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亜種の意味 サピエンス亜種 sapiens

右の質問の続きの質問です。 http://okwave.jp/qa/q6798481.html tenntekomaiさんから、丁寧なご回答をいただいているのですが、まだ、すっきりしないので、再質問させていただきます。   回答者:tenntekomaiさん ありがとうございました。 ご回答いただいた内容はほぼ理解したと自分では思っていますが、まだ不明の点があり、別の質問として質問させていただきます。(質問した日から日数が経っているので)   1 「亜種に属する」=「亜種である」です。 これは分類学特有の言い回しです。 『亜種の下位の区分の生物群に属する』という場合には、どのような表現を使うのでしょうか。 一方、同じ種でも分布する地域により色や形に違いがみられ、地域間で異なる集団と認められる場合、これらを「亜種」という(例えば、ニホンザルという種に対して、ヤクシマザルは亜種)。http://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=1496 (Macaca fuscata ニホンザル)(M. f. fuscata ホンドザル)⊃(Macaca fuscata fuscata下北半島のホンドザル)のような場合、『Macaca fuscata fuscata 下北半島のホンドザルは、M. f. fuscata ホンドザル亜種に、△△する』のような場合は、△△の日本語はどうなるのでしょう。   2 「亜種は生物種のグループ」と思っていたのですが、「亜種は生物種」なのでしょうか。1つの亜種に1種類しか生物種がないのでしょうか。 「H. s.sapiensが亜種名であれば、その中に何種類もの生物群が属していると思う」のは生物学ではほぼ間違いで、生物学では「亜種名がH. s.sapiensであるという言い方をされた場合には、その亜種にはH. s.sapiensしかいないのが基本」なのでしょうか。   3 A生物群とB生物群を、「異なる亜種であって、同じ亜種ではないとする基準」は何でしょうか。 おそらく(P. t. tigris ベンガルトラ)(P. t. altaica シベリアトラ)(P. t. corbetti インドシナトラ)(P. t. sumatrae スマトラトラ)は、人間などがいなくて十分に広範囲に繁殖できる環境さえあれば、自然に交雑することはあると思います。 ネズミ、キリン、ピューマ、マグロにしても、同様で、同一地域に多くの亜種が共存すれば交雑するのではないでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%8D%E3%82%BA%E3%83%9F#.E5.88.86.E9.A1.9E  進化は突然変異と淘汰の結果であるとすると、ほとんどの種は交配面で何らかの障害を持つと同時に実はある種と別の種は交配も可能なのではないでしょうか。 タマタマ生存環境が大きく異なっていたり、サイズや外見に差が大きくなると、一種の隔離状態になって、交配交雑の確率が減少するだけではないでしょうか。 ライガーやレオポンが交雑で子孫を残せるかどうかは、多数の交雑がないとなんとも言えない気がします。レオポン同士を交尾させて子孫を作ることはできないとされると言うことですが、疑っています。レオポンと豹、レオポンとライオンも実際には子孫を残せるのではないでしょうか。 セントバーナードとチワワなどを自然環境に多数放置したところで自然交雑はしないと思います。   4 基本的に「同地域に分布する生物集団が自然条件下で交配し、子孫を残すならば、それは同一の種とみなす」場合、自然条件では棲み分けている生物集団で体型、頭髪、皮膚の色も異なっているから、○○人、△△人と呼び分けていたのででしょう。人為的に移動させた結果、交雑が進んでも、それは自然条件とは言わないような気がします。 「分布をみると異なる地域に棲み分けている生物集団の場合」は、同種か亜種かの識別はどうするのでしょうか。   5 多くの動物の亜種は地域で棲み分け交流が途絶えていますが、交雑実験をすれば、交雑できるのではないかと思います。 