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無色の花が、何故美しい。

無色の花が、何故美しい。 花屋の花が、様々なきれいな色で飾られていると考えがちだが、よく考えると、光に色は無い。 様々な、周波数の電磁波が周囲を飛び回っているだけで、それが色を持っているわけではない。 人間の目を通し、脳に伝わり、そこで、色を感じているのだ。 つまり、色は、人間の脳に存在しているわけだ。 (だから、人間と、他の動物では、同じものを見ても、違った色になる場合が少なくない。) じゃ、例えば、桜の満開の木を見て美しいと感じるのは何故だろう? ピンクが美しいのか? それとも、長い人間の歴史の中で、ピンクを美しいと思うように、なってきたのか? どちらだろう?  

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回答No.6

 経験界存在、物象界存在、そしてこれらの経験を超越し、異常や神秘でないが故に、美以上の美である。  異常は経験界存在、物象界存在、そしてこれらの経験でしかない。  仰せのことは多分生まれも死にもしない、その両端も周囲もでている、真の存在界のことでしょう。  その経験を背負ってきているので、人は求め励んでいるのでしょう。  経験界存在、物象界存在、そしてこれらの経験を出ることが出会いでしょう。  視・聴・嗅・触・味の界を出た意識に経験することです。  (Self-Realization Fellowshipのパラマハンサ・ヨガナンダの教えより)

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  • miko-desi
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回答No.10

禅問答みたいな質問。 しかも破れ寺状態です? 無色というのは現実に見えているのでも 頭に浮かんだ像があるのではないですね。 ただ々「美しい」意味や価値なもの。 光を「欺瞞」とか「自己満足」と勝手に比喩してしまうことがあって そう解釈してしまってても 光を媒体?としない「何か」 桜はかすかな色と香りで咲き誇り 人々を誘い、集わせる 酔わせて(食わせて) 「良かった」から 留まらず散ってしまう。 そんな美意識。 ワビサビ?? ひゅう~(風の音)

回答No.9

 やはり人間の“脳”の性能が良いので他の動物よりは様々な色を識別できるのでしょう。  さらに違うところは、その色を通して快、不快を情的にも感じるということです。  一般に生物は生きるという方向に障害のない状態を“快適”とします。  ダブりますが人間はその“快適”な環境を“情”としても感じる能力があり、そこは他の動物とは違っています。  そのすぐれた脳を持っている人間が、さくらの花を見て“美しい”と感じるのは、心持が良いからではないでしょうか。  生命に快適な状態を人間は、美しいと感じたり、美味しいと感じたり、幸せと感じたりします。  その快よさを求めて人はさくらの花を見たくなるのでしょう。  それではなぜ、さくらの淡いピンクの‘色’が、そして野原の生き生きとしたグリーンの‘色’が生命力や快よさを人間に感じさせるのでしょう。  肝心な‘色’については脳科学?が証明するかも。  でもあえて付け加えるならば、色を‘開放色’と‘閉鎖色’とに無理別けした場合、開放色に人は“生命力”を感じるのではないでしょうか。  この見方は私の宗教的な考え、『全体』と『個』という捉え方につながっています。  ☆開放色は『全体』への方向性があり、閉鎖色は『個』への方向性を持っている。

noname#112847
noname#112847
回答No.8

桜の美しさは、誰もが感じますが なぜ美しいのか、という事になると、はて?と思ってしまいますね。 少し思いつくままですが・・・ 花の美しさは花だけにあるのではないと思います。 桜の木は一般的に剪定をしない自然形のままです。 枝が自然に広がり、枝先はその重みによって下り気味になります。 特にソメイヨシノは枝が横に広がりやすいものです。 伸び伸びと広がりを見せる枝に、淡いピンクの花が沢山咲いている眺めは本当に優雅な感じがします。 満開ともなれば、その優雅な広がりがさらに美しさを増します。 桜の美しさの秘密はもう一つあります。 それは幹の質感と、花の質感が対照的である事です。 桜の幹は黒々として、またザラザラとして、裂け目も少しあります。 その色合いや肌合いは、美しくはありませんが、花の色合いと対照的で、花の美しさを引き立てているように見えます。 幹の存在があってこそ、桜の花の美しさがあるように思います。 複合美というものなのでしょう。 また、時期的にも暖かくなってきた頃で、花の色に温みを感じるといった事もあると思います。 梅の花の美しさも同様ですが、こちらはまた別な品格が感じられます。 ご参考になさって下さい。

