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江戸時代、入浴時に笄を紙で包む理由を教えてください。

浮世絵を中心に江戸風俗を個人研究しています。 江戸時代、女性が入浴する時に髪に挿す笄を紙に包んでいる絵が風呂絵の類によく描かれていますが、笄をわざわざ紙で包んでいる理由がわかりません。 私も、浮世絵の解説はよく目を通しているつもりですが、こればかりはいまだにどうしても理由がわかりません。ご存知の方がいらっしゃいましたら教えてください。ここに質問すれば何か教えてくれるかもという情報でもかまいません。よろしくお願いします。

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回答No.3

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>江戸時代、入浴時に笄を紙で包む理由を教えてください。 「笄」は、髪を掻き揚げて女性の髷を形作る結髪用具であることは、すでに(当然)ご存知のことと思います。 元禄年間頃からは、庶民も安定した暮らしができるようになり、実用性よりも装飾品的要素を求められるようになってきました。 そして、簪と共に「美」の象徴とされるようになりましたが、発信元は「吉原」で「花魁」や「格子」を中心に笄は一つや二つですが、簪や櫛は髪に何個も挿して、その優雅さを競いました。 簪を挿すのも、江戸の遊女は下から上に向かって、京や大坂では横一文字に簪を挿しました。 この笄や簪、櫛などをたくさん髪につけている姿が、あたかも仏像から後光が射したように見えたことから、入浴時には、簪は簡単に外せましたが、笄を外すと髪型がくずれることから、笄だけは外しませんでした。 そこで、仏像の後光にあやかって、裸身を見せないために、紙や布を巻いていました。 これらが庶民に流行し始めたのは、歌麿の浮世絵から流行するようになりました。 つまり、寛政年間~文化・文政時代頃からは、庶民も真似をするようになったのです。 (よもやま話) (1)江戸時代、女性の洗髪は、江戸ではおよそ1ヶ月に1回位でした。京や大坂辺りでは、2~3ヶ月に1回だったと言われています。 (2)当然、匂いが~・・・となるのですが、武家や豪商、吉原の遊女たちは「伽羅油」を髪に塗りつけ、庶民は「五味子」(ごみし)という、臭いの強い整髪剤を使用していました。 (五味子については、Webで検索してみて下さい) (3)シャンプーの替わりは、「ふのり」「うどん粉」「卵の白味」「椿油の絞りかす」などでした。 (4)風呂については、江戸の街は密集しており、一度火事が起きると広範囲に燃えたため、町家では風呂を造ることの「禁止令」が出されていました。しかし、大概は、町内に1軒位は「風呂屋」がありましたし、夏は、長屋住まいは別として、自宅のある女性は盥での行水、その後に、気が向けば洗髪をしました。 また、風呂屋での洗髪は男女共に禁止されていました。当然、お湯をたくさん使用するからでした。頭を洗えたのは、坊主頭の「按摩」位でしかありませんでした。 (5)女性の髷の流行は、江戸時代初期に有名になった「出雲のお国」が最初と言われています。 出雲のお国は、出雲大社の勧進のため、諸国を巡りましたが、中でも、京都の四条大橋の下に粗末な小屋掛けをし、お国が茶屋へ通う若旦那に扮し、夫の(夫ではない、と言う説もある)名古屋山三郎(なごや さんざぶろう)が茶屋の女将を演じたことが有名となり、京都では「傾く」(かぶく=突拍子もない=常識外れだ)と呼ばれ、後に、「歌舞伎」の漢字が当てはめられました。 (6)この時、お国が結った髷を「若衆髷」(わかしゅまげ)と呼び、京や大坂、そして、ついには、江戸でも流行するようになりました。 (7)やがて、「島田髷」などが出現し、寛永年間頃には「兵庫髷」という、頭の上で輪を一つ作ったような髷が流行しました。元禄時代では「元禄島田髷」。明和年間頃より「春信風島田髷」で、歌麿などが良く題材として浮世絵に描きました。江戸時代後期からは、「お染久松」から「おそめ髷」などと流行が変遷し、明治に入るまでに、実に、280種類もの髪型があったと言われています。 少しでも、あなたのお役にたてれば・・・。

