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五木寛之さん、仏教哲学がわからない

otherwindの回答

  • otherwind
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回答No.8

> ちょっと難しくて理解が大変ですが 多分、五木寛之さんは、いわゆる「」つきの、定冠詞つきの、超歴史的、歴史貫通的な、一般的、普遍的、なものとして語られている、人間の本質なるものは、実際には関係から自立した実体としてあるわけではなくて、それは抽象に過ぎず、哲学者の頭の中にしかないのであって、現実にはどこにも存在せず、実際に歴史上あって、人間の本質と間違ってみなされているのは、実際のところは、もろもろのあれやこれやの具体的な諸関係(関係には「諸」を前につける必要があります。これは、もともとの原語では複数形だということを表します。)のアンサンブルである…というようなことは、どこにも言っていないと、私は思います。私が不勉強で、知らないだけかも知れませんが…。 いわゆる人間の本質なるものは実際には諸関係のアンサンブルである…というテクストを文脈から切り離して抽象的に考えると確かに難しくて分かりません。それは単に文脈から切り離してしまっているからです。このテクストに意味が生じるのは、あくまでも、階級闘争なくして階級なしという文脈においてでしょう。あらかじめ資本家階級と労働者階級が別個にあって、しかる後に、資本家階級と労働者階級が後から階級闘争に入ると考えるのは間違いだ…という文脈です。そうではなくて、先ず階級闘争という関係が(歴史的に、時間的にというよりも、論理的な順序として)先にあるから、その関係の中で、関係において、資本家階級は資本家階級であり、労働者階級は労働者階級だ…という意味になります。 黒人Aは黒人Aそのものとしては(←つまり関係から人間の抽象力によって切り離されたものとしては)、奴隷ではない。黒人Aは、奴隷主Bとのかんけいの中で、関係において、奴隷である という言い方もしますね。 たとえば、ある異性がすばらしく魅力的なのは、というか世界で一番すばらしいのは、あなたとの恋愛関係の中で、です。あなたとその異性との関係から抽象力で切り離して、その異性を火星に置いた場合には、その異性が魅力的かどうかを言うことができません。魅力的かどうかは誰にも分かりません。その異性が魅力的でないともいえません。あなたとその異性との関係の中では、世界で一番魅力的であると断言してかまいません。何ら間違いではないです。 五木寛之さんは、多分、書かれたテクストのどこでも、上記のことは言っておらず、その意味では、無関係とは思います。

remonpakira
質問者

お礼

たびたびご回答ありがとうございます。 今回読んだ本は 『人間の運命』という本で 本書のテーマは 運命とは何か運命は変えられるのか。 『大河の一滴』から11年―。いま五木寛之が到達した、 究極の人間論!親鸞のことばの真実の意味がここによみがえる というもので、五木さんの本でありながら、五木さんが親鸞の言葉を 解説するという本でした。 そして努力とは、、という章で 自己啓発だ、自分を高めるだ、なんだ最近流行っているが 努力なんて人間の運命では誤差のようなもので、運命を変えるもので はない。努力なんて自分は人と違うんだと思いたい自己愛なだけだ という趣旨の話が書いてあり、 努力に関する短い章で述べられているので文脈の影響は少ないように 感じます。 で、私として最近、仏教をはじめキリスト教の聖書なども高度な哲学書 だなとようやくわかってきた段階の人間ですので仏法では努力を はたしてどのように捉えているのだろうと思って質問をさせて いただきました。 今回の本だけでなく大河の一滴、生きるヒントなどでも、 できない事はできないのでから良いのではないか? という主張が五木さんのテーマのように感じます。 例えば、生きるヒントでは 筆不精な人は、大切な礼状は書けないのだから、書かなくても仕方ない という記述があります。 でも、やはり私はそこは努力すべきでは?と感じるのです。 で、他の方が仏教の二面性の一面を突き詰めるケースがあるとご指摘 されましたが、そこでやはり私は得心いく気がします。

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