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続日本紀について
申し訳ございませんがどなたか訳していただけませんか? 時間がなくて困ってます。 よろしくお願いします。 三月壬午。詔曰。任郡司少領以上者。性識清廉。雖堪時務。而蓄銭乏少。不満六貫。自今以後。不得遷任。」又詔。諸国之地。江山遐阻。負担之輩。久苦行役。具備資糧。闕納貢之恒数。減損重負。恐饉路之不少。宜各持一嚢銭。作当炉給。永省労費。往還得便。宜国郡司等。募豪富家。置米路側。任其売買。一年之内。売米一百斛以上者。以名奏聞。又売買田。以銭為価。若以他物為価。田并其物、共為没官。或有糺告者。則給告人。売及買人、並科違勅罪。郡司不加検校。違十事以上。即解其任。九事以下、量降考第。国司者式部監察。計違附考。或雖非用銭。而情願通商者聴之。
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- TANUHACHI
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【書き下し】 三月壬午、詔して曰く「郡司の少領以上に任(つ)くる者、性識清廉にして、時務に堪うと雖も、蓄銭乏少にして、六貫に満たざる(満たず)は、自今以後、選任すること得ざれ」(1) また詔して曰く「諸国の地、江山遙かに阻(へだ)たりて、負担の輩、久しく行役に苦しみ、資糧を具備せんとせば、納貢の恒数(かず)を欠き、その重きを減損(へら)さんとせば、飢うる者の路(まち)に少なからずを恐る。宜しく各(おのおの)一嚢の銭を持ち、当炉の給と作(な)し、永らく浪費を省き、往還の便を得しむべし。 (また)宜しく国郡司等(ども)をして豪富の家に募りて、路(いえ)の側に米を置きその売買を任ぜしむべし。一年の内、米一百斛(いちひゃくこく)を売らば、名を以て奏聞せよ。(2) また田を売買するに、銭を以て価(あたい)とせよ。若し(もし)他の物を以て価とせば、田 并びに(ならびに)その物、共に没官とせよ。或いは糺告する者あらば、則ち告する人に給え。売り及び買する人は並びに違勅の罪に科すべし。 郡司の検校を加えざるして違うこと十事以上あらば、則ち其の任を解き、九事以下は量りて考第を降すべし。国司は式部が監察し違(あやまち)を計えて考に附けよ。或いは銭を用いるに非ずと雖も、而して通商を情(こころに)願う者はこれを聴(ゆる)せ」(3) 【釈文】 (1)(和銅六年)三月壬午の日。郡司の任用基準を規定する。郡司職に就く者のうち四等管の少領以上の役職に該当する者は事務能力があっても六貫以上の蓄財がない者にはその資格が無いものとする。 (2)これまで調及び庸の運搬に際して都までの道のりも遠くその負担も多かった。運脚が担える物の分量には限度があり、運脚の負担を軽減するならばその分だけ貢納すべき負担が減少してしまい、貢納すべき負担を重視するならば運脚の負担は変わらないものとなる。そこで先年(和銅五年十月)に発した詔に従い、運脚に当たる者には路銀の携帯を求めると共に国郡司には途中の富豪の輩に命じて食糧の売買を行わせることを命じ、年間に米一百斛を売った者はその名を届け出ることを命じるものである。 (3)田の賃租を売買する時は全て貨幣を以てその支払いを行い、その他の手段で売買した場合には違法と見倣し処罰する。処罰の内容は田の賃租及び売買した手段を没収する。告発者がいた場合には相当の報償を与え、売買の当事者には所定の手続きにより罪科を科すものである。 郡司の職にある者が査察を怠り、職務規程に違反する件数が十件以上ある場合には解任とし、九件以下の場合にはその内容によって適切な措置を講ぜよ。 国司の場合には式部省が査察にあたり違反件数をチェックし勤務評定の材料として記録する。貨幣の流通には手を染めていないが、将来的に貨幣流通を望むならば、その願いを聞き届けるものである。 【注記】 以上ですが、提示されている上から三行目の文言にある「国郡司等。募豪富家」での国郡司と豪富の関係がこの史料では同一であるのか或いは別の存在であるのかが気になります。 また古代史研究での「富豪の輩」を指す名辞であるならば郡司は既に富豪化しつつあったことから(1)の「六貫」なる蓄財との関係も気になります。 よって(2)の部分には自信はありません。文言どおりに読むならば「国郡司」と「豪富家」は別の存在となりますが、郡司が富豪化していたことは過去の研究からも指摘されているところです。 また田の賃租を売買した時の手段が銭貨によるものでなかったことを告発した場合の報酬が何であるのか、恐らくは捕亡令および雑令あたりには規定があったと記憶していますがはっきりとは申し上げることができないので、この辺はご自身でお調べになってください。 全体の流れからみれば「貨幣流通の促進政策」が背景にあり、これより2年ほど以前に出された蓄銭叙位令を更に具体的に加速するための政策と考えられますが、それと庸調の運搬がどの様な関係にあったか、大宝律令の成立から10年余りの間で国郡司に対する規制の強化が図られた背景など興味の持たれるところです。