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回答No.5

No3.bungetsuです。 Upload失敗! 再挑戦!! ご愛嬌・・・。

mishima_do
質問者

お礼

自称歴史作家さん、近年の謎が解けました。本当にありがとうございました。まさか、投稿してからこんなに早く疑問が解けるとは思ってもみませんでした!!江戸風俗に関して知りたい事や判らないことがあれば、時々投稿しますので、お暇なときでよいので、判ることがありましたら是非ともお応えしていただきたいものです。本当に助かりました。

mishima_do
質問者

補足

ちなみにこれは蛇足ですが、簪の耳かきの上下の挿し方にもかなり変遷があったようです。とくに春信あたりの時代はほぼ下向きで、歌麿の時代には完全に上向きが主流になってくるようです。それよりさらに下ると、それまで統一されていた耳かきの上下にbungetsuが挙げてくださった絵のようにバリエーションができ、そのあたりでも遊女たちは個性を競っていたようです。浮世絵を見るときには是非参考にしてみてください。(もっとも、歴史家さんは見識が御有りのようですので、すでにご存知かもしれませんが。)

回答No.4

NO3.のbungetsuです。 ちょうど良い絵が見つかりましたので、Uploadしてみます。 解説には、 歌川国芳画「花魁」 とあります。 まさに、後光が射しているように見えますね。

回答No.2

#1です。お礼ありがとうございます。 入浴のときだけ、というのでもしかしたらと思ったのですが、髪にさしていた笄は髪の毛の汚れや脂がついているので、髪に包んで入浴中は保管し、出てきたら濡れた手で紙をまるごと掴むと良い湿り具合になって傷つかず、磨きやすかった、とか…(入浴後は清潔な物を身に付けたい心理も手伝って)。幕末に装飾品も豪奢で高価なものが主流になってきたということなので、そういったお手入れが定着化してきた、とか… 考えるのが楽しくてまた回答してしまいましたが、推察の回答ばかりですみません…^^;

mishima_do
質問者

お礼

再びありがとうございます。 やはり、装飾品が高価になったというのはかなり関係があるように思いますので、その可能性も否めません。歌麿以降の浮世絵をみると簪や櫛などの装飾品はそのほとんどが鼈甲の高価な代物です。それに関して言えば、何か政治的な背景があったと考えても可笑しくはないと思います。実際にこの時代、民衆には改革でかなり厳しく倹約が強いられていたようです。 参考のために新しく転載した画像は、渓斎英泉の作品です。湯上りの花魁が化粧始めようとしているところが描かれています。

回答No.1

こんにちは。 ちょっと興味が沸いたので調べてみました。笄は簪とは似て異なるものなのですね。江戸時代では実用品というより装飾品で高価な物が多かったようですね。調べていたら、ガラス製の笄があることを知りました。とても美しくて、平成の世に生きる私でも欲しいなぁと思いました^o^ (URLは下に張っておきます) 私自身、高価な真珠のピアスやネックレスは、やはり柔らかい紙や布に包んで保管したくなります。そこで推察なのですが、高価な物だったので大切に扱う意味で紙に包んでいたのではないでしょうか。また、ガラスで出来ている美しい笄なら、更に壊れやすそうだし、割れた時のことを考えると余計に紙か布に包んで保管したくなると思います。 推察で申し訳ありませんが、ご参考になればと思います。

参考URL:
http://www7a.biglobe.ne.jp/~gatou/page183.html
mishima_do
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 それも多少なりとも考えましたが、残念ながら紙で包んでいるのは、入浴のときだけです。しかも、そのような風俗がが描かれるようになったのは幕末になってからのよう。世は末になると、装飾品も豪奢で高価なものが主流になってきます。 ちなみに江戸時代にも高価な簪や笄は紙に包んで、スライド式の専用の箱に入れて保存いたようですよ。