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締切済み

独我論と日常感覚

  • 暇なときにでも
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お礼率 56% (9/16)

はじめまして。

似たような話題は「主観客観」等の
トピックスにて今までも議論しつくされて
いるのかもしれませんが、

この世界で現象することは全て
自分の意識の中に立ち現れた限りのものであり、
自分の外に実在する存在者などない、とする
独我論は、
私がいままで経験してきた、自分と世界のあり方の
一つの説明としてある説得力をもつのですが、
日常的な感覚では、
自分と同じような「独我」が自分の外に存在していることを
前提してこのような質問などしており、

思考の上での世界観と日常的な世界観が乖離しています。

このような乖離に対して、どのような調停、
が可能でしょうか。

よろしければ、ご教示ください。
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回答 (全16件)

  • 回答No.4
レベル9

ベストアンサー率 27% (23/85)

補足を少々させていただきます。

>アーラヤ識は、アマラ識内の要素として
>「調停」されるのでしょうか。
>けれども、第九層も、「私」の心の階層のうちの
>一つなんですよね。とすれば、やっぱり第九層も
>「独我」のなかのできごとなのでしょうか。

そういうことになります。
ウニのような物をイメージしてください。ウニ本体が第九識で、棘が個人で、根元のあたりが第八識で先の方が表層意識です。
つまり、独立した個人があると言うのはアーラヤ識以上の錯覚であって、本当はアマラ識に包含される一つのものだというのです。
ウニの棘一本一本が他の棘とは独立した存在だと勘違いしてるようなものです。

だから、「独我」の中の出来事ではあるが、「独我」の範囲は「一切」と言うことなのです。

なんだか詭弁のようですが、実際詭弁です(笑)。
ですから最終的に唯識は破綻してしまいました。

参考までに申し上げると、この中期大乗仏教の後に出てきた後期大乗仏教(密教・金剛乗)を更に三時期に分けたうちの中期までは唯識をベースにして儀式や教学に意義付け等がなされてましたが、最後期には見捨てられて上座部仏教の哲学に取って代わられています。
(ちなみにアマラ識が変質すると「法界体性智」という智慧に変わり、それを尊格化したものが大日如来です)

>このように、私の中で、「調停」はなかなか
>困難なようです。

所詮人からは考える材料の提供を受けるだけでしょう。じっくり考えて結論を出してください。

P.S Re;serpent-owlさま。私もヨーロッパ系の哲学はよく知りませんのでご回答勉強させていただいております。こちらこそよろしくお願いします。
お礼コメント
kabalah

お礼率 56% (9/16)

御回答、ありがとうございます。

ウニのイメージは新鮮で面白かったです。

けれども、私の理解の限りでは、まさにこの「ウニ」こそ
「独我」であり、つまり、中期大乗仏教とは「独我論」
であったのだ、と考えます。
ここで話がおわるなら、たしかにこれは一つの調停として
納得がいくのですが、

serpent-owlさんとのやりとりで出てきているように、独我論は「克服すべきもの」とされることが多いです。何を克服すべきなのか、私もはっきり同定できているわけではないのですが、例えば、serpent-owlさんとの話に出てきた「他我問題」や、アーラヤ識の他者性(恣意的に内実を変化させられないこととして「他者性」という言葉を使っています)など、説明できないことがあると思うのです。

>所詮人からは考える材料の提供を受けるだけでしょう。じっくり考えて結論を出>してください。

ありがとうございます。大変参考になっています。結論が出るものではないのかもしれませんが、もっといろいろな方からいろいろな意見をお聞きしたいと思っています。
投稿日時 - 2001-04-30 22:44:48
  • 回答No.8
レベル9

ベストアンサー率 53% (31/58)

 どもども。一日見ないうちにずいぶんと話が展開していますね。fwappyさんはまだお見えではないのですね。せっかくクオリアの話が出ているというのに…。
 ま、それはいいとして、ぼちぼちいきましょ。

