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江戸時代の「三方領地替え」の理由
Wikipediaによれば、江戸時代を通じて11回の「三方領地替え」が行われています。 最初は、慶安2年(1649年)で、このときは 陸奥国白河藩主榊原忠次を播磨国姫路へ、姫路藩主松平直矩を越後国村上へ、村上藩主本多忠義を白河へ転封しています。 上記最初の例について、どのような理由があって幕府は、「三方領地替え」を命じたのでしょうか。 教えてください。よろしくおねがいします。 三方領地替え http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%96%B9%E9%A0%98%E7%9F%A5%E6%9B%BF%E3%81%88
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要衝の地姫路を幼少の松平直矩では心もとないので譜代のなかで四天王直系で勇猛な家臣団をもつ榊原忠次を播磨におきました。 あとは空いた白河も交通の要地のため同程度の所領をもつ譜代から選び本多忠義を白河へ、空いた越後に村上松平直矩という流れだと思います。
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- hekiyu
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回答No.2
コピペ 庄内への領地替を願い出たのは武蔵国川越藩主・松平斉典です。 この川越藩は財政破綻状態でしたので、 11代将軍・徳川家斉の51番目の子である紀五郎斉省を 養子に迎えたのを期に、裕福で知られた庄内への転封を画策、 大奥や幕閣の要人に手を回すなどした結果、 天保11年(1840)11月1日、幕府より3藩に対し 領地替の命令が出されました。 ここら辺りは、小説の舞台になっています。
質問者
お礼
ご回答ありがとうございます。 しかし、慶安6年の事例について質問したつもりですが…。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど、そういうことですか。 よく解りました。