良心とは?心のあり方について考える

このQ&Aのポイント
  • 良心とは、人間社会において理性的に考えられる心のあり方のことです。
  • 良心を理性で捉えることによって、人間社会をより良くすることができます。
  • しかし、感情における良心を無視して考えることはできず、やさしさや思いやりの心も重要です。
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 良心とか、好ましい心、といった表現について。

 良心とか、好ましい心、といった表現について。  以前、何処かで“良心”という言葉を使って思いを述べた時、良心って何ですか、と言ったような意見を貰った事があります。  そのとき私は“えっ”て驚きました。  「良心って何」って問うような事柄なのだろうかと。  でもだんだん分かるようになってきました。  そのように問う人の“良心”に就いての捉え方は、人間社会に於ける“理性的良心”について、だと言う事を。  言い換えれば、理性で考えられるところの“良心”とは、と言うものでした。   こうした観点からの“良心”について考える事は人間社会をより良くするために、必要なことであろうと思います。  とは言っても、理性で考える“良心”は感情に於ける“良心”を拠り所にするしかないのでは、と思うのです。  感情に於ける良心をないがしろにして、「良心」なるものを考えようとしても、言葉の世界の域を出ないのではないでしょうか。  私が意識して使う“良心”は、小学生でも分かる「やさしさ、思いやりの心」と言った気持ちのことです。      

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noname#116366
noname#116366
回答No.13

あ~あ だから 気分だけ恍惚とする魔境の悟りと言うものもあるようです な~んて言われちゃうんだよな。。。 方法序説でも似たようなこと言ってる 気持ちは 気持ちだけ羽の生えた馬車の上の浄土系 みたいな 利口ぶったおバカ丸出しちゃん 哲学カテで それが売りになったんだ。。。

yy8yy8az
質問者

お礼

 自戒せよ、とのメッセージいただきました。  そのように心掛けます。  回答ありがとうございました。(27/10:54)

yy8yy8az
質問者

補足

 辞書的には・・・・・  この指摘は、的を射ていると思います。  質問してはみたものの、良心という言葉に果たしてどんな意味が含まれているんだろうか、あるいは人はどんな考えを持っているのか、など考える必要を感じてしまいました。  たぶん、これまで「良心」という言葉を辞書で調べることなんてなかったかもしれません。  今回は質問前に開いては見たものの、ま、いいか。という程度。  だからもう一度みました。  そこには、  道徳的に正邪、善悪を判断する意識。また《倫》善悪を判断して、善を命じ悪を退ける知情意の統一的意思。とあります。  「良心」という言葉は結構漠然とした言葉なんですね。  また、理性も深くかかわっているんだということも分かりました。  私は情的こころばかりを意識して使っていたようです。  

その他の回答 (15)

回答No.5

#2の者です。 「やさしさ」というと、無条件で良いもののように考えられがちですが、 それが必ずしも、相手のためや社会のためにならない、その場の逃避や 自己満足である場合も多いので、「やさしさ」自体が固有の価値を持つ ことはありません。 もちろん、「相手への厳しい対応も真のやさしさだ」というような拡張 もなされることがありますが、そうなると「小学生にもわかるやさしさ」 ではなくなります。 それではなぜ、一般的には無条件で「やさしさ」が良いもののように錯覚 されているかというと、その対極に「社会のためになろうとなるまいと 自分の感情を優先する=自己チュー化」が進行しているので、それを補完 する“割れ鍋に綴じ蓋”として、「やさしさ」が価値を持つのです。 (短絡的毒には、また短絡的な毒消しを<しかしその多様は体に悪い (精神的充足量の最大化に反する)ていう)

yy8yy8az
質問者

お礼

 やはり、やさしさ(思いやりの気持ちとか)から派生する“事々”を善悪で捉えようとすると、人それぞれの立場や、価値観や、認識の違いによって、様々な意見が出てくるように思います。  やさしさと言う心情そのものは「固有の価値を持つ」と思えるのですが。  回答ありがとうございました。(27/10:13)

yy8yy8az
質問者

補足

 「やさしさ」という“心”の“働き”は無条件で善いもの、と受け止めています。  ただ、そこから派生するさまざまな行為、行動に、無条件で「善い」と割り切れない事柄が生じるのだと思います。  理性の判断いかんによると。    「やさしさ」という心そのものは、重なりますが無条件で「善い」と言っていいのではないでしょうか。

