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本当に優しい人、思いやりのある人って存在しますか?
友人は「そんな人は存在しない。」と言います。そういう風に「見せる」事が出来るだけ、と....。例えば、何をされても感謝して、「ありがとう」と言える人がいる。そう言われると周りは気分がよくなる。でも、それは「ありがとう」と言う習慣が付いているだけで、本心では無い、かもしれない、と言うのです。それに自己犠牲を払ってまで、他人に良くする事は、バカな事、と。 優しい人、思いやりを持てる人について、広くご意見をください。よろしくお願いします。
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質問者が選んだベストアンサー
わたしも「本当に優しい人、思いやりのある人は存在するのか?」と疑問に思います。 そしてそれに対してはかなり懐疑的な意見を持っています。 これは「本当に」という言葉にどれほどの意味を込めるかということと大きく関係しています。 お友達がどのようにとらえての発言なのか、質問者さまの文面からはよくわかりませんが、わたしの場合は「本当に」に自らの利益が全くない状態を考えます。全く純粋な行為は利益を求めるものではない、ということです。 優しい行為をするのはなぜか。 わたしは「自分が快いからだ」と考えます。 自分の快さが全くない、他者に対する優しい行為。そういうものはわたしには思いつけません。 例えば他者に親切にする過程で、自分に不利益が生じる場合。そういう中でも「他者に親切にした快感」はあると思うのです。 とすれば、わたしの「本当に」の中には「快感を得た親切」は含まれませんから、本当に優しい行為は存在しないことになります。快感を感じることで、本人は自分に利益をもたらしているとかんがえるので。 「他者に親切にすると快感を感じる」という作用は、遺伝子に組み込まれているような情報と似たようなものではないかと想像しています。人間が社会生活を営む上で闘争心と車の両輪のような位置にあるもの。快感はこの場合エサです。 そう考えれば、快感を伴わない親切は構造的にありえないものではないか、とまで想像します。 しかしわたしはそのことが良くないことだとは全く思っていません。自分の快感のためにでも、他者を助ける行為は美しいと感じます。 その美しいと感じる部分がそれなりに人に親切にさせ、また別な部分では他人を傷つけ、人間のバランスをとっていくものではないかと。創造の神がもしいるとしたら、彼がそれをわたしたちに付与した……他者との穏やかなつながりを構築していく中の安全弁としてそれを作ったのではないかと思います。 先の回答の中にあげられているような、その瞬間の判断で行動する(溺れている人を助けるために飛び込むなど)場合はちょっと脇へ起きます。わたしにはそういう行動は、優しさや思いやりで行っているようには思えないからです。 それもやはり創造の神の安全弁のような気がしています。 >自己犠牲を払ってまで、他人に良くする事は、バカな事、と。 わたしはこれ、本人にとって実に真実だと思いますね。まさにこの状態は「親切にすることによって得られる快感」がない状態なわけですから、本人にとっては本当にする意味のないことなのです。仕方ないでしょう。 ただこの場合気をつけなければいけないのは、自己犠牲の範囲って人それぞれですからね。人間は社会生活を営んでいますから、人それぞれの範囲の中でも「このラインは」というものがあって、それはマナーと呼ばれたり、常識と呼ばれたりします。その辺をおさえておくことは必要だと思います。 「本当の」優しさは存在しないだろうと考えるわたしにとっては、とりあえず行動さえ善いものであるなら、それが習慣だろうがマナーとして行われているものであろうが、論ずべきものじゃないように思いますけどねー。 心の部分は自分自身にしか価値がないもので、行動の部分は他者にとって価値があるものですから。 心がこもっていない行動は価値がない、というような言い方は自己と他者をごっちゃにした考え方だと思います。
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甘い意見にしろ、辛口の意見にしろ、その言葉によって自分がどう思われるか考えないで、その人のことのみを考えてコメントできる人って、いないんじゃない?
