• ベストアンサー

他の弟子は、何故ユダの裏切りに気づかなかったのか?

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.25

 No.6です。  ルカの伝える記事が 割り合い 分かりやすいと思います。    些細なことのほうから。  ▲ (ルカによる福音書22:52-53) ~~~~~~~~~  それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。   「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ この箇所にもとづくと――決定的な論拠にはなりませんが―― ユダがイエスから離反し密告をしたことが どうしても イエスの逮捕に必要だったとも言えない部分もあるように思いますが どうでしょうか?    じっさい このルカという聖書記者は 最後の晩餐のところでは ユダが裏切りの人物だと特定してはいないようです。特定されないまま 逮捕の場面で ユダが登場します。あいさつの接吻しようとイエスに近づいたというところは 他の記者の記事と同じようですが その前に 次のごとくも記しています。  ▲ (ルカ22:47) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  〔オリーヴ山で〕イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立っていた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて いわば本論です。  ★★ (No.6補足欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ●ミステリーでは、一室に関係者が集まったところで名探偵が「ここに犯人がいる」と言った場合、大体、犯人は誰かが分かるものです。しかし、聖書ではそうはなっていない。これはどうしたことだ? というのが私の質問なのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ルカの記事をたどります。裏切りの予告がありました。  ▲ (ルカ22:23)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このあと 弟子たちが 自分たちのうちで いちばん偉い者はだれかという議論を始めたという記事さえ はさんでいます。あまり関係ないように思えるのにです。  さらにそのあと イエスは ペテロの離反を予告するに到ります。ペテロが 《「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った》のを受けてでした。  このあとは 《財布と袋と剣を持て》の記事と《オリーブ山での祈り》のそれとがつづき 逮捕の場面につながります。  このとき 犯人の特定はなされていないのですが 特定がされたとして――つまり ユダが犯人だと特定されたとして―― 考えてみます。  つまりそれは ペテロが イエスから  ▲ (ルカ22:34) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と 犯人が特定されるかたちで 裏切りの予告がされているのですから 対比させるのに いい材料だと考えられます。  ただし この話も もう そのままになったかたちで 終わっています。  結論です。  No.6で わたしは こう述べました。弟子たちは イエスの死と復活の以前においては 何も 大事なことは知らなかったと。イエスがキリストなる神の子であり神であることについて 実際に聞いていても いっさいと言っていいほど 分からなかったと。  いまは こう述べます。弟子たちは イエスが 人間であると同時に どうも キリストなる神であるということを――つまり 父なる神の子であり 父なる神と同じ神であるということを―― 聞いてもいたし うすうす 分かっていた。だいたい とてつもない存在であるようだと うすうす 知っていた。  ただし まだ――ということは イエスから 何らかの合図のようなものが出されない限り まだ―― それ以上 くわしく知ろうとしなくてもよいと思っていた。まだ 神のことは どうでもよいと思っていた。  犯人が誰であるか これは どうでもよいと思った。それは おれたちの考えることではなく 神のわざの問題だ。あるいは その犯行じたいについても どうでもよいと思った。あるいは 別の裏切りとして名指しさえされたペテロの場合 むろん 犯人はペテロ自身であると特定されているにもかかわらず ひとつには そのような裏切りを自分がするとは思えなかったであろうし もうひとつには じっさい――イエスの言葉を信じる・信じないとは別に―― いまはまだ どうでもよいと思っていた。  もっと言えば まだ――イエスが生きているあいだは まだ―― おれたちは うすのろのぼんくらで じゅうぶんなのだと思っていた。何の心配もしていなかった。たとえ イエスを裏切ることになろうと 何をしでかすことになろうと あるいはまた イエスにたとえ裏切られることになろうとも 何の心配もしていなかった。  というのが わたしの答えです。

noname#130082
質問者

補足

お礼が遅くなりました。申し訳ございません。 いろいろ真剣に考えていただいて、ありがとうございます。 >ユダがイエスから離反し密告をしたことが どうしても イエスの逮捕に必要だったとも言えない部分もあるように思いますが それに関しては、本当に必要だったという絶対の根拠が私にあるわけではないので、回答者様の言うとおりだったかもしれません。 それは認めます。 ただ、その前にイエスは権力を持つ宗教的指導者の刺客に、言葉尻をとらえようと何度も罠が含まれた質問をされているのに、まったくあげ足を取られませんでした。いくら宗教的指導者でも、何の根拠もなくイエスを捕らえては、後々の自分たちの立場も危うくなります。だから、イエスがあげ足を取られなくとも、弟子の中から内部告発されれば捕まえる口実ができる、という考え方もあります。 ここら辺は、いろいろ意見もあると思うのですが、別の箇所でも書いたように、聖書の謎は沢山あるので、議論を広げてしまうときりがありません。取り合えず、これは私の質問のポイントではないので、これ以上の議論はおさめさせていただけないでしょうか。 それはともかく、ええと、ここの哲学カテは頭が良すぎる方が多いので困っているのですが、bragelonneさんは、良心的に答えようとして、かえって考えすぎてはいらっしゃらないでしょうか。 まあ、他の弟子も裏切ったことになるかどうかは、単なる私の私見に過ぎないので撤回しても全然かまわないのですが。 >おれたちは うすのろのぼんくらで じゅうぶんなのだと思っていた。 そこまで言わなくともよいのではないかと思います(^^; 「命をかける」というのは、口で言うのは易しいですが、本当に実行できる人はなかなかいません。私も、実行してみろ!と言われるとちょっときついです。映画館などでも、いきなり「火事だ!」となると、パニックに襲われるのが人間というものです。むしろイエスは「お前たちの今の状態では、いくら本気で命をかけるつもりであっても、実行はまだ無理だ。私が一度十字架にかけられた後に復活してみせてあげよう。そこまでやればお前たちも本当の勇気が出るだろう。そのときになったら皆で励ましあいなさい」というような意味合いではないでしょうか(ルカ22-31あたり)。 だから、オリーブ山に行くときに弟子たちが「主のためだったら牢に入ってもよい、命もかけます」と言ったのは本気だったのではないでしょうか(少なくとも、本気だと思いこんでいた)。だから、ペテロが鶏が3度鳴くまで「知らない」と言ってしまった後に、激しく泣いたのではないかと思います。どれほどの激しさでペテロは泣いたのでしょうか。 弟子たちは、軍隊にいた経験もない漁師などの世の中の底辺にいる人たちだと認識しております。その上、国全体がローマに征服されていました。民は普段からびくびくして暮らしていたとしてもおかしくはありません。イエスキリストは口がすっぱくなるほど「恐れるな」と言っている、ということは、弟子たちは何かというとすぐ怖がったということではないでしょうか。 文字数が足りないので、補足欄に書かせていただきました。

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