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我は神である。

我は神である。 このぶち切れ発言の内容は明白です。 神の初源は純粋な光。 救われる事を光明が見えたとも言うじゃありませんか。 自助を発揮したなら、光明を見出したとなるでしょう。 それでこそです。 そこで二つに分かれます。 お天道様が照らしてくれるゆえである。ありがたや。 自らが光であり、光とは自らの輝きである。這いつくばれヤプーども。 歴史に語られる聖人の類は後者です。 今や生活を楽しめる(本来の)一般人が後者です。 まず、あなたがヤプーに属するか人間に属するかを明白にしたうえで何らかのご見解をおよせください。 付録の検証材料です。 ごく一部でアメリカの支配階級が世界を牛耳っているという陰謀説があります。 アメリカはダーウィンの進化論を否定して全ての生命は神様の創造で聖書のみが真実とする文化を持ち合わせています。 そんな田舎くさいアメリカ社会で理性的にダーウィン進化論を支持するだけで、要するに世界市民的な常識をもつだけで、その理性が成功を確約しアメリカ支配階級にあなたですらなれます。 要するに頭が良ければ支配階級になれアメリカンドリームが実現します。 この世界市民感覚の常識は日本の風俗にも当てはまり、辛気臭い文化から冷静であれば同様にジャパニーズドリームが実現します。 お金が無いなんて貧乏とおさらばできます。 世界市民的普遍性を備えた常識感覚とは、別の思い込みによる常識を信仰する事によって支えている限り、その者は決定的にヤプーです。 ヤプーの常識とは信じる限り貧乏が必定です。 このカテに出没するヤプーは、そんなにも自らがヤプーである事が嫌で嫌で仕方が無いヤプーの裏切り者です。 裏切り者に行き場はありません。 ヤプーはしょせんヤプーに過ぎない事を知らしめる必要があるでしょう。

noname#117439
noname#117439

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  • AXIS_
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回答No.4

>無関係にもかかわらず、アメリカからUFOを輸入してその気になっているオカルトマニアは日本人の良識を汚す最低人間である。  火のないところに煙は立たぬ とも言うし。自分に関係ないことを想像たくましくしている、という点においては質問者と同類と思われる。ほっとけば良いんじゃないかな。もしかして怯えているのですか? >私に媚を売る事とは、幼児性愛むき出しで痴漢行為を働く事である。  なんでやねん priちゃんに媚売っても何もいいことないだろ! >ちなみに如意が不明だと女神様に恋焦がれてしまうよ。  オレのは かちかち もしくは がちがち です。  それから、質問文の前半部分に間違いがあるので検証しなおしてみて下さい。  また、暴力の代わりに「学力、学歴」で他者を出し抜き、勝ち抜こうとするのは形が変わっただけで、本質的には同じことだと想います。勝ち負けのゲームを仕掛けることが社会の二極化と混乱をもたらすのだろうね。  あとbrag君がまたレゴブロック遊びを始めたようですね。並べ替え、組み立ててなにができるのか不思議でたまりません。

noname#117439
質問者

お礼

今回はこれ以上は放っておくよ。

noname#117439
質問者

補足

一つ思いついた。 私が誘発する他者の人格崩壊の危機について苦言を呈してみよ。 言っておくが私は慈悲の発露を否定している。 救うつもりは無いぞ。 むしろそれなりに信頼できるだろうよ。 それから私の罵詈雑言は全て好意的なツンデレと見なすべし。 生きることは愛だよ。 私はそのように生きている。 女体の神秘の研究ならよそでやってくれ。

その他の回答 (3)

回答No.3

成功哲学というものがありますが、アレは能力至上主義であり個という捉え方でしかありません。 哲学が何のためにあるのかと云えば社会での共通認識や調和的役割を担うこと…特にロックのように法の基礎になることが最大の栄誉であると思います アナタの論理も成功哲学と同様に競争原理に沿っていますので調和にはまったく至りません…むしろ一般的で普通の本能の一端を説明しようと試みているだけです 哲学という以上は全体への調和的役割を為さなければ一部への限定的な真理でしかありません 哲学の一分野…冷徹な真理だけでは人間社会という生き物には対応できません

noname#117439
質問者

お礼

今回はこれ以上は放っておくよ。

回答No.2

空想や妄想の域に達してしまう哲人が一部に存在するために一般の方々に哲学はバカにされます 準宗教のように揶揄されます

noname#117439
質問者

お礼

批判には理性的に答えます。 哲学の本分は理解の及ぶ範囲を拡充する事。 非思考を思考に還元すること。 あんたは、私の哲学が理解できないから理性的考え方を神秘を語る宣教師かなんかだととらえているんだ。 神秘では無く私なりの真実を哲学しているのだよ。 それを神秘ととらえる知恵遅れ故ヤプーと化してきたない尻を振るんだ。 今回のルールに置いて回答者が予め自らがヤプーであるか否かを表明する事を勧めてる。 あんたは規則を破ってるよ。

noname#117439
質問者

補足

ヤプーゆえに理性的でない様を見ていると、ヤプーの大切な要素を見逃してるかのようにも見えます。 ヤプーとは。 家畜人ヤプーです。 そこで誰に飼われているかであなたのヤプー度を表明してください。 選択肢の一例です。 人間の奴隷。 神の奴隷。 宇宙人の奴隷。 私の奴隷。 欲望の奴隷。 ほかにもいろいろあるでしょう。 ヤプーは救いを餌に騙されています。

