• ベストアンサー

神の認識

KungFuStarの回答

回答No.12

>だったら、人間が知覚、認識した神という存在も不完全なものではないのかという疑問が湧いてきました。もし神があるとすれば我々の五感や思考を超えたものであり、人間が理解できる範囲のものではないのではないか? その疑問はある意味で正しいと思います。いささか哲学臭がしますが・・・w 人間は神をイメージするが、神はそのイーメージに収まることは決して無い。小説の主人公が、創作している作家のことをすべて知ろうとしてもできないのに似ていると思います。(←この例えは「ソフィーの世界」ヨースタイン・ゴルデル著に出てくる) また、旧約聖書のヨブ記でも、人間は神の経綸を理解することができないことを示されています。 つまり主さん流に話せば、人間は不完全な存在ゆえに、ある程度までは神を理解できるが、完全なる神のすべてを理解することはできない、となりますね。ある程度までは理解できるという点が大事と思います。 芸術は、その人間らしさがひたむきに(ときには不器用に)、自分の信じる神(不完全な理解で間違った解釈もあるが)に向けて全精力を注ぐ姿、生き方、形、色などが作品に表れて、共感を呼ぶのではないでしょうか。人は聖人君子に感動するのではなく、不器用な人間のひたむきさに感動するのでしょう。 人間は不完全ではあっても、何が悪くて何が良いことかを理解できる力を持っている(持たされている?)から、その良心を抱えて世を生きていくということこそが生きるということなのでしょう。

minmin916
質問者

お礼

ソフィーの世界の例え、分かり易かったです。 >芸術は、その人間らしさがひたむきに(ときには不器用に)、自分の信じる神(不完全な理解で間違った解釈もあるが)に向けて全精力を注ぐ姿、生き方、形、色などが作品に表れて、共感を呼ぶのではないでしょうか。人は聖人君子に感動するのではなく、不器用な人間のひたむきさに感動するのでしょう。 この解釈で自分が芸術に対して感じる何かがすっきりしました。神そのものを感じているわけではなく、「人間」に感動していたのですね。 回答ありがとうございました。

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