• 締切済み

独我論と日常感覚

はじめまして。 似たような話題は「主観客観」等の トピックスにて今までも議論しつくされて いるのかもしれませんが、 この世界で現象することは全て 自分の意識の中に立ち現れた限りのものであり、 自分の外に実在する存在者などない、とする 独我論は、 私がいままで経験してきた、自分と世界のあり方の 一つの説明としてある説得力をもつのですが、 日常的な感覚では、 自分と同じような「独我」が自分の外に存在していることを 前提してこのような質問などしており、 思考の上での世界観と日常的な世界観が乖離しています。 このような乖離に対して、どのような調停、 が可能でしょうか。 よろしければ、ご教示ください。

みんなの回答

  • misoka
  • ベストアンサー率35% (56/160)
回答No.6

私は「独我論」について学問的な知識を十分に持っている者では ないので、やや気が引けるところもあるのですが、ちょっと 議論に加わってみようか、と思います。 serpent-owlさんが、ご回答に、 > 「誰もいない森の中で木が倒れた、本当に倒れたのか」 という問題を出して、そのお答えとして、 > これの答えは「倒れたとは言えない」となりましょう。 とお書きになってらっしゃいます。 serpent-owlさんのお話は、興味深く学ぶところもおおいものでした が、ここのこの一句については、やや「哲学的な考え方」に 過ぎるように、シロウトの私には思えました。 つまり、議論をぶち壊すことを恐れずに言うなら、 答えは、「そんなの分からないよ」であるはずでは? と思ったわけです。(この答えが、一番正直でしょう?) もっとも、私が述べているようなことは、serpent-owlさんが、 すでに上記引用部分に続く場所で書いてらっしゃいます (というふうに理解しました)。 ですが、私としては、その「そんなの分からないよ」というふうに 議論を保留にしてしまう方が、(コギト的な意味での) 「独我論」としては重要だと思ったので、とくにここで 強調してみたかったわけです。 基本的に、「独我論」についてはこういう理解をしている わけですが、それを踏まえて頂いた上で... お題の問題に入るわけですが、 ここでは、ちょっと視点を少し変えて、 「記号」をキーワードに考えて行きたいと思います。 たとえば、一輪の花が咲いて「綺麗だ」と、(陳腐な) 感想を抱いたとします。そして友達がやってきて、 「綺麗な花じゃない」みたいなことを言ったとすると、 私は、その友達と共感できたと思うわけですが、 でも、よくよく考えてみると、 果たして、その「綺麗」という記号を生んだ感覚は、 同じものだったといえるのでしょうか? この点については、「よく分からない」ということに なりそうに思えます。 確かに、 友達が見ているものと、私が見ているものとが、 厳密に同じであるわけはないと思います (少なくとも、多少の角度は違うでしょうし)。 私が、その瞬間、その角度、その光線、etc...で見た、その 「綺麗な花」は、おそらく他の誰も見てはいないでしょう。 だから、私と友達とは(厳密には)別物を見ているわけであり、 「綺麗」という感想を支えている内容には、ごく僅少の相違がある、 といったとしても、うなずけない話ではありません。 (もっとも、本当のところは分かりっこないのですが) にも拘わらず、それがお互いにとって「綺麗」であるのは、 言葉というものが、「曖昧」であるからでしょう。 (もちろん、言葉の曖昧さは、感覚の曖昧さによるもの なのでしょうが...)その曖昧さゆえに、 他人との不連続性が埋められているのではないか? と思うわけです。 ただ、哲学的に考える場合は、その曖昧さは、必ずしも ありがたくはないようですね。でも、あまり曖昧さを なくしてしまうと、何時の間にか「独り」になっちゃう ってこともあるんでしょうね。(^^;

kabalah
質問者

お礼

ご回答をありがとうございます。 おっしゃっておられることは、 >「複雑なものを複雑なままに見る」ということは、とりもなおさず「現実の具体>的な生活レベルの視点に立ち帰る」ということでもあります。 とserpent-owlさんがおっしゃっておられることとおそらく対応するのだと思います。 >哲学的な議論の最中に誰かが自分の胸を拳でたたいてこういうのを聞いたことが>ある。 >「それでも、やっぱりこの痛みは他人にはわからない。」 >ここで「この」という言葉をいくら強調してみたところで、さも言語としての痛>み以上の何かがあるかのように振る舞う、という以上の意味は無いのである。 というような文章(うろ覚えです、すみません)をみたことがあります。 いつの間にか「独り」になっちゃうとしても、どうしても言いたくなること、って のがあるんじゃないでしょうか。 「曖昧」なレベルではおそらくそれは伝わってるし、他我も存在するんでしょうけ どね。 「独り」になるほど、強く感じられることがあって、それが強く感じられるからこ そ、誰かに正確に言いたくなるし、誰かに確実に伝わった、ということを確かめた くなる、とか、そんな感じなのでしょうか。 また何かありましたらお願いします。