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.1

 お笑い芸人としての素質はあると想います。いわゆるスベリ芸人とか失笑芸人 とかです。とにかく、心配しないでください。priちゃんを「神様扱い」する人は一人もいないと思われます。  「神様扱いされて困っています」と本人が言って、それを聞いた第三者が「神様なのかな」と思うのであれば、その人はヤプーです。自分で「神様扱いされて困ってます」と言って他者の意識を操作しようとしても無駄です。それでだまされる人はおそらくいないでしょう。だまされるとしたら、同類のヤプーです。  ともかく、「そんなの関係ねー」の人みたいですね。ほほえましくもあり、時間がたってから眺めていると悲しくなってくるような。  互助という言葉しか知らなかったpriちゃんに 自助 という言葉と概念を教えたのはオレだよね。  自分は神であり、その他の人間はヤプーであって欲しい、そうあれと言っているのでしょうか。あるいはそのように認識しているのでしょうか。だとすれば逆です。priちゃんがヤプーであり、そのヤプーであるpriちゃんと比べたら、相対的に他の人は全て神です。  スサノヲは暴れまくりましたが、質問者の場合は「いじめられてグレてしまったサルがわめいているだけ」です。勘違いしないでください。  自分の妄想世界においてしか存在しない「妖精」を社会に広めて影響力を持ったとして、それが外道の宗教を広めることで欺瞞・誤謬を広めるということとどのような違いがあるのでしょうか。priちゃんの人生は「要らぬ」どころの問題ではないということになりますね。ゴキブリとして排除すべきものである、とも言えそうです。 >まず、あなたがヤプーに属するか人間に属するかを明白にしたうえで何らかのご見解をおよせください。  サルである質問者に比べれば、相対的に私は神である、という事になります。しかし神はサルから見ても人間から見ても神なんでしょうか。

noname#117439
質問者

お礼

有難う。お礼にありがたいお話をしてあげよう。 仏教観念の如意とは何ぞや。 解説書では若さの事と書かれてあった。 それから仏像の性別は男でも女でも無くそれをもって如意を表した様とされている。 ならばかんたん。 幼稚園や小学校低学年が男女のかかわりなく親しく遊ぶように性差を意識しない無邪気な幼さに如意の片鱗が表れる。 研究所を読み解こうとするなら、若さと言うよりも幼さをイメージした方が近い。 そこからさらに進め、赤子のごとき無垢な様が如意である。 こっからがお礼本番だよ。 私に媚を売る事とは、幼児性愛むき出しで痴漢行為を働く事である。 さらに如意が判らづに女意(乙女心)だと思っているようだな。 だからこそあんたは女子大生だ。 女体の神秘を探りたいのならテメエのおっぱいでも揉んでろ。 そのくらいの異常さで倒錯しているんだよ。 ちなみに如意が不明だと女神様に恋焦がれてしまうよ。 あんたは変態だからもちろん心当たりがあるだろう。

noname#117439
質問者

補足

おまけと言うか付録で付けたヤプー向け付録命題の追加です。 アメリカ大統領は宇宙人にコントロールされている。 実に馬鹿らしいが、アメリカ人はともかく、真に受ける一部の日本人は最悪だ。 民主国家で民主的に選ばれた大統領が民意をもとに政治決定を行うのは必然である。 この場合の民意とは有権者の総意の声としての世論である。 世論とは特定の誰かではない。 ところがその世論をあくまでも誰かのごとく解釈すると、いくら考えを及ばしても誰でも無いために、宇宙人を起草する事となっている。 そうした、想像の産物が地球に飛来する宇宙人である。 これが宇宙人支配説の顛末であるが、無関係にもかかわらず、アメリカからUFOを輸入してその気になっているオカルトマニアは日本人の良識を汚す最低人間である。 そんな最低人間こそ誰でも無い存在となるべきである。

