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モナ・リザとナポレオンについて

ナポレオンはモナ・リザをイタリア遠征の際に献金として入手したそうですが、モナ・リザはフランス王フランソワ1世が購入して以来フランスにあるものと思っていました。 どのような過程でイタリアに渡ったのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • nacht246
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回答No.5

>イタリア遠征の際に献金として入手したそうですが  ひょっとしてナポレオンがヴァティカンのローマ教皇のコレクションから 『ラオコーン』や『うずくまるヴィーナス』などを接収する事となった 基の1797年のトレンティーノ条約の事をおっしゃっているのでしょうか。 尚、その後接収された作品の大部分はワーテルローの戦の敗北後に 1815年、神聖同盟によってローマに返還されたようです。しかし、 現在でも一部『アウグストゥス帝』のようにルーブルに残っている作品 もあるそうです。 >モナ・リザを 残念ながらモナ・リザがその接収された作品群に入っていたような話は 確認できませんでした。(戦利品となっていたのは古代彫刻が主だった ようです)ただ、 >どのようにしてナポレオンに渡ったかという過程でもいいので と求められておりますので一応、そこまでの経緯を調べた範囲内で 述べてみたいと思います。 モナ・リザ(La Joconde)について  美術史家ジョルジュ・ヴァザーリによれば、モナ・リザは1502年ごろ フィレンツェでレオナルドによって手がけられ、四年の歳月の後未完成 のまま残されたとされております。 その後、おそらく作品の依頼主には引き渡されることはなく、1516年 より後、晩年のレオナルドがフランスのアンボワーズ城の近くのクルー の館にフランソワ一世に呼び寄せられたとき、レオナルドによって クルーの館まで運ばれたものと思われます。  作者レオナルドの存命中は決して手放される事はなく、彼の死後、 彼の弟子のサライによって一時イタリアまで運ばれるのですが、 その後どのような経緯でフランソワ1世のコレクションに入ったのか は不明です。  ただ、1642年の時点で 「レオナルドの死後、生前彼自身から受けた相続によって4000エキュ (12000フラン)支払う事によってフランソワ一世のものとなった」 とされるこの作品がフォンテーヌブロー宮殿の宝物として存在していた 事は間違いないようです。  さて、十七世紀になりますと、領主の束縛を抜け出た農民や商人は ブルジョアとして成長し、領主であった封建諸侯の力が衰えるにつれ、 王権が強大となって、ヨーロッパの国々では中央集権的な政治形態が 生まれる事になります。その結果、ヨーロッパの文化と芸術の中心地 は教皇の権力が衰えていくイタリアのローマからもっと豊かで強力な 国家のフランスのパリに十七世紀半ばから、移っていく事になります。  そんな中、フランスの国王は絶対王政を確実に進めるために、フラ ンスの芸術家たちに王の権力を賛美させる務めを担わせるため、 芸術家たちに国王特許状を与え、文芸の振興と普及に力を入れさせ るという、いわゆる王立の絵画彫刻アカデミーを1648年に設立させる のです。  この王立アカデミーは画家たちを教育する過程で、実技と理論を 結合した体系化された法則を美の様式として望ましい様式だとする いわゆる「古典主義」をフランス中の芸術家に押し付けようとする ことになります。具体的には、絵画理論としてレオナルドの『絵画論』 を原則的なものとして教えていたのです。  そんなとき、1650年、モナ・リザはフォンテーヌブロー宮殿から当時 国王の宮殿であったルーブルに移され、1683年ルイ14世のコレクショ ンに入り、更に1695年にはヴェルサイユ宮殿のコレクションに加えられ 最もよく見えるよう、王の陳列室に展示される事となります。 (レオナルドのモナ・リザのようなイタリア・ルネサンス期の傑作が このように高く評価された理由としては、王の権力を誇示する目的も あったと思われますが、当時のアカデミーが推奨していた形態や構図を 強調する一方、色彩を第二義的なものと考えていくという「古典主義」 特有の絵の考え方の模範とみなされた事も理由の一つかと 思われます。)  尚、その後モナ・リザは1706年、一時テュイルリー宮殿に移されます が、1709年ヴェルサイユのコレクションに再び戻る事になります。 やがて十八世紀になると、今まで国家の芸術をしっかり握って芸術家 たちにきびしい規律を課していたアカデミーも、次第に規律をゆるめる ようになります。