  • sokura
  • ベストアンサー率38% (40/103)
回答No.5

 私は「独我論」とは、「私が考えるように考える者は私一人である」という解釈で認識しています。ですから、これは、極めて当たり前のことで、日常から少しも 乖離していない、と考えています。「他者が存在しない」という解釈で使っているのでしょうか?「独我論」も「論」という認識行為である限り、「独我論」に辿り着く、という意識的出発があり、前提ではありません。つまり、他者は実在しない、と考える「独我論」ほど、他者の実在を意識する論理はなく、出発自体、「他我ー独我」の罠にはまっているのです。他者の実在を予想しない「独我論者」が、他者相手に「私は独我論者である」というのは、変です。「自己の意識における様々な認識は自己においてのみ意識される」というのが「独我論」ではないでしょうか?他者が実在しようがしまいが、「独我論」とは、少しも関係のない問題だと思うのですが。  

kabalah
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうですね、私の世界観の一つである独我論はそも そもの出発自体、不連続性というか矛盾を抱えて、始まっているのかもしれませ ん。 けれども、私が考える独我論では「実在ー非実在」という枠組みを問題としているのではなく、一切を自己意識とした上で、「感覚与件」の他者性(恣意的に変化させられないという意味で言っています)を説明できない、といった、ことが問題となっているように思います。 この独我論においては、「自己の意識における様々な認識は自己においてのみ意識される」という言明のなかで「のみ」に違和感を感じます。「自己においてのみ」という言明が意味を持たなくなるような世界観として、独我論を考えています。 こうはいってもやはりこの独我論は出発点で「他我ー独我」の罠にはまっているとの指摘があるかもしれません。それを出発点とするか、たどり着く不連続点とするかは、あまり大した違いでなく、そのような「論」がどうして説得力を持ち、その説得力を保ったままで、不連続点を解消する方法はあるのかないのか、問題設定自体に問題があるとしたら、どの辺にあるのか。そういったことをみなさんの意見を参考にさせて頂いて、考えて行きたいと思うのです。 また何かありましたらよろしくお願いします。

回答No.4

補足を少々させていただきます。 >アーラヤ識は、アマラ識内の要素として >「調停」されるのでしょうか。 >けれども、第九層も、「私」の心の階層のうちの >一つなんですよね。とすれば、やっぱり第九層も >「独我」のなかのできごとなのでしょうか。 そういうことになります。 ウニのような物をイメージしてください。ウニ本体が第九識で、棘が個人で、根元のあたりが第八識で先の方が表層意識です。 つまり、独立した個人があると言うのはアーラヤ識以上の錯覚であって、本当はアマラ識に包含される一つのものだというのです。 ウニの棘一本一本が他の棘とは独立した存在だと勘違いしてるようなものです。 だから、「独我」の中の出来事ではあるが、「独我」の範囲は「一切」と言うことなのです。 なんだか詭弁のようですが、実際詭弁です(笑)。 ですから最終的に唯識は破綻してしまいました。 参考までに申し上げると、この中期大乗仏教の後に出てきた後期大乗仏教(密教・金剛乗)を更に三時期に分けたうちの中期までは唯識をベースにして儀式や教学に意義付け等がなされてましたが、最後期には見捨てられて上座部仏教の哲学に取って代わられています。 (ちなみにアマラ識が変質すると「法界体性智」という智慧に変わり、それを尊格化したものが大日如来です) >このように、私の中で、「調停」はなかなか >困難なようです。 所詮人からは考える材料の提供を受けるだけでしょう。じっくり考えて結論を出してください。 P.S Re;serpent-owlさま。私もヨーロッパ系の哲学はよく知りませんのでご回答勉強させていただいております。こちらこそよろしくお願いします。

kabalah
質問者

お礼

御回答、ありがとうございます。 ウニのイメージは新鮮で面白かったです。 けれども、私の理解の限りでは、まさにこの「ウニ」こそ 「独我」であり、つまり、中期大乗仏教とは「独我論」 であったのだ、と考えます。 ここで話がおわるなら、たしかにこれは一つの調停として 納得がいくのですが、 serpent-owlさんとのやりとりで出てきているように、独我論は「克服すべきもの」とされることが多いです。何を克服すべきなのか、私もはっきり同定できているわけではないのですが、例えば、serpent-owlさんとの話に出てきた「他我問題」や、アーラヤ識の他者性(恣意的に内実を変化させられないこととして「他者性」という言葉を使っています)など、説明できないことがあると思うのです。 >所詮人からは考える材料の提供を受けるだけでしょう。じっくり考えて結論を出>してください。 ありがとうございます。大変参考になっています。結論が出るものではないのかもしれませんが、もっといろいろな方からいろいろな意見をお聞きしたいと思っています。

