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「必要以上に給料をもらったばかりに、それにあぐらをかいて努力を怠り、ダメになった選手」と聞いて思い付くNPB選手は?

「複数年の高額契約を取り付け、必要以上に給料をもらったばかりに、自分を一流選手と錯覚し、またそれにあぐらをかいて努力を怠り、ダメになった選手」と聞いて思い付くNPB選手の実名を挙げて下さい。 以下のサイトの文章を読んでの質問です。 御回答を宜しく御願い致します。 メジャー挑戦にモノ申す!: 時遊人SUZUのひとり言 http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-4347.html 『FA(フリーエージェント)の導入によって、とかく最近のプロ野球選手たちは自らの権利ばかりを主張し過ぎる傾向がありありである。 いつしか「こよなく野球を愛する少年たちに夢を売る仕事」と言う初心を忘れ、自分の力を過大評価し過ぎてしまい、大した成績を上げてもいないのに、契約更改では必要以上の評価を要求してしまっているし、単に金の亡者なのか金銭面に固執しすぎるきらいがある。 もちろん給料が下がるのはプロ選手に限らず誰でも気持ちが良いものではないが、それを職業とするプロである以上、出来高で査定・評価されるのは当然の生業なのだ。 時代こそ違うが、かつて日本のプロ野球を牽引したONですら、年俸最高額は王選手の7,500万円程度だった。 以前にも当ブログで書いたが、複数年の高額契約を取り付け、必要以上に給料をもらったばかりに、自分を一流選手と錯覚し、またそれにあぐらをかいて努力を怠り、ダメになった選手の例はいくらでもある。 甘い汁を吸わせ過ぎたことが、結果的に選手の甘い発想や高慢を引き起こし、堕落させた原因にほかならない。 やはりプロ選手は1年ごとの契約で、完全出来高払い制にすべきである。 ハングリー精神を植え付けたほうが、絶対に選手の為には良い。 また、プロ野球選手は選手生命が短いとよく言われるが、入団時の契約段階で数千万円から1億円を貰い、10年間も一軍でプレーすれば、それだけで総額数億円以上は手に入る。 世間で言うところの一般サラリーマンは、生涯収入が、貰ってもせいぜい2億円程度であるから、それだけで相当の開きがあることは一目瞭然なのだ。』

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  • lions-123
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回答No.1

