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元禄文化の繁栄をある一面から支えたという理由から、

元禄文化の繁栄をある一面から支えたという理由から、 江戸時代の吉原遊郭は、 一定の文化的評価がなされているというのは 一般に認められていることかと思いますが、 仮にも売春が行われていたような所が こうした評価を得ているのは何ゆえなのでしょうか? 当時の花魁は、教養も深く、文化芸能に非常に優れていた というのがその第一の理由かとは思うのですが、 個人的には、落語の“明烏”にも垣間見えるように、 花魁が、気に入らない客であれば体を許さない自由があったからか? (つまり、金銭が絡んでいるとはいえ、そこには男女の機微があったからか?) とも思えます。 ご回答お待ちします。

noname#120975
noname#120975
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  • at9_am
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回答No.4

> 売春が卑しいものかそうでないかという観点について、引き続きご意見を頂けないでしょうか。 とのことなので少しだけ補足します。 私は、売春というものが卑しいものだと考えるのは、単純にそういう文化だから、という程度の話だと考えています。例えば朝鮮半島において労働は卑しく、その為に職人が卑しい職業とされていたように、或いは、世界各国で動物の死体を扱うがゆえに皮革業者が卑しい職業とされていたようにです。 個人的には売春自体は、卑しいものではないが、精神的・肉体的に重労働だし危険性も高い上、職業としての寿命が短い、と考えています。 現代日本のことはしばらく置きます。 > (外部の女性と関係を持ちたいという)欲求を成就させる唯一の手段が売春だった。 これが結構間違い。 簡単にいえば、いわゆる「夜這い」の習慣がある地域や野合の類など、多数の手段があります。もちろん、全ての男性が好みの女性に対して、という訳ではありませんが、特に農村部では祭礼の夜には乱交状態、という地域も少なくありません。 ただし、江戸に関してだけは例外です。江戸だけは男性人口の割合が非常に高く、慢性的に女性不足になっていました。 > これらの社会では、売春という行為がすべての男性に対して平等に開かれている(金銭的にではなく精神的に)ゆえ、卑しさとは無関係という事になったのかも知れません。 個別的な嫉妬心や嫌悪感は別とすれば、売春という行為がそもそも卑しいものと考えられるようになったのはキリスト教の影響です。江戸時代までに消滅してしまうものの、性交渉を悟りに至る手段とする宗派(例えば真言宗立川流や天台宗玄旨帰命壇派)まで存在します。 どちらかと言えばカネを大量に必要とする上に治安の面からもあまりよくなくなる場合が多いため、という意味で嫌われることはあったものの、職業として卑しいと考えていた訳ではありません。日本全国に女郎・飯盛女の類は数多くいましたが、年季明けの後は大抵は一般人に嫁すことが普通でした。 売春が卑しいものだと考えられていない一例としては、例えば伊達騒動があります。俗説ではあるものの身請話があったりします。他にも遊女上がりの大名家側室もいますし、大名に身請けされた太夫もいます(有名なところでは高尾大夫)。他にも、嫁が吉原の太夫だったことを自慢する、などということも少なくなかったようです。 今でいえば、テレビに出ている有名タレント、位の位置になるのでしょうかね? 因みに、卑しい職業とされていたのは売春宿の主人であり、忘八と呼ばれていました。彼らは要するに金貸しであり、借金のカタに女性を強制的に売春させて相当の上がりを取る、という側面から卑しいものとされていました。 金貸しが卑しいとされるのは、例えば西洋ではシャイロックのように、洋の東西を問わないもののようです。

noname#120975
質問者

お礼

詳細な説明ありがとうざいます。 勉強になります。 確かに、動物の死体から皮を剥いで革製品を作ったりする仕事が 卑しいものとされることに関しては、 今の日本を生きる身にあって、 それが卑しいものだという明確な理由は見つからないと思いました。 どの仕事が卑しいかということを決定するのは、 その社会の枠組みなのだろうと思います。 今の日本社会で、動物の皮を剥ぐことでそれが卑しい行為だと 結論付けるには、多分に恣意的な判断が含まれると考えます。 また、労働が卑しいということになれば、 医者も弁護士も、卑しいということになってしまいますからね。 しかし、売春については… と、個人的にはどうしても疑問を禁じ得ません。 個人的見解ですが売る側はともかく、 現代の日本で女性を買う、ということには、 どうしてもそれを行う自己の内面にブレーキが掛るのでは? と考えるのです。 知らず知らず、キリスト教的な見方に影響を受けているのかもしれませんが、 どうしても、その行為を通して、 自己の性的な欠落を認めざるを得ないことになるのでは?と。 ですので、卑しいと言っては言いすぎですが、 そんなことをしたら男として情けないというかなんというか… いずれにしても、 人はその人が属する文化に影響を受けて 物事を判断するものだということは、忘れてはならないと思いました。 江戸時代に、女郎・飯盛女の類が大抵は一般人に嫁すことが普通だったことや、 大名に身請けされた太夫がいたことの要因は、 それが江戸時代の日本の社会であったからということでしょうね。 (つまり、どういう条件からそうなったかは解りませんが、 売春をしたところで、後ろめたい気持ちを抱かせる社会ではなかった。) と、いうことは売春に後ろめたい気持ちを抱くのは、 現代の日本だから、という解釈は納得がいきました。

その他の回答 (3)