(縦に描くべき筆触を横に描いてるからレンブラント のようなな描き方はだめとか、カラヴァッジオは表現が0点だとか、 あまりにもくだらない規律の押し付け方だったのです)  さらに1715年、ルイ14世が亡くなると、貴族たちは今まで強制的に 住まわせられていたヴェルサイユを去り、パリに優雅な邸宅を建て、 室内の装飾をルイ14世時代の形式ばった堅苦しいものから、 優雅で軽い曲線美にあふれたいわゆる「ロココ形式」の装飾で 室内を飾る事を好むようになります。  それに応じて絵画も、形態や構図よりも軽やかな色彩を重視する ヴァトー、ブーシェなどの描く絵画の方が好まれ、また、重厚に描かれ た油絵よりも、むしろ軽いタッチで描かれている素描や版画のほうが 好まれるようになります。 都市の人口が増えていって経済が発展する中、とりわけ版画は 投機の対象として盛んに売買されるようになります。(この結果、 パリでは油絵よりもむしろ版画が非常に発達します)  つまり、ここで初めてイタリアの真似ではない、フランス発の独自の 文化が(ロココ様式)、啓蒙思想とともにフランスのみならずヨーロッパ 全体に広がっていくわけですが、一方、このロココ美術の流行によって 今まで国王によって収集された物語画などの「古典主義」の王室の 美術コレクションが収集家から敬遠されたり、保管状況が劣化する事 を恐れがあったので、国王側は、1750年~1779年にリュクサンブール 宮殿で国王の美術コレクションの中から100点ほどの絵画を選んで 一般に公開するようになります。 しかしモナ・リザはその展示品のリストの中にさえ入れられる事もなく、 (選ばれたのはフランスの絵画が中心だったようです。すでにフランス のパリが名実ともにヨーロッパ芸術の中心地となっていた以上、そうい う意味での自負はフランスにあったのかもしれません) やや忘れられた存在となって行き、1760年から1788年までは 建物の維持、建設をつかさどる省の局長の客間に遠ざけられ存在して いたのです。(Surintendant des Bâtiments) さて、十八世紀も半ばになると芸術ではポンペイ遺跡発掘による古代 ブームが始まり、さらには社会の変化に呼応して特にギリシャの古代芸 術を手本として男性的な力強さを表現しようとする「新古典主義」の 流行が始まり、あれほど隆盛を誇っていた「ロココ美術」も軽薄で 弱々しいとされ、かげりが見え始めてきます。 経済不況をその原因の一つとする1789年~1793年にわたった フランス大革命によって、ロココ時代には終止符が打たれ、 以後は色彩より線の美しさや量感がうとばれ、感じる事よりも考える事 のほうを重んじるいわゆる「新古典主義絵画」が「国家共同体」である 政府の認めた「公」の美術様式となります。 一方、今まで王室が所有していた美術品は一気に国民の所有となるこ とに決定が下されます。革命政府は王家のコレクションや亡命貴族たち から作品を押収し、ルーブルで1793年8月10日、公共美術館である中央 芸術博物館が開館することとなります。この新しい美術館に備わる作品 のリストの中に、モナ・リザは入れられる事になり、1798年、モナ・リザ はルーブルで展示される事になります。 その後、この絵をあがめるナポレオンによってテュイルリー宮殿の ジョセフィーヌの広間に運ばれるのですが(新古典主義絵画の御用画家 ダヴィットは彼により徹底的に重用されました)1804年、ナポレオンが 皇帝の地位に就いた年、再びルーブルのグランド・ギャルリーに 置かれる事になります。 やがて新古典主義絵画は第一共和制、帝政、王政復古の時代を通じて 国家の保護を受け、サロンを支配するといういわゆる「アカデミズム」 が十九世紀を通じて長く続くことになります。 (尚、1853年、アングル、ドラクロア、フランドロン、マイソニエ等が 集まった委員会において「官立中学校におけるデッサン教育に関する件」 という報告の中で、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画の原理はよく知られて いるので、その権威に頼る美術理論及び教育方法が望ましい、と再確認 されています) したがって、当然、レオナルドの代表作であるモナ・リザもルーブルに おいて不動の地位を占めていくのです。 (TOUT L'OEUVRE PEINT DE Leonard de vintiの解説などを参考に しました) ここも参考にしました http://histoireontheway.blogspot.com/2011/03/la-joconde-la-joconde-ou-portrait-de.html