 まずは「克服されるべきものとしての独我論」について。回答No.3で「克服困難」とか「克服不可能」という言葉を用いましたので「克服されるべきもの」と受け取られたのでしょうね…。
 「独我論」という言葉にまつわるネガティブなニュアンスについて少し詳しく見ましょう。「ほんまもんの独我論」を浮き出させるために。
 独我論という言葉は、「ひとりよがりな思い込み」とか「他の意見を受け付けない」とか「何でも自分の思うままになると思っている」とか、よーするにジコチューな考え方を指して使われることがあります。ちょっとそれ、オトナじゃないぞ、みたいな。はい、これはもう「克服されるべき」独我論でしょうね。
 こういう意味での独我論だったら、克服の方法というか、粉砕する方法があります。古代ギリシアの時代から。ソクラテスの「産婆術」です。イロニー(皮肉)によって相手のドクサ(臆見)を打ち壊していき、相手がエピステーメ(叡智)に到達する手伝いをするという「対話術 dialektike techne」。弁証法。めちゃめちゃ人に嫌われるやり方です。嫌われちゃって嫌われちゃって、最後には毒杯をグビグビあおぐことにもなりかねません。
 でも、ここで問題になっている「独我論」はそういう意味のものではありませんよね。他者との対話を通じて情報を受け取り、「まだ知らない外側」にどんどん進出していって叡智の高みに登ったとしても、「結局認識しているのはこのオレの意識だ」という意味での独我論でしょう。そしてこの意識が、他者の意識(ないし心)と同じものなのか、他者にも意識があり心があり痛みを感じることをどうやって証明するかというのが問題です。そういう点において、独我論は他我問題と表裏一体のものです。
 こちらの独我論は、このままでは克服不可能です。もお、言い切ってしまいます。不可能です。「クローン人間…」の方でも書きましたが、「他者に心があることの証明」は太古の昔から多くの思想家がチャレンジしているものの、今もって成功を収めた人はいません。

 それで、「二元論的枠組み自体を解体する」話にいきます。これだと、実は「独我」自体が無化されることになります。
 ヴィトゲンシュタインで参りましょう。かなり自己流の理解で、間違いがあるかもしれませんが。
 ヴィトゲンシュタインは独我論を「私に見えているものだけが真に見えているものである」というふうに言い換えています(『青色本』)。ここで注意が必要なのは、彼が言っている「私に見えているもの」というのは、「まだ知らない外側、私の意識の外側」と対比しているわけではないということです。「他者に見えているもの」と対比して「私に見えているもの」と言っているのです。
 その上で、「真に見えているもの」とされた「私に見えているもの」と、「他者に見えているもの」とが区別できるのかが問われます。言い換えれば「他者に見えているもの」もまた「真に見えているもの」と言えるのか否か、ということです。
 しかしこの問いはめちゃくちゃでしょう。というのは、まず「私に見えているものだけが真に見えているものだ」という言明自体に一つの答えがありますから。「区別できる、オレが見てるのだけが真だ、他のやつらのはちがう」と。が、その反面、「他者に見えているもの」は「私に見えているもの」の範囲外にありますから、「私」には認識できず、したがって「区別できる、できない」自体が断定できないことにもなります。逆もまた然りで、他者は「私」を理解することができません。
 こうした考察の結果ヴィトゲンシュタインの下した結論は、「独我論者は自分を理解させることができない」、「独我論者は自分を語ることができない」ということでした。もっと言ってしまうと、独我論自体が「語りえぬもの」だということです。つまりは「独我自体の無化」(または「私的言語の不可能性」)。
 このような、「我」自体の措定が根源的には不可能であり、にもかかわらず「我」をコトバとして措定しつつ、同じくコトバとして措定された「他」とコトバをやりとりする世界、それが「言語ゲーム」の世界です。この言語空間の中では、デカルト的な「考える我」と言えども認識や知識体系の確実な基盤とはなりえません。したがって、「考える我、心を持つ我」を確実な基盤とした上で「他者に心があることの確実性」を問うこと自体、ナンセンスということになります。

 複雑系を巡る議論から登場した「内部観測」の話も似たようなところがあります。というか、郡司ペギオ幸夫さん自身、ヴィトゲンシュタインを論文の中で引用してたりします。きっと組み立てる材料にしているのでしょう。
 このスレッドの二つ上、「運命の定義とは?」という質問への回答で、ちらりと触れているのですが、「ある一つの系の中で現在進行形で生きている人には、その系の必然は決して見ることができない」ということとも関係があります。多数の主観が共働している系の中を、「現在進行形」という相のままで見てみますと、主観は何かを認識すること自体によって時々刻々に変化して、固定的に「これが主観」と措定することはできません。客観もまた認識されること自体によって時々刻々に変化して、これまた固定的には措定できません。それぞれの主体や対象の持つ意味や役割(「信号」)も、それぞれの主体・対象を規定する背景や文脈によって左右され、しかもこの背景や文脈そのものも時々刻々に変化するもの、すなわち固定的に措定できないものです。
 通常言われる「主観」「客観」といった「固定的な措定」は、そういう複雑なものを抽象化・単純化・無時間化して初めて得られるものなのです。ですから、主観論サイドと客観論サイドの水掛け論というのも、最初から現実的ではない、抽象化された土俵の上での対決だったということになります。複雑なものを、複雑なままに見た場合、そもそもそうした問題自体が生じてこないのです。そして、「複雑なものを複雑なままに見る」ということは、とりもなおさず「現実の具体的な生活レベルの視点に立ち帰る」ということでもあります。ヴィトゲンシュタインも「現実の具体的で多様な言語活動を離れて問題を抽象化すると哲学的誤謬が生じる」と指摘しています(そして、独我論もまたそうした誤謬の一つであると)。

