• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:コインキデンチア・オッポシトールム)

対立物の一致 〜神と人が共存するための命題〜

atomonadosの回答

回答No.13

こんにちは,お礼ありがとうございます。不覚にも「働く」を動くと読み違えていました。詳しく見ていきたいと思います。 >むしろ《対立》とは言わず 《矛盾》と言って これが絶対的なものだと捉える。おそらく物の有ると無いとの間に矛盾を見るのでしょうか?   まず大まかな回答をしておきます。絶対的矛盾は有と無の他にもありそうですが,おそらくそれらは「○○性の有と無という絶対的矛盾が必然的になければならない」と言えると思います。  順をたどっていきますと, >《対立》  これは,「物と物との相働く世界」においては,主体である物と客体である物の《対立》です。この《対立》は,相対的です。 >むしろ《対立》とは言わず 《矛盾》と言って   絶対化とは対立を独立とすることです。「物と物の相動く関係」を一体の「物」として独立させて見る立場と,「物と物の相動く関係」の部分の「物」として独立させて見る立場があります。  「一体の物」は内部に《対立》を含んでいます。「部分の物」は内部に《対立》を含んでいません。それどころか後者は内部に《矛盾》を含んでいると主張します。  前者は,後者が主張しているのは,むしろ《対立》とは言わず《矛盾》というべきだと言っていると解釈します。  ところが,「部分の物」観は,始めから内部に《対立》はなく,《対立》を《矛盾》に言いかえる必要を感じていません。 >これが絶対的なものだと捉える。  さらに,「一体の物」観は,「部分の物」が,《矛盾》は絶対的なものとして捉えるべきと主張していると解釈します。  ところが,「部分の物」観は,《矛盾》は絶対的なものとしても,相対的なものとしてもあると考えています。絶対的なものとして捉える必然性があるのは,対象が,他に依存せずあって独立的なものである場合だと考えています。  (物の存在を問うことをせず,物は有るとしておいて,)「物と物が相働く」ということは──言語一般の主語と目的語の関係をイメージしていただければ思うのですが──「主体と客体が相互作用する」ということに言いかえられるでしょう。  そして,相互作用する物と物の主客の立場は交換可能です。また,同じことなのですが,物一つに限って見れば,主体性,客体性の属性の転換が可能ということになります。  つまり,「一体の物」観では,主体と客体のそれぞれの立場が交換する相対的な関係を内に含み,「部分の物」観では,主体性や客体性のそれぞれの属性が転換する相対的な関係を内に含んでいると言えますね。  さらに吟味すれば,「一体の物」観では,主体でなれば客体,客体でなければ主体という関係が必然なのに対して「部分の物」観では,──物が真に独立であれば相対的な主体性や客体性というのは有りようはないので──(相対的)主体性もない(相対的)客体性もないだが(主客の相対を超えた能動性)絶対的主体性が有る(または無い)。あるいは再帰的に自己を客体として,主体性と客体性がそれぞれに有る(または無い)などと言われると思います。  「部分の物」観は,このような○○性の有と無の矛盾概念を,絶対的矛盾としています。対して「一体の物」観で,内包する対立が矛盾だとしてもそれは相対的矛盾にとどまります。    絶対的矛盾と相対的矛盾がどう働くか,よく調べる必要があると思います。  少し飛躍しますが,矛盾概念のもつ相互否定性は「一体の物」観では,もし相対矛盾が含まれる物同士にあれば,物と物の闘争として現れるのかもしれません。それに対して,「部分の物」観では,矛盾概念のもつ相互否定性は,ただ一つの物の中に必然的にあり,自己否定性として現れるでしょう。  自己否定性が変化の根源であるというのは弁証法的思想ですね。西田は弁証法を取り込んでいるでしょう。  「一体の物」観での相対的矛盾の他者否定性が弁証法的かどうか,ぼくはよく分かりません。  例えば,利害の対立ならば,それは矛盾対立ではないはずです。利がなくなれば害を被り,害がなくなれば利が得られるというような関係が必然的には成り立ちません。他者を害して,自らをも害すといったことがよく見受けられます。  ならば,他者を害して必然的に自らを利するなら弁証法的?矛盾の要件は整っているようですが・・・・どうなんだろう。  このへんにしておきます。例題の回答までたどり着けまんでしたが,保留ということで。

