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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:コインキデンチア・オッポシトールム)

対立物の一致 〜神と人が共存するための命題〜

atomonadosの回答

回答No.14

 こんばんは。『絶対矛盾的自己同一』全1103文中,【矛盾】と言う語は約30%の文で使用されています。  それでは人間の対立や矛盾について考えましょう。「ブロックで回答拒否」の例題がありましたね。  回答拒否は「善いこと」と「善くないこと」との意見の対立ではく,回答拒否「する人」と「される人」との対立が問題視されていると思います。  前者は顕かに矛盾としての対立です。後者は矛盾の対立という保証はありません。矛盾概念は,互いに否定しあう関係として,部分集合として互いに補集合の関係としてあります。ブラさんの「矛盾」という語の用法は論理的でないことを指摘しておきます。これがぼくにはとっても残念なことなのです。 > (3) 《矛盾》:したがってこの用語にも ふたつの意味がある。経験世界に存在する時間的・有限的・可変的なモノ・コトが 有と無との相転移を起こすことを言う。  とともに このような有無いづれかの状態にあることを余儀なくされる経験世界を超えたところ――つまり神――と人間とのあいだの隔たりとしての矛盾。  これは文学的表現として認めましょう。ミュートス(神話)もまた文学的です。西田はこう言っています。原始社会はミトス的である(二 18-8),論理が真の論理となるためにミトス的なものは否定されねばならない(四 2-9)。「そこには何処までもミトス的に我々を抑圧するものを否定し行かねばならない」(四 2-16)。  けれども,これより多く33の文でポイエーシス(創作)を用い,例えば「右の如く絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界は、またポイエシスの世界でなければならない」(一 6-1),と創作を肯定しています。世界が創作的に発展していくことを強調していると思いますが,神話的ではいけないのです。西田によるとですが。  もとにもどります。回答拒否「する人」と「される人」との対立を,絶対矛盾的自己同一的に解消するには,「回答拒否「する人」と「される人」との対立」全部を否定しなければなりません。「回答拒否「する人」と「される人」との対立」のような見方をしている自己をポイエーシス(創作)的に変えるということです。  「現前にある姿を否定する」「現前に有る姿を肯定する」これが矛盾であって,対立ということもできるけれども,相互いに補いあって転変していくことで,現実の世界がすすんでいきます。  現れを消去して,表しを表出し,その表象は現象であり,その現れを・・・。表現世界ですね。 > ○ この哲学カテにおいて ブロック制度を使用するのは 対話を拒みまた阻みあるいは対話の相手に例外をつくることになるゆえ いただけない。のではないか? それは哲学の精神に反する。  このブロックが対立関係をつくること もしくはすでに作っているところへ上塗りをするといったことについては 皆で話し合って出来るものなら共通の見解を立てておくのがよい。と。 共通の見解は立てないほうがいいでしょう。そもそも対立関係はないのかもしれないのだから。(う~ん。創作力足りずの回答ですね) ではこのへんで。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございました。  西田説の解釈と例題への回答など 参考にしたいと思います。  ここまでよくおつきあいいただきありがとうございました。

