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「中庸」と「止揚」との意味的な違いは?
よく「中庸」の意味を誤解なさって、 「平衡」とか「中心・真ん中」とかの意味合いで使われる、という杜撰な誤用が、 最近の日本で頻繁に見受けられますが、 正しい意味を考える場合に、私が気になったのは、「止揚」との明確な峻別の根拠です。 若し支障が御座いませんでしたら、 其の疑問の解消への手掛かりを紹介して頂けないでしょうか?
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質問者が選んだベストアンサー
ちょっと議論疲れが出てきましたので、休憩したいと思います。 また回復したら、ということにしたいのですが。 あまり無理もできませんので。 いきなりで悪いのですが、お赦しください。 こちらからのリクエストとしては、議論内容を整理してもらえたら、あまり長期化せずにすむとは思うんですが。 でもそれも色々事情があるのだとは思いますが。 一応当初の質問の話はクリアしてるのじゃないかという気もしますので、了解ください。
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- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
投稿不能のためあしからずです
補足
こちらからの送信に関しましてのトランザクション処理もが、何故か滞っていた様で、別の質問ページの「補足入力」欄への入力内容が「一時的に」消えていました。 サーバ側でのポートフォワーディングは「無心」で行なわれているのではないのでしょうか? 是はくだらないジョークですが…。
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
こんにちは。では。 >因みに、その色の判定は、 矢張り患者の方々の体とのネゴシエーションによっておりまして、 判定が難しい場合には、マスターキーの「金色」でポートを開き、 鍼を受けれて貰いやすい状態に導きます。 従いまして、その意味では「囚人のジレンマ」との類似性を探る価値は無いでしょうか? よく似てるとは思いますが、主体性の視点をどこに取るか? という意味でしょうか? >有り難う御座います。下記のサイトへの回答内容をも拝見しました。 http://okwave.jp/qa/q3823241.html なつかし!! しましたしましたこんな投稿~。懐かしいなー。 今もまとまってないけど、さらにまとまってなかったときの投稿で、質問者に迷惑かけたような・・開き直ってますが。 ーーーーーーーーーーーーー個人的異見です >「絶対無」は、 客観的な対象の有無を認識する「外的な」主体の存在をも必要としておらず、「内部から直観的に」把握されますので、 其処から東洋哲学的な「天人合一・大同」という境地へ到れる』 ということなのでしょうか? まず、言われてることは全く正しいと思います。直感的統一的把握により合一する、というのに矛盾はないんじゃないでしょうか? その上で・・真理の別表現として、付け加えたいことがあります。いいでしょうか? 言葉による表現の限界について言いたいのですが。 ・・・表現するのが難しい、というか僕も十分わかってないからですが。 言われることは間違ってないと思いますが、でも正確でもないと思います。 というのも、本当のところ、天人合一大同、というのは、言葉で表現できないですし、こう言葉で語る地点で、質問者さんの脳に、何らかのイメージが湧いてるはずですが、全部それは厳密にはエラーです。 言葉は残念ながら、相手の脳にイメージを喚起させる能力しかもちませんが、それがそもそも混乱しやすい部分です。というのも真理にはイメージがないからです。 というのも、天人合一や他にもいろんな真理を表現する言葉がありますが、こういう真理においては、完全な状態においては、なんの言葉もなく、なんの考えもなく、なんの感情もありません。そして全てあります。 つまりこの間書いた、超越と内包が同時に起きています、同時にです。止揚と中庸が同時です。イメージできます? 頭真っ白というか、意味不明というか、理解不能というか、そういう言葉にならないものが、一番真理に近いと思います。 無理やり言葉で書くと、前も書いたこと有るんですが、 「&#?〄;$※♂(右)?」 とでも書くべきです。矛盾の一種です。 それはもう言葉じゃなく意味でもなく、何もありません。何でもあります。 だから質問者さんの文は合ってるのですが、それでも更にケチ付けてみると、ぎりぎり正確に言葉だけで真理に迫ってみると、僕のやり方ですが、 「絶対無」は、 客観的な対象の有無を認識する「外的な」主体の存在をも必要としておらず、「内部から直観的に」把握されますので、 其処から東洋哲学的な「天人合一・大同」という境地へ到れる』 という文のうち、補足するとしたら 絶対無でもいいのですが、同時に絶対無=相対有です。 客観的対象は同時に主観的一体でもあります。 外的主体の存在を必要としてないですが、必要としてます。 内部から直感的にで正しいですが、同時に外部を分析的に把握もしてます。 またそれは東洋哲学的境地ですが、西洋哲学の境地でもあります。 天人合一で大同で正しいと思いますが、同時にバラバラの極地=無です。 と、修正したい気もします。しなくてもいいんですが。 なんでこんなあほなこと言うかというと、上にも書いたですが、質問者さんの脳内のイメージを全て、プラスマイナスで打ち消して、何もなしにしようという意図からです。 このやり方はとても正確だと思いますが、個人の嗜好を無視します。つまり意欲がそがれます、これではやる気は出ません。でも表現としてはより正確だと思います。 真理は、&#?〄;$※♂(右)?と思うので、それに近づけるには、上のような補足が入ります。 別に嫌がらせでいちいち逆の言葉をぶつけてるのではなく、本当に論理的にも逆が成り立つから厄介です。
