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新井白石、閑院宮、伏見宮

江戸中後期、有名な新井白石の時代に閑院宮が創設されて、その孫の代の人が光格天皇になって今の天皇家につながっているんですよね 一方で伏見宮という室町時代から連綿とつづいてきた宮家(今の旧皇族の本流)があったわけですが、新井白石の時代には同宮家は流れとしては細かったのでしょうか

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  • suicyo
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回答No.2

ANo.1 です。「補足」について簡単にコメントします。単なる感想です。 なぜ閑院宮家の祐宮がチョイスされて光格天皇となったのか、については、ウイキペディア(光格天皇)にも簡単に経過が書かれています。 ただ、ものの本などを見ても殆ど注視されていないのですが、光格天皇の出自は天皇としては異例で、正史には記録されていない悶着が種々あったのではないかと私は勝手に想像しています。 平安時代以後~今日に至るまで、天皇の生母は皇后(中宮)ではない側室・女官であっても、その出身は上中級公家の姫君です。ただ、数人の例外があって、光格天皇の母もその例外の一人で、庶民の出身です。 江戸時代までの皇室では、身分の低い母親から生まれた皇子は幼児のうちに寺に入れられるのが一般的です。蛇足ですが女子も同様で、上中級公家の姫君から生まれた皇女だけが結婚できます。 光格天皇は母が庶民ということで、生まれる前から皇位継承の対象者どころか「スペアですらない」ような存在であり、現実に生後すぐに聖護院門跡の継承予定者とされており、本来ならば少々の番狂わせが起きてもお鉢が回ってくることは無かったはずなのですが‥

gdh3375
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます、鋭い洞察おそれいります。 祐宮さまは閑院宮家の第六王子だそうで、いくらでも候補はいそうなものですが、現実はそうではないということでしょうかね。 当時八歳、うーん、タイミングが恵まれていたのか。後桃園天皇の一人娘が生まれたばかりっていう年齢差も関係ありそうですね

その他の回答 (1)

  • suicyo
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回答No.1

閑院宮家の創設以前は伏見宮、八条宮(桂宮)、有栖川宮の3親王家がありました。 伏見宮は桃園天皇の頃までは直系で継承されています。途中に継承の危機はありましたが。その後、一旦、桃園天皇皇子の貞行親王が相続しますが、次の邦頼親王からは伏見宮の血統に戻っています。親王家の中では極めて安定的に継承されています。 八条宮は正親町天皇の皇胤ですが2代で断絶。その後は5代連続で後水尾・後西・霊元天皇の皇子が相続しています。世襲というよりは、皇位に就けない皇子たちが交代で1代限りの親王家を作った、とでも言いたくなるような実態で、宮号も度々変わっています。 有栖川宮は後陽成天皇の皇子1代で断絶。その後は即位前の後西天皇が継承し3代で断絶。その後は霊元天皇の皇胤によって継承されます。 本来ならば、天皇本家の断絶に備えて世襲親王家が温存されていたのですが、上記のように、江戸時代の前中期は3親王家のうち2親王家が「断絶→天皇本家からの養子相続」の常態化という、本来の目的からは逆の状態となっていました。このような状況下で、閑院宮家が創設される訳です。

gdh3375
質問者

お礼

ありがとうございます ほぼ完璧な回答、おそれいります  ただ・・

gdh3375
質問者

補足

ただ(すいません)、この話しには続編があるんじゃないですか 閑院宮家が創設されてから光格天皇即位までには何十年も時を経ており、 その間、天皇家も伏見宮家も細々とつないできた? そこへもってきて、後桃園天皇崩御の後、さあ大変だれにするかって大問題に直面した時 たまたま子だくさんの閑院宮家から立てるしかない、といった状況だったんでしょうかね

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