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他の弟子は、何故ユダの裏切りに気づかなかったのか?

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.6

 こんばんは。  ★ 他の弟子は、何故ユダの裏切りに気づかなかったのか?  ☆ この疑問には 今回 初めて接しました。  ○ 弟子たちは ユダの裏切り行為に気づかなかったのか。あるいは どこで・どのあたりから 気づいたのか。  ★ 最後の晩餐で・・・何故、他の11人の弟子は分からなかったのでしょうか?  ☆ これは イエスが 弟子たちにとっては あとで気づくように 言っておいたものだと考えます。その席では 弟子たちは 気づかなかった。たしかに言葉ではっきり言っているのですが 言葉どおりになるかどうかは 自分たちで 決めなかったのだと考えます。  もし キリストなる神の言葉として受け取ったとすれば それには 然り然りとして受け容れたでしょうし(つまり いわば鵜呑みしただけでしょうし) イエスなる人間の言葉としてならば まだなお議論の余地があるというくらいに受け取ったでしょう。(つまり 後者は いったい どういうことだろう?と いろいろ 詮索するだろうという意味です)。  ところが このとき まだ イエスは 挙げられていませんし 復活の姿を見せてもいません。つまりは この 人間イエスは 神キリストであるという神学的な理解は それを自覚的に受けとめていることは 弟子たちにとって 無理だったと言うべきです。  つまり 最後の晩餐において イエスの言う・キリストとしての意味が 弟子たちには 分からなかった。ユダの行動についても そうでしょうし 全般的に それは 言えるのだと考えます。  ★ イエスが実際に捕まる場面  ☆ このときも イエスがまだ その死を死んでおらず 復活してもいないという同じ局面にあります。  ちなみに 最後の晩餐の席で ユダに 《しようとしていることを しなさい》とイエスが言ったことは ユダの裏切りのことですが その行動は いまの逮捕されることにとっては どうでもよいことだと わたしは 考えます。  イエスが 当局にとって いわゆる面が割れていたのは はっきりしていたのではないでしょうか。つまり わざわざユダによって 特定される必要はなかったと見ます。  では なぜ ユダに やろうと思うことをやりなさいと イエスは 言ったか。これは イエスが死に就く――実際には みづから 死に就くのですが――こととは関係なく ただ ユダという人間の救いにかかわることだと考えます。ここでは 裏切りというむしろ自己に対する背反をおこなってこそ 初めて かれは 我れに還る。ことができる。そういう人間であり そういう人生を送るというものだと考えます。  ただ それだけの問題です。そのために わざわざ 十二人の弟子のひとりに加わったというものです。自殺行為が 救いの中に入るかどうか たぶん 入らないのですが その前には たしかに 自己還帰が成ったということではないでしょうか。わづかに 裏切りを行ない切ったあとなのでしょう。かなしい人生ですね。  ★ 「他の弟子だって裏切ったのだ」  ☆ これは ペテロが おまえはイエスの仲間ではないのかと尋ねられて 否と三度 言ったわけですから 明らかに――ペテロを この場合 代表としてのごとく ほかの皆も―― イエスを裏切ったと考えます。  ところが ちょうど ユダの裏切りについて イエスが 明らかにして言っているのに かれら弟子たちは 実際どうなるのか分からなかったように イエスの死についても ましてや 復活についても(これは おとぎ話ですので そう断って述べるべきでしょうが) 弟子たちは いっさい 気づかなかったのです。  言いかえると すでに 復活後は その仕事が決められていたと言うかのように 弟子たちは 選ばれていたわけですが この死と復活の以前では かれらは けっきょく 何も 知らなかったと言ったほうが 分かりやすいでしょう。  神がモーセに語っている箇所から引きます。      見よ 私の傍らに一つの場所がある。    私の威厳がそこを通り過ぎるやいなや あなたは岩の上に立つ   であろう。    私はあなたを岩の頂上に置こう。    私が通り過ぎるまで 私の手であなたを蔽うであろう。    私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。     私の顔はあなたに現われないであろう。         (出エジプト記33:20-23)  要するに イエスの生前には 弟子たちは なんら キリストなる神の子であり神である存在について ほんとうには 知らなかった(自覚し得ていなかった)のでしょう。木の上の死を経て やっと かれの背面を見ることができたのではないでしょうか。気づいたのではないでしょうか。すべてを 理解したのではないでしょうか。かれらに やがて 《弁護者》が送られてきたでしょう。物語が 編まれていきました。・・・  おおよそ このように捉えています。