補足
有り難う御座います。 皆様の回答もが「造化」の様に熟成されていくのですね。 このサイトへの投稿を始めるのが遅かったせいで、 勿体無い時期を過ごしていた様に思っておりましたが、 こういう学びはいつから始まっても、 自分自身の経験と組み合わせて、遣り直していける、という可能性の存在を実感しました。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
21です。 五行の相生相克、経絡刺激術、五臓六腑の養生、東洋医学、中庸、占星術の医学、霊気説の医学、遠近法、動物裁判、主体、止揚、神学、客観性 こうしたタームを全体的につなげていげるとは思いますが、風呂敷は壮大ですね。 科学技術史は思想史や宗教史に動かされ、また思想史や宗教史は、科学技術史に動かされるものでもあるんですよね。だから、研究してみようというときは、いくつかの具体例を、科学技術史としてピックアップするか、思想史や宗教史としてピックアップするか、どっちかに座る位置を決めてとりかかったほうが、頭の交通整理がしやすいですね。 でないと、それらに相関関係があるという当たり前のことを、こういう前提で描き出すことができます、と結論するだけになりがちでしょう。相関関係を睨みながら、たった一つの技術の誕生や、一つの思想哲学のなりたちを見つめたほうが、ドラマチックで驚異的かもしれません。 21で、言辞は命題を含むものとして規定があるというそのことによって、規定の存在証明から見直すことができる、と止揚のはたらきについて前回述べましたが、漠とお感じになっているような、突きつめると主体の在り処の問題が、止揚の概念にもおおいに絡むと思います。 動物裁判を例にとって、追加質問をいただきましたね。 わたしの理解では、動物裁判は神へのパフォーマンスだと思うのです。神の目の前で、被造物の裁判を歴と行うのが善きつとめ、と考えるのではないかと思っております。キリスト教にとって、とにかく意思は神にあって、人間はつとめを行うものですから、こういう解釈をしています。 霊気の病というのも、たしかにこれと似た運びかもしれません。プネウマが病むのは試練か呪いか悪魔と通じたかとなりますが、ここでどれくらい神の許しを乞うて祈れるか、疑わずにいられるか、という問題しか立ちあがってこないわけで、このつとめに従順かどうかを鍵とするような精神的土壌をみとめます。 中世の客観(objectum)という概念は近代とは異なり、霊魂に関わるようにして有る事物について、事物の作用性や目的のことを指しています。だから、今日でいうと知覚されるものとして主観に振り分けられるような概念です。そうしてスコトゥスやオッカムの神学は、知覚や認識で掬い取れない部分を、神の啓示が埋めるとするのです。 もっと外的なありようとしての客観がドイツ観念論に現れてから今日まで200年ちょっとの期間しかありませんね。 動物裁判にしても、病の霊気説にしても、原因を他に作り出すというように見えるかもしれないけれども、現象や出来事が先ずあって、普遍的な再現性のある原理で説明しようとするのは、近代の合理主義的なわれわれの発想です。そうではなく、中世のキリスト教社会では、現象や出来事があると、それは神のすることであるという揺るがない原理があって、では何をさせるためであるのか、何を試そうとしているのかというところに解があるという発想にみちびかれるのですね。そういう、一種の独善といえるような、反映する主体、解決を示す主体、といった主体的行動主義とでもいうべきものが、結局のところ中世のみならず西欧の精神性には深く横たわっています。それは、認識哲学にも神学にもタマネギを剥くような合目的的アプローチを決定づけているのだろうし、止揚というのもそこに沿った運動とならざるをえないでしょうね。
補足
有り難う御座います。 『世の東西を問わず、自然の猛威に曝された際に、 古代の御先祖様達はそれ等の現象を神仏の霊力と見做して、受け入れてきた』ということなのでしょうか? そもそも私が「動物裁判」に拘っている理由は 『人間へ危害を及ぼした動物達に「罪状認否」への協力を強いていた』という認識だったのですが、次のサイトによりますと、 仰る通りの説が強調されておりましたので、私の視点の構成の必要性を再確認しましたから、切っ掛けを賜り、助かりました。 http://psychology.jugem.cc/?eid=56 でも此処で別の疑問点が浮かび上がって参りました。 それは、こういう内容です。 『神仏等の「真実在」からの「教訓(?)」を「秩序」化させたのか否かによって、東西文化の発展が、是程の格差を齎されたのは、何故なのか?』ということです。 でも、私の酷い勉強不足が理解を阻んでいるだけなのだ、と思われますので、執拗な質問で畏れ入りますが、 更なる御教授を賜りたいものですから、御伺いをさせて下さい。 『下記のサイトによりますと、「カメラオブスキュラ」の原理は、 アリストテレスによって発見されているそうですが、 若しそれが介在しているのでしたら、 「陰陽五行説」と「霊気説」とは別の概念なのではないでしょうか?』 http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Studio/3587/camera.html 仮説でも構いませんから、解説を頂けると、有り難いです。
