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龍馬の「いろは丸」は、大洲藩がポルトガルから4万メキシコパタカで購入し

龍馬の「いろは丸」は、大洲藩がポルトガルから4万メキシコパタカで購入した船だそうです。 「メキシコパタカ」とは通貨の単位だと思うのですが、「メキシコドル」とは違うものですか。 また、具体的にどんな貨幣で支払ったのでしょうか。 当時の決済通貨は、「メキシコ銀貨」(貿易銀)だと思うのですが、この通貨で支払ったのでしょうか。 当時、西南雄藩や幕府が西洋諸国から多くの「蒸気船」を購入していますが、Webで調べた限りでは、購入価格は「メキシコドル」で表示されています。 いろは丸だけが「メキシコパタカ」で表示されているので不思議に思いました。 よろしくお願いします。

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  • Pinhole-09
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回答No.1

「パタカ」は「ペソ」のポルトガル語です。 「メキシコパタカ」は「メキシコペソ」の事です。 いろは丸は最近の研究で、オランダ商人から購入したのでは なくポルトガルの商人からと判ったのです。 当時のメキシコペソのレートが不詳で、4万メキシコペソが いくらに当たるか、確かな事は判りませんが、 従来言われていた大洲藩が42500両払ったとの数字が 当たっているのでしょう。 支払いは外国間の取引では、メキシコ銀貨が使われましたが、 日本が外国に支払うのは、日本の通貨でした。 1メキシコドル=1分判銀×3枚(0.75両)相当といわれます。 金貨は使われなかったか。 当時の金貨は貨幣改鋳で、品質が劣り外国商人は嫌いました。 例えば万延2分判金の金含量は約23%でした。 これに対し1分判銀は銀含量は約90%~100%でした。 丁銀のような量目も品質も不定の銀貨も嫌われたと思います。 従い1分判銀で支払ったと考えられます。

goo-par1732
質問者

お礼

早速回答して下さってありがとうございます。 しかし、まだ少し不明な点があります。 私自身も調べてみますが、もし、よろしければ、再度教えていただけませんか。 国際取引は、ハリスが主張したように「同種同量交換」が原則だと思います。 天保一分銀に含まれる銀は、わずか8.55グラムで、当時、国際通貨としてもっとも多く使われた「メキシコ貿易銀」の1/3ほどです。 ポルトガル語の契約書を解読した研究者によれば、4万メキシコパタカは、約1万両だそうです。 これは、日本側の理屈では一分銀で支払うと約4万枚ということになりますが、一分銀は純度は高いですが、銀の含有量はわずかなので、メキシコ貿易銀と等価にするとすれば、約12万枚となる気がします。 ポルトガル側から見れば、国際取引で使用できない一分銀をこんなに大量もらって、いったいどうしたのだろうという疑問が湧きました。 万延元年(1860)正月、幕府は小判の「歩増通用」を布告していますので、一分銀4枚で1両と交換できるといううまい話は、いろは丸の決済には通用しなかったと思います。 また、従来の説、いろは丸の購入価格42500両とは、大きくかけ離れています。 これも疑問です。 パタカは、ポルトガル語で「ペソ」とのこと、ご教示ありがとうございました。

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  • Pinhole-09
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回答No.2

当時はメキシコパタカ=メキシコペソ=メキシコドルで米ドルとほぼ 等価と考えられます。  メキシコペソ貨には弗と似た字が印字され メキシコドル貨と言われたとあるので。 安政より前の時代国際都市長崎では、メキシコドル銀貨(銀含量 23.1~24.1g)は天保1分銀(銀含量8.5g)と 等価で取引されていました。 幕府直轄なので幕府は大幅な利益をが得られる事になります。 こんな話が通用したのは、幕府の承認が必要な事と、 先方の商人が売買が釣り合うようにすれば、まあまあ我慢出来た からでしょうか。 これが崩れたのが黒船ペリーの来航です。 開港が決まり通商量が増えると、米政府は銀含量の値から 先答に書いたメキシコドル1枚が1分銀3枚に相当する事を 幕府に認めさせました。   計算では2.8枚ですが米側は1分銀を 1ドル銀貨に鋳造し直す手数料だと言っています。 幕府も負けていず、メキシコドル(銀含量23.1g)に対し 安政1分銀(銀含量7.7g)を発行しました。 ピッタリ3:1です。 いろは丸の話に戻すと4万メキシコパタカは古い為替レートでは 1万両になり、新レートでは3万両になります。 勿論慶応の話なので3万両が正しく、1万両というのはこの変化を 知らない人です。 大洲藩の42500両というのは、藩の文書に記載があるのでしょう。 いろは丸沈没で賠償金の請求額の中に、 舟代  35630両(後藤象二郎記)とあります。 数字の違いについて私の想像では、国島六左衛門が、 藩の役人がよく知らぬ事を利用し、4万メキシコパタカを4万両と訳し、 金を出させたと思います。   2500両は口利きなど手数料。 払ったのは3万両。   1万両は他へ流用ですが私用ではない。 外国では1分銀は貨幣でなく銀塊扱いでした。  日本品の購入に 使わねば鋳造し直し、自国の銀貨や装飾品にします。 1分銀のみが高純度で外国で歓迎されました。 国内では通用した?両(金貨)は海外では通用せず、含まれる金、銀量で の通貨の価値が決まりました。  幕府の財政困難による 度重なる貨幣改鋳が、両の価値変動で混乱を招きました。 丁銀も安政丁銀は銀含量13.5%、どういう風に通用したのか。?  

goo-par1732
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 せっかく教えていただいても理解するのに時間がかかり、次から次へと疑問が湧いてきて困っています。 いろは丸(元の名は安行丸)は、元々1863年、薩摩藩が英国から75000ドルで購入しています。 薩摩は1865年、オランダ商人に売却し、1866年、大洲藩が坂本龍馬や薩摩藩の五代才助の周旋で、なぜかポルトガルから4万パタカで購入しています。 つまり、新造船ではなく3年おちの船ですから、「75000ドル」よりは安いはずです。 4万パタカ=4万ペソ=4万メキシコドルであれば、理屈に合います。 しかし、薩摩藩が支払った75000ドルは、当時のレート(1両が3ドルか4ドルか知りませんが)ではおおよそ2万両前後になりますね。 すると、大洲藩が1万両で購入したというのも納得できます。 ところが、この「1万両」の根拠がよく解らないのです。 私は、netの情報を鵜呑みにして、「4万メキシコパタカは約1万両だそうです」と書きましたが、調べてみますと、今年4月大洲市の発表では「約1万両」とはしておりません。 回答していただいたからこそ、新しい疑問点が出てきたわけで、感謝しております。 換算レートなどもっと調べてみます。 勝手ですが2,3日後に締め切りたいと思います。