回答No.7

 ANo.6 の括弧内を(Self-Realization Fellowshipのパラマハンサ・ヨガナンダの教えを学んで)と修正します。表現の言葉が先生自身のお言葉を忠実に反映しないで、勉強としての編集が入っていおりますので。  ついでに続き:経験界存在、物象界存在、そしてこれらの経験の美しい花、kunobouさんのいう人たる、見る目の対象に、そこから除かれた光を戻し(付加し)ていくと、経験界存在、物象界存在、そしてこれらの経験の花は無色になっていく。つまり全種類の光(の色)。不可視の光(の色)です。これは美というものの全部を含んだ光(の色)です。  こういう全部を含んだ光(の色)である無色の花は美の美。でも不可視です。  この中から、花の個性と人間の知覚能力が共謀して、段々に一定の光(の色)を省いていったのが、経験界存在、物象界存在、そしてこれらの経験の美しい花です。  花も、人間もそれぞれ個性と意識(霊、神という意識、私たちは神道のようにアニミズムです)があり、その個性と意識で、生まれてきた元の無色の状態を記憶し、経験界存在、物象界存在、そしてこれらの経験にそのイミテーションを現象させようと、人間と花という同じ意識界の意識が共謀して努力し、見せ、見ているから、経験界存在、物象界存在、そしてこれらの経験花も美しい。  無色の花はその美を全部実現しているので、美しい。  人間や花という着物(知覚・経験能力と機能)なくして、神自体が見ている自分自身だから無色は美しい。  全部の個性が、全部の美がそこから出てくる太原だから美しい。

  • hyuuma8579
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回答No.5

その対象物が、男性から見た女性であれ、人間から見た風景や植物であれ、対象物だけに美を決定する要素があるわけではないのです。 美と対をなす言葉に愛という言葉がありますが、愛と美は、どちらも情的な力なのです。 愛が、主体から対象へ注がれる情的な力なら、美は愛をもらった対象側が主体に返す情的な力ということです。 たとえば、対象が鉱物や植物の場合、対象から来るのは物質的刺激であるが、主体(人間)はそれを情的な刺激として受け止めることができるというわけです。 ところがたとえ対象が主体に刺激を与えたとしても、主体が情的に受け止めない場合がありますね。 その場合は、情的な刺激とはなりえないのです。 同じ桜を見ても、その人が情的に受け止められないような場合、美の対象にはならないのである。 それは、冒頭で言ったように、桜のみに美の決定要素があるわけではないからです。 問題は、主体が対象からくる要素を情的なものとして受け取るかどうかという点にあります。 対象(桜)からくる要素を主体が情的に受け取れば、その刺激は情的な刺激となるのです。 別の表現で言えば、美は「情的刺激として感じられるところの対象価値」なのです。 したがって、美は客観的にあるものではなくて、美の価値への追求欲をもった主体(人間)とある対象(物)との間で行われる相互作用によって決定されるのです。 美は客観的に「ある」ものではなく、「感じられる」ものなのです。 では、主体を情的に刺激する要因になったもの、すなわち美の要素は何か?である。 それは、その対象が創造された目的と物理的諸要素の調和ということになると思います。 すなわち線、形、音、色彩、空間などの物理的諸要素が、創造された目的に沿って、よく調和しているときに、美として感じられるのである。 人間にはそう感じるための脳や感覚器官、神経、細胞などの構成組織が前提的に備わっているといえよう。 美からそれるが、肺が空気を前提に創られているだけでなく、空気も肺が前提で創られれているのである。 同じく、目や視覚及び視神経のメカニズム・・・桜を美しいと感じられるように、つまりは、桜を前提に目は創られているだけでなく、桜も人間の美の追求欲を満たすことを前提に創られているといえましょう。 桜の花びらが上を向いていないのも、身長の低い人間から見てもらうことを前提に創造されているからに違いありません。 さて、美の要素で大切なものは調和だと言ったが、調和には、空間的調和と時間的調和があります。 前者の芸術には、絵画、建築、彫刻などがあり、後者の芸術には、音楽や文芸がある。 演劇や舞踊などは、時空間的芸術に入るでしょう。 いずれにせよ、調和が美の感情を起こす要因となっているのです。 調和するのは、人間も桜も、お互いの存在が前提として、神が創造する前に、既に神の設計図の中にあったと考えられるのです。