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
こんにちはー。 >因みに「筋診断法」の研究結果の情報によりますと、 偶然にも『金色』が最も過剰な緊張の解消に適していて、 『銀色』は逆に過剰な攣縮(凝り)を招く様です。 仏と神みたいですねー。 囚人のジレンマですか・・ 人称で考えるのは面白いです。 囚人のジレンマが、2人称の定義や由来になるんじゃないか?という風な意味でしょうか? 動物裁判ーー聞いたことなかったです。 なんだか荒唐無稽な話ですね。 動物を人扱いする、という点で、同じ主題ですよね。 そっかー質問者さんの主なる方向性は、そういう方向でしたかー。ちょっと的外れ書いたかも・・ あまりそっち方面は考えたことがないかもです。 小さい女の子が人形遊びが好きとか、木と語り合う人の話とか、多少興味はあるんですが、 精神の性質について、ということができるかしら。 僕は個人的に、対象を同じ人間としてみる、という意味のではなく、相手と自分が一体である、という一体感などのほうが、自分の性格上深く興味が有ります。元は一緒だと思いますが。 一体感が先にあって、そこから分岐する対象としての客観、流れがしっくりくるので、なのでおっしゃる命題にはたいしたこと言えません。 質問者さんが言われるのは、先に客観的対象があって次に主観的一体が来る。 つまり順序として、客観ー主観かと思います。 僕の方は、先に主観的一体があって、次にそれが客観的対象でもあるという、 順序として、主観ー客観、の順番で醸しだされる感覚に興味が有ります。 そういう人の内的感覚の構成の仕組みはおもしろくて探ってはいますが、やはり詳しく分かるのは自分の地の生まれつきの性格だけですねー。 質問者さんの言われる、客観的対象に感情移入、という客観ー主観の順番で生まれる感覚には、僕は極めて鈍く、そもそも味わうことが殆どできないので、 書かれてるところの新しくされた質問は、思いつくことがあったら書くかもしれませんが、 基本自分と違う性格の方の内面の話として、参考にさせていただきたいです~。 今はそういう自分と違うキャラの方の性格分析中なので。
お礼
有り難う御座います。下記のサイトへの回答内容をも拝見しました。 http://okwave.jp/qa/q3823241.html そうしまして、両方の内容から次の通りの疑問にぶつかりました。 つまり、 『存在が失われた後に比較で分かる「相対的な無」と違って、 「絶対無」は、 客観的な対象の有無を認識する「外的な」主体の存在をも必要としておらず、「内部から直観的に」把握されますので、 其処から東洋哲学的な「天人合一・大同」という境地へ到れる』 ということなのでしょうか? 是が此処の質問の最重要課題に繋がると思われますので、 明確に理解させて頂きたいものですから、 更に追加の説明を頂けませんでしょうか? 普段の生活の中では、 此の様な会話へ切り出せる機会に恵まれ得ませんので、 中途半端な理解に留まりますと、非常に勿体無く思われますから、 何卒御教授を宜しく御願い申し上げます。 因みに此の「お礼入力」欄の冒頭へ入力しましたページのURLは、 下記のページの質問のタイトルの用語(分析と統合)を検索しました際に、一緒にヒットしましたので、 素晴らしい「御縁」だ、と考えまして、拝読を繰り返しました。 http://okwave.jp/qa/q6550099.html
補足
有り難う御座います。 私の説明が不足しておりまして、 誠に申し訳が御座いませんでした。 先ず、「筋診断法」の色のことを申します。 様々な色を見た際に心境が変わりやすい事情へは、 最近の心理学分野がアプローチを掛けておりますが、 古来から東洋医学で言われている内容は遥かに複雑で、 『「五行図」の情報の通りに、組み合わせの色を見ると、 関係性が有る経絡の内臓の機能が賦活される』様です。 でも、筋診断法協会での研究の結果によりますと、 『古来から伝わった筈の「鍼灸理論」の状態は、 既に西洋近代科学によって歪められている』そうでして、 実際には、『たとえ目で見なくとも掌に物体を寄せただけで其の色の関係の経絡が反射を起こし』ています。 因みに、その色の判定は、 矢張り患者の方々の体とのネゴシエーションによっておりまして、 判定が難しい場合には、マスターキーの「金色」でポートを開き、 鍼を受けれて貰いやすい状態に導きます。 従いまして、その意味では「囚人のジレンマ」との類似性を探る価値は無いでしょうか? 『此処で古典の真意を見直さないと、 「鍼灸医術」自体が衰退させられかねない』そうですから、 焦りを感じております。 そして、次に「動物裁判」。 此の本の冒頭箇所の内容が酷く圧縮され過ぎておりますが、 下記のサイトでも紹介されております。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E7%89%A9%E8%A3%81%E5%88%A4 でも此のサイトの文面では、 其の作品の主題が安易に省かれておりますので、 酷く勿体無く思われますから、簡単に紹介します。 すなわち、 『西洋文化圏では、前近代にも問題因子を排除する態度で自然と接しており、それ等の例外の排斥によって秩序が維持されてきた』 という事が其の書籍で綴られています。 確かにwikipediaの画面の上部を御覧になると、 不条理な指摘が見付かりますが、 投稿内容が不足し過ぎている故の誤解ですので、 其の指摘を無視して御読みになって頂けると、 知識の再確認の為に御役に立てて頂ける、と思います。 因みに、是等の2つを「お礼」のつもりで紹介しておりますが、 疑問点は御座いますか?