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.4

>“良心”は、小学生でも分かる「やさしさ、思いやりの心」  つまり、やさしさや思いやりの心 は「自分にとって」好ましいということですか。  では、悪心とは何ですか。

yy8yy8az
質問者

お礼

 だから“悪心”とは、  自分にとって、と言うよりも自分の心「精神」にとって好ましくない心、と受けとめています。  回答ありがとうございました。(27/10:02)

yy8yy8az
質問者

補足

 回答を得て考えました。  自分にとって、というよりも・・・・・  自分の心にとって、人間の心にとって好ましい、と言ったニュアンスでしょうか。  いや、やさしさとか、他を思いやる心、そうした心を“好ましい心”と言っているんです。  正直言って、この表現はとても照れくさいんです。  でも、人の心を善悪に二分割してしまうと、混沌とした中間部分を無視してしまうように思えて、こんな表現を思いつき、使い始めました。    

noname#116360
noname#116360
回答No.3

>が意識して使う“良心”は、小学生でも分かる「やさしさ、思いやりの心」と言った気持ちのことです。 yy8yy8azさんにとって、こうあるべきである自分の姿が「やさしさ、思いやりの心」を持った人間ということではないでしょうか。 簡単に言うと現実の自分と理想の自分の落差が良心という意識を生み出すのだと思います。

yy8yy8az
質問者

お礼

 何度も読み返してみましたが、やはり読み取れませんでした。申し訳ありません。  回答ありがとうございました。(27/09:55)

yy8yy8az
質問者

補足

 「現実の自分と理想の自分との落差が良心という意識を生み出す」・・・・・ここがよく分かりません。  “向上心”のようなことを言おうとしているのでしょうか。(21/23:35)

回答No.2

人の生きる目的が物質的な繁栄や即物的な利益の追求ではなく、 精神的充足感の追求であれば、「良心」や「善悪」といった 社会的価値は二次的なもので、自己の充足量の最大化において +になるか-になるかだけが価値基準です。 「善悪」のように、自己の衝動の展開とは独立した、他律的価値 によって強制される社会行動は、原理的認識が伴わないため、 「充足量の最大化」において次善の策となる。 (「悪」についての過去の回答を下に付けます) 悪(あく):深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。 その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。 そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。 その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。 それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属する。

yy8yy8az
質問者

お礼

 よく使われる「真実の自己」と言う表現。  これに相当する“自身”を成長させる事柄を「善」と言い、妨げる事柄は「悪」とする。  このように受けとめてみました。  回答ありがとうございました。(27/9:43)

yy8yy8az
質問者

補足

 「良心」という言葉についての「概念」を抽象的に表現した“回答”と受け止めました。内容は分かってないので自身ありませんが。  この視点で、人が持つ感情、「他を思いやる心=やさしさ」について、語ってみていただけないでしょうか。  よろしくお願いいたします。    

  • syuitilwo
  • ベストアンサー率30% (169/547)
回答No.1

的外れな意見かも知れませんが… 良心の反対は平たく考えて『悪心』だと思います。 この悪心を考えた時、殆ど『欲望』が絡んで来るモノだと思います。 と言う事は『良心』とは欲望から切り離されたモノに近いと思います。 利己的な欲望から隔絶した心こそが良心として捉えられても問題ないのでは無いでしょうか? 因みに「良心って何?」と問う人についてですが こう言う人は何か『基準』を求めているのだと思いますよ。 >感情に於ける良心をないがしろにして、「良心」なるものを考えようとしても、言葉の世界の域を出ないのではないでしょうか。 確かに感情的な部分で「良心」の発露は多分にありえるでしょう。 しかし我々ホモサピエンスは「言葉」に意思の疎通に大部分を必要としてしまいます。 良心と言う心理の概念をどうにかして他に伝えなければならない。 または、他から教えを授かりたい。と言った場合『言葉』にしなければならない場合も多々ある訳で… > 言い換えれば、理性で考えられるところの“良心”とは、と言うものでした。 と言う事も已む無し。 更に言うと「人の心」に基準なんて千差万別。 つまりは「良心」をどう捉えるか?なんて事も千差万別で然るべし。です。

yy8yy8az
質問者

お礼

 善悪の基準は人によりけり、と言う指摘は納得できました。  そしてこの基準と云うものには、人それぞれの“幅”と言うものがあり、その区域の中で右に寄ったり左に寄ったりと、揺れながら生きているのだと思います。  基準は人によりけり、とは・・・・・  ある人にとって“好ましくない状態”と思える状況が、別の人には「今の貴方のその状態は私にとってはとても“好ましい状態”である」と言える、と云うようなことですね。  回答ありがとうございました。(27/09:30)

yy8yy8az
質問者

補足

 私がよく使う「良心=好ましい心=やさしさとか」についての批判に、  情緒的レベルの二元論で善、悪を考えても、思考とは云えないのではないかと言われたことがありました。  結構ハイレベルでの「哲学」をされている方のような意見でしたが、結局結論めいた答えはいただけず、私の頭は混乱するばかり。  難しい。  ありがとうございました。

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