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五木寛之さん、仏教哲学がわからない

tumaritou1の回答

回答No.7

神経症と云うものを交えてお話をすると分かりやすいと思います。神経症とは「自我意識」と本人の「命そのものを働かせている意識」とが噛み合わなくなってしまうと言うものです。言い方を替えたなら人間の「心の矛盾」が生み出した妄想=症状となっています。 これは自我意識が上がらないようにした時に上がってしまって、また上がるのではないかと恐怖してしまう事です。 或いは自我意識が書こうとして書く事を意識をした場合に、書こうと言う意識が先に立ってしまって、書く事が出来なくなってしまう事です。 つまり神経症とは自我意識が単独で(自我意識)のみで全てに対応しようとしている現象の事です。是は意識性が強い事によって引き起こされている現象の事です、或いは言葉を替えたなら「心の使い方を誤ってしまった現象」と云う言い方も出来ます。 大勢の前で「意識をしてしまって」上がらないようにしている状態の時にますます上がってしまってにっちもさっちもゆかなくなった状態の事です。 この反対がオリンピックで優勝を果たした体操の選手や、スケートの選手と云えば分かり易いと思います。この場合には「意識」が出ている暇は有りません。言い方を替えたなら「自我意識」が出ないようにした方が有利になります。 自我意識が出ない時には「無意識の意識が」体を支配しています。 他力本願は自分の計らいを「阿弥陀様」が救ってくれると説きます。自分の計らいは全てが(無駄となるから)計らいを否定した方が良いという教えです。その否定したところを「阿弥陀様」が救いの手を差し伸べて呉れると言う事になっています。 自力本願では自分を忘れて仏になれと言う言い方をします。 そのどちらにも言える事が在ります。自我意識の計らいを忘れなさいと言う事です。その計らいを忘れた処から「全ての救いが始まる」と云う教えになっています。自我意識の計らいを捨ててしまって、もう一つの意識に全てを任せなさいという事になっています。 もう一つの意識とは仏性と云う事になります。是は自力本願の時です。 他力本願では阿弥陀様が救ってくださると言う事になります。 自我意識が本当に困ってしまって、自分を捨てた時にもう一つの意識が顔を出します。是が命そのものの働きの意思=仏性と云う事になります。 自我意識が自分自身のもう一つの意識(人格)と出会うと言う事が仏教の根本になっています。この事で「心の矛盾が」解消されます。是は「神に会って和解した」と云う事になります。二度と心が騒がなくなる、言い方を替えたなら、自我意識を罪悪感や不安や恐怖感等で圧迫をしていた者の正体が分かったと言う事になります。 この経験以後心には矛盾が無くなります。この静寂な心持の事を「涅槃」と名を付けたものと思います。二度と「自分の心の中では、心と心が争わなくなる」と云う意味です。精心疾患、神経症、自律神経失調症等は「心の矛盾」の名を替えた障害です。

remonpakira
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 オリンピックの本番では他力本願でいたほうが良い結果がでる 事は理解できます。 ただ、オリンピックの舞台に立つためには自我意識で自分を何度も 律する、端的に言えば『克己』が必要に思えます。 克己こそ努力そのものだと思うのですが その克己と他力本願とのバランスをどう仏法ではといているので しょうか? 他の方のお礼にも書きましたが 五木さんは 『筆不精の人は仕方ないので礼状も書かなくて良い』(生きるヒント1) と書かれています。 私はそこは大げさですが克己して書くべきなのでは?? と疑問に感じます。 ただ、五木さんは親鸞の考えでは、、、と上記のように述べられます。 その努力の完全なる否定、完全に人間など大河に翻弄される葉みたいな もの、、所詮努力など誤差、という考えが少し理解できないのです。 仏法は本当にそう教えているのか、五木さんの真意はなにか?と 考えてしまうわけです

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