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
また付け足しでなんどもすいません。 自分の書いたもので不満があるので、こちらの本旨と関係ないかもしれませんが・・ 我の合成と削除についてです。 先の投稿で、真無我=有我+無我、と書きましたが、 これを、普通の有我を持つ人にたいする仏教における平均的表現に焼き直すと、 普通の人ー有我ー無我=真無我、ということになります。 この2つの式が同じであることを示すには、簡単な集合の図、ベン図などを使えば表せます。
補足
有り難う御座います。 考えを纏め直しながら返信させて頂けるので、助かります。 今回にも各枠へ入力をさせて頂く予定を考えておりますが、 質問の為に必要になり得る情報を募るべく、 スピンアウトで先に別の質問を提出させて頂きました。 その番号は、”QNo.6550099”です。 そちらでは、主に『「囚人のジレンマ」の視点』を切り口に据えまして、 東洋哲学との融合の可能性を見ていきたい、と考えておりますから、 御覧になって頂けると、幸いです。 因みに伺いますが、 「動物裁判」という書籍(講談社現代新書)を 御読みになったことは御座いますでしょうか?
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
訂正 有我を推し進めたら、真無我にたどり着く ちょっとこの一文まずいです、また。 キリスト教などでの有とは、我が有るというのじゃなく、愛が、信頼が、神が有る、の「有る」です。 てきとーなこと書いてすみません。 自我があるを突き詰めると、それでも最後は膨れ上がった自我はパンと破裂して消えるのですが。 それはともかく、無我の対概念は、有我じゃないです。 無理やり言うなら、有精神、有心、有真心という感じですー。 追加説明で 無我の無は、動的なイメージがあると書いたんですが ない、無いということも無い、全然無い、というのは、どう転んでも、有との対比における、比較に過ぎないです。 所詮それは比べてるだけですし、チョット無い、凄く無い、もーっとすごく無い、などと 言葉ではこんな内容しか表現できません。 でも真の無は、この比較を超越してかつ内包した、つまり無ー有の無とは、全く異質な、別物です。 つまり、真の無を、無という単語を使って表すことは りんごのことを、バナナという言葉で表現しようとしてるようなものです。 これも仕方ないのですが。 神話的表現を使うなら、無や無という言葉は、真の無から見ると、ただの象徴です。 象徴というのは、つまり代表みたいなものですが、 例を挙げると、 真の無我= コップに入ったお水、とします。 すると、「無我」という単語とそれにまつわるイメージは、「お水」と言う字の書いた紙切れです。 つまり、絵に描いた餅です。こんなモノ飲めないのです。 それが、象徴された無我という言葉やイメージと、真の無我の違いです。
補足
途中の箇所への入力になりまして、誠に畏れ入りますが、 流れの都合を踏まえますと、 此処の枠が望ましいのではないか、と思われましたので、 其の儘に続けて入力しますから、此の場で、質問をさせて下さい。 『「真の絶対無」は「存在の消滅によって認識され得る無」と違い、 「無くなる対象もが見出され得ない根源的な虚無」を意味している』 という認識で宜しいのでしょうか? 度々の繰り返しで御邪魔を致しますが、 御教授を宜しく御願い致します。
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
で、最初に戻りますと、 日本的な我は無我かというと違うのですが、 本当に理想的なのを、無我+有我、と定義しますと、 西洋的な我=有我。 日本的な我=無我 となります。 でもお釈迦さんが「無我」という言葉で言いたかった真の無我は、「有我+無我」 のことです。 言い換えると、本当の無我は、有+無であり、それは一言で言って何か、というと、そんな言葉はありません。 言葉の定義を改めてみます。 誤解される一般的なイメージのことを仮無我。(頭で想像可能な、社会常識的な無我のことです) 本当の無我のことを真無我というとすると、 真無我=有我+仮無我 となります。 真無我とは、もはや無有を超越してるので、ホントは、無我という言葉を使うのはおかしいですが上に書いたように言葉で言うなら仕方ないです。 西洋的な我=有我。 日本的な我=仮無我。 となります。 いずれも本当の無我ではありませんので、日本的な謙虚という言葉が似合う無我は、真無我じゃありません。 心理学的に言うなら、たぶんですが、謙虚にはどこか抑圧があり、本当の心底からの謙虚じゃないからだと思います。 謙虚ももちろん奥底まで突き詰めれば=その概念の極限としては、真無我にたどり着くとは思いますが、それは,有我も同じで、有我も極めれば真無我にたどり着きます。 