noname#130082
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございました。 お礼では文字数が足りないので、補足に入れさせていただきました。 しかし、このカテに質問したのは、少々後悔しています。 聖書の謎は山ほどあるので、議論がどんどん発散してしまいそうで・・・。議論をやりだしたらきりが無いことは明らかですから。 沢山ある謎の中から、私にとっては最大の謎である質問を、ピンポイントでしたつもりだったのですが。 ちょっと風邪が長引いて、なかなか他の方へのお礼もできない状態なんですが、その間に議論がどうなってしまうのか、心配です。

noname#130082
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 >☆ この疑問には 今回 初めて接しました。 実はここも問題でして(本当に絶望感に教われました)。数人のクリスチャンに質問して分からなかったので、ネットで検索しました。当然、ネットだったら、この程度の問題は簡単に答えが出るだろうと思っていたのです。正解は分からないとしても、当然、星の数ほど説があって論議がされているものと思ったのです。その中で有力な説を2~3知ればよかったのです。ところが、なかなか見つからない。 2000年も聖書が読まれていて、誰もこの問題を不思議と思わず、研究もされていない?そんな馬鹿なことが有り得るのか?聖書学者とか神学者とか宗教学者など、沢山いるでしょう?ここは、聖書の中で一番有名な場面のひとつですよ? bragelonneさんの考察は大体私もやっていて、ほとんど賛成です。 >あとで気づくように 言っておいたものだと考えます。 それは明らかです。 聖書を見る限り。イエスの弟子たちが立ち上がったのは、イエスが十字架にかけられて復活した後であって、その前は、あるいみ普通の人だった、だからイエスのことはまったく理解していなかったことは自明だと思います。 ●それにしても、この場面は、分からないにも程がある。 >もし キリストなる神の言葉として・・・後者は いったい どういうことだろう?と いろいろ 詮索するだろうと もちろん、後者です。 しかし、神の言葉云々は問題ではないのです。 詮索どころか、あからさまにイエスにイエスに質問して、イエスは答えたのです。福音書に言葉がある、ということは、誰かがその言葉を聞いたということです。 状況からいって、イエスの隣にいた弟子は聞いたと思われます。またペテロ(ペトロの方がよかったか?)は質問するように合図したのですが、結局、ペテロは答えを聞いたのか?聞けなかったのか?聞けなかったのなら、何故聞き返さなかったのか? 聖書では、まるで、ペテロは、質問したこと自体を忘れたかのように振舞っています。 ●ミステリーでは、一室に関係者が集まったところで名探偵が「ここに犯人がいる」と言った場合、大体、犯人は誰かが分かるものです。しかし、聖書ではそうはなっていない。これはどうしたことだ?というのが私の質問なのです。 レオナルド・ダ・ビンチの最後の晩餐の絵から、その後、ユダは誰にも見咎められることなく、堂々と出て行ったことになるわけです。常識的におかしいでしょう? (質問とは別ですが、ここでもしユダが裏切り者だと分かってしまったら、下手するとユダは殺されます。 従って、私には、イエスがわざわざ裏切りの預言をしたときは、イエスは「ここで、これだけバラしても、他の弟子はそのことは分からない」ということを知っていた、と考えるしかありません。) >当局にとって いわゆる面が割れていたのは もちろんです。 >わざわざユダによって 特定される必要はなかった いえ、ここだけは意見に反対で、イエスは、それ以前にも、散々当局によって処刑するため(本気で国家権力を持つ人々がイエスを殺そうとしていました)に言葉じりをとらえようと試みていましたが、イエスはことごとく一蹴していました。ここで、内部告発者が一人でもいれば、イエスを捕らえる理由になりますから、ユダの裏切りによって当局がイエスを捕らえる十分な言い訳ができます(言い訳だろうと、こじつけだろうと、何か理由が当局は欲しかったと思われます)。ユダの裏切りがイエスを捕らえさせたことは認めてよいと思います。

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