回答No.3

 「クオリア」については、fwappyさんがお詳しいはず。そのうちお見えになるでしょう。  「独我論がなぜ説得力をもつのか」から。それはやはり、デカルト的な「考える我」、「認識主体としての私」に立脚しているためでしょう。「確実に言えることは自分が知っていることしかない」、そうでないものは確実とは言えないということで。  「独我論」というと、どうしても否定的なニュアンスで用いられがちな言葉なんですが、なかなかどうして克服困難なものでもあります。また哲学史的に見ても、精緻に練り上げられた独我論には大変おもしろいものもあります。  そこらへんのことは後で「他我問題」に絡めて述べるとしまして、まずは素朴な、あんまり意味がなさそうな独我論から見ておきましょう。  「誰もいない森の中で木が倒れた、本当に倒れたのか」とか、そういう禅問答みたいな議論をなさったことはありませんか。私は中学生か高校生かの時に、友達とこのネタで議論したことがあります。いやぁ、悩みました。  これの答えは「倒れたとは言えない」となりましょう。独我論の勝利です。客観論サイドは「いや、木は確かに倒れた」と主張しようとしますが、その確実性を確保することはできません。これに対し、主観論サイドは「その出来事は認識されていない」ことを確実なものとして主張できます。  ただ問題はここから先です。勝った勢いでか(?)、独我論はこの先で論理の飛躍をやらかしがちです。今の「誰もいない森の中で…」の話で独我論が主張できるのは「木が倒れたことは認識されていない」ことだけです。このことは「現に木は倒れていない」ということと、必ずしも等価ではありません。「実は倒れているかもしれない」という留保を含みます。にもかかわらず素朴な独我論は「私が認識している限りでは」という但し書きをいつの間にか忘れて、「事実、木は倒れなかったのだ」という主張まで走ってしまうことがあります。  「意識内容のみ」に立脚する独我論の前提からして、これは越権行為です。言えるのは「木が倒れたとは認識していない」までが限界であって、「事実、木は倒れていない」という事実述定まで踏み込めば、それは越権なのです。また同時に、認識している限界外のことについて、それを客観的事実として言い立てているわけですから、自己矛盾でもあります。ですから、独我論に主張できるのは「木が倒れたことは認識されていないが、実際はどうだかわからない」というところまででしかありません。  要するに、素朴独我論の内実というのは「知ってることは知ってるけど、知らないことは知らないよ」という、実につまらないものでしかありません。しかも、この内実そのものの中から「知らないことは存在しない(事実として)」とか「知らないことは知りえない」とか、そういうような客観論の息の根を止めるような論点を演繹・導出することはできません。「オレが知らないんだから、存在しないんだ」なんて言ったって、「キミが無知なだけだよ」と言われてしまうかもしれません。そう言われないためには、独我論者は思考停止せずに歩きつづけるしかない。独我論者もつらいものです。  つまるところ、独我論は独我論単独の力では、対抗原理たる客観論を否定しきれないのです。したがって独我論は貫徹されえず、完結もされえません。「今この時の私」は「まだ知らない外側」を、常に意識しなければなりません。「客観的なもの」の存在を、です。     *  では「他我問題」との絡みを。  これに関して私が比較的まとまった形で言及しているところがあります。「社会」>「医療」のところにある「クローン人間はなぜいけないか」という質問のところです。回答No.23。「アンドロイドだって人権を認められるべきだ」なんて、みょーな話をしております。下にURLを貼っておきます。  そこでは「痛み」を例に挙げてますね、ちらっと。そうなんです。おっしゃるように、「他人の痛みの表現が、自分の痛みの内実と同じものをともなっていることの最終的な確認」は決して得られないのです。他人の苦しみを見て「心の痛み」を感じたとしても、その痛みは他人の痛みそのものではない。決して感じることはできません。このことは、「クローン…」でも書いたのですが、「隣人が人間であることの証明不可能」にも通じます。  ここでは別な例を挙げましょうか。例えばここ、インターネットにおける「ネット人格」です。  面倒ですから、舞台は「教えて!goo」にしときましょう。ここで、「A」というハンドル名で質問や回答をしている人がいるとします。この「A」さんが、ある日「B」という別のハンドル名で会員登録を行い、その名前で質問や回答をしはじめる…としましょう。  この場合、Aさん(Bさん)以外の人が、「AとBとは同一人物だ」と確実に証明することはできません。両者の書き込みにたとえ何らかの証拠があったとしても、苦しいでしょう。いくらでもごまかせますから。何の証拠もなければ、なおのこと証明不可能です。  逆に、Aさん自身が、「私はBさんとは別人だ」と証明することもできません。たとえ事実そうであったとしても、です。たとえ同時刻のタイムスタンプで両者が同時に書き込みをして「ほら、別人だ」と言っても、何のことはない、端末を2台用意して友人に操作してもらうなり何なりすれば簡単にできることです。何の証明にもなりません。  管理スタッフにはわかるのかもしれませんが、まず教えてくれないでしょう。つまり、われわれ一般ユーザーには証明不可能です。  要するに、客観的に観察できる行為や行動(上記の例では文字と言葉のやりとり)からでは、その人の「心の内実」を確実に把握することはできないということです。言い換えれば「私」と「他者」との間には克服不可能な不連続性が深い溝として横たわっている、ということでもあります。これが「他我問題」。  そうしますと、「心」を考えようとする際に確実な基盤となりうるのは「私の心」だけということになります。他者に心があるかどうかは証明不可能な、したがって不確実なものですから。すると、これは独我論となります。  この独我論は克服不可能だと思います。特に、「証明できる確実性」にこだわる限りは。が、それではにっちもさっちもいきません。ですから実際には「他者にも私と似たような精神がある」と「推定」してやっていくことになります。  例えばヘーゲル。ドイツ観念論を貫く最大のテーマは「自由」でしたが、ヘーゲルもカント以来の「自律としての自由」を軸に考えています。彼は「自由」を「絶対的な他者を持たないこと」と定義しています。「自律=自分が決めたルールに、自分がしたがう」ことが自由なのですから、たとえ他者であっても何らかの意味で「自分の一部として連続している」と考えないと、それは貫徹されないことになる。だから彼は自他の不連続性を超えて(つまり独我論を越えて)、「《われわれ》である《われ》、《われ》である《われわれ》」という形に連続化させています。  が、しかし、「自他の不連続性」を彼が本当に突き詰めて考えたかというと、少々あやしい。むしろ「てきとーに素通りしてしまった」と言える部分があります。彼が素通りした部分にはやはり問われなければならない問題がある。だからこそ、サルトルやバタイユやフーコーやレヴィナスといった人たちは「他者とは何か」を改めて問うているのです。またそうした言説から、「自と他の統合による自律的自由」という一歩間違えばファシズム転落の危険性を孕む自由観とは別の、「~からの自由、消極的自由の保護」という、決定保留や拒否、多様性の余地を認めた自由観も汲み出されてきます。  ですから、よく練り上げられた独我論というのは、決して捨てたものではありません。デカルトしかり、フッサールしかり、考えてみれば哲学史のターニングポイントには、ある意味で独我論ぽいインパクトが大きく作用しています。どのような知であっても、やはり「オレ自身に立ち帰る」ことが大切なのだと思います。(てなわけで、私も「実存主義者」を僭称しております。)     *  それと…「二元論的枠組み自体を解体する調停法」ですが、「言語ゲーム」とか「内部観測」とか、そんな話になります。これは機会を改めて。