 こうして、言語ゲーム、内部観測、現実の生活…と見てまいりますと、「我の無化」が共通しているように思います。ヴィトゲンシュタインの場合は特に、独我論の徹底が自他関係を無化し、他者を無化し、そして「我」を無化するというように、独我論の独我論自身の力による解消を通じて「日常性」にソフトランディング(軟着陸)しえているようです。
 しかし「我の無化」といっても、「オレ自身の存在がマボロシなんだ」ということではありません。「我の無化」というのは「具体的な生活」の中にあるもの、「時間」の故に言えることと思われます。「我とは、常に我でないものに成る者である」ということです。笑ったり泣いたり怒ったりする、この「私」の実感は「いま、このとき」のものです。「いま、このときの私」を意識したときに、切れ目のない連続した「私」の一部が分節され、切り出されて「自己意識」になります。が、この自己意識はすぐ次の瞬間にはもう無効になります。「我が我でないもの」に変わったからです。そしてそれもまた「我」であるという…。
 こういう「我」こそが「日常感覚」での我でしょう。

 どうでしょうか。独我論という「思考の上での世界観」が乖離した日常性に、独我論そのものの力でソフトランディングすることができるというわけなのです。
お礼コメント
kabalah

お礼率 56% (9/16)

いつもいつも詳しいご回答をありがとうございます。かなり納得しました。
でもヴィトゲンシュタインのところでは、他者に何かが見えていることがいきなり
措定されていることが、以前の「推定」に似ていると思いました。

>しかしこの問いはめちゃくちゃでしょう。というのは、まず「私に見えているもの
>だけが真に見えているものだ」という言明自体に一つの答えがありますから。「区
>別できる、オレが見てるのだけが真だ、他のやつらのはちがう」と。が、その反
>面、「他者に見えているもの」は「私に見えているもの」の範囲外にありますか
>ら、「私」には認識できず、したがって「区別できる、できない」自体が断定でき
>ないことにもなります。逆もまた然りで、他者は「私」を理解することができませ
>ん。

の部分において、独我論的な世界観にたつときの「私」は、他者に「私」を理解さ
せよう、という意図をそもそも持ち得ないと思うのです。

従って、この「解体」は私に言わせれば、そもそものはじめから、日常的な世界観
にたって話が始まっていると言わざるを得ません。

けれども、語る、という行為自体が(私がこのように質問する、という行為も含め
て、)他我を想定しているので、日常的な世界観を基盤としているのだから、これ
は仕方ないのかもしれません。

もう一つ、現在進行形の事物を固定的に措定することにより、誤謬が生じるという
論点についてですが、これはたしかに納得がいきます。
けれども、たとえば、アキレスと亀の話において、空間を無限に分割しうるとの観
点から亀に追いつけないアキレスを、時間概念の援用で、追いつかせることができ
るように、我々は、現在進行形であることも含めて、その事象に言及できる、とい
うようにも思うのです。
時事刻々変化していくことも含めて、「主観」というものについて、言及すること
は本当に不可能、もしくは無意味なことなのでしょうか。「我とは、常に我でない
ものに成る者である」という形で、すでにその切れ目のない「我」に言及している
とはいえないでしょうか。

私は、独我論的な世界観も、日常的な感覚に基づいた、ある事態を説明するために
生まれてきたのではないかと考えます。「語り得ぬ」と言いながらも、詩人も哲学
者もその語り得ぬ部分を語る必要があって、試行錯誤してきたのではないかと考え
ます。日常的な言語だけでは語り得ないから、様々な概念、固定的な措定等を編み
出してきたのであって、その様々な試行錯誤を「日常的な世界観からすれば誤謬に
すぎない」といって片づける気にはなれません。けれども、どうしてもその二つの
論法の間には断絶があって、一貫性を保てないのです。この「調停」についてはこ
れからも、時々考えて行こうと思います。
長い間、ありがとうございました。

他の方のご意見もあるかもしれませんから、もう少しの間スレッドを開いておきま
す。

本当にありがとうございました。
投稿日時 - 2001-05-08 15:35:27
  • 回答No.3
レベル9

ベストアンサー率 53% (31/58)