回答No.3

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>元禄文化の繁栄をある一面から支えたという理由から、 実は、吉原が一般庶民に開放されたのが元禄時代でした。 それまでは、大名や江戸の留守居役、大商人などしか遊べない場所だったのです。 つまり、そこには、お金を散財させて、幕府に対して謀反を起こさせないようにする政策がありました。 元禄年間に入ると、幕府もやっと安定してきましたので庶民にも開放することとしました。 これにより、江戸の庶民50万人とも言われる内、男が60%、女が40%の男たちの「不倫」や「暴行」などの犯罪が大きく激減したのです。 >>当時の花魁は、教養も深く、文化芸能に非常に優れていた 花魁が出現したのは宝暦年間です。 それまでは、「太夫」と呼ばれ、容姿だけではなく、唄、踊り三味線などの芸事を初め、お茶、お花、香合、書道、囲碁、将棋、そして、「八代集」や「源氏物語」などを「レ」(レ点、または、返り点)無しに読めるなどの教養があり、女性としては「超エリート」だったのです。 つまり、太夫は主に大名などの指名があり、どのような大名とでも相手ができるように訓練されたのです。 一時は、太夫だけで70人位いたと言われています。 しかし、いざ庶民に開放されてみると、余りにも教養があり過ぎて、一晩抱くには窮屈だ、と言うことで、徐々に「太夫」は消滅し、宝暦年間頃からは、そこそこの器量で、そこそこの客の相手ができる「花魁」へと代わっていったのです。 「花魁」の語源としては、「おいらの姉御」から「おいらんの」「おいらん」と変わり「花魁」と言う漢字が当てはめられました。 そして、ご存知の通り、一度目、二度目は顔見世程度、三度目にして花魁が気に入れば妓楼へと案内をされ、夜を共にすることができました。この時、待合茶屋までの花魁の行き帰りを「花魁道中」と呼んだのです。 元禄文化の開花は、廓が庶民に開放され、性的犯罪が減少し、花魁などを描いた浮世絵やお伽草子などが庶民に広がりを見せ、幕府政治の安定に寄与したとも言えるのではないでしょうか。

noname#120975
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >廓が庶民に開放され、性的犯罪が減少し、花魁などを描いた浮世絵やお伽草子などが庶民に広がりを見せ、幕府政治の安定に寄与したとも言えるのではないでしょうか。 勉強になりました。

  • at9_am
  • ベストアンサー率40% (1540/3760)
回答No.2

> 仮にも売春が行われていたような所がこうした評価を得ているのは何ゆえなのでしょうか? 売春を低いもの、卑しいものとみる事それ自体が、現代風の見方でしかありません。 歴史上もっとも古い職業の一つとさえ言われるように、昔から売春自体は存在しています。文化の担い手の一員であった時代も、例えば古くは古代ギリシャの神殿売春から日本においては歌舞伎踊りに至るまで、世界中に多数の例があります。また、現代においても、欧米における高級娼婦のように一定の文化の担い手である例も存在します。 したがって、売春を卑しいものとすることをやめて文化的側面のみに光を当てれば、 > 当時の花魁は、教養も深く、文化芸能に非常に優れていたというのがその第一の理由 というのが正しいところだと思います。

noname#120975
質問者

補足

ありがとうございます。 >したがって、売春を卑しいものとすることをやめて文化的側面のみに光を当てれば、 >> 当時の花魁は、教養も深く、文化芸能に非常に優れていたというのがその第一の理由 >というのが正しいところだと思います。 この面が評価されるのですね。 また重ねて、 売春が卑しいものかそうでないかという観点について、 引き続きご意見を頂けないでしょうか。 昔から存在していたから、(価格が)高級だからといって、 それが卑しくない、ということにはならないのではと思えるのです。 しかしながら、仰られるように、 売春 = 卑しい と考えるのは、 現代の、それも日本に暮らす人間だからこそ、 なのかもしれません。 現代の日本では、 かなり性的にオープンな社会になっているので、 金銭を介せず自分の性的魅力のみで、 自らの欲するものを手に入れる事が出来るプレーボーイを尻目に、 敢えて売春をするとなれば、 金を媒介しないと自分の欲求を満たす事が出来ないことを 間接的にでも認めざるを得なくなり、 そうした観点から一種の卑しさを感じるのではないか? 外部の女性と関係を持ちたければ、ほかにも方法があるゆえに卑しい。 このように考えました。 対して、江戸時代の日本や、 その他多くの社会においては、 性はタブー視されるケースが多いので、 (外部の女性と関係を持ちたいという)欲求を成就させる唯一の手段が売春だった。 と言えるのかもしれません。 これらの社会では、売春という行為がすべての男性に対して平等に開かれている (金銭的にではなく精神的に)ゆえ、卑しさとは無関係という事になったのかも知れません。

  • Willyt
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回答No.1

 当時の日本人の9割は梅毒に罹っており、そのような客を応対する花魁の平均寿命は20才と、今から見るとびっくりするような悲惨さだったのですが、当時はそのような境遇になった女性を憐れむよりはむしろ三食困らないで食べて行ける花街を別世界と見做す風潮が勝っていました。これは並の人間だって伝染病などに冒されて死ぬ例が多く、その寿命は40才以下だったと言われていることを考えると、最もな心情だと思われます。  現在とは全く違う悲惨で過酷な浮き世を一時でも忘れられる遊郭が憧れの対象とされたのも無理はなく、これは何も日本に限ったことではなく、ヨーロッパでさえ多数の娼婦が金持ちや貴族の相手をして優雅な暮らしをしていました。  更に、遊郭は金持ちが散財して儲けたお金を吐き出す場所として用意され、それを維持するのに多くの雇用が生まれて経済を活性化していた役割は大変大きく、それが生み出すGDPの大半がサービスという省エネの産物であったため、殆ど無限に膨らむことができたという利点もありました。  ですから元禄の繁栄に遊郭の存在は物心双方の面で大きな貢献をしたということになるでしょう。

noname#120975
質問者

お礼

ありがとうございます。 そういう側面もあったのですね。

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