ダヰ゛デに何が起こったか?

このQ&Aのポイント
  • ダヰ゛デが人妻に恋慕し、彼女の夫を戦争に送り込んで死なせた。
  • 質問者はダヰ゛デの行動の背後にある動機を知りたいと思っている。
  • ダヰ゛デに起こった出来事の真相について質問者が詳細を求めている。
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ダヰ゛デに何が起こったか?

 次のようなうたをうたい続けていたダヰ゛デが 何を思ったか 王となってからは 人妻に恋慕し 挙句の果ては その夫を戦争の最前線に送りやって死なせた。女を自分のものにした。何が起こったのか? おしえてください。たたき台は ありません。  ▼ (詩編26:2) ~~~  わがかみ  わたしをしらべ  わたしをこころみ  わがはらわたと  わがこころを  火のなかに  ためしてください。  ~~~~~  ☆ たとえば人妻強奪作戦に出たのは 神の指図であったかと言うと そんな運命論のような予定説には 興味がありません。思考停止となるか この世で良い目に会うためにのみ思考を勘考するだけとなる。  ダヰ゛デとて 人の子。あわれむべき人間である。といった見方も おもしろくありません。どんな事例にもあてはまりそうな事由です。思考放棄になりかねません。  果てさて ダヰ゛デにいったい何が起こったのでしょう?  お考えがありましたら おしえてください。(質問者のたたき台はありません。上のふたつの場合の中間だとか そういう考えも起こりません)。

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noname#143207
noname#143207
回答No.12

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。 > ☆ もしこのように視野を開くかたちに賛同いただけたのでしたら 話は――初っ端に述べましたように また わたくしにとっては―― 分かりやすくなって来ました。  この度は、どうも失礼致しました。  概ねまとめますと、以下のようになりましょうか。 ・「旧約の時代」と「新約以降の世界(キリスト・イエス以降の世界)」では、律法に対する考え方・捉え方が異なる。 ・バテシバ事件におけるダビデの行動とその処罰に関しては、その罪を神が取り除いてやるというかたちにおいて、「キリスト・イエスの愛」と共通するところがある。その意味での自然史過程にある。 ・もしくは、アブラハムに起きた信仰の原点への《立ち帰り》が、ダビデの身と心において成った。ゆえに、ゆるされた。 ・なぜゆるされたのかについては、ひとに対して説得不可能な要素を持つ。つまり「キリスト・イエスの時代としての愛」の世界であり、そういう自然史過程である。 ・であるならば、ひとこと神は「すでに旧約の時代においてあたらしい契約の世界にも入っているのだよ」と言って欲しかった。言っているようなんですが 果たしてどうなんでしょう?(エゼキエル書33:11)  4. では ただし なんぢ姦淫するなかれというモーセの戒律を犯したその罪を 神はどういうわけでゆるしたのか?  5. アブラハムの信仰が その文章が規範とされ律法として持たれるようになった。もしこの信仰のための養育係としての律法が正式に与えられているのであれば その条文の違反を どのように取り扱うのか。どう扱えば 明らかな違法行為をいともかんたんにゆるすことが出来るのか?  6. これは ゆるしてはいけないと言うためではなく 人びと一般がどう納得するかたちを取ったのか? これを知るために問い求めるものです。通俗に言えば ダヰ゛デひとりをそうたやすく赦すのであれば 社会生活として見れば しめしがつかないではないか? という問いです。  なお、“4”、“5”および“6”についてなのですが、以下の福音書を見る限りにおきましては、モーゼの律法の罰則は意外と曖昧であったように見受けられます(もし、厳密ですと、即座に連行されて処刑されていたかと推察されます)。 ヨハネ伝 08:03-08:05 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」  ですが、“6”にもございますように、“ダビデをそうたやすく赦すのではしめしがつかない”のではないか?、との疑問も持ってしまいます。 > ☆ 律法という養育係あるいは 規範とされたからには何らかの目隠しのような覆いを 社会としては正式に掲げつつ 人びとそれぞれの主観としての内実において後世のキリスト・イエスの愛をじわじわとにじませつつ しめそうとしていたでしょうか?  これは、あくまで愚見ではございますが、自然法がどのようにして生まれた・形成されたのかを考えてみましたときに、突き詰めますと、神のご意志等にまで行き着くものと思われます。 「自然法が人間には直接的には認識不可能であるという立場からは、何らかの補助手段を用いることが要求される。その場合、キリスト教の自然法論は、神からの啓示を重視する。それは、専ら新約聖書および旧約聖書から得られる指図である。典型的な啓示は、モーセの十戒である。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95   例えば、今回出てきております“姦淫”でございますが、我が国でも、“売春禁止法”により、ある程度の制限がなされています。そこで、当法律の律法主旨は、以下の条文から“人としての尊厳を害し”、“性道徳に反し”、“社会の善良の風俗をみだす”が問題であるからとされています。  ですが、例えば援助交際のように、自らの意志で行った場合では“尊厳を害する”ことに繋がるのか?という疑問もございます(金銭の授受の契約がなされていますと、被害者はいないと思われます)。さらにスイス、ドイツやオランダでは、売春は合法化されておりますが、登録制、年齢制限等が設けられる等、国・自治体の管理下におかれておりますが。  では、なぜ“売春”が一般的に”道徳に反し”となるかを突き詰めましても、明確な答は得られないものと思われます。おそらく、これは”自然法”に帰するものかと考えております。やはり、“性行為の乱れの行き過ぎ(十戒の姦淫)”は、社会秩序の混乱を招く恐れがあることを、それとなくほのめかしていたのかもしれません。 売春防止法 第一条 この法律は、売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものであることにかんがみ、<略> > バテシバあるいはその子ソロモンに対する〔ようになる〕ダヰ゛デの態度が 自分の思わくはなくまったくにおいて神の声に従うものであるということでは 一致した見方だと受け取りました。  ご賛同いただきまして、厚くお礼申し上げます。 > 次の点について ダヰ゛デが終始 夢遊状態であったという見方は 修正したほうがよいようですね。  了解致しました。 > ★ ~~~~~  なぜ、そこまで[キリスト・イエスの降臨が]遅れたのかにつきましては、残念ながら愚生にはわかりません(全国に広まる、という条件、つまり、最大帝国であったローマ帝国の頃を待っていたのかもしれませんが、それ以上のことは残念ながら・・・)。  ~~~~~~~ 里程標のひとつとして 掲げました。  どうもありがとうございます。 ただ、以下の福音書にもございますように、神だけがご存知なのかもしれませんが・・・ マルコ伝13:32 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。 > まとめに向かうことができましょうか。  そう願ってございます。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 自然法  ☆ という法もしくは法源 あるいはさらにその法源としての神の法(永久法)といった視野のもとに 旧約≒律法の時代とそこから抜け出て来るあたらしい契約(むしろ無契約というほどに 無根拠のもとに なにかがはたらく)の時代との照らし合わせをおこなっていただきました。  律法からは いまの主題になっている姦淫の問題を取り上げ そして現代においては売春防止法におけるその問題の扱い方を 説明いただきました。  昔むかし 法源といえば 法律条文に明文がなければ 慣習法にもとづくのであり 慣習法も明確でなければ 条理によるのだとおそわりました。その教授がいかにも法律家(法学者)のように見えたものですから よくおぼえています。  木の板にも その縦・横の筋目がある。この筋目に沿って板は切るのであって その筋をたがえるならば 困ったことになる。この筋目が 人間と社会との道筋としての条理であると。  だとすると 自然法ないし自然本性とは 理性ではないでしょうね。ただ単に理性というのではないでしょうね。心というふうに広げておいたほうがよいでしょうし 境地と言って その現存在といった存在のあり方や動態を捉えてその平安や健全なる筋道のことを言ったほうがよいのかも知れません。  その奥に むしろ無根拠としての神の場があるということでしょうか。  無根拠としてこそ いわゆる国際法も 自然法にもとづくというかたちになるのかも知れません。  ところで  ▼ (レビ記20:10) ~~~~  人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は  姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。  ~~~~~~~~~~  ☆ とあります。そして 他方では――時代を隔てているでしょうが――  ▼ ( イザヤ書 55:7) ~~~   神に逆らう者はその道を離れ  悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。  主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。  わたしたちの神に立ち帰るならば  豊かに赦してくださる。  ~~~~~~~~~~  ☆ とも しるされています。  ○ ダヰデもバテシバも 《立ち帰り》が成った。  ☆ と受けとめることとします。その説明は むしろ無根拠のもとにあって 他人には分かりがたい。と。  ちょっとあっさりし過ぎましたでしょうか。  あとは――あたらしい回答者のあたらしい見解がまだあるかも知れませんが それをも含めて―― しばらくのあいだ みなさんからも補遺やまとめを書きこんでいただくために 開けております。    まことにありがとうございました。みなさんにも 感謝申し上げます。これからもよろしくお願い致します。  