 「クオリア」については、fwappyさんがお詳しいはず。そのうちお見えになるでしょう。

 「独我論がなぜ説得力をもつのか」から。それはやはり、デカルト的な「考える我」、「認識主体としての私」に立脚しているためでしょう。「確実に言えることは自分が知っていることしかない」、そうでないものは確実とは言えないということで。
 「独我論」というと、どうしても否定的なニュアンスで用いられがちな言葉なんですが、なかなかどうして克服困難なものでもあります。また哲学史的に見ても、精緻に練り上げられた独我論には大変おもしろいものもあります。
 そこらへんのことは後で「他我問題」に絡めて述べるとしまして、まずは素朴な、あんまり意味がなさそうな独我論から見ておきましょう。
 「誰もいない森の中で木が倒れた、本当に倒れたのか」とか、そういう禅問答みたいな議論をなさったことはありませんか。私は中学生か高校生かの時に、友達とこのネタで議論したことがあります。いやぁ、悩みました。
 これの答えは「倒れたとは言えない」となりましょう。独我論の勝利です。客観論サイドは「いや、木は確かに倒れた」と主張しようとしますが、その確実性を確保することはできません。これに対し、主観論サイドは「その出来事は認識されていない」ことを確実なものとして主張できます。
 ただ問題はここから先です。勝った勢いでか(?)、独我論はこの先で論理の飛躍をやらかしがちです。今の「誰もいない森の中で…」の話で独我論が主張できるのは「木が倒れたことは認識されていない」ことだけです。このことは「現に木は倒れていない」ということと、必ずしも等価ではありません。「実は倒れているかもしれない」という留保を含みます。にもかかわらず素朴な独我論は「私が認識している限りでは」という但し書きをいつの間にか忘れて、「事実、木は倒れなかったのだ」という主張まで走ってしまうことがあります。
 「意識内容のみ」に立脚する独我論の前提からして、これは越権行為です。言えるのは「木が倒れたとは認識していない」までが限界であって、「事実、木は倒れていない」という事実述定まで踏み込めば、それは越権なのです。また同時に、認識している限界外のことについて、それを客観的事実として言い立てているわけですから、自己矛盾でもあります。ですから、独我論に主張できるのは「木が倒れたことは認識されていないが、実際はどうだかわからない」というところまででしかありません。
 要するに、素朴独我論の内実というのは「知ってることは知ってるけど、知らないことは知らないよ」という、実につまらないものでしかありません。しかも、この内実そのものの中から「知らないことは存在しない(事実として)」とか「知らないことは知りえない」とか、そういうような客観論の息の根を止めるような論点を演繹・導出することはできません。「オレが知らないんだから、存在しないんだ」なんて言ったって、「キミが無知なだけだよ」と言われてしまうかもしれません。そう言われないためには、独我論者は思考停止せずに歩きつづけるしかない。独我論者もつらいものです。
 つまるところ、独我論は独我論単独の力では、対抗原理たる客観論を否定しきれないのです。したがって独我論は貫徹されえず、完結もされえません。「今この時の私」は「まだ知らない外側」を、常に意識しなければなりません。「客観的なもの」の存在を、です。

    *

 では「他我問題」との絡みを。
 これに関して私が比較的まとまった形で言及しているところがあります。「社会」>「医療」のところにある「クローン人間はなぜいけないか」という質問のところです。回答No.23。「アンドロイドだって人権を認められるべきだ」なんて、みょーな話をしております。下にURLを貼っておきます。
 そこでは「痛み」を例に挙げてますね、ちらっと。そうなんです。おっしゃるように、「他人の痛みの表現が、自分の痛みの内実と同じものをともなっていることの最終的な確認」は決して得られないのです。他人の苦しみを見て「心の痛み」を感じたとしても、その痛みは他人の痛みそのものではない。決して感じることはできません。このことは、「クローン…」でも書いたのですが、「隣人が人間であることの証明不可能」にも通じます。
 ここでは別な例を挙げましょうか。例えばここ、インターネットにおける「ネット人格」です。
 面倒ですから、舞台は「教えて!goo」にしときましょう。ここで、「A」というハンドル名で質問や回答をしている人がいるとします。この「A」さんが、ある日「B」という別のハンドル名で会員登録を行い、その名前で質問や回答をしはじめる…としましょう。
 この場合、Aさん(Bさん)以外の人が、「AとBとは同一人物だ」と確実に証明することはできません。両者の書き込みにたとえ何らかの証拠があったとしても、苦しいでしょう。いくらでもごまかせますから。何の証拠もなければ、なおのこと証明不可能です。
 逆に、Aさん自身が、「私はBさんとは別人だ」と証明することもできません。たとえ事実そうであったとしても、です。たとえ同時刻のタイムスタンプで両者が同時に書き込みをして「ほら、別人だ」と言っても、何のことはない、端末を2台用意して友人に操作してもらうなり何なりすれば簡単にできることです。何の証明にもなりません。
 管理スタッフにはわかるのかもしれませんが、まず教えてくれないでしょう。つまり、われわれ一般ユーザーには証明不可能です。