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=48422
kabalah
質問者

お礼

とてもわかりやすい回答をありがとうございます。哲学史的に、私の求める調停 が、「他我問題」の「推定」によらない克服を目指しているのだという事が分か り、とても参考になりました。アンドロイドの件、私も全く同感です。痛みを 「私」なら感じるべき状況で、アンドロイドが痛みの振る舞いをするとき、彼が 「私」と同じ痛みを感じていることを絶対に確認できないという点において、彼は 私にとって他の「他我」と同等であり、それゆえ、社会生活の上では、彼に人格を 認めるべきだと思います。 ただ、私の求める調停は、他人に「心」があるか、という問題と言うよりは、自分 の中に二つある世界観の、あまりにも両立しがたい、その不整合性をなんとかした いという気持ちなのです。おっしゃるとおり、私はデカルトの方法的懐疑のその確 実性から出発し、確実性を失わずに世界観を構築しようとして、その不連続性に突 き当たったのですが、その不連続性を「推定」で超えるしかないのであれば、現在 までの状況とそれほど変わらないのです。 serpent-owlさんがおっしゃるところの説明可能性、この部分を考えた方がいいのか もしれません。結局なにを説明しようとしているかという方向で私の二つの世界観 の不整合性を考えるなら、 独我論の立場からの世界観は「まだ知らない外側」も含めて、全て私の意識に立ち 現れる限りのもので構成されており、全てが私にとっての内実=「クオリア」「感 覚与件」(これらの用語の意味を私はまだ体得していないのでずれていたら申し訳 ありません)から構成されており、これら内実にリアリティーを与えることのでき る世界観といえます。しかし、「感覚与件」「まだ知らない外側」に関して何の説 明可能性も与えず、偶然、もしくは単なる事象の連続ということになり、それで、 「つまらない」ということになるのかもしれません。 客観論というか日常感覚的な世界観から行くと、この私の前に立ち現れる世界がど うやって立ち現れてきたかがある程度、整合性のある形で説明できます。「他我」 たちを想定することによって、私は自分が言語を習得する過程で、世界から無造作 に与えられる「感覚与件」の中から、分節化し、自分が共同体の中で利用していけ る意味を取りだしてきた、などという説明は非常に説得力があります。しかし、こ の世界観では、この私に生じている「クオリア」「感覚与件」も生理学的には脳神 経細胞間の伝達物質の移動、細胞内の電気的変化で構成されているはず、とされ、 発達心理学的には遺伝的形質、幼児期の体験、教育、により、私の自我は構成され ており、「コギト」や「クオリア」という概念との間に不連続性がある、もしくは 説明可能性がなくなるような気がします。 このように書き直してみたところで、最初の質問を言い直しているだけのような気 もするのですが、私の感覚としては、どちらの方向にも、「説明」の必要があり、 かつ、どちらの方向からでも必ず、不連続性に行き当たってしまう、という感じ で、それをなんとかしたい、ということなのです。だから、他我問題、つまり他者 に「心」はあるか、という問題は私の問題の中で重要なポイントとなっているかも しれませんが、ちょっと問題意識としてずれる気もするので言い直してみました。 ですから、二元論的枠組み自体を解体することには興味があります。「言語ゲー ム」という言葉は永井均のヴィトゲンシュタイン解説書でみた覚えがあります。あ まり、理解できてないと思うので、また、お時間があるときにでも解説お願いしま す。

回答No.2

 これまた発展性のある話題ですね。たしかに類似の問題は今までにもここで語られていますが、やはり質問者の問題意識の持ち方によって微妙な違いが出てくるようです。  独我論は主観主義的な認識論の徹底として現れてきます。質問にお示しのように、うんと手短に言ってしまえば「オレに見えているものがすべてだ」という考え方です。  これに対して、客観主義的存在論が対峙しています。「物が存在するから、認識が成り立つんじゃないの?」みたいな。  この両者の水掛け論は、ある意味で今でも継続しています。なんだか「鶏が先か卵が先か」のような議論でもあります。でも、これら両者が相撲をとっている「土俵」は一つ。半ば無意識に前提された、二元論的枠組みです。  客観主義的存在論は、徹底すれば唯物論になります。物があるから認識できる、いや、意識自体にも「脳」という物質的基盤がある、と。一方、主観主義的認識論は徹底すれば独我論、または観念論になります。物があるのはそういうふうに見えているからだ、意識が物をそうあらしめているのだ、と。  かたや「物」、かたや「心」という二元論的枠組みの中で、前者を後者に還元すれば観念論、後者を前者に還元すれば唯物論になります。そしてこの枠組みに留まる限り、両者の対立は互いに「切り抜け可能な批判」をぶつけあうだけで解決しません。  さて、お尋ねは「思考上の世界観と日常の世界観との乖離にどのような調停が可能か」とのことでした。上記の「二元論的枠組み」そのものを解体してしまう調停法もあるのですが、ややこしいのでとりあえず説明しやすいのからまいります。ただし、これは「厳密な証明」を経た「結論」ではなく、「推定」に基づいた「提案」の域を出ないものです。  それは「日常の世界観を承認し、独我論を放棄する」というものです。…ということは、あんまり「調停」ではないんですが。  何と申しますか、「オッカムの剃刀」的な論法になりますが、「そう考えた方が面倒がなくてよい」のです。そしてそう考えた方が、すべてを意識内容に還元しておしまいにしてしまうよりも説明可能性が広がります。生産的ということです。自然科学の持つ広範な説明可能性に象徴されるように。これに対し独我論は、えてして経験的知識を軽視して思弁的になり、妄想の生産性を高めてしまう状態に陥りがちです。現実を踏まえて堅実に推論を進めるには不向きと申せましょう。  とりあえず、ご挨拶のつもりで、今回はこのくらいでやめておきます。またお邪魔します。この次は…「他我問題」との関係…あたりでお答えしようかと考えています。独我論とは表裏一体の問題です。 P.S.nekoucchaliさま。御回答、勉強になります。今後ともよろしくお願いします。