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  • コインキデンチア・オッポシトールム

     ・ coincidentia oppositorum  ・ coincidence( unity ) of opposites  ・ 対立物の一致(合一・統一)  これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが それは 所謂る《神のもとにおいて成り立つ》かも知れないとしても 実際に経験現実と成りましょうか? これが 問いです。  この命題は 調べてみますと すでに古代ギリシャの哲学に現われており インドや道教などにも見られると言います。  中で 次のような情報をこの質問のたたき台を述べるためのたたき台とします。  ▲(ヰキぺ:ニコラウス・クザーヌス) ~~~  ( a ) クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。  ( b ) 無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。  ( c ) すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ( d ) 中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ( d )については すでに【Q:ひとは カミの似像である】で問い求めました。《フラクタル構造》を成すのではないかという回答を得て これを一つの結論としました。  ただし  ▲ 認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ☆ とは わたくしは 捉えていません。人と神とのあいだには へだたりがあると見ています。  ( c )の前半すなわち《すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも》については ( d )と同じようであり そのとおりだと見ます。ただし 後半の  ▲ それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ☆ については 疑問を持ちます。《相互に調和している》のは 神の目から見てであろうと考えますが いまさきほど述べたように《神と人とのあいだには へだたりがある》と見ますので その《調和している状態》を人が見ることはむつかしい。こう考えます。  ですから すでに 《対立物の一致》は 人間にとっては 見ることが出来ないであろうというここでの問いになっています。すなわち  ( b )も《極大と極小(神と被造物)が一致する》のは  ▲ 無限の中では  ☆ ということであり すなわち《神の目から見て》なのだと捉えます。すなわち( a )につながります。    *  たとえば  (α) 坂道は 上りと下りとが互いに対立するかのごとくあるが 道として一致している。  といった説明には従えません。気持ちや能力が上がるのと下がるのとを例に取れば その対立状態にあることをないがしろにすることは出来ません。  (β) 有ると無い あるいは生と死 あるいは善と悪とは 神のもとで互いに違いがない。  と言ってもその《神のもとで》という条件は 人間にはただその想像においてしか分からない。つまり 現実においては 対立しつづけている。     *  あるいは いわゆる弁証法過程として この命題を肯定する場合があります。すなわち  (γ) 対立物の統一なる命題を解く鍵は 時間過程にある。自然の事象をも含めて 人間の社会と歴史は その時間的な行為とその錯綜関係として成る。ゆえに時間が解決する。(縁起共生?)  これは 一般に  (γ‐1)  矛盾する対立物が互いに闘争することをつうじて 新たなより高い次元においてそれぞれが変わった状態となり互いに調和を見い出すということだ。  とすると そういう場合には その中間の過程やそこにおける闘争が 人間にとっての人生であり現実だということになります。果たしてそうか? それ以外に 《和》はないのか?  またもしその  (γ‐2) 《中間の闘争過程》は やがて社会における所謂る格差の問題が適宜に根本的に解決されたなら 対立物の統一がその限りで完全に成った状態が出現する。  といった《いまの闘争の勝利の暁には》というかたちの《統一》理論には 与し得ません。《神の目から見て / 無限のもとで》という条件よりもわるいと考えます。それは 《人間が――つまり ヒトが生物として――変わる》と言っているのであり そのことだけを言っていればまだしも それが必ずや未来には社会全体として実現するといった展望を立てるのは お呼びでありません。仮りにそのことがほんとうだとしても 実際にその芽が出て来て兆しが現われたときに言い始めても遅くはないと考えます。     *  この対立物の一致なる命題は 西田幾太郎にも影響をあたえたようで   (δ) 絶対矛盾的自己同一  という表現として打ち出されたそうです。  このとき ここでは 形而上学として分かるなどとすら言わないで 次のようにたたき台を立てて問います。  (ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。  とです。この問いを自由に大胆におしすすめていただければ さいわいに存じます。よろしくどうぞ。  

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  • 究極の悪とは――存在について――

     《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。  ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。  ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。  悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。  ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。  つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。  さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。  これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。  言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。  ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。  ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。  これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。  果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。  * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。

  • 『善の研究』における神の概念

    西田幾多郎の『善の研究』の第二編第十章に「実在としての神」という章があります。 この第二編は「真の実在」を規定する部分です。 「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである」(第二編第二章) 意識現象は、刻々と移りゆくものである。 その意識の根底に不変の統一力(「統一的或者」)が働いている。 この「統一的或者」は、我々の思惟意志の根底にあるもので、同時に、宇宙現象における統一力でもある。 「神」が出てくるのは、そうした流れです。 「この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない、実在の根柢が直に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である」 さらにこの神は 「この点より見て神は無である」 「ただよく無なるが故に、有ならざる所なく働かざる所がないのである」 という存在でもあります。 西田の「純粋経験」の原理から導き出されたこの「神」の概念が、何度読んでもよく理解できません。 すでにお読みになり、ご理解していらっしゃる方に教えていただければ、と思っております。よろしくお願いいたします。

