• 締切済み

 

  上手なノベルゲームを探しています。 あの手この手を使って読者の興味を引き、 バランスよく配置された伏線やイベント(見せ場)で飽きさせず楽しませ、 良質な物語をよりよく見せる、「上手」なノベルゲームを探しています。 ・導入部での状況、世界説明が、上手に物語に組み込まれている ・伏線提示と回収が正当 ・謎、ギャグ、萌え等で、読者を飽きさせない ・読者の視点、思考誘導が意識されている ・ノベルゲームという媒体の特性を活かしている ・エンターテイメントとして、単純に面白い などといった要素があると、嬉しいです。 また、これ以外にも「これこれこういう点でこれがスゲーよ!」というものがあれば、お願いします。 サウンドノベル、エロゲ、ギャルゲ、なんでもオッケー。 マイナー、メジャー、ハードや年代も問いません。 ノベルゲームでなくとも、物語が主体となるゲームであれば、 他ジャンルでも構いません。 心当たり、オススメあれば、よろしくお願いします! * 個人的に、最近のゲームでは、STEINS;GATEがそういう面で(ターゲットを絞り込んだ上で、ですが)非常に上手であったと思っています。 ・昨今流行りの、オタクにとっての理想郷としての場、キャラクターの扱い。 ・設定、立ち位置上、謎の提示、探求と丁寧な解説が同時に行われる。  (これは、自分がSFファンなので高評価しすぎている嫌いはあるかも知れません) ・ノベルゲームとしての選択や分岐が、物語的なそれと合致する。 ・協賛企業を利用しての場の構築と、それを有効に利用したシナリオ。  (非常に効果的なタイアップ、思考誘導) ・そして、単純な物語の完成度の高さ。 等々、簡単にでも理由を書いてくれると、更に嬉しいです。  

みんなの回答

noname#181349
noname#181349
回答No.3

ノベル?ではないかも知れませんが、読み進めるタイプのゲームなら、「探偵神宮寺三郎」シリーズは面白いと思います。 「夢の終わりに」「灯火が消えぬ間に」(PS) 「Innocent Black」「Kind of Blue」(PS2) で描かれる、神宮寺と助手洋子の微妙な関係と過去は、シリーズモノの世界観を深めていると思います。 また、「謎の事件簿」というミニストーリーは、本編のハードボイルドから一転、SDされたキャラによるギャグ要素満載な推理ゲームになっています。 個人的には、最新のPSP「灰とダイヤモンド」の作画と言葉の選び方にちょっと不満が残りますが、ストーリーは良かったです。 一応、マルチエンディングだったし。

  • root_16
  • ベストアンサー率32% (674/2096)
回答No.2

近年だと、428が良かったです。 要素を満たしていると思います。 実写メインですが、 ザッピングシステムでの操作性が良く、 分岐にユーモアがあって 楽しめました。

回答No.1

物語主体ならPS3のFF13 ジャンルは一応RPGになっているけどゲームとしてはクソげー CGをみてストーリーは王道に近いが複雑かな あとは 古いけど 風のリグレット はっきり言ってこの手法はすごい 是非やってみてほしい まぁオタ要素のない作品ですけど

ragjelnet
質問者

お礼

ありがとうございます! 風のリグレット、ですかー。 飯野賢治の名前と共に、その特異なコンセプトを噂には聞くのですが、ハードを持ってないんですよね。 非常にユニークだとは思うので、移植されでもしたら、触ってみようかと思います。

