• ベストアンサー

五木寛之さん、仏教哲学がわからない

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.4

>>> No.1 お礼欄 虚無主義と努力精進。 この二つが仏教の中でどのように 折り合いをつけているのでしょうか? <<< >>> No.3 お礼欄 立身出世についての否定でした。 確かに、出世したい、事業に成功したい、自分に力をつけたい! などは我欲のきわみ、煩悩まみれなので、、それを手放さないと って言われると反論できません。 ただ、それを否定するとニートこそが求道者になってしまい それってどうなの?とおもって今回質問させていただいた次第です。 <<< 仏教が成立した時代背景に、カースト制度と輪廻転生があったようです。 これら両者に縛られていた人々にこそ、仏教は福音だったことでしょう。 たとえば、 >--- ニートという身分が固定化され、生まれてくる子もニートとなる。前世の業が元でそのような生まれになる。現世でニートだったとしても、努力精進によって来世では、ニートから脱出できるかも知れない。 ---< といったことが当然のごとく受け入れられていた(ブッダが生きていた)時代・世界では、下記のごとく、非常に卓越した思想であったことには違いないでしょう。 >>> 浄土真宗やっとかめ通信(東海教区仏教青年連盟)仏教青年 Q & A 魂という概念 http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_7_23.html  仏教はけっして「寛容な」宗教ではない。それはカースト社会とそれに対応する思想に対して、ラディカルに対決する実践的な思想であった。仏教は、あらゆる実体を諸関係の束にすぎないものとしてみる。しかし、それ(仏教)が何よりも標的としたのは、輪廻、あるいは輪廻する魂の同一性という観念である。仏教以前に、カーストによる現実的な悲惨は輪廻の結果であると見なされ、そこから解脱する修行がなされてきた。ブッダがもたらしたとされるもののほとんどは、すでに彼以前からある。ブッダがもたらしたのは、このような個人主義的な解脱への志向を、現実的な他者との実践的な「関係」に転換することである。そのために、彼は輪廻すべき同一の魂という観念をディコンストラクトしたのである。ディコンストラクトと私がいうのは、ブッダは、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってしまう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。したがって、彼は輪廻からの解脱をはかる修行一般を斥けた。初期の仏教が主にそれまでさげすまれていた商人階級や女性によって支持されたのは、当然である。 (柄谷行人「仏教とファシズム」『批評空間II-18』太田出版) ---< 「諸関係の束」とは、「因果で編まれた関連性の中に生きている存在」といった概念に相当するとしていいでしょう。 その「関連性に輪廻転生を織り込んでは考えない・考えるべきではない」という主旨と解して間違いではないと思います。 ただし、「何のために生きている・努力している」という概念について、どういった視点で捉えるのか? は、まさに、「諸関係」をどの程度として捉えるのか?に関連することでしょう。 たとえば、 >>> 浄土真宗やっとかめ通信(東海教区仏教青年連盟)仏教青年 Q & A 魂という概念 http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_7_23.html  僕は、さっきも言ったように、そのころは、そんなこと(死や死後のこと)ばかり考えていて、いろんな本を読みましたよ。丹波哲郎から、つのだじろうまで読んだ(笑)。あの「幸福の科学」の前身の本も読みましたよ。だから、霊界とかそういうことには詳しかったのです。そのころ、アメリカで仕事もせずぶらぶらして、(中略)それからまもなく、エドワード・サイード(学者・批評家)という人と会ったんです。  僕は、そのとき自分の関心から抜けられないから、あなたは死についてどう思うかって馬鹿な質問をしたわけです。彼はパレスチナ人だから、何かあるのではないか、と僕は思って。しかし、彼は、自分は宗教、一切の神秘主義を否定する、自分にとって死というのは、残った家族をどうするかという問題である、と言った。なぜならば、自分はイスラエル右翼のヒットリストに載っているからだ、と。  そのとき、僕は目が覚めたような気がしましたね。ああ、そうだった、と。僕の妄想は、単なるナルシシズムにすぎない、と思った。 (柄谷行人×日野啓三「死について」、柄谷行人『ダイアローグV』第三文明社) <<< ようするに、自身が関心を持っているもの(意識しているもの)との関連性のみを考えてしまうものですが、そうではない。通常でも「はっと気づく」程度の範疇でも、他者や外部との関連性を持っているわけです。そういった関連性へと目を向けるとき、意識の程度で「固定化」されたり「片方向のみが重要視」されたりしているわけです。 「生きている」という事実を中心に捉えたとき、それら諸関係の束に自身の中心があるわけですから、偏った関連性の捉え方や、固定観念化した関連性の捉え方に「とらわれる」ことを排除するというのが、仏教的な思索の本質になろうかと思っています。 逆に、仏教というものを、それら諸関係からの現実的な開放をも説いているかのごとく錯覚してしまうと、(そういった関連性の本質を見極めるために行ったであろう)出家を通り越して、極端な場合には(生きているということをも否定してしまう)虚無思想へと雪崩落ちていくかもしれません。 時代背景が異なる以上、仏典などで語られている事柄は、参考となる思索(哲学的概念)として捉え、他人の言動にとらわれることなく、自身の思うところを見つめて、どうするか?を考えるというのが本質だろうと思っています。

