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大和政権の統一過程

大和連合政権はどのようにして日本を統一していったのでしょうか? ひとつずつ国または連合国家をつぶしていったのでしょうか? それとも、大和連合政権のほかにも連合国家をつぶしていった巨大国家があり、 最終的に大和連合政権と巨大国家の一騎打ちになったのでしょうか? 私は古墳の広まりや、ワカタケル大王の鉄剣・鉄刀の出土、倭王武の手紙(東55国、西66国を平定)から、 国または連合国家をひとつずつつぶしていったと思います。

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回答No.2

縄文期から弥生期への変化過程で、争いが多発したという考古学的な検証がなく、逆に棲み分け→弥生的生産力の吸収、というような一体化が見受けられ、弥生末(卑弥呼前後)に弥生的地域共同体の争乱(倭国大乱)→祭祀の集合による連合国家と進んだのではないかと思われます。 具体的に推測すれば、ニギハヤイ王国がすでに中規模の連合国家(東国とも友好的な)を形成しており、そこに入り婿した(連合した)九州勢が乗っ取ったのが、大和連合政権と思われます。 そもそも、日本書紀は嘘が多いので、東国関係の征服課程は古事記のほうが正解だとおもわれます。古事記では、攻めたとはなっていません。交渉した(当然、アメ一族得意の謀略も含まれたでしょう^^)となっています。これは、大化の改新時まで、天皇家をしのぐような、豪族も多くいた事実が証明しています。大和政権が武力による国家建設をしたのならば、もっと早くに中央集権的な政権となっており、天皇家の軍事力はもっと強大でなければならないからです。 よって、つぶしていったのではなく。吸収していったというのが正解ではないでしょうか。感覚的によくわかるのは、信長型ではなく、秀吉型の統一であった。あくまでも感覚的にですが^^

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質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「吸収」という考え方を初めて聞きました! 確かに武力をもっていたならもっと早く中央集権化できていたと思います。 詳しくありがとうございました(*^▽^*)

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  • tanuki4u
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回答No.3

『ええ、鉄が手に入りまんのや』 【ええなぁ】 『ほな、うちんとこの組に入るか?』 古代国家は、このへんではないですかね。 中国の古代国家も、メトポタミアの古代国家も、都市国家の商売上での連合から。

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質問者

お礼

回答ありがとうございます。 簡潔でわかりやすかったです(*^▽^*)

  • hazu01_01
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回答No.1

ま、これは推論しか言いようがないですね。 で、自分は大和政権は大豪族の連合体だったのではないかと考えています。 そのような形になるためには、ここの邑が協力し合ったり、征服したりしてより大きな集団になり、大きな集団同士がまた、協力し合ったり、征服したりしていったのではないでしょうか。 それが、大和であったり、吉備であったり、出雲であったり、越であったり、毛奴であったり、・・・・・したと思います。 その中でより大きな力を持っていたのが大和だったと思います。 その過程が神話となり、国譲りとかとして語られたのだと思います。

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質問者

お礼

回答ありがとうございます。 とてもわかりやすかったです(*^▽^*) 新しい考え方ができました!

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