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    神が天地をつくったのか  (α) そう表現したに過ぎないとなぜ言わないのか? すべては表現のもんだいであるとなぜ見ないのか?  ◆ (創世記1:1-5) ~~~~~~~~~~~  1.初めに、神は天地を創造した。  2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  3.神は言った。    ――光あれ。   こうして、光があった。  4.神は光を見て、良しとした。神は光と闇を分け、  5.光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。夕べがあり、朝があった。第一の日である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (β) 《光あれ》と神がその文字どおりに《言った》のか?   んなわけはない。時空間を超えている〔敢えて擬人法で言えば〕存在にとって 《初めに》とか《つくる》といった時間的行為がどうして必要なものか。  (γ) 光が《ある・ない》つまり 《なかった状態からある状態に移る》ことは 時間的・経験的・相対的な現象である。  経験世界を超えている神にとって 質料(物質)の運動はその自己運動にまかせるはずである。モノの動きは神としても手に負えない。   人としても モノはその自己運動にしたがってうごいていただくように加工し誘導するよりほかない。そもそも手に負えないことより その存在や性質を知るようになる。相手をうやまってこそ 人はおのれの自由を手にすることが出来る。  という当たり前のことを 神の物語――人間にとって非思考の場――はかたっているのではないか。  (δ) もしこの非思考の場にわづかにでも《のぞみ》があるとするならば それは  ◆ 5.・・・夕べがあり、朝があった。第一の日である。  ☆ と書かれたところである。その後《第六の日》まで同じ表現で書かれている。  ◆ ゆうべがあり あさがあった。  ☆ 《光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ》ところの《夜》は現象しているにもかかわらず 人は《ゆうべがあ》ってから その夜へは渡されずに 眠りを経て《あさがあった》と知る。その自然本性において人は 夜へ渡されないというのである。  ◆ 2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  この主題をめぐって どうか忌憚のないご見解をおしえてください。

  • 神が天地をつくったのか (表現という問題)

     神が天地をつくったのか  ◆(α)  そう表現したに過ぎないとなぜ言わないのか?  すべては表現のもんだいであるとなぜ見ないのか?   ▲ (創世記1:1-5) ~~~~~   1.初めに、神は天地を創造した。   2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。   3.神は言った。     ――光あれ。    こうして、光があった。   4.神は光を見て、良しとした。神は光と闇を分け、   5.光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。夕べがあり、朝があった。第一の日である。   ~~~~~~~~~  ◆(β)  《光あれ》と神が その文字どおりに 《言った》のか?   んなわけはない。時空間を超えている〔敢えて擬人法で言えば〕存在にとって 《初めに》とか《つくる》といった時間的行為がどうして必要なものか。なじまない。  ◆(γ)  光が《ある・ない》 つまり 《なかった状態からある状態に移る》ことは 時間的・経験的・相対的な現象である。  経験世界を超えている神にとって 質料(物質)の運動はその自己運動にまかせるはずである。モノの動きは 或る意味で 神としても手に負えない。(やたら奇蹟を起こすわけには行かない)。  人としても モノはその自己運動にしたがってうごいていただくように加工し誘導するよりほかない。  そもそも手に負えないことを知ることをとおしても その存在や性質を知るようになる。  あるいは 相手をうやまってこそ 人はおのれの自由を手にすることが出来る。  という当たり前のことを 神の物語――人間にとって非思考の場をわざわざ人間の言葉で表わしたもの――はかたっているのではないか。  《神が創造主である。〔よって 経験世界そして特にヒトは 被造物である〕》という表現は そういうふうに人間にとって手に負えない不自由なこととそして〔悲願としての〕自由とについての哲学をかたっている。に過ぎないのではないか?  ◆(δ)  もしこの非思考の場にわづかにでも 《のぞみ》があるとするならば それは   ▲ 5.・・・夕べがあり、朝があった。第一の日である。  と書かれたところである。その後も《第二の日》から《第六の日》まで同じ表現で書かれている。   ▲ ゆうべがあり あさがあった。  と。《光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ》ところの《夜》は世界において現象しているにもかかわらず 人は《ゆうべがあ》ってから その夜へはじつは渡されることなく そうではなく すこやかな眠りを経て《あさがあった》と知る。  その自然本性〔の動態〕において人は 夜へは渡されないというのである。   ▲ 2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  のである。《聖なる〈あまえ〉》〔としての すこやかなねむり〕。  以上の主題をめぐって 忌憚のないご見解をおしめしください。