なぜなら、上に書いたように真無我とは、もはや有でも無でもなく、同時に有も無も併せ持つからです。 誤解を気にせず言うなら、真の無我は、有からも無からも等距離にあるので、どちらからもたどり着きます。 有と無は、対立概念であり、相補的な概念です。 すべての言葉はこのように対をなして存在してるので、「言葉」を使って表現した地点で全部間違いです。=頭に何らかの「イメージ」が浮かんだ地点でもうすでに間違いです。めちゃくちゃ厳密に言うと。 なので本当のことを言葉で表現するのが難しいかわかると思います。いえ、難しくないです、全然無理です。 だって、言葉や単語=有です。 そういう言語が存在しますし、概念もありますので、それは無と書いても、「無」という概念があります。 言葉や概念は、存在してこそ言葉ですから。 無という単語は、真の無我を指し示す指さす指であり、極限を示すサーチライトの光みたいなもので、 ある正しい方向を示してはいても(時間変化的に) その場にあるその無我という言葉のイメージは、完璧に間違いです。(静的概念としては) ひとつの無我という単語に、動的概念と、静的概念が2つ重なって存在しており、その指さす指=動的概念は正しく、その本来の静的概念としての「無」というイメージは単に間違いです。 もちろんこんな事言ってたら説明そのものが成立しないのですが。 だから、最初は、自分が有だと思ってる人に、無を理解してもらって、 次に、自分は無だと思ってる人に、その思いすら捨ててもらう、という禅でもよく言われるような段階が生まれます。 これは上に書いた、無我の概念が内包する2つのうち、動的極限のイメージを利用して、次のステップに移動していく必要があることを意味します。 考える自我すら捨てることが有につながるのは、人間は内面的には必ず2人いて、この2人が組み合わさり衝突することで、無と有の概念が、ともに支えあって存在してるからです。 僕らが、無と有、そういう2つの深い本質的な対概念を理解するということは、そういう自分が2人いることになります。 なので、自分の内なる2人の自分のうち、ひとりを捨てることは、自分が意識できなかったもう一方の自分も消滅することになります。 それが,無ー有という対概念の消滅になります。 仏教や禅では、自分の内面にいる無と有の2人のうちの、「無」をこのように強調して、その指針で推し進めます。 逆に、キリスト教などでは、「有」を強調することで、同じ有我+無我の状態に持って行こうとします。どちらでもゴールは同じです。 聖書に神は「ありてあるもの」 という風に, 神は、有るということも超越して有るんだ、と主張されます。人の理解出来ない「有」だと言われます。これは仏教の非想非非想に対応します。 これは、神は存在するし、愛はこの地上に満ち溢れている、という「有」のイメージを極限まで推し進め、有、という概念をすら超える有にたどり着く、という指針です。 やってることは仏教と同じです。ゴールは、有+無、です。それは、言語化できないノンバーバルな世界です。 (心理学の無意識などの、言語化しづらい、というのとは本質的に違い、本当にどんなに頭よくても文化や科学が発達しても、永遠に言葉で表現できないものです) ・・・相変わらずまとめるの下手ですが、こんな説明でよければ、です。
- sheep67
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>此の箇所から『縁起』のことを連想しました。 あ、はいそうです。縁起は僕にとって重要概念で、この世の説明の中心です。 ただ先に縁起という概念が正しいなーと確認できて、その後その縁起をもとに、時間空間で全体の構図をまとめることにしてます。順序的に。 ーーーーーーーーーーーーーー つまり『東洋では「変化」が重んじられ過ぎているが故に、 「再現性」の価値が見落とされてきたせいで、 東洋では「西洋近代的な産業革命」が起きなかったのだろう』 と考えたのですが、誤っておりますでしょうか? そう思います。厳密には分かんないですが。 科学の証明なんかは、再現性が命ですし。 ーーーーーーーーーーーー >別のスレッドでは経絡の事に言及されていますか? いえ、そもそもそういう話題をいう人が少なくて・・そういう質問もあまり立たないですねー。だから今回していただいた質問は久々に興味あって。 哲学と東洋医学って相性いいと思うんですが。裏表だという壁を越えるなら。 ーーーーーーーーーーーーー 筋診断(法) 僕はホント素人で、研究とかじゃないんですが、興味あります。ちなみに僕は積聚療法とかの本読んで自分で押してただけです。 この筋診断法は、最初は、一時はやったOリング的なものかと思ったんですが、 調べてみたら 「AKの創始者でカイロプラクターであるジョージ・グッドハートは、特定の内臓の機能低下は、特定の筋肉の機能低下を反映していることを発見し、特定筋の機能異常を解消すれば、それが、それと対応する内臓にもよい影響を及ぼすと考えました」 この一文はものすごく納得いきます。