、インド・チベット・中国・日本その他のいたるところですべてこの影響下にあり、空の思想によって完結した無我説をその中心に据えている。  ● (ヰキぺ:心的外傷) ~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E7%9A%84%E5%A4%96%E5%82%B7  § 心的外傷(しんてきがいしょう)とは、  外的内的要因による衝撃的な肉体的、精神的ショックを受けた事で、長い間心の傷となってしまうことを指す。  外傷体験 (traumatic experience) ともいう。  これが精神に異常な状態を引き起こすとPTSDとなる。  § 概念  典型的な心的外傷の原因は、幼児虐待や児童虐待を含む虐待、強姦、戦争、犯罪や事故、いじめ、暴力、アカハラ、パワハラ、セクハラを含む悲惨な出来事、実の親によるDV、大規模な自然災害などである。  重度の心的外傷(トラウマ)によりPTSDなどの精神疾患が生じた場合は、精神療法(心理療法)や薬物療法などの治療が有効である。  ~~~~~~~~~~~~~