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古典の補助動詞

補助動詞とはどのような動詞なのかよくわかりません。 文法書を参考にしたのですが 「悲しくのみある」の「ある」は状態を述べているから補助動詞である。 と書いてあるのですが状態を表している動詞が一概に補助動詞にあてはまるのでしょうか? 「し給ふ」の給ふは敬意を添えるだけの働きをしているから補助動詞である。 とも書いています。 私は動詞の下に本来動詞として用いるものを補助動詞だとみなしてきていたのですが、前者のような例があったのでとても混乱しています。 どなたか解説お願いします。

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  • OKAT
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回答No.2

説明のまずさから、誤解をされたようです。「形容詞の働き」ではなく、「形容詞的な」とか、「形容詞に似た」と理解して下さい。  あるサイトに 「山高く、水清くして風光る」街…まつもと と書いてありました。「水清くして」の「して」は「サ変動詞+て」なのですが、「山は高く、水は清くって、風光る」という意味で、「して」形は動詞なのですが、「清い」という状態を表しています。  それと同じく、「ある」は「悲しい」という状態を表します。形式的には、あくまでも動詞(補助動詞)です。

happyusshi
質問者

お礼

非常に明快な説明、ありがとうございます。 動詞が形容詞的用法のとき補助動詞ということ、理解しました。 ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • OKAT
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回答No.1

学者の文法論で「補助動詞」を調べると、頭が痛くなるような説明がしてあります。しかし、、今は単純に考えてみましょう。  まず動詞は「動作」や「存在」を表すとされています。中でも「あり」は、動作ではなく「存在」を表す代表でしょう。こうした動詞が本来の動詞としてよりも「助動詞」に近い使い方をされるのが「補助動詞」です。  先に「し給ふ」の例を考えます。「給ふ」とは、上位の人が下位の人に「(ものを)お与えになる」というような動作を表します。しかし、「し給ふ」の場合は「す」という動詞の連用形について「尊敬」の意味を加えているだけです。「与える」などという意味は全くなくなっています。現代語訳すれば「なさる」となります。実はこのあたりは、質問者がすでにお分かりのようですね。  「悲しくのみある」を考えるとき、「のみ」という副助詞はとりあえず外して「悲しくある」を考えて見ましょう。(この形、「く」と「あ」を合わせると「か」になり、「悲しかる」という形容詞連体形ができるのですが、これを言い出すとかえって煩雑になる可能性があるので話を戻しましょう)「悲しくある」は「悲しいという状態である」と考えられ、先ほど除けておいた「のみ」を戻して訳せば、「悲しく感じるばかりです」となります。「あり」は「存在」を表すのでなく、「状態」を表しているわけです。本来の動詞としての意味で使われず、別の意味(状態は形容詞が表すのが本来)を表しますから「補助動詞」ということになります。  老婆心から申し上げれば「日本語文法で『状態動詞』という言葉を使いますが、それとは混同しないで下さい。

happyusshi
質問者

補足

つまり「動作」、「存在」を表すものが動詞としての働きで、「状態」を表すのが形容詞としての働き。 この文脈の「あり」は動詞としての働きとしてではなく「状態」を表す形容詞としての役割を果たしている。とみなして補助動詞として解釈してよろしいですか?

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