経験上も。 考えの起点も方向性も納得しますねーこれ。感性的にもぴったり来ます。いいの教えてもらいました。またぼつぼつ調べてみたいです。 久しぶりにぴんとくる鍼灸の技法です。 ーーーーーーーーーーーーーー無と有の対 >『「客体」の存在証明が「認識主体」によってしか叶えられない故に、 対象に認識される日本的な「我」は、 所謂「無我」に還元されてきたのだろう』 と考えたのですが、誤っていますでしょうか? 多分違うと思います。 説明長くなります。 対象に認識される日本的な我とは=謙譲の自分、という風な意味合いでしょうか? もしそういう意味ならちょっと違うかも・・わかんないですが。 僕が思うのは、一段上の真相を言葉で表現するときはとても細心の注意がいります。難しいわけじゃないけど。 つまり、先に、動的変化=動+静と書いたように、 無我とは、有我+無我です。 了解でしょうか? 言葉で表現されたものは全て偏りと偏向を持ちますし、仏教的な表現でも同じです。 もし、空や、無や、無我が真理なら、例えば 「拈華微笑」 という風な、言葉にならないものが真理だ、なんてことは言われません。 つまり、無我は、嘘ではないですが、歪んだ表現です。というかお釈迦様もそれはわかってて言ったはずです。本当のことは言葉に出来ないけど、あえて間違った表現で表現せざるをえないんですから。 言葉で言えないものを言ってしまったら、間違ってるのは当たり前で、でもそれでも言葉を仲介させないと伝えられない、という痛し痒しの状況です. 具体的に無我の場合はどうなるかというと、 無我とは、有我に対応した言葉です。 つまり、有我に対して、無我をぶつけることで、有+無=なんにもなし何でもあり、に持って行くという方便です。 だから、無だけでなく、「無いというものものも無い」的な反復表現もあります。 これは、無や無我という表現が本質じゃない、厳しく言えば不正確だ、ということを暗に示します。 1.無 2.無というものものもない 3.拈華微笑 この3段階を見ると、本質である3は、別に意地悪してるわけじゃなく本当に言葉にできません。 それを間違いを内包してしまってもいい覚悟で言語化したのが 無いということも無い。 されにそれを砕くと、無、になります。 気づきの3つのステージがあるんだと思います。 無いということも無い =非想非非想 と専門的には言うらしいですが。 つまり、考えることもないし、考えるということもないということもない、くらいの意味かと思います。 本当に無いということはそもそも、無いということじゃないですから、言葉で言えません。 そこには、無いという概念がちゃんとありますし、そう考える自分も存在します。 「無い」なんて概念は、今ここでは、嘘っぱちだ、というくらいがちょうどいいと思います。 嘘じゃないんですが、仮組みです。まだそれは仮の家で、途中の段階です。 続きます
お礼
追加の話題を思いつきましたから、伺います。 『西洋近代的な「主客二元論」の下では、 「第1人称」と「第3人称」との上下関係が 積極的に強調され続けてきたのでしょうが、 「囚人のジレンマ」の関係の下では、 御互いに相手の出方を探る訳ですから、 「第2人称」が取り扱われているのかも知れない』 と考えたのですが、誤っていますでしょうか? 改行が上手く設定されず、読み難くて畏れ入りますが、 もし支障が御座いませんでしたら、御教授を御願い致します。
補足
またまた沢山の投稿を下さり、誠に有り難う御座います。 御蔭で非常に重厚なページになりましたね。 質問者用の入力枠数が「有限」に留まっておりますので、 大事に利用させて頂かないと、勿体無く思われますから、 徐々に言葉が纏まった段階で進めさせて下さい。 因みに「筋診断法」の研究結果の情報によりますと、 偶然にも『金色』が最も過剰な緊張の解消に適していて、 『銀色』は逆に過剰な攣縮(凝り)を招く様です。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
ご質問の視座について、質問文を補足する形で追記されていますね。ざっとしか拝見していませんが、周縁的にでもご参考になることを願って、二点。一つは止揚についての確認事項。もう一つは要素と全体をめぐる東西の医学についてです。 ・止揚は、定立と反定立という対立に目が行きがちだけれども、反定立が規定されるところの構造連関の土台そのものをどうにかしようじゃないかというものです。規定を脱するのにもそれを完全に廃棄するということはなく、規定する契機としての要素や力作用のうちには保存されるものがあり、新しい構造連関を生みだす望みに繋がっています。 このことから考えてみると、陰陽が運動する一つの全体であることとこれに似た部分もありますね。とはいえ、陰陽の相対性・変化の相は、全体の相から要素の相へと展開されうるもので、そうした要素では、世界を受け入れる力としての、世界を動かす微力の存在という道の哲学を見出すことでしょう。