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回答No.29

こんばんは、bragelonneさん。 【QNo3385985あなたの抱く《これぞ 日本人》をおしえてください】 http://okwave.jp/qa/q3385985.html ■渋沢栄一 『フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80 安田善次郎翁 暗殺事件 http://homepage1.nifty.com/oiso/sub2.htm ●★ 【伊藤伝右衛門】  ☆ そう言えば どこかで三井炭鉱でのストライキが 死亡事件にまでなったと書いたようなおぼえが。 ↑ そうなん??? 「あー なんやろ、しっくりいかんわ。」は、 脱線して「伊藤伝右衛門」さんの話を読んどった。って、いいましたやん。 そそ、このお話をお話として読みいっとったんです。 読み終えたあとの読後感が、もやもやと、なんや、せつのうなる。 で、つぶやいたの。 ● 経営者ないし指導者が えらいさんに限られているとしたら それは一般人の中から もっともっと人材が出て来ればよいだけであって それが押さえられているとは もはや 思えない。努力が足りないとこそ考えられまいか。 ↑ 日々の努力は、怠られへんやろうけど、それだけかな? 船頭多くして船山に登るいうしね。 適材適所に人を配置することで、個々の個性が花開き活かされることもあるのとちがう? ●一般人の中からもっともっと人材が出て来ればよいだけであって ↑ いやいや、それだけじゃあかんよ。 その人、その人にどんな能力が潜んでいるかを見抜き育てるスカウトマンも おらなあかんのとちがう?

bragelonne
質問者

お礼

 りとうきすねえさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ▼ (ヰキぺ:) ~~~  § 1953年ストライキ・・・は当時、「英雄なき113日間の闘い」ともてはやされ、三池労組は一躍その名を高めた。  § 炭鉱労働者の自治区   以後、三池労組では労使協調派は力を失い、灰原茂雄を中心とする向坂門下の活動家たちが影響力を振るうこととなった。  ・1955年(昭和30年)には、三池労組は三井鉱山に対して、労働者が退職した際には必ずその子女を採用することを認めさせた。  ・また、労働者自身で各労働者の収入を平均化させるために、割の良い仕事と割の悪い仕事を労働者が交互に輪番制で請け負う制度をつくるなどして、三池炭鉱はさながら労働者の自治区のような様相を呈することとなった。  ・一方で、1953年のストライキの成功によって一部の炭鉱労働者が増長し、事務職員に因縁をつけて吊るし上げたりするようになったため、事務職員は次第に炭鉱労働者との連帯意識を失っていった。  ~~~~~~~  ☆ そして《1959~60年ストライキ》に移るというようです。そこでは――すでに石炭は斜陽産業になっていましたから―― 敗北が待っています。  日本も一般にその後労使協調の路線が採られて行くわけですが こんな争議をするくらいなら クレスピダッタでの労働者の生活向上を優先させる行き方も わるくないと思われます。  ★ ■ 渋沢栄一 『フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より  ★ 安田善次郎翁 暗殺事件  ☆ 日本にも クレスピ父子に負けない産業人・経営者がいるんだぞということでしょうか。企業ムラをつくるのとは別の行き方で これらの傑出した経済人もいたのだぞと。  ★ 【伊藤伝右衛門】  ☆ は むろん三井三池炭鉱とは 地域も少し離れており 時代も違うようです。  華族の娘の曄子が 駆け落ちしたことが せつないのか。それとも そんな目に遭っている伝ネムしゃんが せつないのか。  ★ そそ、このお話をお話として読みいっとったんです。  ☆ 《読みいっとったん》 この言い回しは 初めて聞きました。いろんな表現があるのですね。《読み行く》・・・《ついその話にはまってのように 読みすすめていた》という意味でしょうか?  ★ ~~~  その人、その人にどんな能力が潜んでいるかを見抜き育てるスカウトマンも  おらなあかんのとちがう?  ~~~~  ☆ そりゃあまあ そうだろうけれど。あなたが成ればいいぢゃないですか。  あるいは 上司は部下の一人ひとりについて そのスカウトマンの目で じっときちんと見ていますよ。あるいは 一人ひとりが 自分にかんしてスカウトマンの目で見るようにすればよいだろうし 人びとは互いにその良さや得意な分野について認め合い 上司に勧めてやればよい。  ★ 適材適所に人を配置することで、個々の個性が花開き活かされることもあるのとちがう?  ☆ おいしいとこを持って行くなぁ。  ダヰデには バテシバ ダヰデの子のソロモンには シバの女王。