 要するに、客観的に観察できる行為や行動(上記の例では文字と言葉のやりとり)からでは、その人の「心の内実」を確実に把握することはできないということです。言い換えれば「私」と「他者」との間には克服不可能な不連続性が深い溝として横たわっている、ということでもあります。これが「他我問題」。
 そうしますと、「心」を考えようとする際に確実な基盤となりうるのは「私の心」だけということになります。他者に心があるかどうかは証明不可能な、したがって不確実なものですから。すると、これは独我論となります。
 この独我論は克服不可能だと思います。特に、「証明できる確実性」にこだわる限りは。が、それではにっちもさっちもいきません。ですから実際には「他者にも私と似たような精神がある」と「推定」してやっていくことになります。
 例えばヘーゲル。ドイツ観念論を貫く最大のテーマは「自由」でしたが、ヘーゲルもカント以来の「自律としての自由」を軸に考えています。彼は「自由」を「絶対的な他者を持たないこと」と定義しています。「自律=自分が決めたルールに、自分がしたがう」ことが自由なのですから、たとえ他者であっても何らかの意味で「自分の一部として連続している」と考えないと、それは貫徹されないことになる。だから彼は自他の不連続性を超えて(つまり独我論を越えて)、「《われわれ》である《われ》、《われ》である《われわれ》」という形に連続化させています。
 が、しかし、「自他の不連続性」を彼が本当に突き詰めて考えたかというと、少々あやしい。むしろ「てきとーに素通りしてしまった」と言える部分があります。彼が素通りした部分にはやはり問われなければならない問題がある。だからこそ、サルトルやバタイユやフーコーやレヴィナスといった人たちは「他者とは何か」を改めて問うているのです。またそうした言説から、「自と他の統合による自律的自由」という一歩間違えばファシズム転落の危険性を孕む自由観とは別の、「~からの自由、消極的自由の保護」という、決定保留や拒否、多様性の余地を認めた自由観も汲み出されてきます。

 ですから、よく練り上げられた独我論というのは、決して捨てたものではありません。デカルトしかり、フッサールしかり、考えてみれば哲学史のターニングポイントには、ある意味で独我論ぽいインパクトが大きく作用しています。どのような知であっても、やはり「オレ自身に立ち帰る」ことが大切なのだと思います。(てなわけで、私も「実存主義者」を僭称しております。)

    *

 それと…「二元論的枠組み自体を解体する調停法」ですが、「言語ゲーム」とか「内部観測」とか、そんな話になります。これは機会を改めて。
お礼コメント
kabalah

お礼率 56% (9/16)

とてもわかりやすい回答をありがとうございます。哲学史的に、私の求める調停
が、「他我問題」の「推定」によらない克服を目指しているのだという事が分か
り、とても参考になりました。アンドロイドの件、私も全く同感です。痛みを
「私」なら感じるべき状況で、アンドロイドが痛みの振る舞いをするとき、彼が
「私」と同じ痛みを感じていることを絶対に確認できないという点において、彼は
私にとって他の「他我」と同等であり、それゆえ、社会生活の上では、彼に人格を
認めるべきだと思います。

ただ、私の求める調停は、他人に「心」があるか、という問題と言うよりは、自分
の中に二つある世界観の、あまりにも両立しがたい、その不整合性をなんとかした
いという気持ちなのです。おっしゃるとおり、私はデカルトの方法的懐疑のその確
実性から出発し、確実性を失わずに世界観を構築しようとして、その不連続性に突
き当たったのですが、その不連続性を「推定」で超えるしかないのであれば、現在
までの状況とそれほど変わらないのです。

serpent-owlさんがおっしゃるところの説明可能性、この部分を考えた方がいいのか
もしれません。結局なにを説明しようとしているかという方向で私の二つの世界観
の不整合性を考えるなら、

独我論の立場からの世界観は「まだ知らない外側」も含めて、全て私の意識に立ち
現れる限りのもので構成されており、全てが私にとっての内実=「クオリア」「感
覚与件」(これらの用語の意味を私はまだ体得していないのでずれていたら申し訳
ありません)から構成されており、これら内実にリアリティーを与えることのでき
る世界観といえます。しかし、「感覚与件」「まだ知らない外側」に関して何の説
明可能性も与えず、偶然、もしくは単なる事象の連続ということになり、それで、
「つまらない」ということになるのかもしれません。

客観論というか日常感覚的な世界観から行くと、この私の前に立ち現れる世界がど
うやって立ち現れてきたかがある程度、整合性のある形で説明できます。「他我」
たちを想定することによって、私は自分が言語を習得する過程で、世界から無造作
に与えられる「感覚与件」の中から、分節化し、自分が共同体の中で利用していけ
る意味を取りだしてきた、などという説明は非常に説得力があります。しかし、こ
の世界観では、この私に生じている「クオリア」「感覚与件」も生理学的には脳神
経細胞間の伝達物質の移動、細胞内の電気的変化で構成されているはず、とされ、
発達心理学的には遺伝的形質、幼児期の体験、教育、により、私の自我は構成され
ており、「コギト」や「クオリア」という概念との間に不連続性がある、もしくは
説明可能性がなくなるような気がします。