  • 貶すだけでは 前へすすまない。

     よしあしの二項対立を立てる思考から自由になろう。という問いです。  1. 悪は 存在しない。もしそうとすれば善を損傷させる・もともとは善なる意志からの――わが心にさからう心としての――思惟と想像とその実行のことを・つまり負の善を 悪と呼ぶだけである。  2. 聖と俗とは 人間とその思想や意志行為のあいだには 相い対立するふたつの事柄としてはありえない。これを互いに隔たりのある二項として捉えるなら そのときの《俗》であるしかない。  3. 自律と他律というのは それぞれが一面を捉えて言ったものであるに過ぎない。  親が決めた仕事をするのは 他律か? もしそれに従ったなら けっきょく大きく広くおのれを取り巻く情況を捉えて みづからの意志としてそれをえらんだに過ぎない。  自律と言っていても 社会の要請にこたえたり歴史の中からその要請のような流れを捉えてそれにこたえたりするに過ぎない。自他一体であるはずだ。  4. だから その世の中にあってさえ 自律を説く側に回るのは けっきょく《憂き世》を《浮き世》と言いかえているに過ぎない。  世の中は他律人間ばかりぢゃないかとうそぶく思想は 憂き世を乗り越えて出世したときには その身の保守のためにむしろ上にへつらう他律人間になるか それともあいにく成功しなかった場合には 浮き世ぢゃ浮き世ぢゃと騒ぎながら やはりこのわれこそが宇宙なんだとさらに嘯くことになるかだ。  これを問います。

  • おなじみ:悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     少し違った角度から 問い求めます。  ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義あるいはつまりそれらの互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉鎖する行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始するという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話に対する鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?

  • 悪に片向くことは 煮詰めて言えば 愛である。

     この詭弁におつきあいください。そして その当否について吟味・検証しつつ ご教授ください。        *  ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?  なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?  その心の片向きは 弱さから来るのか?  思うようにならないことにやけを起こすことからか?  ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?  けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。  おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起きる。  やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。  はっきり言えば おのれの死〔への道行き〕を意志がえらぶ。  けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。  愛である。  社会に生きるというその存在の互いの関係性にもとづく愛である。  おそらく生きることを欲するゆえに 生きることとしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見なかったことにはできない。という愛 からである。  世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。  なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。  愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして そういう生き方をわたしたちはえらんでいる。    知らなかったけれども 《わたし》はそれを欲したようなのである。悪を引き受けるという選択を。        *  《うつろいゆく・朽ちる・腐る》といった――つまり要するに ひとは時間的な存在であるから 死を死ぬというさだめにある――性質がある。  この《うまれて来て 生きて やがて寿命をまっとうして死ぬ》という《わたし》の時空間のウゴキに問題はない。  それは 言うなれば善であると思われる。  その善なる基礎としての自然本性・そしてそのうちの自由意志には この朽ちるウゴキをみづからが早めたりわざと欲したりする向きへも片向きそのように出来上がったヱクトルとして作用することが起きる。  これを 負の善 つまり 善の損傷と捉え 悪と呼ぶと考えた。  さらにはこの《悪》としてのウゴキ あるいは《悪》を――すでに身の周りや世界には起きているのを見てそれらを受け留め さらに――みづからが引き受けるという〔言ってみればコジツケのような〕《愛》のチカラおよびそのハタラキがある。のか?  悪に同調することと悪を引き受けることと。    考えてみれば 前者のよわいハタラキも すでに言うなれば愛である。ひとの存在をめぐって社会性ないし関係性の関数だという意味である。       *  《悪は 存在しない》という命題は 《悪に同調すること および 悪を引きうけること》といった《愛》の問題であった。  愛は すでに理屈抜きで 自然本性にあって――この自然本性なる心にさからって作用した自由意志にも対抗するかのように どん底より持ち上がり湧き上がって――その底力なるハタラキを表わす人間のチカラであるらしい。  《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》  悪につき合う悪。  それは 死のほうへ寄って行くようなことだが  しかも愛だ。        *  愛とは何だ? と言われるでしょうから さしづめ おのれを活かし相手をも活かすハタラキでしょうか。