- 締切済み
豊臣秀頼の話す言葉
豊臣秀頼に関するシナリオを書いています。 秀頼の話す言葉ですが、現在の大阪弁に近い言葉で話していた可能性は ありますでしょうか。 秀頼は大阪出身ということもありますので、出来れば大阪弁で書きたいです。 よろしくお願いします。
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
みんなの回答
- key00001
- ベストアンサー率34% (2878/8340)
> 秀頼の話す言葉ですが、現在の大阪弁に近い言葉で話していた可能性はありますでしょうか。 考えにくいと思います。 秀頼は、京都から尾張の一帯の言葉を解し、使用した可能性が高いです。 秀頼に至っては、秀吉が天下人になった後の子なので、秀吉ほど尾張弁丸出しと言うことはなかろうことは想像に難く有りませんが、一方では、言うまでも無く秀頼は、秀吉とも問題無くコミュニケーションを行えたハズです。 公式の場では、秀吉も秀頼も官位は公家ですから、御所言葉を使ったでしょう。 特に秀頼の場合は、秀吉と違って幼少期より公家として、最高レベルのエリート教育を施されたハズであり、当時の公家のエリートが話す言語は、言うまでも無く御所言葉です。 実際に生育環境などを見てみると、大阪城で産まれたものの、間もなく伏見城に移り、秀吉死後、遺命で再び大阪城に戻ってますね。 幼少期の秀頼の周辺は、淀君や乳母ら(宮内卿局,正栄尼,大蔵卿局など)は、主に近江など、秀吉や淀君にゆかりがある出身者です。 また成長した後は、前田玄以や大野治長など五奉行が最も近くに侍ったと思われますが、彼らも当然ながら秀吉にゆかりがある地域の出身者です。 具体的には、秀頼の周辺は、京・大阪~尾張の間で、比較的京都に近い地域の出自者ばかりで固められていた格好かと思います。 秀吉が秀頼を溺愛したことは良く知られていますが、秀吉は自分が成り上がりなので、秀頼には雅やかな教育を施したんじゃないでしょうか? それが、幼少期の生育環境を、尾張弁も通じ、比較的御所言葉に近い言語圏である近江周辺の人材で固めたと言うことではないかと思います。 但し、御所言葉は京都弁に強く影響を与えていますし、その京都弁と大阪弁は共通性も多く近い言葉です。 秀頼が大阪弁を全く使わなかったか?と言い切れるほどの根拠も無いですし、少なくとも大阪弁は充分に解したとは思いますよ。 言い換えますと、秀頼は当代の最高レベルの教養人でお坊ちゃまです。 現在で言えば、各国言語に精通しそれを流暢に話したとしても、不思議ではありません。 前田利家などとは尾張弁で気さくに会話し、徳川家康相手には形式的・儀礼的に御所言葉で話し、知行地の代官などに接見する機会があれば、大阪弁を話した可能性は、無いとは言えません。
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
#4です。大層なお褒めをいただき恐縮です。残念ながら一言として「大阪弁を馬鹿にし」てはいませんし、質問者様を嘲ったり挑発したりしてるのではありませんよ。「聞きづらい」「大人ならばもう少し社会節度のある言語表現を」といっただけです。「めっちゃ」や「ごっつ」は大阪で通用しても全国で通用するとは限らない表現であり、それもお笑い芸人が目立とうとして使っていることを踏まえずに使っているのでは大人げないものと理解されても仕方のないことでしょう。噺家の方々が高座でこの様な言葉を使うでしょうか。人前でキチンとした話し方をすれば相手に対しての印象も変わります。爆。 さて本題ですが、質問者様が使いたいとされている現在の大阪言葉は江戸時代以後に形成されたものとされています。それは都市としての大阪が幾つかのブロック的な構造に沿って築かれた都市だからです。現在の大阪言葉の源流とされる船場言葉は船場を拠点とする繊維産業に携わる人達が集まっていたことに起因します。従って豊臣秀頼が生きていた時代には現在の大阪言葉は使われていなかったともいえます。 また豊臣秀頼が生活していた大坂城は政治の場としての性格からそこで使用されていた言葉は宮中で使用されてい内裏言葉や公家言葉そして京言葉だったと推測されます。
