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アパルトヘイト政策について

なぜ、南アフリカ共和国政府はアパルトヘイトを続けて、その制度を肯定してきたのでしょうか。 黒人だからといってもあそこまで弾圧しなくてもいいと思うのですが…

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  • tanuki4u
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回答No.2

差別された人間は差別する。 第二次世界大戦前においては、政治的な主導権は「イギリス系」が握っていました。なんせイギリス連邦の自治領ですから。 1902年 ボーア戦争でオランダ系独立国は、イギリスに征服される。 1934年 連邦内で独立 1948年 オランダ系が主力の国民党が政権を握り、アパルトヘイトをすすめる。 まわりでアフリカ諸国が独立をすすめる中で、ようやく政治的な主導権を握った「オランダ系」が握った権力を話さないための手段です。 9割以上が黒人なのですから、黒人を差別しなければ、容易に黒人に政治的主導権を握られることが推測されます。 白人の中での多数派であるオランダ系が政治的な権利を白人の中での少数派であるイギリス系から奪ったという実例がありますので。

その他の回答 (2)

  • zep19
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回答No.3

南アの場合、複雑な民族関係があります 南アに初めて移住した白人はオランダ系や仏系ユグノーなどカルヴァン派新教徒で 移住した当地には先住民がいなかったため自らを先住者のアフリカーナーと自称し、大部分は農民で 後の軍組織にも影響をする、軍事組織の骨幹は市民軍と呼ばれる民兵組織でコマンドと呼ばれるゲリラ戦向きの編成していました 人口増大や後に現れた英系に駆逐され拡大途上で農地拡大のため牧畜民のアフリカ系のコイ族の土地を奪い アフリカ系との確執がここに始まったのです カルヴァン派の独特な選民思想が後の対アフリカ人政策に影響したかも知れません ボーア戦争という名でわかるように英系はアフリカーナーをボーア(百姓)、後にはプアホワイトと見下しました ボーア戦争で英軍はボーア人の婦女子を電気柵の強制収容所で6分の1の人々を意図的餓死させ ボーア人の農場を焦土作戦により焼き打ちしました そのような恨みが覚めぬままに二度の大戦で英国のために戦わされました 参戦を嫌い反乱まで起こったほどです やがてアフリカーナーの民族派は国民党を作り第二次大戦後の1948年に政権奪取しました 当時の英本土政権は労働党政権でスエズ以東の植民地独立承認し始め 南部アフリカにおけるアフリカ人の武装化を始めアフリカーナーに脅威を与えました 同時期マンデラ氏の組織したANCの闘争の暴力化も合間って 国民党政権の差別化政策の発端を見せ 当初は共産主義拡大の脅威とジョイントしてNATO加盟も目論みますが失敗 1960年になりアフリカ諸国が次々独立しだすと更に先鋭化した国民党政権はアパルトヘイト政策を明確化し 英連邦を脱退し南アフリカ共和国を成立させ 軍も英系将校を排除しアフリカーナー将校が掌握する市民軍骨幹の国防軍に改編しました アパルトヘイトはアフリカーナーにとり一種のアイデンティティーなのかも知れません しかしアパルトヘイト政策での一番の受益者はアフリカーナーでなく 南アの豊かな地下資源で暴利を貪った日本を含む西欧系企業です 余談ですが 日本では日本人は有色人種では名誉白人と半ば自慢したかのような屈折した反アパルトヘイト《風》本が出版されていましたが 実はアパルトヘイト下の南アにおける有色人種の最上位は日本人ではなく台湾人です 準同盟国の台湾人は名誉白人でなく白人同等とされていたのです 長文失礼致しました

回答No.1

白人移住者たちは、原住民を見た時、自分たちの文明の方がはるかに優れていると考えました。そして、原住民との戦争の過程で、原住民に対する憎しみを募らせていきました。そういう流れの中で、聖書を読んでいない白人移住者たちは、人類は平等ではなく、黒人は神に呪われていると考えるようになりました。 19世紀に入りますと、白人以外のキリスト教改宗者が増加し、相変わらず黒人に差別観を抱いていた白人は不安を抱くようになりました。結局、教会は別々の建物で礼拝を行うことを組織的に促進しました。やがて、こうした分離が政治的にも推し進められるようになりました。 こうした政策下で、白人は黒人と社会的な接触を控えたため、生活面などで黒人が受けている苦しみを十分に理解できませんでした。したがって、アパルトヘイトが存続しました。

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