JesseGlick
質問者

お礼

1797年に行われた講和条約のうちのひとつではなく その前年に占領したコムーネの献上品に含まれていたということでした。 素晴らしいです。 大変ありがとうございました。

その他の回答 (4)

回答No.4

●どのような過程でイタリアに渡ったのでしょうか? ○まずそれが事実かどうかという問題があるでしょう。  一般的には「フランス王フランソワ1世が購入して以来フランスにある」とされていますのでその話の出典・根拠がなにかによります。

JesseGlick
質問者

補足

ナポレオンについて書かれた資料にありました。 中途半端な回答で申し訳ないのですが作者名の記載はしないでおきます。 文末に参考文献が20冊程とURLがいくつか載っていましたが 全てチェックすることは不可能だと判断したので質問させて頂きました。 どのようにしてナポレオンに渡ったかという過程でもかまいません。

  • jyuedan
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回答No.3

No1です。やれやれ・・・ >ただwikiが丸ごと正しいとも思えません。 そういうことは、自分の思い込みが正しいといえる根拠があってはじめて言えることです。 質問者様は 【モナリザが、イタリアになかったという証拠がない=フランスにずっとあったとは限らない】 と言いたいようですが、これは【悪魔の証明】というもので証明は不可能です。 議論の世界では、これを言った方が負け(というかバカ確定)です。 この場合は質問者様が 【ナポレオンがモナ・リザをイタリアで入手した】 という資料を出すべきです、これを【告発側の立証責任】といいます。 また、質問者様は、自分でどれだけの事を調べた上で、人の回答に対して「丸ごと正しいとも思えません。」とか言っているのですか。 ここは、ただ思い付きを口にしてぼけーと待っていれば、親切な誰かが、詳しく文章を起してやさしく説明してくれるところだでも思っているのでしょうか? 私は努力している人の手伝いはしたいと思いますが、態度の悪い怠け者を甘やかす程の博愛は持っていません。 盗まれたとか言っているのは↓のことですか? これもNo1のリンクに載っていることですが、 【盗難】 1910年には、絵画や彫刻などの美術品を傷つける犯罪が相次いでいた当時の風潮を受けて、保護ガラスでできたガラスケースに収める決定がなされる。しかしその一年後の1911年8月22日、ルーヴル美術館から『モナ・リザ』が盗み出され行方不明となった。関与が疑われた詩人ギヨーム・アポリネールが逮捕され、さらに友人パブロ・ピカソも逮捕されたが、1週間後に釈放された。 『モナ・リザ』が行方不明となって2年後の1913年12月12日に、保護ガラスを取り付けた職人であったヴィンチェンツォ・ペルッジャ(Vincenzo Peruggia)という男によって、フィレンツェの画商に売られようとしたところを発見された。 ペルッジャは「ナポレオン時代にフランスに取られたイタリアの文化遺産を取り戻す目的で盗った」と証言していたが、実際には彼はアルゼンチンの詐欺師エドゥアルド・デ・"マルケス"・バルフィエルノ(Eduardo de Valfierno)に雇われており、バルフィエルノは贋作を作成してアメリカの富豪ら6名に売りつけていた(事件の詳細については『Valfierno: The Man Who Stole the Mona Lisa』(Martin Caparros著、ISBN 0-7432-9793-8)で紹介されている)。発見された『モナ・リザ』はイタリアで展示されたのち、フランスに返還されている。 まあ、ただwikiが丸ごと正しいとも思えませんからねえw。

noname#235638
noname#235638
回答No.2

フランスから盗まれてイタリアで見つかった。 この事実は、世界中で喜ばれたらしいですが、 イタリア人はどの国の人よりも歓喜したのです。 ラ・ジョコンダが里帰りした・・・と。 で、もともとイタリアのものだし、こんなにイタリア人が喜んでいるのなら フランスに返す前にイタリアで展示するか・・・ と地元のガイドは言っていました。 これも含めて「モナリザの盜難事件」の謎ですね。 何とかコードみたいな・・・

JesseGlick
質問者

補足

言われてみると何とかコードを見たら説明してるような気もしますね。 ただ盗まれたのはナポレオンの死後だったような記憶があります。 どのようにしてナポレオンに渡ったかという過程でもいいので 引き続きよろしくお願い致します。

  • jyuedan
  • ベストアンサー率36% (45/125)
回答No.1

>どのような過程でイタリアに渡ったのでしょうか? ナポレオンが遠征地で美術品の略奪をしたのは事実ですが、 モナ・はリザはフランソワ一世の購入以降、ずっとフランスにあったものです。 この程度は、自分で検索すればわかると思うのですが 【モナ・リザ】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%B6 以下、↑より引用 レオナルドは1503年にこの絵を描き始め、3年から4年制作にあたった。完成後もレオナルドの手元に置かれ、フランスのフランソワ1世の招きによりレオナルドと共にアンボワーズ城近くのクルーの館へ移り、その後1510年頃にフランソワ1世によって4000エキュで買い上げられ、フォンテーヌブロー宮殿に留め置かれたとされる。 さらにその後ルイ14世によってヴェルサイユ宮殿に移され、フランス革命後には現在の展示場所であるルーヴル美術館に落ち着いた。ただしその後もナポレオン・ボナパルトが滞在するテュイルリー宮殿を飾る目的でルーブルにあったほかの絵と同じく使用されたり、普仏戦争や第一次世界大戦、第二次世界大戦の際にフランス国内の安全な場所に移されたりしている。

JesseGlick
質問者

補足

そう思っていました。 ただwikiが丸ごと正しいとも思えません。

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