kabalah
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 私の問題点としていることをいろいろな形で捕らえなおしていただき、 とてもありがたいです。たしかに私の問題設定は 水掛け論的な二元論の問題をどう解決するか、という風にいうこともできます。 ご提示いただいた、「提案」には非常に納得がいく気もするのですが、 「説明可能性を広げる」というときにはどの方向への説明を 求めているかという前提によって、どちらを承認し、どちらを放棄するかは 変わってくると思うのです。 ここで「現実」というときにはすでに日常の世界観を承認した上で、 話を展開している、「他我」の存在を承認した上で、このような 質問をしているので、こちら側を承認せざるをえない、のですが、 例えば、私が赤い色を見ているときのその「赤さ」は 「他我」の見ている「赤さ」と同じだろうか、 (こういう見えているその「見え」のことをクオリアとかいうそうですね) とか、いま私が感じているこの痛さは誰にも分からない、 といったことを説明する際には、どうしても、 独我論の放棄をして、話を進めていくことは できないのではないか、と思うのです。 自然科学の持つ広範な説明可能性は、 他人の痛みの表現が、自分の痛みの内実と 同じものをともなっていることの最終的な確認を 可能とはしてくれないのではないかと 思います。 うまく表現できずにすみません。 私が求める、「調停」とはむしろ、 独我論になぜ説得力があるのか、 どういう説明可能性が広がるから、 独我論などというものは存在しているのか、 ということになるのかもしれません。 「二元論的枠組み自体を解体してしまう調停法」 にも興味があります。 よろしければご教示いただけないでしょうか。 「他我問題」にも興味あります。 お時間があれば、よろしくお願い致します。

回答No.1

kabalahさん初めまして。中期大乗仏教(お釈迦様の仏教ではありません)である 「唯識」を応用してお答えしようかと存じます。 唯識では心の階層を九つ(内五つは並列なので実際は五層ですが)に分析し、 八番目のアーラヤ識を「カルマの貯蔵所」と定義し、すべての事象の原因と結果の 貯蔵所であるアーラヤ識がただ一つの存在であり、 >この世界で現象することは全て >自分の意識の中に立ち現れた限りのものであり、 >自分の外に実在する存在者などない、とする >独我論 といっています。言わば、独我=唯識です。 しかし、そうすると、 >思考の上での世界観と日常的な世界観が乖離しています。 ので、宇宙意識というか、一切衆生共通の意識みたいな「第九識」(アマラ識)を 立てるのです。それによって「独我」が他の「独我」と繋がってると説明します。 これが、精一杯の「調停」と思われます。 ただし、唯識にも流派があり、第九識を立てずに第八識だけでがんばる学派も あります。「すべての存在は自分のアーラヤ識の中にあり、自分以外の存在は 存在しないのだ!」と。(汗) 謂わゆる「自業自得」の思想を突き詰めすぎてこういう結論になったようです。 他者と自分を厳密に分けると、確かにこうなるでしょう。しかし現実には存在は 他の存在に寄りかかり、寄りかかられて存在しています。(縁起の法) 独我論は、どこまでが自分でどこからが他者であるかの線引きを、非常に厳しく する、一つの極論でしょう。

kabalah
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 全く知らない分野で非常に勉強になります。 でも、 アーラヤ識は、アマラ識内の要素として 「調停」されるのでしょうか。 けれども、第九層も、「私」の心の階層のうちの 一つなんですよね。とすれば、やっぱり第九層も 「独我」のなかのできごとなのでしょうか。 >しかし現実には存在は >他の存在に寄りかかり、寄りかかられて存在しています。(縁起の法) これも現実世界を私が想起するときに 確かに納得できる気もしますが、 それはやっぱり「独我」のなかの出来事とも考えうるのです。 このように、私の中で、「調停」はなかなか 困難なようです。 また、なにかありましたらお願いします。

関連するQ&A

  • 独我論~なんで強姦したらいけないの?

    強姦=道徳的でも犯罪でも絶対してはいけないことですが 「独我論」で考える場合 もし強姦が犯罪でないとするなら なぜしてはいけないと思いますか? 自分がいないと成り立たない世界であるし,自分があってこその世界だし 自分の好きなようにすべきでは?

  • 「言語の先行性」 と「独我論」批判

    哲学についてはド素人なんですが、質問させていただきます。  皆さんは「言語の先行性」についてどうお考えですか?『ウィトゲンシュタインと「独我論」』を読んで、言語の先行性についてなんとなくは分かったのですが、今まで考えたことのない思考だったので、正しいような正しくないような・・・?つまり、自分の考えがもてないんです。なので皆さんの考えを教えてください。曖昧ですみません。  あと、ウィトゲンシュタインは「独我論」批判をしたようなんですが、どのように批判したんですか?簡単にでも答えていただけたら嬉です。 よろしくお願いします。

  • 独我論が正しいのでは?世界は自分が創っている?