ところが止揚は、否定することで積極的に規定を炙り出して全体の構造連関を動かしてしまおうとするので、要素は全体を手放すために見出すという運動に泳いでおり、世界は受け入れて作用するよりも、対峙するもの、結果の先にあるものとみなされるでしょう。 ・西洋の医学・薬学も、古くは占星術的であり類推の賜物でした。 身体や草花の外観と性質は、星の性質(と考えられたもの)に対応させられていました。内部の微細な組織が形となって現われる、内部の微細な組織は宇宙の法則に従っている、という考えによるのです。それは、ギリシャ・ローマの軍医の経験と、ユダヤ人の伝えたアラビア医学の経験が積み重なって発見された治療や薬効の本質的側面というわけなのです。こうした点は、東洋の五行とよく通じるものではないかと思います。 その後、時代はルネサンスを迎えペストと飢饉の悲惨な世界に突入してしまうのですが、おそらくそのためにとわたしが考えているのは、霊気という観念が色濃くなり、宗教的治療が求められる時代に入るということです。ちなみに霊気説は、実験生理学という近代自然科学の方法が医学に登場するまで世を席捲するわけです。長い歴史に比べたらほんとうに短いスパンでしかないですが、近代自然科学の、同じ条件を与えれば同じ現象になるという客観的事実の信念を、病気と健康に適用したのは画期的でした。つまり、このとき初めて、部分を診るという医学が生まれますし、集合概念としての臓器における個々の臓器という見方が、意味をもつようにりました。一臓器が、身体にとっての原理をもつ、集合的で全体をあらわすカテゴリーになったといえます。宇宙の原理や、霊的原理から離されたわけです。 東洋医学の経絡とこの近代の実験医学を比較した場合に、中庸と止揚ということで言い表せそうでしょうか。どうでしょうか。時間がないのでわたしはこのへんで。
お礼
有り難う御座います。詳しい解説に感謝を致します。 御指摘の通りに途中からの追記で主題を登場させているのですが、 最初には自分の不足を補って頂ければ有り難い、と願いまして、 其処(「中庸」と「止揚」)に特化させて、伺っておりました。 でも、自分の基礎知識不足のせいなのかは分かりませんが、 それ等の用語を自分の目的へと当て嵌めようと考えました際に、 何かの食い違いの様な印象が窺がわれ始めましたので、 自分の誤解の有無の検証の為にも必要なのだろう、と思われましたから、敢えてその時点で締め括らずに、 御教授への協力を御願いしておりました。 従いまして、折角の貴重な機会に恵まれましたから、畏れ入りますが、追加の質問をさせて下さい。 『「霊気説」が中心に据えられていた時代の西洋社会でも、 「動物裁判」の記録が教えてくれます通りに、 問題因子へ責任を転嫁し、それ等を排除していた様ですが、 「霊気説」の手段は「主客二元論」的な分析を採用していなかったのでしょうか?』 愚問なのかも知れませんが、御教授を賜れると幸いですから、宜しく御願い申し上げます。
- sheep67
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ーーー現代の学問における、止揚や中庸の構造が現れてる例 その、同じものをちがう見方で見ることの例として 絵などの多義図形.選択的認知。メタデータメタ認知。相転移、次元、ペルソナ、微分積分、など、止揚や中庸に関係しそうな概念はたくさんあります。 でも、結局このように未だバラバラです。 それは、この止揚や中庸の概念は、未だ人間がその構造をはっきりつかんでないものの代表的なものです。こういう階層概念に対する、コンセンサス、みたいなものがなく、各自の専門分野で独自の言葉が当てられてるのが現状です。 主観と客観が入り交じり、統一的見解はありません。 なぜなら、複数の概念が同時に同じところにある、重なった様子を表現する言葉がないからですし、これは単純に「分析」すればするほどおかしいことになります。 なぜなら、分析して出てきた単一の要素であるはずのものが、同時に重なって存在する~動と静、時間と空間など~というありえない状態からこそ、それを直接表現はできません。 お書きになってる 西洋近代の「要素還元論」と、東洋古来からの「陰陽五行論」 の比較では、まさに還元して基礎の基礎であるはずのその要素が、2重写しになる、ダブって存在する、という還元論ではありえない、ある種の論理構成が、陰陽ではありますよね。 黒と白の太極図において、黒と白が互いにぐるぐる追いかけっこをするように、です。 黒と白が別概念であれば、それぞれ要素でありほかから独立したものであるのなら、こんな構図は理不尽ですしありえない物が、現実には太極図の主張も正しいです。 相補性という言葉を使うなら、黒と白は相補性があります。空間的にも時間的にも。 