ヒトを1亜種でみるのは、何か釈然としません。 これだけ多種多様の人種があるのは、地域は隔離され、生物集団間の移動や交雑は非常に限定的だった結果だと思います。 この結果、外見上に大きな差違が生物集団の間にできていれば亜種と言うしかないような気がします。 いわゆる人種は亜種のような気がしてなりません。 オランダ人、ピグミー、コーカソイド、ネグロイドが、同一亜種だというのは、他の動物の区分方法と同じ方法によるものでしょうか。   6 ホモ・サピエンス・サピエンスの中にもいろいろな違いがありますが、ホモ・サピエンス・サピエンス内の違いのばらつき具合とホモ・サピエンス・イダルトゥ内の違いのばらつき具合を比べてみると、ホモ・サピエンス・イダルトゥ内の違いがホモ・サピエンス・サピエンス内の違いに含まれるということはないだろうとみなされたということです。 確かに一部のヒトはヘルト人なみの眼窩上隆起を持っているかもしれません。 しかし、「ヘルト人なみの眼窩上隆起」は現生人類全体の中では一般的でないが、ヘルト人にとっては一般的であるということが大事なのです。この辺りは統計学の考え方が必要です。 個人個人の特徴ではなく現生人類全体の傾向とヘルト人全体の傾向を比較したとき、「同じとは言えない」と判断されたから亜種といわれるのです。 http://www.talkorigins.org/faqs/homs/herto.html  具体的には、はH. s.sapiens内のばらつきはどのように計測されているのでしょう。ホモ・サピエンス・イダルトゥのデータはどうなのでしょう。 この点が異なるというのは、具体的に何なのでしょう。 http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/X/0069250.html  大きい顎顔面、前後頭蓋の長さ、および大関節から咬合平面の距離は、現代の3000モデルの測定値から逸脱するとのことですが、画像検索でみる限り、日本人には少ない顔ですが、国際空港で会ってもそういう人かなと思ってしまいそうな気がします。 http://www.google.co.jp/search?q=idaltu&hl=ja&rlz=1C1RNPN_enJP419JP419&prmd=ivns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=urQFTruLIsXsmAW30J3nDQ&ved=0CC0QsAQ&biw=1025&bih=644 http://www.um.u-tokyo.ac.jp/real/jousetsu/bone/05.html 「現代人の頭蓋形態における地域差は顕著であり、いわゆる人種ごとの特徴がみられる。特に頭蓋の幅、前頭部の形状、眉間と眉上弓の発達、鼻根部と上部顔面全体の平坦さもしくは突出具合、歯槽・顎骨部の退縮もしくは突出程度などで、世界中の主要地域ごとに特徴的な形態が見られる。一方、多くの集団を用いた比較では、集団間の類似は地理的分布と相関し、遺伝的連続性がうかがわれる。」 http://www.um.u-tokyo.ac.jp/real/jousetsu/bone/04.html 日本で出土する人骨でも8000年間に相当の変化があるそうです。16万年前で日本とアフリカの差があるなら変化の巾も大きくなっていても(同じ範囲に入っていても)不思議ではないと思えてしまいます。 1家族あるいは1地域の集団でかなり特異な骨の状態の人がいても不思議ではないような気がします。 http://www.shirasu-dental.jp/reform.html 1箇所から出土した数体の骨でヘルト人全体の傾向を推定し、かつ世界各地に広がっている現生人類の地域的、家系的特異傾向と比較して、異なる種だと統計的に推定するのは、なにかとても難しいことのように思います。  「主要地域ごとに特徴的な形態が見られる」「遺伝的連続性がうかがえる」のは、部分的に交雑ができているというだけのことで内でしょうか。 仮に、集団は互いに棲み分け、短時間の移動が限定され、発見できている個体が少なければ、別の集団を別の種と見えてしまう気がします。 人種差に関わらず同一亜種とみて、10万年以上前の1箇所数個体の骨で別亜種と判定するだけの根拠は何でしょうか。