このように書き直してみたところで、最初の質問を言い直しているだけのような気
もするのですが、私の感覚としては、どちらの方向にも、「説明」の必要があり、
かつ、どちらの方向からでも必ず、不連続性に行き当たってしまう、という感じ
で、それをなんとかしたい、ということなのです。だから、他我問題、つまり他者
に「心」はあるか、という問題は私の問題の中で重要なポイントとなっているかも
しれませんが、ちょっと問題意識としてずれる気もするので言い直してみました。

ですから、二元論的枠組み自体を解体することには興味があります。「言語ゲー
ム」という言葉は永井均のヴィトゲンシュタイン解説書でみた覚えがあります。あ
まり、理解できてないと思うので、また、お時間があるときにでも解説お願いしま
す。
投稿日時 - 2001-04-30 22:18:48
  • 回答No.2
レベル9

ベストアンサー率 53% (31/58)

 これまた発展性のある話題ですね。たしかに類似の問題は今までにもここで語られていますが、やはり質問者の問題意識の持ち方によって微妙な違いが出てくるようです。

 独我論は主観主義的な認識論の徹底として現れてきます。質問にお示しのように、うんと手短に言ってしまえば「オレに見えているものがすべてだ」という考え方です。
 これに対して、客観主義的存在論が対峙しています。「物が存在するから、認識が成り立つんじゃないの?」みたいな。
 この両者の水掛け論は、ある意味で今でも継続しています。なんだか「鶏が先か卵が先か」のような議論でもあります。でも、これら両者が相撲をとっている「土俵」は一つ。半ば無意識に前提された、二元論的枠組みです。
 客観主義的存在論は、徹底すれば唯物論になります。物があるから認識できる、いや、意識自体にも「脳」という物質的基盤がある、と。一方、主観主義的認識論は徹底すれば独我論、または観念論になります。物があるのはそういうふうに見えているからだ、意識が物をそうあらしめているのだ、と。
 かたや「物」、かたや「心」という二元論的枠組みの中で、前者を後者に還元すれば観念論、後者を前者に還元すれば唯物論になります。そしてこの枠組みに留まる限り、両者の対立は互いに「切り抜け可能な批判」をぶつけあうだけで解決しません。
 さて、お尋ねは「思考上の世界観と日常の世界観との乖離にどのような調停が可能か」とのことでした。上記の「二元論的枠組み」そのものを解体してしまう調停法もあるのですが、ややこしいのでとりあえず説明しやすいのからまいります。ただし、これは「厳密な証明」を経た「結論」ではなく、「推定」に基づいた「提案」の域を出ないものです。
 それは「日常の世界観を承認し、独我論を放棄する」というものです。…ということは、あんまり「調停」ではないんですが。
 何と申しますか、「オッカムの剃刀」的な論法になりますが、「そう考えた方が面倒がなくてよい」のです。そしてそう考えた方が、すべてを意識内容に還元しておしまいにしてしまうよりも説明可能性が広がります。生産的ということです。自然科学の持つ広範な説明可能性に象徴されるように。これに対し独我論は、えてして経験的知識を軽視して思弁的になり、妄想の生産性を高めてしまう状態に陥りがちです。現実を踏まえて堅実に推論を進めるには不向きと申せましょう。

 とりあえず、ご挨拶のつもりで、今回はこのくらいでやめておきます。またお邪魔します。この次は…「他我問題」との関係…あたりでお答えしようかと考えています。独我論とは表裏一体の問題です。

P.S.nekoucchaliさま。御回答、勉強になります。今後ともよろしくお願いします。
お礼コメント
kabalah

お礼率 56% (9/16)

御回答ありがとうございます。

私の問題点としていることをいろいろな形で捕らえなおしていただき、
とてもありがたいです。たしかに私の問題設定は
水掛け論的な二元論の問題をどう解決するか、という風にいうこともできます。

ご提示いただいた、「提案」には非常に納得がいく気もするのですが、
「説明可能性を広げる」というときにはどの方向への説明を
求めているかという前提によって、どちらを承認し、どちらを放棄するかは
変わってくると思うのです。

ここで「現実」というときにはすでに日常の世界観を承認した上で、
話を展開している、「他我」の存在を承認した上で、このような
質問をしているので、こちら側を承認せざるをえない、のですが、

