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伝聞法則の根拠について

 刑事訴訟法に伝聞証拠の証拠能力を原則として否定する「伝聞法則」という概念がありますが、その根拠として、どの教科書にも「知覚・記憶・表現・叙述の各過程に虚偽が混入するおそれがあるため、反対尋問による吟味が必要だから」という説明が載っています。  「知覚・記憶」は分かりますが、「表現」「叙述」の二つはどこがどう違うのでしょうか?どちらも同じことを言っているように思えるのですが、教科書にもそこまで詳しくは書いていないので良く分かりません。何が「表現」で、何が「叙述」なのか教えて下さい。

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回答No.2

その教科書は余り宜しくないので変えた方がよいかとも思う。 例えば田口守一著「刑事訴訟法」には、「供述証拠は、ある事実を「知覚」し、それを「記憶」し、それを「叙述」するという過程を経て」とあり、「表現」とは書いていない。つまり、4段階に分ける必要は必ずしもない。 そこで別の文献を参照したところ、「知覚、記憶、表現しようとする際の真摯性、叙述」という4分類があったので、おそらく「教科書」の記述はこれを基にしているのであろう。これを前提に一言で言うと、「表現しようとする際の真摯性」というのは、「供述をする者の内心の姿勢」であり、「叙述」とは「現にした供述の表現上の的確性」ということである。 「供述する者の内心の姿勢」とは、供述者がどういう意識で供述をしようとしているか、換言すれば、供述者の供述に対する姿勢のことである。つまり、できるだけ個人の感情等を容れずに中立的に供述をしようとしているかどうかということである。例えば嫌いな人間について意見を求められると、嫌いであるという感情によってその人の悪いところを強調してしまいがちになるなどということはよくある。極端な場合には嘘をつくことにすら繋がるのであるが、そうでなくても嘘ぎりぎりの紛らわしい言い方になったりする。つまり、叙述の際の供述者の主観面から見た態度の問題である。映画「11人の怒れる男」で言えば、目の悪い証人の目撃証言を、他人に注目されたいという心理から出た証言という趣旨で否定する行があったと思う。これなど、本来ならば例えば「眼鏡を掛けていなかったのでよく解らないが、被告人に見えた」とでも証言すべきところを、「被告人だった」と決め付けた言い方になってしまったりするわけである。 供述者の供述に関する内心の姿勢に対して、現実に供述した際の表現そのものが、供述者の意思を正確に表現し、他人(具体的には裁判官)に正しく意思が伝わるものであるかどうかというのが「現にした供述の表現上の的確性」ということである。解り易い例だと、「こわい」という表現が「恐ろしい」なのか方言の「疲れた」なのかというような話である。 このように、叙述の客観面から見た妥当性の問題(叙述)と、その表現を選択する姿勢という主観面(表現(姿勢))とは一応区別できるということである。しかしながら、両者を厳密に区別する意味は余りなく、両方合わせて「叙述」と言っておけばそれで十分であろう。主観(表現姿勢)が客観(叙述)に影響して不適切な供述になった場合に、表現の問題であると同時に叙述の問題でもあるわけであり、これを必ずしも画然と区別はできないからである。

wasan
質問者

お礼

供述者の主観面に着目したのが「表現」で、客観面に着目したのが「叙述」 ということですね。ありがとうございました。

その他の回答 (2)

回答No.3

どうでもいいことではあるが一応訂正を。 「11人の怒れる男」ではなくて「12人の怒れる男」である。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.1

表現てのは、発信者の側からの場合で 叙述てのは、受信者の側からの場合ですね。 つまり、発信者が甲だ、と言っているのに 記録で乙と書いてないか、チェックしろ ということです。

wasan
質問者

補足

そうすると、同じ供述を発信者側から捉えたものが表現で、 受信者側から捉えたものが叙述ということですか?

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