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noname#160718
noname#160718
回答No.2

 Jagar39です。お礼ありがとうございます。 >生殖交雑が可能かどうかどの程度の支障が生じているかを調べたりはおそらくしないだろうと思っていたのです  そういうことですね。交配可能か否かが種分類の絶対的基準になっているのだとしたら、ある属の下に20くらいの動物群があるとき、これらを1つ1つ交配可能か試してみないと分類できませんものね。そんなことは誰もしたことがありません。  ですから、「自然の状況下で交配が起きない」という観察事実をもって「生殖的隔離が成立している」としているわけです。  また、本当に重要なのは、それぞれの群の遺伝子プールが独立しているか(互いの遺伝子の交流がないか)であって、「人為的手段を講じても交配が起きえないか否か」ではないのです。  2つの群がそれぞれ遺伝子プールとして独立していて、さらに何らかの差違がそれらの群の間に見られれば、「この2つの群は別である」と言えるわけです。 >もとのヒトの分類の件ですが、[政治的に利用されたり差別を助長する危険性]を配慮して分類をしないというのは非常におかしいことと思います  人類を亜種分類して得られる科学的知見の有用さより、亜種分類することによって起きる差別や政治利用の害の方が大きい、と思います。そうでなくても「人種差別」というのは人類の間に根深く蔓延っているし、それで実際に多くの血が流されています。人類の亜種分類はそれに「科学的裏付け」を与えてしまいますから。 >おそらく生物として、個体差があるだけでなくて、遺伝的な種の差のようなものもあるはずです  ラクトース分解能等のように、人種毎に比較的明確な差が見られる機能もいくつか見つかってはいます。  ですが疾病や治療に対する反応性のような医学分野に限れば、仮に人類の中の遺伝的な差であったとしても、全て個体差で処理可能ですし、むしろそうすべきでしょう。  どういうことかというと、例えば日本人にはある鎮痛剤が非常に効きにくい、という「遺伝的な性質」があったと仮定しましょう。  それが事実だとしても、日本人全てがその鎮痛剤が効かない、というわけではないでしょうし曾祖父がイタリア人でその鎮痛剤が効く遺伝子を受け継いでいるかもしれませんから、「日本人ならこの鎮痛剤は投与しない」という短絡的なマニュアルにしてしまうわけにはいきません。  結局、試用投与してみるなり遺伝子検査が可能になればその結果で投与の是非を決めたり、という「個別対応」になるのが医療というものでしょう。  ですからここでは「日本人の大半はこの鎮痛剤に感受性が低い」という統計的事実と、「日本人を亜種分類すべきである」という議論は別、なのです。亜種分類の議論をしなくても、その知識を役立てることはできる、ということですか。  医療以外の分野でも、人種や居住地、家系等による遺伝的な差違というのは研究されていますし、理解も進んできています。  ですが、「亜種分類」してなくも理解を進めることはできますし、そうなると「亜種分類」する弊害の方が遙かに大きくなってしまう、ということだと私は思っています。 >自然の生物を形態や食性などで分類するときに、[ドメイン:界:門:綱:目:科:属:種:亜種]に固定(あるいは上科/下科のように2分)する程度では、分類しにくくないのでしょうか  ちなみに亜種は固定された階層ではなく、本来は種が最下層の分類なのですが、それで困ったから「亜種」などという階層を用いているのです。この「亜○」は、目や科、属にも適用されることがあります。  ただ、この分類階層をあまり細かくしてしまうと、それこそ訳がわからなくなる危険性が高いです。  分類の「肝」は、「異なるところを認識する」だけではなく、「同じところを認識する」意義も高いのですから(例えばネコ科の動物はみな出し入れ自由な爪を持っている、とか)、分類階層は多くすればいいと言うモノではなさそうです。