bragelonne
質問者

補足

回答No.28

おはようございます、bragelonneさん。 ● ☆ ん? 変わったんかい? ↑ お風呂でポン! http://trendy.nikkeibp.co.jp/news/life08q1/557259/ ●クレスピダッタのほうは どないでしたか? ↑ ああ、脱線して「伊藤伝右衛門」さんの話を読んどった。 【伊藤伝右衛門】 http://www.h7.dion.ne.jp/~wordword/sakuhin/denki/ito_denemon.htm 【筑豊の炭鉱画、国内初の「記憶遺産」に 山本作兵衛作】 http://www.asahi.com/culture/update/0525/SEB201105250050.html http://www.montage.co.jp/yama/message.html 【貝島炭鉱】 http://hasiru.net/~maekawa/mine/kaizima/kaizima2.html http://hasiru.net/~maekawa/mine/fukuoka.html 【産業遺産】 http://www.sorachi.pref.hokkaido.jp/so-tssak/html/index.html http://www.world-heritages.com/tomioka.html 【世界遺産クレスピダッダVillaggio Crespi d’Adda と「カンパニィパターナリズム」】 http://www.ohkagakuen-u.ac.jp/tosho/kenkyukaiyo/9th/11_morita.pdf ―――――工場に密接に拘束された労働者は,地域社会として会社の経済的利害を優先することを当然と考え ,社会的要求や階級闘争,労働組合活動から遠ざかったのである。 ―――――,学校,病院,洗濯場,公衆浴場,生活協同組合,運動場などを建設し,労働者の家の台所のカマド から病気の治療まで,労働者たちにとって必要なものに広く注意を払い,村の公的秩序とその維持を監督したという。 【電源立地地域対策交付金を活用した事業概要の公表について】 http://www.enecho.meti.go.jp/info/dengenkoufukin.htm あー なんやろ、しっくりいかんわ。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ あー なんやろ、しっくりいかんわ。  ☆ しっくり行かんのかい。     ★ お風呂でポン!  ☆ あぁ バテシバが 入浴中をダヰデに見られたちゅうことか。  ★ 【伊藤伝右衛門】  ☆ そう言えば どこかで三井炭鉱でのストライキが 死亡事件にまでなったと書いたようなおぼえが。  ★ 【世界遺産クレスピダッダ Villaggio Crespi d’Adda と「カンパニィパターナリズム」】  ▼ ~~~~  工場に密接に拘束された労働者は,地域社会として会社の経済的利害を優先することを当然と考え,社会的要求や階級闘争,労働組合活動から遠ざかったのである。  ~~~~~  ☆ この中で 《社会的要求》からは遠ざかっていないはずだ。所有者=経営者からのお仕着せであったとしても その要求は議題に挙がっているはずだから。  そのムラの外の世界へ視野を広げなければならないという批判は持ち上がるかも知れない。ただそれもこれも この会社共同体の成功と繁栄いかんによっていると言えるようにも思われる。よそでも そういうやり方を成功させるとよいと考えられるから。  つまり 現代においても トヨタ・ムラにしても 決して湿っぽい温情主義によるのではなく けっきょくムラと会社とが協力してそれぞれの社会を自由によく築きあげていくしか道はないのではないか。  経営者ないし指導者が えらいさんに限られているとしたら それは一般人の中からもっともっと人材が出て来ればよいだけであって それが押さえられているとは もはや思えない。努力が足りないとこそ考えられまいか。    なんで  ★ お風呂でポン!  ☆ やねん? わたしのほうが バテシバねえさんよりもうつくしいゆーことか?

回答No.27

おはようございます、bragelonneさん。 ●☆ ぱちんこで石を飛ばして命中したという。 (二股になった木にゴムの紐を張りつけ ゴムを伸ばして勢いをつけて石を飛ばすパチンコ)。 ↑ スリングショット? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88 それとも… カタパルト? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%95%E7%9F%B3%E5%99%A8 【古代の皮革】 http://www.hikaku.metro.tokyo.jp/images/pdf/155pdf/02.pdf ●これを聞いたゴリアテはダビデに突進した。 ダビデは袋の中から1個の石を取り出して勢いよく放った。 石はゴリアテの額に命中し、彼はうつ伏せに倒れた。 ↑ まぐれ? それとも… ヘルメスのご加護? ヘルメスは、旅人、商業、羊飼いの守護神とか? 一撃必殺できるほどに、日頃から訓練していたのかしら? ゴリアテだって、まさか丸腰の(武装してない)相手にこうも容易く射止められるとは 思ってもみなかったことでしょうね。 まあ、なんにしても人が人を殺めるって話は、ここちいい話ではないよ。 ●ダビデは剣を所持していなかったため、ゴリアテに近寄って剣を奪い首をはねて止めを刺した。 ↑ その場にいないものが、あーだー、こーだ、言うのもなんなんだけど… なぜ、ダビデは止めを刺したんだろう? 一瞬、われをなくしてたんじゃないかな?ダビデは。 相手は倒れてるんだから、その間に逃げ去るとかさ、 相手を縄で縛って、お互いの気の高ぶりが落ち着いてから 話し合うこともできただろうに。 食うか食われるかの世界で何に甘っちょろいこと言ってんだと どっかから、野次とんできそうだけど… 一介の羊飼いがゴリアテに止めをさす理由がわからない。 “まぐれ”当たりだったんじゃないかと… 圧倒的体格差のある相手だけに怖さが先だった 倒れた相手が起き上がってきたら… 誰よりもその怖さを感じていたのがダビデで、あったとしたら… ダビデは、百発百中の名手ではないように思う。 ただの羊飼いなんだろうな。

bragelonne
質問者

お礼

 りとうきすねえさん おはようございます。ご回答をありがとうございます。  おひとりで ボケもツッコミも演じておられるので もう言うこと無し。  ★ ただの羊飼いなんだろうな。  ☆ ん? 変わったんかい?  いや 何と言っても 問題は 民族ごとに分かれて生活をしていること。互いに敵どうしでした。個人どうしの争いではなく。  とどめを刺すのは 相手の人びとが 民族全体としてこちらにとって敵となっているからです。見せしめなのでしょう。  パチンコは スリングショット。  ヘルメスは ユダヤ人にとっては 神ではないようです。《主=ヤフヱー》がいるわけですから。  クレスピダッタのほうは どないでしたか?  ダヰデは 自分が仕えたサウル王を追い落とそうとしたわけではなく 王位を奪ったわけではないようです。最後まで仕えました。  連戦連勝のあと 王にねたまれ命を狙われるようになってからは あちらへ逃げたりこちらで隠れたり逃避行の日々でした。  仕返しをすることはありませんでした。そのときに 《詩編》のうたをうたったと言います。  ▼ (詩編  46:1-12) ~~~~~  1: 【指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。】  2: 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。     苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。  3: わたしたちは決して恐れない     地が姿を変え      山々が揺らいで海の中に移るとも  4: 海の水が騒ぎ、沸き返り    その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ  5: 大河とその流れは、神の都に喜びを与える    いと高き神のいます聖所に。  6: 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。    夜明けとともに、神は助けをお与えになる。  7: すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。    神が御声を出されると、地は溶け去る。  8: 万軍の主はわたしたちと共にいます。    ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ  9: 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。    主はこの地を圧倒される。  10: 地の果てまで、戦いを断ち    弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。  11: 「力を捨てよ、知れ    わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」  12: 万軍の主はわたしたちと共にいます。    ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ  ~~~~~~~~~  ▼ ~~~  10: 地の果てまで、戦いを断ち    弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。  ~~~~~  ☆ これは その後三千年経ちますが まだのようですね。どうでしょう?