お礼
皆さん、ご意見ありがとうございました。難しい問題なのでこれからも考えていこうと思います。お一人お一人にお礼を申し上げず、申し訳ありません。
- anima-mundi
- ベストアンサー率37% (23/62)
自分の本当の心は、分かりません。 無意識を意識することはできません。本当って何や? 本当にと言う言葉は、断定的な表現ですが、意味は無いです。 本当にうまいラーメンだった!とか感情を表すことばであり、客観的な事実を伝えるものではありません。 個々人の経験や感情は、人それぞれです。 ただ、感謝の気持ちを素直に表現できる人は、心地よいですね。 友人のために自分を犠牲するのは、自分に対して優しくなく、思いやりにも欠けた行為だと思います。 優しいだとか思いやりなんて言葉よりも、その友人は黙々と行動するタイプやないかのう。 ただ、日本人は余り表現が下手だから、そういう風に表現の豊かな人に嫉妬してるだけちゃうか? その友人も本当は、表現したい願望あるけど、シャイだからできないだけで、その裏表の痩せ我慢だったりして…
私は高校三年の者です。 別に自己犠牲ではないでしょう。自分を大切にすることにつながりますよ。たとえ、個人主義の人でも(私はそうですが)周りとの衝突を避けたいために、良い顔を見せるものです。 では、本題に入りますが、今言った個人主義の人などでも、もちろん、良い顔を見せる、がすべてではありません。本当に心から、感謝して言うこともあります。 て言うか個人主義ってあまり関係ないってことに今書いてて気づきました。 大切な人に対して、本当に心配する、その人につらいことがあったとき、自分も悲しい、それも本当の思いやりだと思います。私も母親に対しては、そういう気持ちです。 だから、自分が本当に大切に思っている人に対しては、思いやりが存在すると思います。 母親って、大体、子供に対して、そういう気持ちなんじゃないですか。 私の母親に言わせると、「親は子供が幸せなのが一番幸せ」なんだそうです。それも思いやりなんじゃないでしょうか。 ただ、他人に対してはどうでしょう。 人が幸せだったら自分も幸せ、というのはあまりないと思いますし、人がつらい思いをしているときでも、自分に余裕があったり、自分がつらくないときに初めて、その人に対して思いやりの気持ちを働かせることができるものなのでは・・・(でも、それは、自分の余裕が思いやりに変わっていく、に過ぎない、と思いますが)もし自分がつらい立場にいるとき、人を本気で励ましたり、人に思いやりを働かせることができる人っているでしょうか。それこそ本当の思いやりですね。 でも、他人のことを、自分のこととして、(あるいは自分が大切に思っている人と同じように)、考えられる人っているのでしょうか。 映画や本の主人公や、イエスキリスト、ぐらいしか思いつきません。 だって、人の思いやりが、作っているものなのか、本当のものなのか、よく分からないこともあるからです。
お礼
そうですね。家族愛は強いものですから....。他人には..。ありがとうございました。
- -NAMI-
- ベストアンサー率17% (99/572)
これは、相手・タイミング・受け取り方でいくらでも変わる。 同一人物でもね。 私は「ありがとう」という習慣がありますが、多少なりとも感謝している時に使いますよ。でも思いやってるとまでは思ってないですが。その方が気持ちが良いという程度。 どうせ感謝しているなら表した方が良いかな?くらいです。 >自己犠牲を払ってまで、他人に良くする事は、バカな事、と。 これについては、自分に無理して我慢して「やってやったのに」とか「見返りがない」とか思わない程度にやる事にしてます。 頑張ってやって感謝された時、気持ちが良いですから、 思いやりと言うのかな?分かりませんが、バカな事でもないですよ。 反対に助けてもらって心から感謝する事があるでしょう? 経験がないのかな?その友人は。 それを思うと、自然とやってあげたいこともある。 思いやりは存在はしていると思いますが、受け取れない人もたくさん。 すると、思いやりは気づかれないまま。。。 私は物事を良く取る人の方が幸せな気がします。 せっかくの思いやりや幸せが気づかないうちに通り過ぎて行かないよう気づく事が大切なんじゃないかな。
- temperance
- ベストアンサー率9% (34/357)
自分がする行為は、どんな形であっても、結局 自分の為だと思います。。 人に優しくする、親切にするのも、 自分が、相手の喜んだ顔を見たいとか、 よく思われたいとか…そういう動機だと思います。 人を助けるのも、自己犠牲なんかじゃなくて、 助けないと、それを見ている自分が辛いからです。 身を挺してっていうのも、 自分がそうせずにいられなかったからです。 相手の為だけ、自分の意思を抜きにしての行動なんて、 とても、出来るものじゃないです。 私なら、上辺でも親切にしてもらった方が嬉しいです。 お店の営業スマイルも、気持ちいいです。 「ありがとう」と言われて、気分が良くなって、 それでいいんじゃないかな。深くかんぐって、 客だからだろうとか、心にもないくせにとか、 そんなこと考えてしまうその友達、きっと、 何か辛いことがあったのかな、と思いました。 優しい気持ちでいるのと、意地悪な気持ちでいるのと、 どちらが幸せでしょう? 人って、自分の幸せの為に優しさを持っているのだと 思います。人の為じゃなくて。