remonpakira
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 ちょっと難しくて理解が大変ですが ゆっくり何度も読ませていただきます。

関連するQ&A

  • 佐江衆一さんの「わが屍は野に捨てよ」、吉川英治さんの「親鸞」、五木寛之

    佐江衆一さんの「わが屍は野に捨てよ」、吉川英治さんの「親鸞」、五木寛之さんの「蓮如」といったような、仏教の歴史小説を読みたく思っています。これらの他に、どういったものがあるのかもしよろしければお教えくださいませ・・・

  • 歴史上有名な人(仏教)の本を御紹介ください。

     もともと理工系人間で小説には余り縁がありませんでした。半年ほど前から、新聞の連載小説、五木寛之が書いている「親鸞」「しんらん」を毎日待ちどうしく興味深く読んでいます。700年ほど前に仏教(浄土真宗の開祖)を説いた生きざまを書いています。  仏教に興味があり、他に歴史上有名な人の生涯を書いた本などありましたらご紹介ください。  よろしくお願い致します。

  • 仏教・老子の哲学について良書を教えてください。

    最近仏教や老子の哲学に惹かれ、NETなどの記事を見て 勉強しているのですが、なかなか知りたい事について 的確に書いてある記事を探すのが難しく、その思想的中立性も よく分からないので、もうちょっとちゃんとした専門書で 勉強したいと考えるようになりました。 そこで、仏教や老子の哲学について詳しい方に、 良書を紹介して頂けたら…と思い、書きこませていただきました。 仏教は特に仏陀や釈迦といった「初期仏教」の中でも、 特に「人間が苦しみから逃れるには煩悩や執着を捨て去らねばならない」 というテーマにすごく惹かれ、そのテーマを中心に実践的な 哲学を学びたいです。 老子に惹かれるのも、似たような理由です。 書籍の選択に当たっては、まず入門的なもの、新書や岩波文庫の ような価格が安くお手軽なものが読みたいと思っています。 皆さんよろしくお願いいたします。

  • 道元と親鸞の思想的共通点に関する文献を教えて下さい

    自力を重視する(ように見える)道元と, 他力を重視する(ように見える)親鸞ですが, その思想は,突き詰めていくと共通ないし類似している,という指摘を見たことがあります。 この「道元と親鸞の思想的な共通点」に言及した文献(新書,専門書,論文など)があれば,ご教示下さい。 作家や匿名の方が執筆したもの(例えば,五木寛之氏や立松和平氏)ではなく,研究者又は僧侶の方が執筆した文献をご教示頂ければと思います。 今のところ,ひろさちや『親鸞と道元―自力か、他力か』くらいしか見つかりません。

  • 浄土教が仏教である証拠

    浄土教は仏教と言えるのか?ということは誰もが一度は頭に浮かぶ疑問だと思うのですけど、ここで知識をお借りしたいと思います。 やはり釈尊が説いた元祖仏教とは異質な物であることは否めないと思うのですが、私自身が釈尊が好き、法然・親鸞が好きですので、どうしても浄土教は仏教であって欲しいと思っています。 加えて、少し前に読んだ本に「浄土教はキリスト教と似ている」という文言があったのでショックを受けてしまいました(仏教は非科学的な聖書に頼らず合理的であるという点でキリスト教に優越していると思い、誇りに思っていたので)。 そこで、釈尊の元祖仏教と浄土教との間にこういう思想的・行動的共通点があるよというような例がありましたら教えていただきたいと思います。 文献的・学問的な面からの具体的共通点が欲しいと思っていますので、「救われるならいいじゃないか」くらいの回答は申し訳ありませんが御遠慮ください。 よろしくお願い致します。