そういう結論が西洋還元論的把握で出てこないのは、時間変化を無視する~~諸行無常的な、時間の経過と共に安定して存在するものはない、という現実のもう一つの側面を無視して成り立つものだからです。 最も逆に、中国的なものは、時間変化に肩入れをしすぎて、把握をおろそかにしてるかもしれませんが。 なぜなら、黒と白はちがう、という西洋的主張も、また正しいからです。 空間静的把握ではー黒と白は別物 時間動的感性ではー黒と白は相補的 です。 ーーーーーーその他 超越ー内包と言う2つの対の概念も対かなと思います。 超越は、止揚で昇った先からの視点。上から見下ろすような、あなたとわたしはちがう、というイメージ。止揚という動的概念の中にも、静的把握が加わること。 内包は、中庸中道で、左右両方を含む視点、という気もします。あなたとわたしは一体だ、というイメージ。静的構図の中にも動的変化があることです。 止揚は西洋哲学の、静的把握に足りないものを補う形で、生まれてきてます。なので、止揚は動的ニュアンスを持ちます。 中庸は東洋医学の、動的感性心に足りないものを補う形で生まれてきてます。なので、中庸は空間図形的静的意味合いがあります。 つまりそれぞれ、生まれてきたフィールド(ヨーロッパ、東アジア)に足りないものを補う、という目的があって言葉が発明されてるので。 こういう、止揚や中庸などの、次元と階層の構造は、有機的なコンピュータである脳の認識能力の限界に対応してる、と思います。 つまり、脳は真理をそのまま捉える機能が付いてないから、このように真実を輪切りにして、バラバラに捉えるしかない、ということなんですが。 で、そういう脳機能の限界が、そのまま神経を介して、ツボや経絡などに現れてるのかな、とも思います。 もちろん経絡とか、あとは、漢方薬の仕組みなどは、もっと複雑なんだろうと思います。 ここでのツボの説明は、単純に、たった一個のツボを押すことに着目したものですから。そのツボが押されるところで、感覚的には何が起きてるか、というものです。 早く西洋医学と東洋医学の融合が進むといいなーと思います。 ツボも漢方も、いっときかなりお世話になったし・・ また、僕は心理学においても、東洋医学的心理学ーー相手と一体であることを前提に論理的に構成される心理学、というのも生まれて欲しいと思ってますし、 そのあたりは宗教との接点にもなると思いますし。 これで全部かしら・・かけるだけ書いたのですが・・内容の整理がどうも・・冷や汗です。 内面の感覚を言葉に起こしてすぐの文章なので、まとまりに欠けますがお許しください。 なるだけ論理建てて書いたつもりなんですが。 分かりづらいと思うので、また変なとこあったら言ってください。 特に僕は長いこと変化=動的だ、と勘違いしてて、それが用語の使い方にも反映して間違った記述をしてる可能性もありますので。
お礼
遅くなりまして、申し訳が御座いませんでした。 更に伺いたい内容が浮かび上がって参りましたから、 御教授を賜れると、幸いです。 >自分が対象を見てる→対象が自分を見てる、というふうに見直せるという柔軟性は、時間空間的因果関係をひっくり返してますし。動と静の逆転です。 此の箇所を再び噛み締めておりました処、 次の様な事に思い至りました。つまり、 『「客体」の存在証明が「認識主体」によってしか叶えられない故に、 対象に認識される日本的な「我」は、 所謂「無我」に還元されてきたのだろう』 と考えたのですが、誤っていますでしょうか? 支障が御座いませんでしたら、返信を宜しく御願い申し上げます。
補足
沢山の入力を続けて下さり、誠に有り難う御座います。 各「補足・お礼」欄へ入力を致して参りますから、 読んで頂けると、嬉しいです。 因みに折角の機会で御座いますので、 奇妙な東洋医学的現象を此処で紹介します。 (奇妙である理由は、視覚だけに頼らない認識の有り方を示唆してくれ得るからです。) その技術の名は「筋診断(法)」。 『視覚による認識で自然を分析し、問題因子を排除する、という「透視遠近図法」的な自然観が過大評価され、 たとえ視覚に頼り過ぎなくとも、対象達を捉え得る、という「絵巻物」的な自然観が過小評価されている』 と考えられ得る、現代社会に於きまして、 次世代向けの革命的なインパクトを与えてくれるのではないか、と私が注目してきた、新技術です。 具体的に申しますと、色が違うチップを掌に接触させると、 何故なのか、その色に関わる経絡に連動した筋肉の過剰な攣縮が 解れるのです。 (実際に西洋医学的には直せない大怪我を、此の技術が直している、という臨床データが次々と発表されております。) もし何らかの研究に携わられているのでいたら、 御役に立てて頂ける非常に安全な技術ですから、お勧めしたいです。 尚、インターネット検索では、 個別の鍼灸院の名称がヒットしますので、 此処の情報は宣伝では御座いませんから、 URLの紹介を割愛させて頂きました。
お礼
長い御付き合いを賜りまして、 大変に有り難う御座いました。