>「必要以上に給料をもらったばかりに、それにあぐらをかいて努力を怠り、ダメになった選手」と聞いて思い付くNPB選手は?           ↓ 質問を見て、事情をよくも知らずに実名を記載するのは誠に失礼だと躊躇しましたが、直感的&イメージ的には「木田勇投手」を連想しました。 当時のプロ野球選手は、有望新人といえども、ある面で純真な野球バカというか、お金にはあまり拘泥せず、好きな球団・尊敬する選手との同一チームへの喜びに溢れた感動的な入団が中心であり、まして入団交渉で本人(選手)が自ら注文・付帯条件を付けるような場面&報道は知らなかった。 そんな時に、先駆け的に年棒や引退後の処遇や諸条件の契約への明示を求めた選手が、木田投手だったように記憶します。 さらに、驚かせたのは、1年目の活躍で投手が取るタイトルを総ナメにした実績<有言実行>であり、翌年以降の鳴かず飛ばずである。 そこで、入団時の(誤解とやっかみ)経緯に好意的でなかったマスコミ・ファンの一部には、1発屋のイメージが定着したように思います。 ご本人並びに関係者には、誹謗中傷の積もりは全くありませんし、その後の社会・プロ野球では当たり前の事だと思います。 ただ、少し時代の先を行っていた、アマチュアリズムと精神論がプロとはいえ根強く残っていた時代に、鮮烈に華々しくデビューし、発言のユニークさ、入団交渉の話題をさらい、大活躍し、あっという間に去って行ったのが「木田勇投手」でした。 球音の記憶 vol.25  人は彼の事を一発屋と呼ぶ。  新人王をはじめ、タイトルを独占。多くの奪三振記録を樹立した衝撃のルーキーイヤー。  ジリ貧といわれたプロ野球生活の晩年、昭和最後の真夏にみせた快投。それが忘れられない。 ●伝説の新人王・木田勇、最後の快投  1988(昭和63)年8月19日、横浜大洋ホエールズ対読売ジャイアンツ戦(横浜)。  ジャイアンツはこの試合の一週間前に自力優勝が消滅。この時点で首位・中日ドラゴンズとのゲーム差は4.5。下位に低迷するホエールズに対して負ける事は許されず、三本柱に成長した槙原寛己を先発投手として必勝態勢を敷いた。  一方、ホエールズの先発投手は木田勇。ここまで、春先に挙げた1勝のみのベテランの左腕投手だった。  成長著しい若い槙原と、選手生活も晩年を迎えた木田、両先発投手で試合は開始された。  予想通り、槙原は初回から快調な投球。唸りをあげる150キロ超の速球を軸に、ホエールズ打線をねじ伏せていく。対照的に木田は緩い球を有効に使いながら、打ち気にはやるジャイアンツ打線を翻弄。立ち上がりこそ先頭打者に出塁を許す苦しい投球だったものの、スライダー、カーブ、シュート、フォーク、持てる球種の全てを外角低めに集める丁寧な投球を展開した。  全盛期の木田の投球からは程遠い。それでも、ジャイアンツ打線に本塁を踏ませず、スコアボードに0が並ぶ。久々にみる木田の快投は驚きであり、且つ新鮮だった。  木田勇の全盛期。  それは1980(昭和55)年のルーキーイヤーに限定されるといっていい。社会人・日本鋼管からドラフト1位で日本ハムファイターズに入団した木田の成績、獲得したタイトル、そして奪三振記録。それらを列挙するだけでも身震いするほどのものが並ぶ。  登板40。22勝8敗4セーブ、防御率2.28、勝率7割3分3厘。  奪三振225。19完投。  最多勝、最優秀防御率をはじめとする一人の投手が獲得し得るタイトルを独占。加えて、史上初となる新人王とMVP同時受賞。  1試合16奪三振、新人最多記録(当時)。  2試合連続毎回奪三振。  シーズン3回の毎回奪三振の日本記録。  23イニング連続奪三振の日本タイ記録(当時)。  左腕から繰り出される150キロ近い速球とパームボールを武器に、パリーグの強打者達から三振の山を築いた。シーズン終盤、自信に溢れた木田の発言も印象的だ。  「ここまできたら20勝したい。やるときやっておかなければ、来年やれるかどうかわからないしね」(週刊ベースボール昭和55年9月8日号)  来年やれるかどうか…。その言葉が現実のものとなってしまう。翌1981(昭和56)年以降、10勝、6勝、4勝、と勝ち星は激減。木田の野球人生は転落の一途を辿っていく。  木田本人、この事実について後にこう語っている。  「勝てないから『二年目のジンクス』という単純なものではなくて、1年目が終わった時点で『このままいけるかな』と甘くみた時点で、もうすでにはまっていたんですよ」(ベースボールマガジン2005年秋季号)  1985(昭和60)年、木田は僅か2勝に終わると、その年のオフ、ホエールズへ交換トレードで移籍。移籍初年度こそ、シュートを習得したことで先発ローテーションの一角として8勝(13敗)を記録したが長続きはしなかった。前述した昭和63年の春先に挙げたという1勝は、実に20ヶ月振りとなる白星だった…。  昭和最後の真夏、横浜。  木田の快投はまだ続いていた。  九回表、二死から中畑清にこの日チーム3本目の安打を左中間に運ばれた。ここで迎える打者は、この年、「全塁打旋風」を巻き起こした呂明賜。  ここでも木田は落ち着いて呂明賜を遊飛に打ち取り、この日最大のピンチを切り抜けた。ここまで無失点。相手投手、槙原もホエールズ打線を抑え、試合は両チーム無得点のまま、延長戦に突入した。  結局、木田は無失点のまま延長十回まで投げ、その裏、代打を送られ降板。試合は延長十一回裏、田代富雄のサヨナラ安打によって1-0、ホエールズが勝利した。  木田は勝利投手にこそなれなかったが、チームの勝利に大きく貢献。逆にジャイアンツにとっては手痛い敗戦となった。  延長十回を無失点。これは木田にとって、あのルーキーイヤーでも経験が無い快投だった。  試合後、木田は言った。  「窓際族だったから、なんとかチャンスをものにしたかった」(スポーツニッポン1988年8月20日付)  たった一年だけだったとはいえ、一度は頂点を極めた投手が自らを窓際族と呼ぶ。実力社会であるプロの厳しさが垣間見える木田の談話だった。  結果的に、この試合が木田にとって最後の快投となった。  その後の試合で、木田は何度か先発投手としてマウンドに上がりながら、5連続四球の日本タイ記録を樹立したのをはじめ、ヤクルトスワローズ戦では池山隆寛、広沢克己に連続本塁打を浴び、僅か20球で降板するなど、不本意な投球が続き、一軍登録を抹消された。  これでホエールズの中で、木田の立場は決まってしまったようなものだった。  時代が昭和から平成に移った1989(平成元)年。  木田はイースタンリーグで最多勝を獲得した。あのルーキーイヤー以来となるタイトルの獲得。だがそれは、最早一軍では活躍の場が無い事の証明でもあった。  翌1990(平成2)年、木田は中日ドラゴンズに移籍し、同年、現役を引退した。    木田勇。実働11年、通算成績は273試合、60勝71敗6セーブ、防御率4.23。  あの衝撃のルーキーイヤーを思うと、この通算成績は信じられないほど平凡なものだ。だからこそ、昭和最後の真夏に起こった一夜限りの復活劇は、木田勇という名前をもう一度ファンに対して印象付けることになった。  あの日はジャイアンツ戦ということもあり、全国中継。  野球の神様はこう考えたのかもしれない。  このまま消えてしまうには惜しい。伝説の新人王にもう一度光を当ててやろう、と。  

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