  • 仏教について。

    今日、 「手塚治虫のブッダ」 について解説した本を読みました。 現在、仏教には 日蓮宗、曹洞宗、臨済宗、その他多数の宗派があると思います。 これらのうち、 主だった差異は一体なんでしょうか。 又、 「祀っている人が違う」のが大きな対立点であるということはありますか? もしそうである場合、 「統一宗派」を作って (具体的には、中国の孔子が偉人とされているけれどそれは実は複数の偉大な思想を組み合わせて1人の人間の思想とした、という仮説がある様に) 「新しく、1人の仏を作り出してしまう」事などはよい解決の策ではないかと思うのですが、 この場合各宗派にとって何か問題はありますか? あるとしたら、どんな問題があるか教えて下さると幸いです。 皆さんは、 「仏教界の統一」のためにはどんな手段がいいと思いますか?意見を聞かせてください。 又、創価学会についてですが、 これを情報機関やマスコミ工作で潰すばっかりだと、本当に説き伏せたとは言えない気がしています。 「仏教を統べずして世界宗教の統べなし。」という考えを持っている私としては、 創価学会までも説き伏せなければいけないと考えています。 これについて、みなさんの意見をお聞かせください。 最後に、 以前顕正会という宗教法人に、 突然部屋に連れていかれ、 半ば監禁に近い形で折伏を受けました。 日蓮は 「折伏」を進めたらしいのですが、 仮にそれを日本の天皇が否定した場合、 顕正会は 天皇に翻意を迫るか 自分達が折伏をやめるか、どちらになるかお考えをお願いします。 又、 日蓮は 「鎌倉の末法」に限らず 今の世の中や未来に至るまで、 「常に折伏するべし」と言ったのですか? よろしくお願いします。 特に、 「仏教を統べるためには仏教の統一宗派を作って統一聖人を立てるべし」という意見についていただければ幸いです。 仏教の統一について熱い意見をお願い思案す。 それでは。

  • 五木寛之の考えについてお教え下さい

    作家の五木寛之は小学生時代に母親から、「もしお父さんと別々に住むことになったら寛ちゃんどうする?」と聞かれたことがあったと書いています。 つきつめた目の色でたずねた母の表情に、私は一人の女の匂いを感じたとも書いています(地図のない旅)。 母親を一人の女として見ることに慣れた子供ほど、社会的強さを持てるのではないかとも五木は書いています。 以上の文の中の「社会的強さ」とはどういう意味か お教え下さい。

  • 美しさについて

    素朴な疑問です。 私は、花を見ると「美しい」と感動し、元気がでます。 美術館に行って、絵画を観ても「美しい」と感動し、元気がでます。 私は男性ですが、内面・外面含め、女性に対しても同じ心の動きかもしれません。 しかし、「美しい」ものを見ると所有したくなります。 いわゆる執着心と言えるでしょうか。 西洋哲学では、いわゆる哲学が「真・善・美」の追求と言われるように「美」を肯定しますが、 東洋的な仏教的な考えでは、いわゆる「煩悩」として「美」は否定されるのでしょうか? 回答をお待ちしております。

  • 仏様に人格はあるか

    独学で仏教の思想をかじっているものです。これまで読んだ本の知識では、己の執着心を捨て、自分内面へと掘り下げていくと、そこは無の世界観であり、混沌とした、増減しないエネルギーの宇宙の下、縁起により、絶えざる変化の結果として生まれた形(色)が顕現するだけの無秩序に向かう思想と理解してます。また、一切衆生悉有仏性により、だれでも仏様になれる可能性を有しており、修行して努力すれば、真の自己にいたり仏様になれるという理解です。このように、修行して慈悲(悟った人が悟りを求めぬ人に悟りを求めさす)ことが出来る覚者となった仏様の人格(道徳的行為を持った主体としての個人)をどう考えればいいのかが分からなくなります。空の世界観では、自性(単独で自立した主体)はないとのことで、仏様は人格はないのでしょうか?間違った理解のためにかなり混乱しているかもしれませんが、かなり仏教にお詳しい方がたくさんいらしゃるようなので、回答をお願いいたします。

  • 青年は荒野をめざす/五木寛之

    青年は荒野をめざす/五木寛之 という本で、 主人公は船に乗りましたよね? その船の名前って何ですか? 教えてください!