• 締切済み

なぜモンゴルはあれほどの国を作れたのか

モンゴル帝国は、ものすごい規模の帝国を短期間に作ったようですが、そして、割と短期間で衰退していきましたが、なぜこんなダイナミックな歴史を作れたのでしょうか?その後モンゴルはぜんぜん世界史の一線から退いてしまいましたが、昔そんな精力があったとはとても信じがたいと感じるわけです。

みんなの回答

  • Pinhole-09
  • ベストアンサー率46% (597/1294)
回答No.6

一人の英雄の出現は民衆の力を引き出し、大国を作る事もできます。 アレキサンダー大王、初めて中国全土を統一した秦の始皇帝、中国の辺境の一首長にすぎなかったのに、全土を掌握し清国を作ったヌルハチ、ナポレオン、ヒトラーもおります。 これらの国が続くかどうかは、跡継ぎの力量次第です。

回答No.5

遊牧民の軍事力はすさまじい。しかし、それも部族がばらばらで相争っていては力を発揮できない。モンゴル族をまとめることができたのが大きい。 周囲の国々(金・南宋など)が絶頂期を過ぎて停滞から衰退期に入っていたことも幸いした。 いくらモンゴルが強いと言っても騎馬隊だけでは世界を征服できない。敵といえども降伏すれば許し自軍に組み入れていく寛容さもあった。

  • debukuro
  • ベストアンサー率19% (3634/18947)
回答No.4

人質戦略です 蒙古の人口は約10万、男女半々とすれば男5万、そのうち戦力は3万くらい これではあれほどに勢力を伸ばすことは出来ません まず弱い国を征服してそこの男をすべて蒙古軍に編入します 正規の蒙古軍の一部を人質監視するために残します男が裏切ったり人質が逃げたりすると皆殺しにするのです こういう戦力で兵士の数を増やして勢力を伸ばしたのです この戦略は都市国家や城塞都市といった中国やヨーロッパの国では効果的でした この戦略を日本のも応用したことが蒙古の没落の原因です 日本では住民は城内には住まないのです だから征服するべき城がないのです 最初の偵察戦で日本の様子を知って二度目に本攻撃を掛けました ところが二度目には蒙古軍の大敵、防塁が待ち受けていました 彼らの主力兵器である馬が使えないのです 馬が使えなければ武術にかけては日本軍の方が上です 蒙古が日本を攻めあぐねている間に暴風に襲われて遠征軍は全滅しました この事件が世界に知れ渡ると蒙古軍恐るるに足らずという風潮が支配するようになり蒙古の支配力が低下しました どうですか

  • No_14
  • ベストアンサー率46% (13/28)
回答No.3

質問者様の質問に、ドラマティックかつダイナミック に紹介しているサイトをご紹介致します。 http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-67.htm モンゴル帝国が最強になれた理由。 世界最大版図を築けた理由。 が詳細に書いてあります。 必見です! 非常に面白いですよ。 質問者様のお力添えになれば幸いです。

garcon2001
質問者

お礼

どうもありがとう。読んでみます。

noname#96718
noname#96718
回答No.2

>昔そんな精力があったとはとても信じがたいと感じるわけです。 ほんとうに・・・・。 でもまだモンゴルという国は残っています。 ところが、中国大陸を制した満州族の国はきえてしまい、満語をしゃべる人はもういないそうです。 これは、戦前日本の同化政策を共産中国がマネして、満州族を抹殺しちゃったんだと思ってます。 さて、モンゴルがなぜ強かったかですが、簡単に言うと、 「機動力」と「残虐性」でしょう。 ナチスドイツ 強かったです。電撃作戦すごかったです。「機動力」と「残虐性」ありますね。 前の大戦の初めの頃の日本 開戦当時は海軍の機動力で米英を圧倒しました。陸軍だって銀輪部隊(これも機動力 ^_^)でマレーをあっという間に占領しました。 残虐性も結構あったので、国力の割りに強かったと思います。 モンゴルは全軍機動部隊ですからこれは強いです。 家畜も連れて兵站も考えていました(これを真似したインパールの牟田口のバカ)。 残虐性は敵を畏怖させ、戦意を挫きます。 まあしかし、こういうやり方は長続きしないものです。 モンゴル人 相撲強いですね。肉食だから運動能力もいいんでしょうね。 大相撲見ていると外国人力士が技能賞!を持っていくので泣きたくなります。

garcon2001
質問者

お礼

残虐性と機動力ですか。どちらも征服には必要ですからね。とても日本人にはまねできそうもないです。モンゴル相撲になりつつある現状の相撲協会は、当然の帰結なんでしょうね。肉食人種の黄色人種という、もっとも恐るべき特質を備えた人たちかもしれません。

  • aburakuni
  • ベストアンサー率30% (470/1562)
回答No.1

昔に戻るほど大遠征の例が増えます。 その後長く続いたかは別にして、アレクサンダーはギリシャの辺鄙な国マケドニアから出発し、個人の寿命の間にエジプト・ペルシャを征服し、インダス川まで達する大遠征を実行しました。 ローマ帝国の拡大も短期間でしたが、ローマに対抗したカルタゴのハンニバルも、敗戦国の一将軍でありながら、アフリカ北岸から象を引き連れてスペインを抜けアルプスを越えてローマを包囲しています。 規模は狭いですが日本でも、鎌倉幕府設立までの源平軍の移動や、足利尊氏の栃木から入京後九州まで逃げて再度入京等の移動が出来ていたのが、戦国時代になると夫々の国がにらみ合い中々京に登れなくなっています。 これは個人的意見ですが、その時代の人口密度と国(支配制度)の成り立ちが違う事から来ていて、今のイメージほど夫々の国と言うものが明確な支配体制を構築していなかった事で、軍事力のバランスが一方に傾けば一気に攻め込んで占領できたと言う事が考えられます。 中国は律令制度による支配が比較的確固としている国ですが、当時の宋はそういった歴代王朝の中では極めて弱体な国で、元の滅ぼした金に圧迫され続けていました。 中国以外の占領地はそれ以前の状態の国家が多く、将棋倒し的に勢力を増大させたモンゴルに対抗する術を持ちませんでした。 ローマ帝国衰退以降に統一勢力が存在しなかったヨーロッパもその範疇の状態で、チンギスハンの急死によりモンゴル軍が引き返さなかったら、その後の世界史は大きく変わっていたでしょう。 モンゴルの勢力膨張は、宗教・人種等に囚われない被支配勢力の取り込みによって行なわれ、純粋なモンゴル人の人口自体は少なかったため、一旦支配力を失った後は「人口並み」の力しか持てないで現在に至っています。