例えば、私が赤い色を見ているときのその「赤さ」は
「他我」の見ている「赤さ」と同じだろうか、
(こういう見えているその「見え」のことをクオリアとかいうそうですね)
とか、いま私が感じているこの痛さは誰にも分からない、
といったことを説明する際には、どうしても、
独我論の放棄をして、話を進めていくことは
できないのではないか、と思うのです。
自然科学の持つ広範な説明可能性は、
他人の痛みの表現が、自分の痛みの内実と
同じものをともなっていることの最終的な確認を
可能とはしてくれないのではないかと
思います。

うまく表現できずにすみません。
私が求める、「調停」とはむしろ、
独我論になぜ説得力があるのか、
どういう説明可能性が広がるから、
独我論などというものは存在しているのか、
ということになるのかもしれません。

「二元論的枠組み自体を解体してしまう調停法」
にも興味があります。
よろしければご教示いただけないでしょうか。
「他我問題」にも興味あります。
お時間があれば、よろしくお願い致します。
投稿日時 - 2001-04-27 01:04:12
  • 回答No.1
レベル9

ベストアンサー率 27% (23/85)

kabalahさん初めまして。中期大乗仏教(お釈迦様の仏教ではありません)である
「唯識」を応用してお答えしようかと存じます。
唯識では心の階層を九つ(内五つは並列なので実際は五層ですが)に分析し、
八番目のアーラヤ識を「カルマの貯蔵所」と定義し、すべての事象の原因と結果の
貯蔵所であるアーラヤ識がただ一つの存在であり、
>この世界で現象することは全て
>自分の意識の中に立ち現れた限りのものであり、
>自分の外に実在する存在者などない、とする
>独我論
といっています。言わば、独我=唯識です。

しかし、そうすると、
>思考の上での世界観と日常的な世界観が乖離しています。
ので、宇宙意識というか、一切衆生共通の意識みたいな「第九識」(アマラ識)を
立てるのです。それによって「独我」が他の「独我」と繋がってると説明します。
これが、精一杯の「調停」と思われます。

ただし、唯識にも流派があり、第九識を立てずに第八識だけでがんばる学派も
あります。「すべての存在は自分のアーラヤ識の中にあり、自分以外の存在は
存在しないのだ!」と。(汗)

謂わゆる「自業自得」の思想を突き詰めすぎてこういう結論になったようです。
他者と自分を厳密に分けると、確かにこうなるでしょう。しかし現実には存在は
他の存在に寄りかかり、寄りかかられて存在しています。(縁起の法)

独我論は、どこまでが自分でどこからが他者であるかの線引きを、非常に厳しく
する、一つの極論でしょう。
お礼コメント
kabalah

お礼率 56% (9/16)

御回答ありがとうございます。
全く知らない分野で非常に勉強になります。

でも、
アーラヤ識は、アマラ識内の要素として
「調停」されるのでしょうか。
けれども、第九層も、「私」の心の階層のうちの
一つなんですよね。とすれば、やっぱり第九層も
「独我」のなかのできごとなのでしょうか。

>しかし現実には存在は
>他の存在に寄りかかり、寄りかかられて存在しています。(縁起の法)
これも現実世界を私が想起するときに
確かに納得できる気もしますが、
それはやっぱり「独我」のなかの出来事とも考えうるのです。

このように、私の中で、「調停」はなかなか
困難なようです。

また、なにかありましたらお願いします。
投稿日時 - 2001-04-27 00:23:18
  • 回答No.10
レベル7

ベストアンサー率 0% (0/5)

では瑣末な哲学談義はこのくらいにして、本題の日常感覚の話にまいりましょうか(笑)

貴方は自分とそうでないものの区別をどのようにつけてますか?

例えば自分の手足は自分で動かそうと思えば動かせますね。ちゃんと感覚もあります。
しかしそこらの石ころや他人様の手足はそういうわけにはいかない。日常感覚とは
そうしたもので御座いましょう。

ということで、独我論は決して、他人様の手足も自分の手足と同じように扱えるというような話では御座いません(笑)
お礼コメント
kabalah

お礼率 56% (9/16)

ご回答はありがたいのですが、何をご教示くださっているのかがはっきりしませ
ん。
このご回答は、独我論的な世界観は放棄して、日常感覚に即した、世界観を持つべ
きだ、との趣旨なのでしょうか。
私としては独我論的な世界観にも説得力があり、例えば自分の死後などを考える
際、独我論的な考え方が(日常的に)存在しています。それで,その調停としては
どんな形があり得るかという質問をしたのです。
独我論を徹底すれば、矛盾が生じること、独我論の成立自体にも日常的な世界観が
混入すること等の指摘はごもっともですが、そういった矛盾をどう調停するかとい
う質問をしているのです。
そして、日常的な世界観を徹底して、独我論的な世界観を放棄すべきとのご意見な
ら、その根拠をご説明頂きたかったのです。

日常的感覚に基づいた、自他の境界ということは、ここでは問題にしていないつも
りです。

また何かありましたらよろしくお願いします。
投稿日時 - 2001-05-08 15:30:05
  • 回答No.9
レベル7

ベストアンサー率 0% (0/5)

>「クオリア」については、fwappyさんがお詳しいはず。

なぜそう思うのかな?