- cse_ri2
- ベストアンサー率25% (830/3286)
>友人は「そんな人は存在しない。」と言います。 >そういう風に「見せる」事が出来るだけ、と....。 智恵が無い人ですね。その友人の人は。 本当に智恵深い人は、優しさや思いやりが、究極的には自分の 利益になることを分かっています。 (分かっていなくても、自然体でできる人もいるようですが) 他人にしたことは多少時間がかかりますが、いずれ自分に すべて返ってくるのです。 人に優しく接すれば人からも優しくされますし、人を無視 したり無関心でいれば、人からも同様に扱われるようになる でしょう。 参考URLの内容を読んで、よく考えてみてください。
- hirakawa
- ベストアンサー率27% (509/1821)
人間の心には多面性があります。 色々な心が同居しています。 例えば…例はあまり良くありません。 子供が雨で増水した用水路に落ちて溺れているところを見た大学生が、助けようと夢中で飛びこみ、無事に助け上げた(又は、溺れ死んだ) 似たような話を間接的に知っています。(母から聞きました) 実家の隣のご主人(故人@大工の棟梁)は、休暇の日に弟子たちと湖でボート遊びをしていました。 弟子の一人が誤って湖に落ち、棟梁は弟子を助けようと、縄を口にくわえて湖に飛びこみ、おぼれて死にました。 私の田舎では、泳げる人はほとんどいません。
- champ24
- ベストアンサー率27% (3/11)
笑顔を作ると楽しい気分になると同じで、「ありがとう」を習慣にしている人はまわりの人の気分をよくする。 本心など自分でもわからないのに他人がわかるわけもないし 永遠とか永久とかは存在しないが、その人がやさしくおもいやりがあると感じたら、本心のことは考える必要ないのではないと思います やさしい人、おもいやりがある人ではなくて そういう気持ちが自然体で出てくる関係により、やさしくなり、おもいやりがでてくるということだと考えます
ボランティアの人達を例にあげると、彼らは別に無償で親切心を提供しているわけではありません。 「誰かが気持ちよくなってくれれば、それに対して感謝される」からです。 感謝されて嬉しくない人はいませんし、感謝されなければ、誰だってボランティア活動なんかしたりしません。 感謝されたいと思うことは、人に親切にする大切な動力源であり、正常な人間関係を形成する上でもっとも重要な要素の1つです。 だから「感謝されたい、または誉められたい」という欲求を持つ事は、人間として大切なことです。 ですが、親の教え方が悪い等の理由で、「親切心は無償提供するものである」という考え方が身についてしまい、他人に親切にすることが億劫になり、偽善のように思ってしまう人がいますよね。 そういう人には、「別に感謝も何もしてくれない人のために、自分を犠牲にして親切にしてるわけじゃない」と教えてあげるべきだと思いますよ。
- neue_reich
- ベストアンサー率21% (138/647)
「常に」とか「誰にでも」優しくできる人間は 存在しえませんが、意識的にであれ無意識にであれ 優しいといわれる行動を取ることが多い人は結構いますよ。 それを純粋に優しいからと取るか、打算や惰性と取るかは 人次第ですが、取り方一つでその人の性格が見えますね。 素直に優しいといえる人は大抵本人もやさしさや思いやりを持っていますし、 言えない人はあまり誉められた人でないことが多いです。
お礼
「優しい人になりたい。思いやりをもてる人間になりたい。」と言ったら、友人に「みんな自分の事しか考えて無いじゃん。そこまで深く考えるなよ。」と言われたんです。ありがとうございました。
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補足
ここまでの皆さんの回答を読ませていただくと、やはり人は「自分の為に生き、自分の為に人に優しくする」と言う事になるようですね。 宮本輝さんの小説だったか、友人の為に莫大な借金の肩代わりをする、と言う場面がありました。小説の中ではそれがごく当たり前に描かれているのです。「失いたくない友人だから当たり前」と言った風に....。小説は小説だ、と言われるかもしれませんが、作家の方が描かれているのだから、少なからずそういう発想があると言う事で....。 私自身小さい頃からインプットされてきて、保証人だとか、肩代わりだとか、どんなに大事な友人であろうとする事は出来ません....。それで友人が死ぬ、と言っても自信がないのです。 そういう時に何の見返りも考えずに行動できる人が実際にいるのかどうか、でもあまりに自分自身に欠けすぎている部分なので、そういう人が実際にいらっしゃれば羨ましく思います。 ちなみに、川に飛び込む事は私もしそうな気がします。