    >vitaさん >我々人間は、光や音、匂いや触感などの外部刺激を受容することで、自我、心を形成しています。その受容には僅かとはいえ、有限の時間がかかります。つまり我々は過去しか受容できないのです。そして我々はその外部刺激に反応し世界に働きかけるのです。その方向性は一方通行で過去から未来への方向なのです。ところが独我論は、そもそも受容する外部刺激そのものを自分自らが作り出し、それを可逆的に自ら受容し反応していくということなのです。つまり未来から過去を形成するという全く非常識な方向性を持っているのです。自ら外部刺激を作ることなど本来できないのですから、独我論など全くの妄想であり、議題にすること自体無意味なのです。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1389656183 ↑ これの意味がよくわかりませんが・・・。。。確かに過去を受信?して、現実を自分の脳で理解している。 >独我論とは、客観的世界など存在しない、すべては自分の意識のみ存在している。 他人や椅子や机などのものは脳が見せている幻影であり、そのものの存在はあり得ない。 >つまり、世界の中に自分がいる のではなく、 自分がいて、世界は自分が創っている。という考えです。 ~~~~~~~  そんなわけで、独我論が正しいのではないかな~?っと、思ったわけです。 しかし、どうも、仮に、「世界は自分が創っている」としても、そのヒントは世界にほとんど存在しません。 誰1人、「あなたが創造している」とはしません。(しかしネット上にはいくつかそういう説も出される) 1,唯物論?のように、全ての人に意識がある=常識論、当たり前とされている考え 2,独我論のように、1人1人が独立した世界を持っている?というオカルト説。1人1宇宙。 の2種類がほとんどです。 しかし、私は、 3,実は、世界、宇宙には、「私という自分しか存在しない」という独自に近い考え。。を持ったりもします。 しかし、これは、まさに、「有り得ない話」でもある。 というのも、1人1宇宙で、60億人分の自分だけの現実(アニメとある魔術の禁書目録・超電磁砲)を持つ、という、2番目の説ならまだしも、 3、の、私しかこの世に存在しない、というのは、無茶苦茶でしょう。やはり・・・。 それはつまり、「一切の他人に、意識が存在しない人形のようなモノ」だと、してしまうからです。 これは、怖い話。。。 また、これを他人に聞いたら、どう答えられるでしょう? 他人は、「いや、それは違う。私には意識がちゃんとある。だから、貴方は間違っている。考えすぎだ。頭冷やせ。病院行ったら?」と、なります。 2,3番目の考えは、神=自分=私、わたし、だという考えにも、近く、「私が神だ!」と主張する =馬鹿で頭イカれた精神異常者、だと、他人からは映ります。。。 ・・・さて、何が言いたいのかよくわからなくなってきましたが・・・思うことが、多々あるってことです。 とあるサイトで、2番目?の「1人1宇宙説」を唱えている人がいました。 観測についての記述ありました。 「あなたの真後ろ、遠い駅、地球の裏側」は、見えていないから、観測されず、存在しない、真っ暗な何か、というような説明がありました。 なるほど、と思います。 というのも、それならば、「エネルギーの節約になる」からです。 最近はよく、「この世はスーパーコンピューターの世界だ。」という話を見かけます。 それならば、この世界を描写するのならば、「私だけ」描写すれば良いわけです。 私のパソコン画面、と、その周辺だけ、描写すると。それも、完全にリアルに。。。 (また、私の幻覚体験で、建物幻覚=中に入れた、熱いシャワーが出た、という謎や、廊下に過去の記憶のミルクティーこぼれていた事件や、携帯電話が11日間だけ最新ニュースが流れていた、や、Gigazineに明らかに私と関係ある記事が載っていた(←これは完全に幻覚でしょう。)といったことなどなどが、ありました。) これは、私の脳が壊れかかっている?wのか、それとも・・・・・? 世界が壊れかかっているwのか、、、・・・・?・・・・・。 個人的には、「世界が壊れかかっていた」という方が、2010年3月の色々な幻覚体験は、説明が付きます。その直前は、一週間家から出なかった?忘れた、とかあったので、明らかに、私の脳が異常を出して、幻覚になってしまった、とも、言えるのですが。 何れにしても、世界=宇宙=自分の脳みそ、というのは、正そうです。。。。 Aという世界、Aという宇宙は、Aという私の脳が創りだす、Aという、Aだけの現実・・・だとも言えそうです。 そしてまた、B,CDEFG・・・・という世界が、他人にもあると。まぁ、5感で生まれてからの経験の積み重ね=現実世界のようなので・・・・。(これはまさに2番目の話) さて・・・そう考えていくと・・・・・・・・・・・・? 結局、最低でも、「1人1宇宙」であり、それとも、 「私の宇宙だけしか、この世に存在しない。宇宙は1つしか存在しない。唯一。」という、 無茶苦茶な考えが出てきます。 また、この考えについて、他人のほとんどが否定する理由は・・・・・・・・・・・ 「宇宙にたった1人しかいない、私・・・・・・。。。」というのを、信じていかないとならない点です。 1人1宇宙ならば、60億人分の現実があり、現実世界が無数に存在し、人間もまた、60億人、別々の世界でも、確かにそれぞれが、存在する。だから、「この世には1人じゃなく、60億人は確かに存在する。」と、できます。 しかし、宇宙が1つ、意識を持つのも、私1人・・・・・・だとすると?・・・・・・・・・・・・ もしも、それが真実ならば、、、、とても、「虚しい」気がしてきます。 全ての他人は、所詮、意識がなく、人形のようであり、また、<私の無意識>が創造した他人である、と。。。。 宇宙がどうやって出来たのか?わかりません。しかし、「一番初めには、確かに私1人しかいなかった。それじゃぁ、虚しい。だったら、私の分身を、完全に他人に思えるように、創造していこう。」っと、神である私。。。が、、、、、、、、、考えて、創造していった、としたら?・・・・・・・・・。。。 確かに、辻褄は合うと思います。 結局、人形劇、自作自演ということです。それが真実かは不明ですが・・・。。。 さて。自作自演と言えば、911テロです。これは陰謀論ですが、、、、。。。 また、2chでも、自作自演という単語は出てきます。笑い話でもあります。 しかし、「他人は、自分が創造していて、、、、自分=他人だとしたら? 鏡だとしたら?」 んーーーーーーーーー、、、、。。。これまた、虚しいと。。。。 自作自演、ってやつですね。こんにちは。ありがとう。さようなら・・・・・。。。 そして、「これらが真実だと仮定すると、これらが公にならない理由は・・・・・・・・・」 やはり・・・・・・「自分1人だけの世界は虚しいから・・・・・・・・・・・・・・・。。。。」ということだと思います。 超超超超・・・・・・・・・・・・超超超・・・・・・・強力な・・・・・・・・・「ロック=鍵=Key」がかかっている、ということでしょう。Key=ゲーム会社でもありますが。 パンドラの箱・・・・・・・かもしれません。 超強力なロックだからこそ・・・・・・・・・・・・・。。。。。。。。他人は、ネット上でも、現実世界でも、 誰1人、他人は、「あなたが創造している」というようなことを、言わないのだと思えてきます。 他人は、嘘を付いている?・・・・・ような感じです。 結局、自分しか信じられない、ということに、尽きるかもしれません。 ・・・・・・・あとは。 この世がスパコンで出来ているとして、幻覚は、私が、 「実はこの現実は、自分が創造しているのではないか?」 っと、「潜在意識がここに来て顕在化(これはOVA超電磁砲黒子の台詞)、した」ということのような気もします。 ずっとずっとずっと、、、、自分が全てを創造しているとしたら?・・・・・・・・ ずっとずっと、「自分で自分に嘘をつき続けている」ということになります。 これまた、しっくり来るのですが・・・。。。 http://www1.ttcn.ne.jp/turu/30souzousyuhe.htm これなんかも、あなたが創造している、としているサイトの1つですが。1人1宇宙論かもしれません。 また、さっきの911ですが、CG説があり、これも、「変だな?」と思わせます。 311も何故、911+311=1222=2012年12月22日人類滅亡?説になるのか?っと。 福知山線脱線事故だって、何故、運転手がスピードを出してしまったのか?謎です。 最近では、全てのニュースが、自分が創造したようにも思えてきます。。。 さて・・・・・・観測ですが・・・・・・・・。 自分の目で、観測しています。問題は・・・・・・・・・・・「自分も、他人も、同じように、5感を持っている」ということでしょう。 「自分も他人も、同じ体を持っている。だから、自分も他人も、同じ存在だ。だから、独我論は間違っている。」とも、仮定できます。 これは質問ですが、これを否定することはできるのでしょうか? もしも、自分だけしか、意識が無いとすれば、自分=他人の体、という事実は、何故か否定され、観測しているのも、自分1人だけ、だということになります。 ここで字数制限・・・。。。