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  • 《非在》なる神をどうして理解できないか

     § 1 不在と非在  たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった会話があります。  けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。  すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。  ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか?  § 2 不在でありうる存在は 《感じる・考える》の対象となる  在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。  さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》ことをもおこなう。  では 《非在》とは 何のことか?  感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか?    § 3 《非在》とは 想定である  《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。  世界の合理的な理解としての経験法則――たとえば これがあればあれが生じるといった因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。  この経験法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。  あるいは ○○さんであって 同時に別の人たる△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。  《非在》という想定は このような居たり居なかったりする経験存在を超えた場としてなのである。  § 4 《非在》という想定が 神のことである  《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか?  ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。  ここにもあれば 同時にあそこにもある。  という存在(つまり非存在という別個の場 つまりお化け)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。  § 5 神は 人間やモノについて言う《存在》とは 別個の場として想定されている。すなわち 《考えるや感じる》の対象ではない。  非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。  この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。  出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。考えて分かったというのは この経験世界における思考や想像によって得た補助線――神を理解するための補助線のこと――を言っている。神本体ではあり得ない。  それゆえに・あるいはそれでも 分かったと宣言する人が出て来ても ほかの人においても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから分からないながら ある程度の人数の《賛同者やさらには崇拝者》が出る余地はある)。  § 6 神を受け容れるかどうか。受け容れるというのは 《考える》でもなく《感じる》でもなく 《信じる》と言う。  この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。  ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。  だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。  一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じないと言う。  すなわち後者は 《無い神を信じる》と言うのにひとしい。  《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。  § 7  信仰とシュウキョウ  《信じる――または わが心なる非思考の庭としての動態――》は 信仰としてありうるが この神をオシエとして《考えるや感じる》の対象にすることは――それが シュウキョウである―― いただけない。シュウキョウはその起こりからして 思考に非ざるものを思考したオシエを 信じるという自己矛盾である。  § 8 この神をどうして理解できないのか?

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     どんな《神は死んだ》のか?  主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思います。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてその熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

  • どんな《神は死んだ》のか?

     どんな《神は死んだ》のか?  主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思います。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの〔ニーチェの〕文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてそんなに熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

  • 何と言う《神は死んだ》のか?

     主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをした我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思いますが 割愛します。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてその熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

  • 《蛍火のかがやく神および蠅声なすあしき神あり》か

     わたしは 世界の中で  おのれの身の周りに物心(ものごころ)という線を引いて  世界からおのれを切り取ったのだろうか。  もし切り取ったのだとしたら  元は つながっていたのか。  切り取ったあと わたしと世界とは  もう縁が切れたのか。  物心とは どういうことか。  意識か。  ことばか。  感性も理性も そこにつらなっているのか。  あるいは もともと  世界はわたしとは仲がわるかったのか。  切り取るべくして 切り出されたのか。    いやいや そんなことはないだろうか。           *  次のように描かれる《世界とわれとの未分化》なる昔の世界と いまモノゴコロがついて見ている現実世界とは どう同じでどう違うのか?  そこでは 世の中を人間たる自分たちによって思うように動かそうと心得た者どもの出現が 世界の貌を変えるキッカケだったと哲学している。か?  ▼(谷川健一:乱舞する神々) ~~~~~~~~~~~~~~~  大昔 森羅万象がアニマ(霊魂)をもっていた時代 植物も岩石もよく言葉を話し 夜は炎のようにざわめき立ち 昼はサバエが湧くように沸騰する世界があった。  存在するのは善意にみちたものばかりとは限らなかった。  夜は蛍火のようにかがやく あやしい神がいるかと思えば 昼はサバエのように悪い神がうろついた。サバエは稲の害虫であるウンカをいう。  日本列島の到るところ つましい存在と見られる青水沫(あをみなわ)さえ 自分を主張して異議を申し立てた。    日本列島の到るところ 動植物はいうまでもなく 岩石や火や水までも人間と同じように喜怒哀楽の感情をあらわにし 生き生きと動いていた光景を 『日本書紀』は次のように活写する。    葦原中つ国は 磐根 木株 草葉も なほよく言語(ものい)ふ。    夜は熛火(ほほ)の若(もころ)に喧響(おとな)ひ 昼は五月蠅    (さばへ)如(な)す沸き騰がる。 (神代・下)  ・・・(中略)・・・  しかし絢爛たる闇の絵巻をくりひろげた夜の挑発者たちが退場を余儀なくされる時が訪れた。  それは葦原の中つ国に支配権を確立することを目指す者たちが現われたことによる。    然も その地(くに)に 多(さは)に蛍火の光(かがや)く神     および蠅声(さばへ)なす邪(あ)しき神有り。        復(また) 草木ことごとくによく言語(ものいふこと)有り。    故 高皇産霊尊(たかみむすひのみこと) 八十(やそ)諸神    (もろかみ)を召し集(つど)へて 問ひて曰く       吾 葦原の中つ国の邪(あ)しき鬼(もの)を撥(は       ら)ひ平(ことむ)けしめむと欲(おも)ふ。                                (神代・下)  (谷川健一:『日本の神々』 § 3  1999)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このひとつの哲学について どう思うか?  神々の国・にっぽんは いかなる貌と姿であることを あなたは欲するか?