回答No.26

こんばんは、bragelonneさん。 ●ダヰデは ただの羊飼いだったんだよね。 ↑ 仮に、ただの羊飼いだったとしてもよ、 ただ、棒ふって野っ原お散歩してるだけの仕事じゃないようね。 羊飼いって、いやいや、なかなか、こりゃどうして、ちょっとした商社マンぽくない? http://www.toyo-sec.co.jp/china/column/yawn/pdf/r_071.pdf 【羊と他の物との交換】 http://wiki.livedoor.jp/ffxi_gm/d/%A5%CD%A5%AF%A5%ED%A5%DD%A5%EA%A5%B9%A1%A1%CD%D3%A4%CE%BC%E8%B0%FA 羊飼いが必要に応じて羊を、物や役務と交換する交換の形態については様々ある。 村でよく使われる職人の製品との羊の交換(村内で融通するのに使える) 日干し煉瓦作りや井戸浚いなどの役務との交換 隊商相手の場合は帰路での贈答を期待しての餞別(せんべつ) 遊牧の民相手の場合は種羊の交換など ●★ “教えて!goo” ☆ スクロールすると 画面がゆらゆら揺れる。どうして? “教えて!goo”。 ↑ 熱もっちゃった? 【QNo.2284106ディスクトップパソコンの冷却について】 http://okwave.jp/qa/q2284106.html 【QNo.ネットの画面をスクロールすると揺れます。】 http://okwave.jp/qa/q6126009.html ↑ これ、みてみて で、 埒があかなかったら… こっち、みてみて ↓ 【ゆれの正体は…これかも?】 http://androider.jp/a/e209ea7a8ec54b26/ 夏ですから…  (^_-)-☆まあ、こんなかんじ “ 幽霊の正体見たり枯れ尾花 ” (ゆうれいのしょうたいみたりかれおばな) まずは、お試しあれ~♪ 

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは りとうきすねえさん。ご回答をありがとうございます。  ▼(ヰキぺ:ダビデ) ~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%93%E3%83%87  ペリシテ人の戦士ゴリアテを倒したことはダビデの名を高めた。  ゴリアテ退治に名乗りをあげたダビデは、巨人ゴリアテが「さあ来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」と嘲ったのに対し、    お前は剣と槍を頼りに戦うが、私はお前がなぶったイスラエル   の神を頼りに戦う。    戦いは剣と槍の力で決するものではないことを人々は知ること   になるだろう。    これはイスラエルの神の戦いである。  と答えたという。  これを聞いたゴリアテはダビデに突進した。ダビデは袋の中から1個の石を取り出して勢いよく放った。石はゴリアテの額に命中し、彼はうつ伏せに倒れた。ダビデは剣を所持していなかったため、ゴリアテに近寄って剣を奪い首をはねて止めを刺した。  ダビデはその後も戦功をあげていくが、やがてその人気をサウル〔王〕にねたまれ、命を狙われた。サウルはダビデ殺害の命令を出すが、ダビデの親友であったサウルの息子ヨナタンの手助けで逃亡することができた。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ ぱちんこで石を飛ばして命中したという。(二股になった木にゴムの紐を張りつけ ゴムを伸ばして勢いをつけて石を飛ばすパチンコ)。  商社マンっぽいかなぁ。  ビデオドライバって?  ★ 【ゆれの正体は…これかも?】  ☆ ったく!  教えて! goo だけ画面がゆれる。ほかは だいじょうぶ。でも 熱くなっているかも。部屋の隅に置いてあるから。  どこかで 親をころすとか言ってる。おっそろしい。投稿してましたね。  いま ブロックを全部解除した。大道は無門なりゆえ。  まだ暑かったね。風は熱風でもないようだけれど。  ★ 『量子力学の誕生と数学』  ☆ やっぱし計算式は歯が立たなかった。  ★ 『景気変動をめぐる経済学各学派の理論的特徴について』  ☆ いまひとつ乗らなかった。  ★ 【産業的協同社会的新世界】  ☆ このフーリエもいたけれど つぎの社会実験は どうよ?  ○ クレスピ村 Crespi d'Adda    http://www.amomilano.com/crespi.html  ○ クレスピ村とは Villaggio Crespi d'Adda   クレスピ村 アッダ川の工員の村   世紀末の工員村 - 労働の理想郷 - ユネスコの世界遺産    http://www.villaggiocrespi.it/jap/  ★ 【発想の思考法と技法】  ☆ 仮説法 abduction なら 出しましたよ。  【Q:虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6759902.html   回答No.27の補足欄・お礼欄  ★ 【QNo. 4803472けんかをしては 何故 いけないのか】  ☆ このとき・このころは 我れながら 油が乗っていたかも。何でも来いというような。  ★ 【イスラームにおける寛容ークルアーンと法学に基いてー】  ☆ これがまだ。  ★ 【QNo.2284106ディスクトップパソコンの冷却について】  ☆ ありがとう。(^_-)-☆