回答No.4

 桜の花びらが、ピンク色ではなく、真っ黒だったら・・・・・・  ぞっとする。  この世の終わりが来たような・・・・・・         まだ途中。(思考の途中下車)             

回答No.3

人間の脳には、五感の相関した経験の蓄積において、次にその1つの 感覚(光や音などの先行感覚)を同じパターンで刺激された時に、 五感の総合したイメージを励起させるという働きがあります。 その最も分かりやすい例が、色です。 物理的には、「色」とは電磁波の可視領域の連続的な波長の変化に過ぎません。 「赤は青の反対」などという根拠は、どこにもありません。 その「波長の連続的変化」という一次元に、五感の相関した経験の 蓄積において、特定の波長に対して条件反射的に(その波長に伴う 経験の)印象が付加される事で、“多彩”さは生じているのです。 赤の印象を分析すると、火や血、肉、花などの異なる原因による 長波長を伴う現象の経験(温かい、危険、食欲など)が、青には、 水や空といった短波長を伴う現象の経験(冷たい、爽やか、静寂など) が、潜在している事が分かるでしょう。 この「総和機能」において、人生における快適な経験の総和における、 視覚的刺激パターンが「美」です。 それゆえに、成長期で好奇心旺盛な(しかし経験の蓄積の少ない) 子供の頃は、ケバい色や動くものを好むし、世界の各地域によって、 美的センスは異なってくるのです。 (砂漠地域では青や緑が好まれ、空白恐怖と呼ばれるほど装飾で埋め尽くす) それは感受の歪みとも言えるものですが、必ずしも悪いものではなく、 長い波長の可視光線に対して、「赤い」と感じるのは、遠くにある 「それ」が「熱い(火)、美味しい(果実、肉)」ものであるという 予測を潜在的に行うもので、生きる上の知恵なのです。 さらに、そうした感受は、最終的に(媒体&感受機構の違いこそあれ) 感受表面での量子相互作用に還元され、我々が「確かにある」と 思っている時空的広がり自体が、そうしたメカニズムによって派生 していると言えるのです(先行感覚の感受パターンに対する生理的 予測=そこに行ったら何が起きるか)。

回答No.2

 あぁ哲学のカテでしたね。哲学では無色の花があるかも知れませんね。透明な、全部の光である。  そして反射する対象客体の存在しない、夜空を透過していく星々の光、これは反射客体がないから全く見えません。    ぁそういう話でもなかたか。  そう人間の人間としての現れ、そしてその経験、そして世界の紡ぎと構成。これは人間という中心的意識がエンケースされて出てきている、知覚機能、経験機能と人間という共有している共通の意識(心理)の道具とその機能が紡いでいるということですね。  美しいという一種の価値判断もそういうことことでしょう。長いか短いか、歴史の醸成かアプリオリかそれは別にして。  陶磁器では白、また別の方は黒を何十年も追究している方がおられます。  単色は奥が深い、無色っておっしゃるのは白のことですか。白っていってもそりゃぁもう様々でしてね。  ここ東京の東の果て、浅草とか向島、北千住って地域。今朝、ようやくどくだみの花が一輪ありました。  そして庭の大きな白い菖蒲はもう大分前に終わりました。    日本人には桜は一入(ひとしお)ですね、もうこのあたりは終わりましたが。  いろんな感情や思い、醸成されてきている観念や心理がありますね。個人としても、共有しているものでも。  桜は気分でもありますね。日本では意外と古戦場に多いといわれています。組み合せとしでしょうか。  人によってはおどろおどろの雰囲気にも感じるでしょうそ。  江戸びとの川柳『桜見に来て桜見る馬鹿』、そうなんですね。じろじろみれば鑑賞しているのだというのではないのですね。

回答No.1

 無色の花って、全部の光をなんら反射せずに透過してしまう花弁の花ですか?  じゃぁ透明ってことかな、そういう花があるのかどうかよく気をつけてみますが、思い浮かびません。  例を挙げていただけないでしょうか?

noname#136007
質問者

お礼

  思い浮かばないでしょう。 何しろ、私たちの眼、脳は、色をつけた世界しか、見せてくれませんでしょうから、 しいて言うなら、モノクロの世界が近いかもしれません・・・  

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