moto_koukousei
質問者

お礼

本当に 重ね重ね 丁寧にご回答をいただき、深く感謝します。   以前にもご回答をいただいた中にありましたが、「「自然の状況下で交配が起きない」という観察事実をもって「生殖的隔離が成立している」としているわけです。」 卵子と精子の可能性のことではなかったのですね。「生殖的隔離が成立している」ことに注目していることはわかりました。 そうすると、人間が活動するとこで意図的か偶然かで外来種の混雑が始まると、生殖的隔離が成立している個体が多くても、同種の種の個体が他の種の個体と生殖を始めてしまう可能性も大いにあり、従来は「生殖的隔離が成立している別種」としていた種が、同種の中の地域差というように種が減ることもあるですね。 種、亜種の認定が流動的に書いてある動物がけっこういるのも、そういうことも、一つにはある。 外形や色、頭骨、乳頭などは大きな要素だけれど、それを金科玉条にして分類しているのでもないこともわかりました。   出し入れ自由な爪を持っているをネコ科にしたとすると、「同じところを認識する」「異なるところを認識する」を繰り返すと、生物の変化はあらゆる方向にどれだけでも進みますから、可能性で言えば10段階分類ではとても済まないだろうと思えます。ピューマのように今後増殖の可能性があまりない生物はこれ以上分類を増やすこともないでしょうが、寿命が短く繁殖する生物は進化差別化が各地域で進み、「生殖的隔離が成立している別種」その下の「亜種」、亜種からまた枝分かれするする【種?】も数年ごとに新生しそうに思います。ウィキペヒアには、「蚊は、ハマダラカ属、ナガハシカ属など35属、約2,500種が存在する」とあります。これだけの種があるくらいですから、亜種の数は万のオーダー、20年後にはさらに進化して分化した亜種の下位の【種?】を分類せざるをえなくなる気がします。大きな違いがあっても1つの種(あるいは亜種)として認識することにするというのは、何か無理があるように思います。   人間社会に社会的差別感や優生政策、種族差別を生む危険がいくらあろうとも、政治的に利用される可能性が非常に高くそれを防ぐことは困難だと思えたとしても、生物としての特性が異なる遺伝的形質があるならば、そういう形質を持った生物群として認識するのが妥当なように私は思えます。功利的な配慮をすることをすべて排除するものではないですが、逆に功利的配慮で差に注目しないこともおかしなことと私には思えます。血液型などでの分類は医療上や親子関係の認知などに使われる位で、差別に通じる危険性はほとんどないですが、いわゆる人種に偏って顕著に見られる特性変化(紫外線耐性、低気圧耐性、インフルエンザ耐性、その他感染症耐性、視力や聴力)など、もしかしたら瞬発力、俊敏性、空間認知能力、その他の運動に関わる能力、記憶力や集中力などにも違いがあるかもしれません。当然医薬品の効く効かない/副作用が出る出ないなども、人種や家系によって違いがあるかもしれません。人種の違いとは呼ばないで、生理的タイプと呼べばいいというものだと思いません。黒人、クロンボというのは良くない、別の表現をしろ、精神分裂病というな別の表現にしろというような言い換えは、生物をどう分類するのかとは別のことだと私には思えます。   私としてはおかしな扱いだと思えることもありますが、「生物学でどのように種や亜種を扱っているか、ヒトをどう扱っているのか」が、わかりました。   本当にありがとうございました。

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noname#160718
noname#160718
回答No.1