回答No.25

こんばんは、bragelonneさん。 ●ご回答をありがとうございます。 URL はもっと少なくていいです。 どうぞお気遣いなく。 ねえさんの声を聞くだけで元気は出ますから  お薬は控えめに。 ↑ と、言われてしまえば…ぐーの音も出そうにないのですが、、、 そこはそれ、ここはここ“教えて!goo” ヽ(^o^)丿ぱぁーっと、ご陽気に~♪ (^_-)-☆ 『日本全国酒飲み音頭』 本日はお忙しい中を多数ご参加下さいまして誠に有難うございます。 まずは皆様方のご健康を祝して 乾杯!! 酒が飲める 酒が飲める 酒が飲めるぞ 酒が飲める 飲めるぞ 酒が飲めるぞ 一月は正月で酒が飲めるぞ 酒が飲める 飲めるぞ 酒が飲めるぞ 二月は豆まきで酒が飲めるぞ 酒が飲める 飲めるぞ 酒が飲めるぞ 三月はひな祭りで酒が飲めるぞ 酒が飲める 飲めるぞ 酒が飲めるぞ 四月は花見で酒が飲めるぞ 酒が飲める 飲めるぞ 酒が飲めるぞ 五月は子供の日で酒が飲めるぞ 酒が飲める 飲めるぞ 酒が飲めるぞ 六月は田植で酒が飲めるぞ 酒が飲める 飲めるぞ 酒が飲めるぞ 七月は七夕で酒が飲めるぞ 酒が飲める 飲めるぞ 酒が飲めるぞ 八月は熱いから酒が飲めるぞ 酒が飲める 飲めるぞ 酒が飲めるぞ 九月は台風で酒が飲めるぞ 酒が飲める 飲めるぞ 酒が飲めるぞ 十月は運動会で酒が飲めるぞ 酒が飲める 飲めるぞ 酒が飲めるぞ 十一月は何でもないけど酒が飲めるぞ 酒が飲める 飲めるぞ 酒が飲めるぞ 十二月はドサクサで酒が飲めるぞ 酒が飲める 飲めるぞ 酒が飲めるぞ ヨーシ!!それでは続いて日本全国飲み歩いて行こう!!   北海道は毛ガニで酒が飲めんでないかい 酒が飲める 飲めんでないかい 酒が飲めんでないかい 秋田はキリタンポで酒が飲め~るぞ 酒が飲める 飲め~るぞ 酒が飲め~る~ぞ~ 山形はサクランボで酒が飲めんだの 酒が飲める 飲めんだの 酒が飲めんだの 茨城は納豆で酒が飲めっペョ 酒が飲めっぺ 酒が飲めっぺ 酒が飲めっぺョ 静岡はお茶と一緒に酒が飲めるズラ 酒が飲める 飲めるズラ 酒が飲めるズラ 京都は舞子はんと酒が飲めるどす 酒が飲める 飲めるどす 酒が飲めるどすえ 富山は越中フンドシで酒が飲めるぞ 酒が飲める 飲めるぞ 酒がのめるぞ 岡山は吉備団子で酒が飲めるゾナ 酒が飲める 飲めるゾナ 酒が飲めるゾナ 愛媛は伊予カンで酒が飲めるでの 酒が飲める 飲めるでの 酒が飲めるでの 長崎はカステラで酒が飲めるバッテン 酒が飲める 飲めるバッテン 酒が飲めるバッテン 鹿児島は西郷隆盛と酒が飲めるとよ 酒が飲める 飲めるとよ 酒がのめるとね 沖縄は行った事ないけど酒が飲めるぞ 酒が飲める 飲めるぞ 酒がのめるぞ 日本全国どこへ行っても酒が飲めるぞ 酒が飲める 飲めるぞ 酒がのめるぞ 酒が飲める 酒が飲める 酒が飲めるぞ 酒が飲める 飲めるぞ 酒がのめるぞ ●「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」 ↑ ひつじが1匹、ひつじが2匹、ひつじが3匹……(p_-)……(-_-)zzz (-_-)zzz (-_-)zzz ↑ ●「あなたの子孫はこのようになる。」 ↑ 寝る子は育つ \(^O^)/ 『量子力学の誕生と数学』 http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/report/2-pdf/2_tetsugaku1/2_07.pdf 『景気変動をめぐる経済学各学派の理論的特徴について』 http://iwata-yamana.jp/cn6/pg128.html 『OEM契約とライセンス契約の違い』 http://www.jetro.go.jp/world/qa/i_basic/04A-010822 『不確実性マネジメントにおける組織選択と組織進化』 http://www.hosei.ac.jp/fujimi/riim/img/img_res/201003Matsuno.pdf 【新会社法の会社設立とLLP・LLCの活用】 http://www.333sun.net/ 【ガイダンス】 http://www.law.okayama-u.ac.jp/~ryusuzu/3a01.htm 【商法】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E6%B3%95 ●で けっきょくひとつの焦点は 《対立物の一致》でしょうか?    あるいは そのように《二律背反》があたかも解消してしまうような《特異点》のこと。  ダヰデの犯した罪と それを悔いてもとのこころに立ち帰る姿 これら二つが   いと高きところでは対立することなく受けとめられるという究極の場。  的をはづしましたか。 ↑ 【けん玉】 http://web-japan.org/kidsweb/ja/virtual/kendama/kendama06.html http://web-japan.org/kidsweb/ja/virtual/kendama/kendama07.html (^_-)-☆チャレンジしてみてください。 【QNo. 4243519現実は、虚構であるのでしょうか】 http://okwave.jp/qa/q4243519.html 【QNo.5017592日本人は 死んだのでしょうか】 http://okwave.jp/qa/q5017592.html

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 【QNo. 4243519 現実は、虚構であるのでしょうか】  ☆ これを読んでみたけれど おもしろそうだが ちょっと発展はないかもと思ってしまった。  おっと ねえさん こんばんは。酒もほどほどに。ご回答をありがとうございます。  ★ 『量子力学の誕生と数学』  ☆ 読んでみるかも。  ★ ~~~   的をはづしましたか。   ↑  【けん玉】   (^_-)-☆チャレンジしてみてください。  ~~~~~~  ☆ してみたよ。レベル1で 4回目に成功したところでやめた。そう言えば けん玉は遊んだことがなかった どういうわけか。周りで見たことがなかった。  お薬 たまっちゃったから  ★ ひつじが1匹、ひつじが2匹、ひつじが3匹……(p_-)……(-_-)zzz (-_-)zzz (-_-)zzz  ☆ と行きましょう。  ★ “教えて!goo”  ☆ スクロールすると 画面がゆらゆら揺れる。どうして? “教えて!goo”。  きょうから 暑さはやわらいだ。たぶん あしたも。  ダヰデは ただの羊飼いだったんだよね。

回答No.24

追加 【QNo.5343872自由か平等か】 http://okwave.jp/qa/q5343872.html

bragelonne
質問者

お礼

 とほほほほ。

bragelonne
質問者

補足

 ★ 【QNo.5343872自由か平等か】  ☆ こちらを先に読みました。  ばななさんどさんは でーんと構えてゆったりと答えていますね。  あなたもひどっちさんも回答しています。  わたしもなのですが あまり覚えていなかったのですが どうしてかなぁ。  なかなか 自然科学のことを何とかこなそうとしつつ 食い下がっているようです。けっこう長い――少しは おもしろいと感じるような――やり取りだったようです。  で けっきょくひとつの焦点は 《対立物の一致》でしょうか?   あるいは そのように《二律背反》があたかも解消してしまうような《特異点》のこと。  ダヰデの犯した罪と それを悔いてもとのこころに立ち帰る姿 これら二つが いと高きところでは対立することなく受けとめられるという究極の場。  的をはづしましたか。

