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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《神を見た》は 共有できるものではない。)

《神を見た》とは?

noname#156094の回答

noname#156094
noname#156094
回答No.3

> 《神を見た》は 共有できるものではない。 とは一概に言えないと思います。 たとえば アポロ計画で月に行った宇宙飛行士が 月から地球を見たときに思ったそうですが 「私は月を見るためにここに来たのではない、地球を見るために来たのだ。」 と 宇宙の漆黒の闇に浮かぶ青い地球は一体どのように見えたのでしょう。 真実のもたらす驚異的な感触は、《神を見た》とも言えるように思います。 見た者にとって、見る以前のヒラメキは不要です。 また、見ることに勝るヒラメキも無い状態だったはずです。 「個人における存在状況の一種のピーク」が見た時に訪れたと考えれば 見えたもの、そのものがヒラメキだったはずです。 つまり、有形のヒラメキだった可能性があるわけです。 そう考えれば、共有できる可能性もあると思われます。

bragelonne
質問者

お礼

 へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ここは――この質問は―― げんみつにまいります。  ☆☆(趣旨説明欄) (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。  ☆ つまり もし宇宙飛行士が  ★ 真実のもたらす驚異的な感触は、《神を見た》とも言えるように思います。  ☆ と言ったのなら それとして飛行士の主観の内において 真実だと言えると まづ考えています。    ただし問題は そのことが ほかの人びとによってそのまま共有されうるか? という問いであり 質問者のたたき台としては 否 だというものです。    ただし いま上に引いた一文は 微妙ですね。飛行士の主観の内なる体験を言葉にしたのではなく むしろその体験を追体験しているへたのすけさんの内面において 持たれた感触であるようにもうかがえます。  言いかえると そのような想像上の追体験においてすでに 飛行士の主観真実が ほかの人の内面において共有されたと たしかに見ておられるということかも分かりません。すなわち  ★ ~~~  「個人における存在状況の一種のピーク」が見た時に訪れたと考えれば  見えたもの、そのものがヒラメキだったはずです。  つまり、有形のヒラメキだった可能性があるわけです。  そう考えれば、共有できる可能性もあると思われます。  ~~~~~  ☆ というようにです。  そうしますと ひるがえって こういうことは 言えているのかも分かりません。  すなわち 飛行士の得た体験を想像するなら あたかもそこでは《神を見た》というような感覚をおぼえたのではないかと推理されうるのだと。  つまり《神を見た》というその真実の共有では必ずしもなくて きわめて微妙にそれとは違って 共有しえたのは 《神を見た》という感覚をおぼえたというような体験があったのではないかというその推定された想像内容が共有された。のではないかと。    たぶん ヒラメキ これも共有されることはないと考えます。  共有されうるのは そのヒラメキをすでに言葉にして表わしたその意味内容であるのではないか?   そう考えると むしろ当たり前だとも思われるのではないでしょうか。  ですから こう考えられます。  神を見たというその本人は――その主観真実について 一般に真実だと見なすと想定しているのですから―― その真実をそのまま言葉にして表現することは出来るし ありうるし それを人に伝えてもよい。  ところが その《見た》という体験そのものが ほかの人によって共有されることはない。共有されるのは すでに言葉にして表わした文章をつうじて 成し得るものならば 神の仮りの姿が受け留められたといったコトであろうと思われるのです。  そしてこのように《神を見た》なる真実そのものではなく そうではなくそのあと表現された文章をとおして神の仮りの姿(偶像)が捉えられ そのように伝えられたというコト これなら 仮りの神が共有されたわけである。そしてこのような事態のほうが コミュニケーションにとっては ふつうに経験的におこなわれると言えるのではないか?  ☆☆(趣旨説明欄) (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか?   ☆ 《するなかれ》というのは その神体験そのものの共有のためにということです。表現すること自体は 自由ですから。  すなわち人びとは 《神体験の共有》を目指すのではなく そうではなく 神の仮りの姿の共有を目指せばよい。のではないか。

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     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • 神に意志はあるか

     1. まづ 神は無いという信仰をお持ちのみなさんには むしろ一般論として 神には《人間に対して意志を見せるつもりはない という意志》がある。とお伝えしましょう。  2. ふつうは われという一人の主観の内において〔のみ〕 神はわれにその意志を示すことがある・・・とわが主観が思ったとしても 誰からも後ろ指をさされるということはない。と考えられる。  3. 神とわれとは タテの関係であり われと他のわれとは ヨコの関係である。  4. タテの関係が 信仰とも呼ばれる《非思考の庭》なる動態である。   ヨコの関係は 《思考の緑野と感性の原野》とでマジハリ(交通)をおこなう社会的な人間関係である。  5. ちなみに ヨコの関係なる場に 信仰から脱皮した宗教が棲息している。   宗教は 非思考から思考に移っているので 言わば《信仰という蝉の抜け殻》である。オシヘとは そういうカスである。  6. で要するに 神に意志があると見るのは 非思考の庭なる信仰にあっての話であり その場合のみである。  7. もし 《われ ‐ われ》なるヨコの関係において 神には意志があると成ったとすると たとえそうだとしても 直接の意味は生じない。タテとヨコとは 直接のカカハリを持たない。タテは 非思考なのだから。  8. ヨコの関係において神について話をしてもよいでしょうが それは基本的に神についての感想やまた思想としての話に限られる。 神論や信仰論〔ましてや宗教〕といった搾りカスと 生きた神や生きた信仰とは 別です。  9. つまり 人間どうしのヨコの関係では 神に意志があるとたとえ主観が見ているとしても その神の意志は お呼びではない。   フクシマは 神罰だといった夢物語にしかなりません。  10. それでも――つまり いま述べた話の全部をもってしても それでも――わが主観なる非思考の庭にわが固有の時を憩いながら過ごすとき 神は この世界のすべてのものごとをつうじて われにつねにメールを送って来てくれていると思ったとしても 何の問題もないでしょうね。(読めるか どうかの問題がありますが)。  ご批判を歓迎します。(率直に考えるところにしたがって 応答します。つまり反批判をもおこないます)。