bragelonne
質問者

お礼

 あともさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  全体としてですね どうも《物》として話をすすめると 問題が整理されない嫌いがありませんか?    やはり 《人間》で対立なら対立の話をすすめる必要がある。こう思います。  物が有ったり無くなったりするのは 有と無とでは確かに矛盾ではありますが 人間にとってどういう意味があるのかとなると それは必ずしも明確ではない。どうでもよい場合さえあります。  ですから ことを人間のことにしぼって対立や矛盾を捉えて行くと 話は進むでしょうし 分かりやすくなると考えます。  という簡単なお応えをお返しして まづは 例の《絶対矛盾的自己同一》のサイトを しっかりと読んでみたいと思います。あまり問題にしないとしたとしても きちんとおさえておかないと大きなことは言えないでしょうから。  ひととおり読んでみます。

bragelonne
質問者

補足

 西田幾多郎の論文:  ◆ 《絶対矛盾的自己同一》   http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html  を読みました。  § 1 結論をまえがきします。  (1) 神学である。ただし そこから導き出した人間論は 実存主義思想に近い。   ◆ (四) ~~~  ( a ) 矛盾的自己同一的世界において、個物的多として何処までも自己矛盾的に一に対するということは、逆に自己矛盾的に一に結合することである。  ( b ) 故に我々は神に対することによって人格であり、而してまた神を媒介とすることによって私は汝(なんじ)に対し、人格は人格に対するということでもある。  ~~~~~~~~~~  § 2 用語にかんする意味を読み取り その遣い方としての特徴を捉えます。  (2) 《絶対》:これは ふたつの意味があるようです。   (2-1) ひとつは 神の絶対です。この経験世界を超えたところ すなわち 非経験の領域。つまり人間には経験しうべからざる隔たりのある場 これが想定されており 《絶対》と言って表わす。   (2-2) この経験世界における事物や事象は すべて移ろいゆくモノ・コトである。生あるものは死し 有は必ず無となる。この《必然性》という意味を以って 特に《絶対矛盾》というときの絶対を表わしている。  (3) 《矛盾》:したがってこの用語にも ふたつの意味がある。経験世界に存在する時間的・有限的・可変的なモノ・コトが 有と無との相転移を起こすことを言う。  とともに このような有無いづれかの状態にあることを余儀なくされる経験世界を超えたところ――つまり神――と人間とのあいだの隔たりとしての矛盾。  (4) 《自己同一》:これらの術語から明らかになるように この場合の《自己》とは 大前提としては〔想定上の〕神のそれである。議論の前提としてそれに対するに《人間》としての自己は その神の自己(そして自己同一)とは隔たりを持つ存在性を言う。   (4-1) 有無が定まらない存在として矛盾を有する人間(ほかのモノ・コトも同じであるが)の自己は 《矛盾的自己同一》としてある。言いかえると 《自己同一》ではない。   (4-2) 《自己同一性》を 人間は自己自身の能力と努力とでは 保てない。可変的であり しかもこの変わり得るという性質には 心が定まらないことがありうると言っている。心変わりがあり得る。つまりは《矛盾的なる自己同一》である。その矛盾は 神と向かい合うなら分かるように《絶対》である。   (4-3) けれども それにもかかわらず ( b )の命題〔(1)〕を提起している。神を持ち出しているにもかかわらず 実存主義の思想に近い。  (5) 《一と多》:多義的である。   (5-1) 《一》は 個別の存在としての一であるとともに それら個物の全体としての一でもある。さらには この《全体としての一》を 非経験の場において超えつつ包含するその意味での――つまり神としての――《一》をも意味しうる。   (5-2) 《多》は 個物の集まりとしての多である。その集まりの全体を意味することもある。   (5-3) 次の命題は いかに読むべきか?  ◆ ( a ) 矛盾的自己同一的世界において、個物的多として何処までも自己矛盾的に一に対するということは、逆に自己矛盾的に一に結合することである。  ☆ 《個物的多として》:これは《個物的多なる集まりの中のひとりの個物として》か?  《一に対する / 一に結合する》:たぶん《自己矛盾的に》というのは すでに解読したと思う。この《一》とは 何か? 《に結合する》場合には 神のことか? 《に対する》という場合には 人間としての――自由意志の有りかとしてそれぞれ違っているところの――人格存在としての一のことか?    (5-4) 《わたし》なる一にあい向き合うとき それは あやふやな同一性の自己である〔(4)〕ゆえ 高い次元の神の一に結合されて初めて一なる人格という状態に――なお移ろいゆくのであるが――成り得るのだと。すなわち続く( b )の命題が証明されたか?   (5-5) ちなみに ぶらじゅろんぬの定理ではこうである。    ・《わたしはわたしである》: 1=1    ・《〈わたしはわたしである〉わたしがわたしする》: 1x1=1    ・《あやまつなら われあり》:1―→ (-1)x(-1)=1      ・自省ないし自己批判ないし《われに立ち帰る》    ・ 《わたしはわたしである》の自己表現なる文体:1x1x・・・x1=1      ・《われに立ち帰る》:1^n=1    ・文体とは 一なる《わたし》の連乗積(ベキ)としての軌跡である。  § 3 原文について例解をこころみます。  (6) ◆ (四) ~~~~~   ( c ) 斯(か)くこの世界が絶対に超越的なるものにおいて自己同一を有つということは、個物的多が何処までも超越的一に対するということでなければならない、個物が何処までも超越的なるものに対することによって個物となるということでなければならない。   ( d ) 我々は神に対することによって人格となるのである。而して斯く我々が何処までも人格的自己として神に対するということは、逆に我々が神に結び附くことでなければならない。   ( e ) 神と我々とは、多と一との絶対矛盾的自己同一の関係においてあるのである。   ( f ) 絶対矛盾的自己同一的世界の個物として我々は自己成立の根柢において自己矛盾的なのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~   (6-1) ( c / e / f )は すでに通って来た道である。   (6-2) ( d )で《ひとが 人格となる》というとき  ◆ 行為的直観  ☆ という用語を用いて説明している。《直観》には 神に相対するわれ――ないしそのヒラメキ――が言われているはず。《行為的》というのは ひとの生まれ存在するその条件つまり所与のものとして与件 これを受け留め受け容れて受け身であるだけではなく そこから――儚いながらも――自己同一でありつづけようとするその意志行為を言う。これが 《人格となる》ことだと言う。   (6-3) すなわち:  ◆(三) 我々が自己自身を形成する世界の形成的要素として、《行為的直観》的に物を把握する所に、真理があるのである。そこには逆に世界が世界自身を証明するということができるであろう。   (6-4) あるいは:  ◆(二) 個物は何処までも表現作用的に自己自身を形成することによって個物である。しかしそれは個物が自己否定において自己を有つということであり、自己自身を形成する世界の一角であるということである。  ☆ 《自己否定において自己を有(も)つ》:自省や自己批判として《われに還る》ときの《否定的契機》を言っているようである。ややこの否定の側面を強く推し出しているきらいがあると思われる。《自己自身を形成する》すなわちわたしの文体をかたちづくりこれを うんうんとどこまでも――わたしはわたしよりほかの人格ではないのだから――推して生ききる。と言いたいためらしい。また 神との隔たりゆえに その否定的な作用をしばしば出して来る。いわく:   (6-5) ◆(三) 絶対矛盾的自己同一の世界において、直観的に与えられるものは、単に我々の存在を否定するのではない、我々の魂をも否定するのでなければならない。  ☆ 《否定》だけに目を止めると おやっと思う。その矛盾においてしかもそれを超えるような自己同一を みづからも人間として形成ししかも 不可変的な一なる神から与えられると。言いかえると この人生の動態の時間においては あやふやな人間の自己同一はささえられていると。     (6-6) さらにこの《否定的契機》の文例として:  ◆(三) ~~~  それは歴史的過去として我々の個人的自己の生命の根柢に迫るものでなければならない、我々を魂の底から動かすものでなければならない。行為的直観の立場において、歴史的過去として、直観的に我々に臨むものは、我々の個人的自己をその生命の根柢から否定せんとするものでなければならない。かかるものが、真に我々に対して与えられたものである。  ~~~~~~~~  ☆ この否定も 矛盾――すなわち 有と無 生と死 善と悪といった経験的な矛盾対立および それ以上に 神とのあいだの隔たりとしての絶対矛盾――を言いたいためらしい。読み違えやすいと言うか 表現に語弊があるようだ。つまり その《絶対矛盾》的にして さいわいなるかな 《われはわれなり。 / われあやまつなら われあり》としての立ち帰り得る自己同一へとひとは みちびかれて行くのだと。  これらが 人間の条件であると同時に すでに生きる場であり 言わば自由に選択しうるかたちで 生きる道が用意されている。道と言っても 見えていない。ゆえに 自由意志の出番となる。  (6-7) 人間にとって おのおのの自由意志の出番として捉えられるこのような世界は すでに人びとが生きて来た歴史と社会にあって むしろ《生産様式》という言葉で表わしている。  この《生産》には したがってむろん基礎として経済生活のことを言っており しかもそれだけではなく 政治および文化 学問および芸術のあらゆる人間の活動をふくむということらしい。  (7) うんぬん。さらにこうして 読み解いて行けると思います。  