回答No.23

こんばんは、bragelonneさん。 ●きょうは 特別に暑かった。 昼からいままでは ぼーっとしていた。 きょうはどこへ遠出でしょうか? はーぁ?ったく、「昼からいままでは ぼーっとしていた」ですって??? で、「きょうはどこへ遠出でしょうか?」ってか?! シラー、ありえん、ありえへん、しんじられん あっ!?かかった クソー 腹立つ ほでも、この曲流れると つい口づさんでしまいたくなる…歌っちまうぅぅぅ… しんじられない ことばかりあるの もしかしたら もしかしたら そうなのかしら~♪ ●こうでししょうか? だったら ねえさんのおっしゃることはよく分かりますが  たとえばこのダヰデの話に当てはめるのは いくらか離れ業であるように思えますが  果たしていかがでしょう。 ↑ フリなが!!!ったく あー暑うー、暑気払い、暑気払い お盆やし、木魚たたいて暑気払い ポック、ポック、ポク♪ ポック、ポック、ポク♪ 飛びまーす!HTML びゅん~ 【「魔の川」、「死の谷」、「ダーウィンの海」】 http://www.jagrons.com/archives/2007/10/post_142.html 【発想の思考法と技法】 http://www.biwako.shiga-u.ac.jp/jrc/annual-no8/no8-6-5.pdf 【産業的協同社会的新世界】 http://www.syugo.com/3rd/germinal/review/0040.html 【QNo. 3325968ほにゃらか形而左右学 「ちから」2】 http://okwave.jp/qa/q3325968.html 【QNo. 4642854悪は 存在しない】 http://okwave.jp/qa/q4642854.html 【QNo. 4803472けんかをしては 何故 いけないのか】 http://okwave.jp/qa/q4803472.html 【QNo.186872誤字・脱字、言い間違い、…そして誤解?】 http://okwave.jp/qa/q186872.html ●その後サラとアブラハムに――もう百歳とか言っているのに ―― 子はさづかったようです。独り息子。 (ただし それまでにはなかなか子が出来ないので アブラハムはサラが同意したので  側女のハガルとの子をすでに生んでいる。イシュマイルと言って   かれが アラブ民族の祖となったと 言い伝えられている。  アブラハムのいるところから離れた所に住ませた)。    といったふうに物語は展開します。 ↑ それにしても、酷なことをする。 子が成人するまで、親は生きているのか? 高齢で子を授けるって、今でいうところの人工授精? 【QNo. 4346850もし”意思”の力で子供を作るものだとしたら】 http://okwave.jp/qa/q4346850.html

bragelonne
質問者

お礼

 (TT)ブヒィ。もう一つおまけに (TT)ブヒィ。  ご回答をありがとうございます。URL はもっと少なくていいです。どうぞお気遣いなく。ねえさんの声を聞くだけで元気は出ますから お薬は控えめに。  ▼(ヰキぺ:アブラハム。その嫡子イサク) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%A0  彼は老齢になっても嫡子に恵まれなかった(〔* 故郷の〕ハランを出発したときは75歳)が、神の言葉   「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」   「あなたの子孫はこのようになる。」      (創世記15:5)  の通り、後に老妻サラ(サライ)との間に嫡子イサク(イツハク)を授かった。アブラム100歳の時の事である。  アブラム137歳の時、妻サラは127年の生涯を閉じた。そして、アブラムは175歳で世を去った。  ~~~~~~~~~~~  ☆ とのこと。こういう物語でございまする。  さらに:  ▼(ヰキぺ:イシュマエル) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9E%E3%82%A8%E3%83%AB  カナンの地に移住したアブラハムは子宝に恵まれなかった。  すでに75歳だったサラは自分には子は授からないと思って、若い女奴隷ハガルを連れてきて、夫に床入りを勧め、老齢のアブラハムが奇跡的に身ごもらせた。  しかし妊娠するとハガルはサラと不和になり、夫アブラハムは慣習に従い女主人に従うように命じたため、サラの辛い仕打ちに耐え切れなくなったハガルは身重の体で逃亡。  神の使いの説得と加護を約束されて、ようやくハガルは帰還して出産することになるが、神の使いからは、息子はイシュマエル(「主は聞きいれる」の意)と名づけるように指示され(創世記. 16:11)、「彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす」との予言を受けていた(創世記. 16:12)。  ところが、再びアブラハムには主の啓示があり、今度は90歳になっていたサラが奇跡的に身ごもって出産。そうすると、庶子イシュマエルと妾が邪魔になったサラによって、母子は砂漠に放逐されるが、前述の神の使いの加護によって助かる。  ~~~~~~  ☆ だとさ。  ★ それにしても、酷なことをする。  ☆ 一面があるとわたしも思います。  ★ 高齢で子を授けるって、今でいうところの人工授精?  ☆ 何とも・・・。ナゾとしときましょう。  あとは あとで。  きょうはやっぱり暑かったよ。  

回答No.22

こんにちは、bragelonneさん。 豊かな男と貧しい男の関係を 地主と小作人とおくと… さしづめ旅人(神の使い)は… 地頭かな?徴税人? 領 主 地 頭 地 主 小作人 ダビデの時代の農地改革って? 【農地改革(農地解放)】 http://homepage3.nifty.com/yoshihito/nouchi.htm 【日本農業の市場経済化に関する課題】 http://seminar.econ.keio.ac.jp/tamada/thesis/graduate/06/endo.pdf

bragelonne
質問者

お礼

 りとうきすねえさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  きょうは 特別に暑かった。昼からいままでは ぼーっとしていた。きょうはどこへ遠出でしょうか?  その後サラとアブラハムに――もう百歳とか言っているのに―― 子はさづかったようです。独り息子。(ただし それまでにはなかなか子が出来ないので アブラハムはサラが同意したので 側女のハガルとの子をすでに生んでいる。イシュマイルと言って かれが アラブ民族の祖となったと言い伝えられている。アブラハムのいるところから離れた所に住ませた)。  といったふうに物語は展開します。  ★ ~~~~  さしづめ旅人(神の使い)は…  地頭かな?徴税人?  ~~~~~  ☆ そりゃあ旅の人なんだから たぶん何でもあり なんぢゃない?  イスラームの寛容についてまだ読んでいません。ぼちぼち。  ★ ダビデの時代の農地改革って?  ☆ って?  ★ 【日本農業の市場経済化に関する課題】  ☆ ずっと前からひとつの課題でしたし いまもそうですが――ご研究中ですか?―― やはり専門家に任せるというええ加減な態度をいまは採っています。あしからず。でも 研究発表がありましたら ご相伴にあずかります。そのとき勉強します。  

