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戸籍謄本の記述について
かなり前の戸籍謄本を見ると、戸主のところに高橋太郎。そしてその上に(戸主の詳細の欄)、「明治五年戸籍編成以前長崎県川野郡高野村 北川博左衛門入籍相続明治十八年十二月二十一日願済蔵ヲ造ト(改行)正誤ス明治二十一年三月十六日死亡」と記述されていました。これが、請求できる限界の一番古い謄本でした。 そこで、その文の意味を解釈してください。 また、この戸籍に書かれている時点では、 戸主:養父司朗養子 高橋太郎(天保11年10月8日生まれ) 前戸主:養父 高橋司朗(正没不詳) 本籍:京都府下條区・・・ と書いてあります。私の苗字は高橋です。 高橋太郎までの詳細は分かっています。しかし、司朗以降のことは分かっていません。明治5年に戸籍ができたからです。そこで疑問なのは、なぜ、北川が出てくるのかです。なぜ高橋じないのか。などいろいろ疑問だらけです。 なにかご教授をお願いします。
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前戸主:養父 高橋司朗(生没不詳) なので 戸籍のできた明治5年=1873年以前に死亡しています。 戸主:司朗の養子高橋太郎(天保11年10月8日生まれ=1840年) この戸主の詳細説明が「戸籍編成以前は 北川博左衛門で明治18年12月11日=1885年に入籍相続願を済ませ、蔵を造る と誤りを正した。 明治21年3月16日死亡」とあります。 高橋家の養子になり江戸時代の博左衛門を太郎と改名したわけです。 入籍は45歳ですが実質的に養子になったのは32歳以前、恐らく子供のころでしょう。 想像では明治に変わる前後に養父が死に、戸主になったのですが戸籍編成の際に登録せず、高橋司朗とされたものを後日訂正させたものでしょう。 土地とか財産とかの問題で必要になったためでしょうか。 相続後2年半足らずで亡くなっており、病気で死期をさとり行ったのかもしれません。
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- hamaendou
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詳細はno1様のいわれる通りと 思います。 尚、 貴家の場合は長崎県川野郡の郷土史家の方 が居れば調べていただけます。 お寺の過去帖でも先祖を遡れると思います。 わが家ではやりました。 興味深いものでした。
「北川博左衛門入籍相続」をふつうに読むと、北川家の博左衛門というかたが高橋家の養子として入籍した、ですけど。 (高橋太郎さんも養子ですが、実父は「北川さん」じゃありませんか?)