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
江戸時代の式亭三馬の作品に『浮世風呂』があります。その中に登場する江戸の女性と上方の女性の遣り取りがあります。そこからは現在の大阪弁やら河内言葉などの形跡はみられません。 「ごっつ」「えらい」「めっちゃ」などわけのわからない言葉をテレビなどで余り垂れ流してほしくはありませんね。もっとキチンとした日本語表現があるでしょうに。
補足
大阪弁を馬鹿にしないでください。
- ikuzecia
- ベストアンサー率26% (364/1363)
大阪弁というか河内弁など話してなかったと思いますよ。 父親の秀吉は名古屋出身だし、淀殿の母親のお市は 生粋の名古屋出身、周囲の人も名古屋出身者が多いので 名古屋弁に近いのでは。 それか近江言葉。 むしろ、太閤殿下の子息とし都言葉で教育されてた かも知れません。
- WiredLogic
- ベストアンサー率61% (409/661)
>秀頼の話す言葉ですが、現在の大阪弁に近い言葉で話していた可能性は ありますでしょうか。 なかったと思います。 時代劇の江戸では、侍の使う言葉と、町人の使う言葉には、ハッキリとした違いがあり、実際に、ああいうふうにしゃべっていたかは別として、違っていたことは、間違いない、 昭和の、それも、戦後になってからでも、城下町で、お館(やかた)言葉と町場(まちば)言葉は、ハッキリ違う、ということはありました。お館言葉を使う階層は、早い段階で、表向きでは、共通語を使い、内向きでも、段々、そっちメインになったりしたため、方言としては、町場言葉だけが残ってしまったため、お館言葉自体、今となっては、ほとんど誰も知らないものになってしまった、ということだと思います。 博多・福岡市では、博多が商人主体の町、福岡が御城下の地名(福岡は、元々、黒田家の本拠地の地名で、それを博多に持ち込んだ、市の名前を決めるときも、それですったもんだがあり、市の名前は福岡だが、駅の名前は博多になった、今でも、生粋の博多地区の住人は、自分の出身地を、福岡だと言いたがらない^^)、と、ハッキリしていて、長谷川法正のマンガ「博多っ子純情」では、博多地区出身で、そこの高校に通う、バリバリの博多弁をしゃべる、主人公の男子高校生が、隣の福岡地区にあり、上品な福岡弁(お館言葉)を使う女子高生にメロメロになる、というシーンがあります。今では、博多弁に押されて、福岡弁は風前の灯ですが、城下町なら、どこにでも、目立つ目立たないの違いはあっても、似たようなことがある/あったはずです。 竜馬の出てくる映画・ドラマなどで、郷士である、竜馬や岡田以蔵は、バリバリの土佐弁をしゃべり、上士である後藤象二郎や、郷士でも上士相手に出世を目指す武智半平太は、時代劇で一般の侍が使う言葉を使い、プライベートでは土佐弁が混じるものの、竜馬のようにはしゃべらない、というような演出がされていますが、実際の言葉がどのくたいその通りだったかは別として、そのような身分による言葉の違いは間違いなくあったでしょう。 時代が違うので、そのままの議論が通用する訳ではないでしょうが、普通の大名でも、こういう具合ですから、秀頼の場合には、大阪城の外へは一歩も出ない(関ヶ原のように、秀頼が、幼児だろうが何だろうが、形だけでも出馬すれば、大勝利できた可能性のある局面でも)生活で、生まれながらに、形式的には関白、実質武家の頭領として、ふるまわなければならない身分であれば、それ相当の言葉の教育がされたでしょうから、町場言葉である、現在の大阪弁をしゃべったとは、到底考えられず、周りに仕える武士のお国言葉の影響があったとしても、織田家ゆかりなら、尾張・美濃、秀吉が自ら召し抱えた武士は、主に近江出身、ということで、そういうお国言葉の影響があったとしても、大阪弁にはならないでしょう。
秀頼は本当に大阪弁だったのでしょうか? 秀吉は名古屋弁、淀君は近江の言葉のはずです。 大阪弁の可能性は低いと思いますよ。
お礼
ありがとうございます。 一応大阪の人間なので熱くなってしまいました。 なるほど、京ことばの方が雰囲気が出そうなのでそれで押してみようと思います。