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  • 貶すだけでは 前へすすまない。

     よしあしの二項対立を立てる思考から自由になろう。という問いです。  1. 悪は 存在しない。もしそうとすれば善を損傷させる・もともとは善なる意志からの――わが心にさからう心としての――思惟と想像とその実行のことを・つまり負の善を 悪と呼ぶだけである。  2. 聖と俗とは 人間とその思想や意志行為のあいだには 相い対立するふたつの事柄としてはありえない。これを互いに隔たりのある二項として捉えるなら そのときの《俗》であるしかない。  3. 自律と他律というのは それぞれが一面を捉えて言ったものであるに過ぎない。  親が決めた仕事をするのは 他律か? もしそれに従ったなら けっきょく大きく広くおのれを取り巻く情況を捉えて みづからの意志としてそれをえらんだに過ぎない。  自律と言っていても 社会の要請にこたえたり歴史の中からその要請のような流れを捉えてそれにこたえたりするに過ぎない。自他一体であるはずだ。  4. だから その世の中にあってさえ 自律を説く側に回るのは けっきょく《憂き世》を《浮き世》と言いかえているに過ぎない。  世の中は他律人間ばかりぢゃないかとうそぶく思想は 憂き世を乗り越えて出世したときには その身の保守のためにむしろ上にへつらう他律人間になるか それともあいにく成功しなかった場合には 浮き世ぢゃ浮き世ぢゃと騒ぎながら やはりこのわれこそが宇宙なんだとさらに嘯くことになるかだ。  これを問います。

  • おなじみ:悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     少し違った角度から 問い求めます。  ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義あるいはつまりそれらの互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉鎖する行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始するという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話に対する鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?

  • 悪に片向くことは 煮詰めて言えば 愛である。

     この詭弁におつきあいください。そして その当否について吟味・検証しつつ ご教授ください。        *  ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?  なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?  その心の片向きは 弱さから来るのか?  思うようにならないことにやけを起こすことからか?  ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?  けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。  おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起きる。  やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。  はっきり言えば おのれの死〔への道行き〕を意志がえらぶ。  けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。  愛である。  社会に生きるというその存在の互いの関係性にもとづく愛である。  おそらく生きることを欲するゆえに 生きることとしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見なかったことにはできない。という愛 からである。  世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。  なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。  愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして そういう生き方をわたしたちはえらんでいる。    知らなかったけれども 《わたし》はそれを欲したようなのである。悪を引き受けるという選択を。        *  《うつろいゆく・朽ちる・腐る》といった――つまり要するに ひとは時間的な存在であるから 死を死ぬというさだめにある――性質がある。  この《うまれて来て 生きて やがて寿命をまっとうして死ぬ》という《わたし》の時空間のウゴキに問題はない。  それは 言うなれば善であると思われる。  その善なる基礎としての自然本性・そしてそのうちの自由意志には この朽ちるウゴキをみづからが早めたりわざと欲したりする向きへも片向きそのように出来上がったヱクトルとして作用することが起きる。  これを 負の善 つまり 善の損傷と捉え 悪と呼ぶと考えた。  さらにはこの《悪》としてのウゴキ あるいは《悪》を――すでに身の周りや世界には起きているのを見てそれらを受け留め さらに――みづからが引き受けるという〔言ってみればコジツケのような〕《愛》のチカラおよびそのハタラキがある。のか?  悪に同調することと悪を引き受けることと。    考えてみれば 前者のよわいハタラキも すでに言うなれば愛である。ひとの存在をめぐって社会性ないし関係性の関数だという意味である。       *  《悪は 存在しない》という命題は 《悪に同調すること および 悪を引きうけること》といった《愛》の問題であった。  愛は すでに理屈抜きで 自然本性にあって――この自然本性なる心にさからって作用した自由意志にも対抗するかのように どん底より持ち上がり湧き上がって――その底力なるハタラキを表わす人間のチカラであるらしい。  《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》  悪につき合う悪。  それは 死のほうへ寄って行くようなことだが  しかも愛だ。        *  愛とは何だ? と言われるでしょうから さしづめ おのれを活かし相手をも活かすハタラキでしょうか。