ああ、クオリアMLを紹介したから?
あはは、ありゃ名前だけだからねえ。
私が主催者の茂木さんならともかく
そういうわけではないのでね。

ところで

「この世界で現象することは全て
 自分の意識の中に立ち現れた限りのものであり、
 自分の外に実在する存在者などない」

とすると、実は当の自分が存在しないということになりますな。

自分そのものは、自分の意識の中に立ち現れたりしませんから(笑)

まあ、しかしこういった問題は独我論を捨てればよいというようなものではない。

例えば、唯物論なんてのは、ある意味でまったく無我論でしょうが、
全てが物の動きになってしまったときに、どこに自分なんてありま
しょうか(笑)

デネットもいってましたが、「カルテジアン劇場」もなけりゃ、そこでの
劇を見る観客もいやせんのですよ。素朴独我論も素朴唯物論も
存在するのは観客か劇場かというような瑣末なレベルで議論してる
限りは全然ダメダメでしょうな。
  • 回答No.13
レベル11

ベストアンサー率 20% (76/371)

経験から、自分の内に現れたものを自分の外に実在する存在と認識し、実在する存在の確信に至る、というのは現象学派でしたでしょうか。
独我論の自我も、自我は本当に存在するか、という問題があったように思います。自我と呼ばれるものは、結局は外部からの経験の集合体であり、統一された自我はなく、社会の中の一つの表現ではないかとか。
思考の上での世界観と日常的な世界観の乖離とは、空想と経験の乖離であるという立場をとるのも個人的な解決方法の一つではないでしょうか。
  • 回答No.11
レベル10

ベストアンサー率 32% (12/37)

kabalahさん、こんにちは。まったくの素人のmori0309です。

私、このテーマにたいへん深い興味をもっています。

この問題を私の言葉で言い直させていただくと

1.人間は(私は)本当に宇宙や他人から孤立・隔絶した単独者なのだろうか。
2.個人の意識や心はもっと大きな超意識や集合意識のようなものの部分なのではないか。
  人間の心と心はかなりの強さで相互交感しているのではないか。
2.生まれ変わりというものはあるのだろうか。ないのだろうか。(別に人間にでなくとも)
3.私が認識主体としてこの宇宙に出現できたということの因果関係はなんだろうか。
  (精子と卵子の受精云々は「私mori0309」が出現した理由の説明にはなりません)

のようになります。

私にとって独我論という言葉のイメージは次のようなものです。

1.自分がこの宇宙に出現できたこの偶然(または必然)はたった一回ぽっきりのもので
  あった。
2.自分が死ねば何も認識できないから宇宙は存在しないのと同じ。自分以外の人間は
  ただの有機ロボットにすぎないからそれらの活動は無生物的天変地異となんら変わる
  ことはない。
3.自分の生には前世(前世代)の因果も後世への責任も何もない。自分が死ねばすべて
  何もなかったことと同じになる。

やはり独我論は、なにかちょっと変だという気がします。

けれど意識や魂についてのオカルト的な話を何の根拠もなく展開しようなどとは思っており
ません。

(考えを整理して出直します。へんな回答でごめんなさい)
  • 回答No.15
レベル6

ベストアンサー率 0% (0/0)

独我論はそれ自体で完結しているため理論では乗り越えることができないと考えています。しかし、他人が唱える独我論は私(御坊哲)から見れば成り立たないことは明白であるので議論にさえなりません。独我論が成り立つのはあくまで私についてだけであります。尤も私はその立場をとっておりません。

あなたにしてもここに質問を投稿するということは、既に独我論の立場を捨てているということになりますね。
独我論の立場で哲学することは不可能ですね、すべて独り言になるわけですから。

故に、我々が独我論について論じる場合は、既に間主観性が成立しているという前提で論じることになります。言い換えれば独我論を論じること自体が背理的であるといえましょう。

私自身は自分の本能が独我論を拒否しています。自分の本能を信じて非独我論の立場をとることに決めました。みも蓋もない言い方ではなはだすっきりしませんが、今のところ、こういう感じで折り合いをつけております。

以前の回答でウィトゲンシュタインを持ち出してきて、独我論の消去を説明している例がありましたが、入不二基義さんと同様の立場でしょうか? 私にはむしろ究極の独我論のように思えます。
私にはどうしても独我論を理論で論破することはできないと思います。
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