 大前提として、生物の分類法は客観的あるいは普遍的な基準があるのではない、ということを理解してください。  しょせんは人間が世界に満ちる生物を理解するために分類する必要があったから分類した、ということに過ぎませんし、その生物の方はすっぱり分類させてくれるほど綺麗に分かれているわけでもないのです。  逆に、種分化が起きる過程を考えてみてください。  最もベーシックな種分化のプロセスは、最初に1つであった生物群が2つに分かれることから始まります。何によって分かれるかはいろいろでしょうね。川の流れが変わってその生物の生息地の真ん中に川が流れることで分断されたのかも知れませんし、大陸移動によって海が隔てたのかも知れません。  また、氷期から間氷期に入ることによって海水面が上昇することによっても、海で隔てられることになります。  さらに山岳が隆起して生息地を分断することもあったでしょう。  何にしても、これらの地理的要因によって生息地が分断されると、これまで1つだった生物群は2つに分かれる、すなわち「生殖的隔離」が成立することになります。これは自然の状況下では2つの群は互いに交配しない、すなわち遺伝子の交流がなくなる、ということです。  遺伝子の交流がなくなれば、もとは1つであった2つの群はそれぞれ独自に進化するようになります。片方の集団内に発生した突然変異はもう片方の集団には伝わりませんから。  その状態が十分長く続けば、性質や形態が、両者の間で少しずつ差が出てきます。  もっともっと長い世代数を重ねれば、形態も誰も目にも明らかと言えるほど異なったり、再び地理的な隔離状態が解かれてももはや交配しない、あるいは無理に交配させても子を成さない、子を成してもその子は生殖能力を持てない、という程度まで「相違」が大きくなるわけです。  もっと時間が経てば、もはや「元は同じ群だった」ことが想像もできないほど違うようになるわけです。  世界の生物は、任意の2群を持ち出すと、このプロセスのどこかに該当します。  そして人間は、そのプロセスの比較的初期の"どこか"で「これらは別種」という分類をしているわけです。  「互いに交配しない」というのは別種に分類する有力な基準ですが、それは明確な基準ではありません。  「地理的隔離」が成立していて形態に差が見られれば別種に分類する、というのもポピュラーな基準です。狭義の生殖的隔離(無理に交配させても子を成さないか子の生殖能力がない)が成立しているか、というのはむしろ多くの場合はそれほど問題にはされていません。  ニホンザルとタイワンザルは生息地が海で隔てられているので「地理的隔離」は成立しています。そして尾の長さ等の形態に明らかな差が見られます。なのでこれらは別種と分類されています。  さて、本来は科>属>種、という階層で十分なはずなのですが、生物はそれほどきっぱりと分かれていてくれていません。  種分化のプロセスをよく考えれば当然なのですが、このプロセスを何十万年もかけてつぶさに観察したとしても、「今これらは別種に分化した」と判定できる瞬間は存在しないでしょう。  各世代の親と子は、どれだけ観察しても「別種」とは認識できません。もし認識できるのなら、現在でもいくつか「この親と子は別種に分類される」例が見つかっているはずですよね。  つまり2群を10万世代観察したとして、全ての世代の「親と子」は迷いなく同一種に分類されてきたはずです。  でも、10世代後に2群を見比べると明らかな差違が生じていて「別種」に分類するのが妥当、ということになるわけです。10万世代前の共通祖先とそれぞれの現生個体も「別種」に分類されるでしょう。  つまり、シームレスにほんの少しずつ変化してきて「ここが種分化した世代」と明確に判定することができない、というプロセスが、現生のそれぞれの動物群にも当てはまるわけです。  現生動物の任意の2群に注目すれば、それらはこのシームレスなプロセスの"どこか"に位置しているわけです。  ですから、「これが種分類の厳密かつ普遍的な基準」というのはそもそも設定することが不可能なわけです。  だから「亜科」や「亜属」、「亜種」といった、それぞれの階層にサブグループを設定せざるを得なかったわけです。  「別種に分類するほど違ってはいないけど、同種にしてしまうには少し違うぞ」というような。  1ですが、いわゆる分類学上では、亜種より下位の分類階層はありません。  さらに下位の階層に分類する必要がある場合は、「型(type)」や「グループ(Groupe)」など、それぞれ任意の分類名を用います。  細菌やウイルスではそういう分類は非常に多いです。  また、これらの場合はそれぞれの都合によって分類されるので、複数の分類の整合性は特に必要とされません。ある細菌のある2群は「血清型」では異なる型に分類されるのに「遺伝子型」では同じ型に分類されることも普通にあり得ます。  また、「亜種」は先に挙げたように「分類に困ったとき」に採用される階層なので、「この群は少しだけ違うから亜種に分類しよう」みたいな使われ方をされることが多いです。ということは、必然的に1つの亜種内には1群だけ、ということが多々起きます。  3ですが、これも明確な基準はない、というのが回答でしょう。  例えば交配可能なら同種、すなわち交配可能で形態に小さな差が見られれば亜種に分類する、というような基準を厳密に運用することも難しいです。  生息域を互いに少しだけ共有しているA~Eの5つの動物群があるとします。AとBは互いに交配可能、BとC、CとD、DとEもそれぞれ互いに交配可能です。でも、AとEは交配できない、という場合にどういう分類をしますか?  交配可能なら同種、という基準を採用すればAとBは同種(すなわち亜種)、BとC、CとD、DとEも同種になるので、必然的にA~Eは全て同種でそれぞれ亜種に分類すべき、ということになるのでしょうが、でもAとEは交配不可能なのです。交配不可能なら別種に分類すべきでしょうね。  これは輪状種といって、カモメなどで実際に存在する例です。  これも種分化のプロセスがシームレスだから起きることですよね。  ヒトも、アフリカから出た人類が世界各地に分散し始めたのはこの10万年前後のことですから、「隔離されてから」かなり日が浅い動物群です。  それでもアフリカ人とアジア人はその10万年は「生殖的に隔離」されていて、形態的な差違も明らかです。  ですから、人類を「いくつかの亜種に分類できる」というのは、純粋に生物学的に考えた場合は妥当性は高いと思います。少なくとも議論の余地は多分にあるでしょうね。  人類の場合は、生物学的な分類を試みることが政治的に利用されたり差別を助長することが非常に強く懸念されるので、「全て同一の亜種である」ということにしているのだと思います。 >「分布をみると異なる地域に棲み分けている生物集団の場合」は、同種か亜種かの識別はどうするのでしょうか  分布域が異なると言うことは、広義の生殖的隔離は成立しているので、形態的に差違が見られれば別種、という分類になるでしょう。普通に考えれば。  現在では遺伝子解析によっても分類は可能ですが、それもどの部位がどれだけ違えば別種、という明確な基準を作ることはとても不可能なので、細菌やウイルスなどを除けば遺伝子解析は種分類のツールにはなり得ていません。  ということで、種分類は普遍的かつ明確な基準は存在せず、しばしばかなり恣意的に行われている、ということです。  家畜はどれだけ差違が大きくなろうと別種にはなりませんし。家畜には種の下に「品種」という階層を作って、それによって分類しています。  チワワとセントバーナードを、人類以外の知的生命体が観察すれば間違いなく別種に分類すると思いますけどね。