回答No.21

こんばんは、bragelonneさん。 ●“第二のアダムではない” ●《神のようにならないため》 ここふたつのkeyが気になってる ってゆうのはね、 (二) 宗教的寛容 http://www1.doshisha.ac.jp/~knakata/newpage1.html 我々はここで大上段に構えて宗教の定義を論ずる必要はなかろう。ただデュルケムに倣い、宗教が個人的営為でなく、社会的営為であり、教団の存在を前提としていることを確認しておけばよい。 一般的「寛容」と区別された特殊宗教的「寛容」なるものがあるとすれば、その領域はどこにあるのであろうか。 直ちに思い浮かぶのは宗教儀礼と信仰であり、「宗教的寛容」とは「他人の宗教儀礼、内心の信仰を容認し、干渉しないこと」を意味するように思われる。しかし実はここでも問題はそれ程単純でもない。 我々の科学的常識からして迷信であるばかりでなく、あきらかに野蛮、生物学的、社会学的に有害と考えられる宗教儀礼、あるいは特定の成員を犠牲の生費に捧げるような儀礼を放置することは宗教的寛容と言えるであろうか。特に社会全体としてはその儀礼の正当性が広く受け入れられていたとしても、その儀礼によって犠牲となる当事者が、それを望んでいないといった場合にはいかなる対応が「宗教的な寛容」なのであろうか(1)。 上の例は我々自身は傍観者の立場にある、即ち前述の意味で能動的立場にあることを措定してのものであるが、我々自身が状況に巻き込まれ当事者の立場となる受動的状況も当然存在しよう。例えば異教徒は不浄な賎民として遇する、という宗教儀礼を持つ人々の間では「賎民」として振る舞うことが寛容なのだろうか。あるいは逆に旅人は神の使いとして饗応する儀礼を有する宗教に対しては「神の使い」として饗応に応じるのが寛容なのか、それとも自分は「人間」であるからとして拒否するのが寛容なのか。あるいは余所者は皆、悪鬼だとして殺してしまう宗教を持つ村に迷いこむ、といった極端な例を考えることもできよう。 このように考えてみると、信仰は内心の問題であるという考え方が、実は宗教戦争、政教分離の歴史に規定された特殊西欧的宗教理解に過ぎず、実際には信仰が内心の問題にとどまる場合はむしろまれで、多くの場合には信仰の違いは行動パターンの違いとなって現れるということが分かろう(2)。 信仰が一定の行為を伴い、なおかつ受動的立場に立たされた場合は、「寛容」に振る舞うことは、時には自己の内心の信仰、或いは信念の放棄を必要とし、時には生命をも危険に晒すことになる。―――――――――― 第一のアダムは、善悪の木の実を食べたことによってものごとを 善であるか悪であるかを考えるようになったんだっけ? ナタンがダビデに話した二人の男の話を聞いて激怒し、断罪を下したこと。 ここよくわかんない。斟酌なし。―――即決してるあたりが。 旅人は神の使い、神の使いをもてなすことがひとつの儀礼になっていたんだよね、この時代。 饗応とかいうんだよね ●豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。 ●貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。 大量生産―手作り生産 物の価値からいけば、希少性を加味するなら手作り生産のほうが高価。神の使いをもてなすことが儀礼になっていることを大前提におけば、最高のおもてなしとして食卓にのぼるのはいうまでもなく、手塩にかけて育てられた羊になろうかと。そうすると、断罪された男がとった行為は罪にはあたらないんじゃないのかな?人々も旅人(神の使い)が来たならば饗応を開かねばならないなんて儀礼をガチゴチの制度のように信じて疑わないことがおかしい。相手を思いやる気持ちがあれば、冷蔵庫のあまりものでもなんでもいいわけじゃん、もてなしたいという気持ちがあれば。もてなされる側が神の使いであるのならなおのこと、だされたものが豆一粒だってありがたくいただくんじゃないかな? もてなしの制度めいたもののことには一切触れてない 鮒ずし出して、「腐ってる!」と激怒された人がその昔日本にいた それを用意するまでの人の苦労なんてつゆしらず… 戦国時代に生まれなくてよかったよ

bragelonne
質問者

お礼

 りとうきすさん  お早うございます。ご回答をありがとうございます。  何ごともオモテがあればウラがある。――とは言っても この場合は何もよろしからぬことを隠すという話ではなくて 儀式や制度を取り上げてみても その裏方の仕事があって初めて成り立つものなのだ。オモテからは見えない一つひとつの過程 そこにおける一つひとつの手続きをないがしろにしてはいけません。お互いもっと心と心で話しをしようぢゃありませんか? と。  こうでししょうか? だったら ねえさんのおっしゃることはよく分かりますが たとえばこのダヰデの話に当てはめるのは いくらか離れ業であるように思えますが 果たしていかがでしょう。  たとえば  ★ ~~~  ナタンがダビデに話した二人の男の話を聞いて激怒し、断罪を下したこと。  ここよくわかんない。斟酌なし。―――即決してるあたりが。  ~~~~~  ☆ この場合 ゆたかな男がまづしい男のただ一つの財産でありかわいがっていた家族の一員であるような小羊を取り上げたことが ゆるされているのか。つまりたとえば ふたりは支配関係にあったのか。  記事は こう書かれているだけのようです。  ▼(サムエル記) ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに自分の羊や牛を惜しみ貧しい男の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った。」  ☆ 豊かな男は 町の名士としてそのボスのような力で奪い取ったと解すれば どうでしょう?  ところが そこに別の観点をはさんでおられます。  ★ ~~~  旅人は神の使い、神の使いをもてなすことがひとつの儀礼になっていたんだよね、この時代。  饗応とかいうんだよね  ~~~~~  ☆ 旅の者を客としてもてなすというときの儀礼もしくは慣わしを 重視するという見方のようです。  ということは まづしい男の飼い方のほうがよいから その小羊を客に出してもてなすほうが その慣わしにかなっているではないか。ということですか?  簡単に反応すれば たとえば自分のところの二三頭の羊と交換に取り上げればよい。そうしないで 腕づくで奪った。ので ダヰデは 激怒したのでは?  ただし――まだまだ お考えはつづくようです ただし――  ★ ~~~  人々も旅人(神の使い)が来たならば饗応を開かねばならないなんて儀礼をガチゴチの制度のように信じて疑わないことがおかしい。  相手を思いやる気持ちがあれば、冷蔵庫のあまりものでもなんでもいいわけじゃん、もてなしたいという気持ちがあれば。  もてなされる側が神の使いであるのならなおのこと、だされたものが豆一粒だってありがたくいただくんじゃないかな?  ~~~~~  ☆ アブラハムが自分の天幕を 旅する三人が通り過ぎるというとき どうもてなしたか?  ▼ (創世記18:1-15) ~~~  1: 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。  2: 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、  3: 言った。  「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。  4: 水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。  5: 何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」  その人たちは言った。  「では、お言葉どおりにしましょう。」  6: アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。   「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」  7: アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。  8: アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。  9: 彼らはアブラハムに尋ねた。  「あなたの妻のサラはどこにいますか。」  「はい、天幕の中におります」  とアブラハムが答えると、  10: 彼らの一人が言った。  「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」  サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。  11: アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。  12: サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。  13: 主はアブラハムに言われた。  「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。  14: 主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」  15: サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。  「わたしは笑いませんでした。」  主は言われた。  「いや、あなたは確かに笑った。」  ~~~~~~~~  ☆ 旅の三人は サラの心を分かって言っているのです。わざと怒っています。ツッコミとボケです。  《うつくしい》のほうは 一たんそのままにしておいてください。一たん忘れてしまっても 仕方がないと思います。時間がかかるようです。  彦根から高松へ?  ★ 戦国時代に生まれなくてよかったよ  ☆ 生まれているようなもんだよ。