  • 独我論本当では?他人は意識がないロボット人間では?

    独我論本当では?他人は意識がないロボット人間では? 私しか、意識がない。 そして、外の世界は私の潜在意識が創っているのでは? だから、スーパーで、「万引き監視員」が突如現れた。 だから、ゲームセンターで、「不良男」が突如現れた。

  • 永井均のいう「独在性」について

    永井均の<私>論は、哲学を勉強し始めた僕にとってとても 魅力的で、かつ実感的な説得力があるように感じていました。 でも理屈としては腑に落ちないところがあります。 永井は『<こども>のための哲学』の中で、 「(自我と他我の)問題を、最初から、認識論的にではなく、存在論的に考えようとした。」(96頁) と書いていますが、そんなことが可能なのでしょうか? 他人の世界の実在を認めたうえで、<この私>の世界の独自性を認めようとする思考を「独在性の思考」と永井は呼んでいますが、そもそもそんなことは不可能ではないかと僕は感じるのです。 だって、「実在が認められる」ということこそが、<私>の独自性じゃないんでしょうか? その特徴を他人にも認めてしまうのなら、その時点で<私>の独自性なんて無くなってしまうのではないでしょうか? 細かい質問で申し訳ありませんが、ここを解決しないと先へ進めません。 どうか御指導をお願いします。 また、独我論を論駁する試みにはどのようなものがあるのか、参考文献だけでも教えて頂ければとても嬉しいです。 謙遜ではなく本当に知識が無いので、ごく基本的なものでも構いません。 お願いします。

  • 超越論的観念論

    「カントに即して・・・時間・空間の内に存在するものは、概念として存在するのみならず(1)空間の内にのみ存在するものは数学的実在として、(2)時間の内にのみ存在するものは心理的実在として、そして(3)時間・空間の内に存在するものは物理的実在として存在する。認識の対象とは、この三種類の実在物しかない。よって、その外にはいかなる意味でも実在世界は広がっていないのだが、内と外という言葉に引きずられて、外をも実在化してしまうのだ。」(『観念的生活』超越論的観念論p118 中島義道) 実は、この本を読む前から、存在に関する「この三種類」存在様式について、あれこれ考えていました、勉強不足なのでしょうが、書物にはっきり書かれているのを見るのは初めてです。 ところで、中島さんは「観念論者」ですから、問題ないのですが、私の中には、唯物論・観念論・二元論から、マルクス主義、果てはアナーキーまで、混沌と同居しています。 そうすると、3)は当面問題ないのですが、1)空間の内にのみ存在、2)時間の内にのみ存在、と言う、この二つの表現は、比喩的ではなく字義道理、空間のみ・時間のみの存在は、可能なのでしょうか。 連休中、暇でお金のない、同志の皆さん、此処のところ額に汗、脳ミソに皺を刻んで、深刻に考えるような難問が見当たりません(酔っ払いの戯言ですから、各質問者の皆さん、さらっと流してください)。 さて、皆様、心は完全に、時間だけの中、空間には存在しないでしょうか。 酒の抓みにでもなれば、幸いです。