moto_koukousei
質問者

お礼

本当に、詳しく、丁寧にお教えいただき、ありがとうございました。 イメージが、だいぶん(ほとんど)すっきり整理できました。   輪状種という用語も勉強させていただきました。このことが気になっていた大きな引っかかりの一つだったのです。『「輪状種」と「別個の二種」を区別するのは、輪状種の両端を繋いでいる中間の集団である。中間の集団の多くが死ねば、輪状種は「別個の二種」となる』とウィキペディアにはありますが、地理的要因にも多種あり、その他生物的、気候的要因が中間に絡むため生息域が隔離された状態にあるとき、生殖交雑が可能かどうかどの程度の支障が生じているかを調べたりはおそらくしないだろうと思っていたのです。 標本的に外形や骨、あるいは遺伝子を調べても、行動様式や餌などを調査しても、何を基準に別種とするのか、かなり難しいのではないかと思っていたのですが、いただいたご回答で、とてもすっきりしました。   もとのヒトの分類の件ですが、[政治的に利用されたり差別を助長する危険性]を配慮して分類をしないというのは非常におかしいことと思います。感染、病気や疾患、障害発生も生物種が異なれば、発生確率・耐性も異なって当然です。医薬品や医療をする上でも、ヒトを1種に扱うのではなくて、他の動物以上に、細部の生物的差異の内容やそれによって生じることを生物学では究明すべきなのではないかと、個人的に思います。 肌の色の違いは紫外線への耐性も変えています。 細菌やウイルスに対する耐性も、ガンや高血圧その他も、それを障害や疾患の原因にしてしまうヒトもいれば特に影響を受けないヒトもいます。 おそらく生物として、個体差があるだけでなくて、遺伝的な種の差のようなものもあるはずです。 差があると見なすことが科学の基礎であると私は思っているので、差を調べない、差で分類して統計的分析をしないというのは、とても変なことに思います。(病理学、薬学、疫学では、統計を駆使するのに、その肝心なヒトを生物的に同質と扱うのはおかしいと思っています。単なる体格差のようなものではなくて、生物としての種のようなものが違うのだと思います)   なお、遺伝子治療のようなこと、優性生物を多くするようなことが良いとは限らないと、私は思っています。 偶発的突然変異と適応力による自然淘汰、適応拡散は、自然の一つです。何が優性か、何が適応力が強いかなどは、人類文化や社会環境、自然環境、偶然で変わってしまいます。 実際の社会の中では良い悪いとか嗜好されるということは避けられないでしょうが、差別に繋がる危険性を危惧して差に注目して分類することさえも避けるのは問題ではないかと思います。   進化や生物の分類で樹状の絵を見たことがあります。 確か、何段階で終わるという限度が見えるようなイメージではなかったです。 [分類学上では、亜種より下位の分類階層はありません]とのことですが、自然の生物を形態や食性などで分類するときに、[ドメイン:界:門:綱:目:科:属:種:亜種]に固定(あるいは上科/下科のように2分)する程度では、分類しにくくないのでしょうか。 生物種に対する人間の関心の持ち方にもよるでしょうが、変異の発生確率が高く、数十年でどんどんと分化していく生物がいると、分類階層数を固定したりすることは、研究の障害にならないのでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 非常に詳しく、丁寧に説明をしていただいたので、重要な部分の理解はすっきりできた気がします。 本当にありがとうございました。

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