回答No.20

こんにちは、bragelonneさん。 ● サムエル記II 12:01-12:06 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて彼の皿から食べ、彼の椀から飲み彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに自分の羊や牛を惜しみ貧しい男の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った。」 “ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」” > では なぜこの《我れを忘れる》というマ(間)の違いが 人ひとりを死なせる結果をも伴なって起こったのか? こういう問いをともなっているかと思えます。  仮りに神の一撃が このようにふとダヰ゛デに落とされたとするなら なぜこういう中身の出来事であったか? こういう副次的な問いです。  これは、難しい問題かと思われます。周りからも英雄として認められ、国王になりました。ですが、”第二のアダムではない“、ということを示したかったのか・・・  ★ 〔* もし神の一撃であったなら〕これは、難しい問題かと思われます。周りからも英雄として認められ、国王になりました。ですが、”第二のアダムではない“、ということを示したかったのか・・・  ☆ ここでは にゅうとらるさんが賛同された《神のようにならないため》という意図が どこかでははたらいたかも知れないといったところでしょうか。 ●”第二のアダムではない“ ●《神のようにならないため》 ここふたつのkeyが気になってる 寛容ってなんだろう? 【イスラームにおける寛容ークルアーンと法学に基いてー】 http://www1.doshisha.ac.jp/~knakata/newpage1.html

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます りとうきすねえさん。ご回答をありがとうとございます。  ★ ここふたつの key が気になってる  ☆ 片仮名で書くとあまりにもだじゃれになるから・・・かも。  き と言えば エデンの園の《生命の木》 そしてエワとアダムがその実を食べたという《善と悪の知識の木》。  第二のアダムと言うからには 第一のアダムについて知らねばならない。  いつも出すたとえは こうです。  ○(エワとアダムが 木の実を食べたお話) ~~~  エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。  わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。  その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。  夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。    言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。  そういう意味でも 表現は自由なのだ。  このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが 善悪を知る木から採って食べたというじんるいの初めの物語――じんるいの物語の初め――です。《心にさからう》という事態について《神がそれを食べると必ず死んでしまうから食べないようにと禁じていた木の実を食べた》と表現されています。  食べたあと――創世記の初め(3章)にしるされています―― アダムは 或る日の風の吹くころ 《アダムよ きみは どこにいるのか?》と問われた気がした。エワにも声が届いた。  そうしてふたりは ウソ・イツワリが心を捻じ曲げるとそれに伴なって自分も相手も人間は信頼しがたい存在になったと気づく。この心の状態は あたかも死である。つまり いづれ死に行き着くとさとった。  かようにして この第一のアダム〔とエワ〕は 善悪の知るようになり ウソをつくことができるようになり 人は死を死ぬという存在であると知った。  そこで人びとは考えた。多くの人が長い時間をかけて思った。人間について。ウソと善悪と死という主題をめぐって。  何千年 何万年(?)のあいだ。たぶんアブラハムという信仰の人が出てからは ニ千年くらい人びとはつねに思い考えつづけた。  たとえばその中身は 次のようにまとめることが出来ると思われる。  ▲ (浄福)=(No.16補足欄) ~~~  ・・・  それというのも彼(=幸福な人)は起こり得ないことは欲しないから。  けれども このような(=欲することは起こり得るという)生は私たちの可死性の生ではない。それは不可死性が存在するであろうときでなければ 存在しないであろう。  もしこのような生が人間には決して与えられないとするなら 浄福を問い求めても空しいであろう。浄福は不可死性なくしてはあり得ないからである。  (アウグスティヌス:三位一体論 13:7)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりだから たとえば   ▼ (詩編26:2) ~~~  わがかみ  わたしをしらべ  わたしをこころみ  わがはらわたと  わがこころを  火のなかに  ためしてください。  ~~~~~  ☆ とうたうダヰデが出た。    そしてとうとう《不可死性》の権化とも言うべき人が 西暦一年から三十数年生きたと伝えられるイエスという人として現われた。  その内容をいま端折ってしまえば かれがなぜ第二のアダムであるかと言えば こうです。  第一のアダムがへそを曲げて木の実を食べると 人間にとっての死が死となった。そう明らかに知った。  死だけならまだよかったかも知れないが ウソ・イツワリがついて来る。あるいはむしろ死の原因でもある。へそを曲げたことによって不信というあるいは無常という心の死がもたらされてもいる。  この死を超える存在のあり方が――それは 非思考としてつまり 考えるによっては分かり得ないこととして―― イエスの磔の死によってもたらされた。と噂された。その噂は イエスをキリストと名づけて 第二のアダムと呼ぶ。  ▼(パウロ:コリント前書15:54-55=新約聖書)~~~  この朽ちるべきもの(=生身の人間)が朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。    死は勝利にのみ込まれた。      (イザヤ書25:8の意訳)    死よ、お前の勝利はどこにあるのか。    死よ、お前のとげはどこにあるのか。      ( ホセア書13:14)  ~~~~~~~~  ☆ ホセア書とイザヤ書とは 旧約聖書です。アブラハムからイエスまでの二千年間に人びとがアダムの咎(罪と言えば罪)とその結果をめぐって考えに考えつづけた成果の一環です。  パウロは イエスの死のあとこれを書いています。イエスは ニ千年間の人びとの生活における観想と思索の成果だという見方もいくらかは出来ると思います。(それに神が応えてくれたという意味で)。  ダヰデも イザヤやホセアと同じように やがて来るイエスのことを思っていたのでしょう。ただし自分はその《第二のアダム》なのではないということ。第二のアダムは じつは神であった。神(キリスト)であり人間(イエス)であった。という物語の内容です。  何故かといえば イエスが去って行ったおかげで人びとはもう安易に人を信頼できないとは言えなくなった。やっぱり信用できんかったという場合にも たしかにあやまちは侵すが全然信用できんというのもおかしい。言い過ぎだ。互いの弱みを知りこれをおぎないあって信頼し合っていけばよいではないかというまでに 歴史時計の針を第一のアダムの時点にまであたかも戻した。  わがはらわた わが心の奥底に 鉄鋼炉に火を入れるように 火をともしてくれてしまったからには 死んでも死ねなくなった。  こんな人間なら ひとに対して寛容であるのは比較的たやすい。ただし 神ではないのだし すでに完全であるのでもなく あやまちうる人間です。(また わたくしの考えでは 寛容ゆえに けんかをふっかけることもあると思います。つまり 対話における批判のことですが)。  ★ 【イスラームにおける寛容ークルアーンと法学に基いてー】  ☆ いちど見たように思うけれど 忘れているようですから 見直してみますが あまりイスラームには期待していません。読み終わったあとでしるします。  けっこう重い《ご思考中》でしたようで どこまでお応えしてまいるか分かりませんでしたが 一気に――尻切れとんぼみたいに――結論に到りました。  それでは ご返事をお待ちしています。

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