  • 素朴実在論について教えて下さい。

    こんにちは。先日哲学の講義で出された問題が理解できません。 「素朴実在論の立場に立つとこの世界はあなたの生まれる前も死後も存在することになる。例えば樹齢100年の大木があなたの生前も死後も存在すること」について、このことを信じられる根拠と疑える根拠を筋道を立てて証明せよ。」 というものなのですが、そもそも素朴実在論自体は理解できるのですが、肯定するにも否定するにも意識や感覚の問題が絡んできますよね。 これらは人によっても異なるものだし、筋道を立てて説明とはどうやってするべきでしょうか? 何かヒントを下さると嬉しいです。よろしくお願いします。

  • 他人に意識があり、他人が生きている証拠

    他人に意識があり、他人が生きている証拠は、ありますか? また、独我論は否定できないというのも、よくわかりません。 例えば、私に5感がある。寒い・熱い、触る、音を聞く、見る。 そして、他人にも、「5感があるように思える」。 他人は、笑い、悲しむ表情があり、、、、「完全に生きているように見える」。 わけですよね? そして、全世界の99.999999999999999%ぐらいの人達は、 「他人は自分と同じような存在であり、自分が生きているから、他人も同じように生きている。他人に感情や、意識はある。それは、確かだ。」 っと、思っています。私も、基本的にそのスタンスです。 他人に意識・感情があると思うのですが、合っていますよね? しかし、オカルトサイトでは、「他人はいない」とか、書かれています。大本は一体どこなのか? 「他人は自分の鏡」という話もありますが。 でも、他人に意識や、感情がなく、他人がただの人形だとしたら、非常に不気味な世界だな、と思えます。 それに何より、この世界で生きているのが、「自分1人ぽっち」だということになってしまいます。 例えで、映画を自分が見ているのが、現実だ、という話もあります。 自分の内側が投影されて、外の世界が映し出されているだけだと。 それに、自分が全てを創造しているとしても、自分の思い通りになっていない世界なんて、 存在価値があるのか?と思えるし、馬鹿らしいと思えます。 しかし、自分の思い通りにならない世界は、自分と違う考えの世界であり、 自分と、他人は異なる考えを持つように見えます。=自分と他人は別々に存在する。 それはまさに、「現実そのもの」に思えます。 例えば、今日なんか、デパートへ行きましたが、他人は、笑ったり、話したりしています。 明らかに、「他人に意識があり、他人は自分同様に生きている」と、思えます。 そして、これは世界の常識となっていて、疑う必要なんて、あるのか? 独我論なんて、考えすぎの嘘の論じゃないか?と、思えます。 それは、確固たる現実として、目の前に開かれています。 ただし、ネット上の書き込みは、他人に意識がないように見えてしまいます。 つまり、目=視覚の現実のウェイトが大きいことを意味します。 ドラマや、映画などの、「演技」ってのもありますが、 現実の他人の容姿は、まさに、「演技じゃなく、真実」に見えます。 よって、独我論は嘘であり、他人にも意識があり、考えがあり、生きている、 自分と同じような存在だと思えるのですが、どうでしょうか? 別の話として、1人1人が宇宙を創造しているという話もありますが、これもよくわかってません。 それは別に、他人も自分同様に、生きているだけ、と思える。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ さて、、、逆に考えます。 他人がいない、世界に1人ぼっちだけ、だとする。自分1人だけ、と。 そんな虚しい世界に、存在価値はあるのでしょうか? 全て、自作自演です。 自分が他人をも創造して、自作自演していると。 ネット上のカキコすらも、自分のただの創造だと。 そんな自作自演劇に、意味はあるのでしょうか?

  • 集合は概念であり実在ではないと考えて問題ない?

    数学では集合論の話になります。 たとえば、「犬の集合」は、犬と呼ばれる実在を集めたものだから、「犬の集合」の各元はそれぞれ実在ですが、実在を集めた集合(「犬の集合」)の方は、純粋に概念であり、実在ではない、と私は考えています。 この考えにどこか問題はありますでしょうか? つまり、犬という言葉が指し示す対象そのものは実在だが、集合とは概念であって、実在ではない。 ちなみに、ここで言う「実在」とは、人間の主観とは関係なく存在することです。 犬という言葉で指し示したい対象(あのワンと鳴く動物)それ自体は、人間の主観と関係なく存在しているから、実在です。 一方、その実在を集めた集合の方は、人間の主観と関係なく存在はしないので、実在ではないと認識しています。

  • 認識者を想定しない「客観的実在」とは?

    数学カテゴリでの回答者の方とのやりとりのなかで「客観的実在と人間の認識」が 話題になりました。 人間などの認識者を想定しなくても「客観的実在は存在する」というのは うなずけるのですが、それがどんなものなのか、なかなかイメージできません。 色、匂い、味、手触り、音色、寒い(暖かい)などは人間の五感がなければまったく 存在しない概念ですから、客観的実在とは言えないと思います。 形、大きさ、質量などになると、よく分かりませんが、これも認識者がいて 何かと比較するという思考がない限り成立しない概念だと思います。 とすると「認識者を想定しない客観的実在」「宇宙や世界における客観的実在」 とは何でしょうか? エネルギー? 情報? 法則? 時空間とそのゆがみ? 哲学的にはもっと違う答えが可能だと思うのですが。 どんな主観的な意見でもいいですからお聞かせください。 「客観的実在」の「主観的意見」なんて、変?